地域全体が難民キャンプか、はたまた監獄か

ガザ

帰属未定地(パレスチナ暫定自治政府管轄地域)

 
1947年11月 国連がパレスチナ分割決議を採択。しかしユダヤ人とパレスチナ人の内戦激化で実施不可能に
1948年5月 イギリスがパレスチナの委任統治を終了。イスラエルが独立は宣言したが、アラブ各国が侵攻し、ガザはエジプトが占領(第一次中東戦争)
1948年10月 エジプト占領下のガザで全パレスチナ政府が建国を宣言するも、間もなく消滅
1956年19月 第二次中東戦争でイスラエルがガザを占領。国連決議で撤退
1967年6月 第三次中東戦争でイスラエルがガザとヨルダン川西岸およびシナイ半島などを占領
1982年4月 キャンプ・デービット合意(78年3月)に基づき、イスラエルがシナイ半島をエジプトへ返還
1996年1月 オスロ合意(93年9月)に基づき、ガザとヨルダン川西岸でパレスチナ暫定自治政府が成立
2005年8月 イスラエルがユダヤ人入植地を閉鎖し、イスラエル軍が撤退

イスラエルとパレスチナ(斜線部分)の地図
ガザの衛星地図
ガザの衛星写真 (google map)

沖縄では1970年にコザ暴動という事件がありました。アメリカ占領下の沖縄で民衆の不満が爆発して起きたのですが、世界的にいえばやっぱり1987年のガザ暴動の方が断然有名ですね。どちらも占領軍の車による交通事故が直接のきっかけとなって起き(※)、コザ暴動は72年の沖縄返還に弾みをつけましたが、ガザ暴動はその後6年間にわたるインティファーダ(パレスチナ民衆蜂起)として拡大し、93年のオスロ合意によってパレスチナ暫定自治政府の実現(96年1月)に至りました。

※コザ暴動は沖縄人男性が米軍兵士の運転する乗用車にひかれたことを契機に、集まった群衆がアメリカ人の車を次々と焼き討ちし、さらに米軍基地へ乱入して放火した事件で、翌朝には沈静化。ガザの暴動はイスラエルへ出稼ぎに行ったパレスチナ人労働者が乗ったバンがイスラエル軍のトラックと衝突し、労働者4人が死亡したことを契機に、難民キャンプでイスラエル軍への投石が始まり拡大した。
パレスチナ暫定自治政府の領域は、1967年の第三次中東戦争以来イスラエルが占領していたヨルダン川西岸とガザだが、あくまで暫定的なものだから将来どうなるかは未定。首都はパレスチナ側はエルサレムだと主張しているが、現実には本来は西岸地区に含まれるべき東エルサレムも含めてエルサレムは現在もイスラエルがすべて占領中なので、政府所在地とされるのは西岸のラマッラ。となると、ガザは飛び地と言うことになりそうだが、政府各機関の庁舎はラマッラとガザの両方にあって、各省の大臣はどちらかで執務をする仕組み。パレスチナの最高裁も西岸とガザとで別々に存在する。日本政府が大使館に相当する代表部を置いているのはガザの方だ(※)。
※イスラエルの首都もイスラエルはエルサレムだと主張し、実際にエルサレムに政府があるのだが、日本はじめ世界各国は「エルサレムはイスラエルの首都」だということを承認していないので、テルアビブに大使館を置いている。
これは西岸とガザとでは適用される法体系が別々になっているため。1948年にそれまでパレスチナを委任統治していたイギリスが撤退した後、大部分の地域はイスラエルが占領して独立を宣言したが(第一次中東戦争)、西岸地区はヨルダン軍が占領しヨルダンの領土として併合、一方でガザ地区はエジプト軍が占領した。67年にイスラエルが占領した後も、西岸とガザは東エルサレムを除いてイスラエルの領土には併合されず、別々に軍政を行っていた(※)。このため、西岸地区の法律はヨルダン式の法制度で、一方ガザ地区の法律は、現在でも基本的にイギリス委任統治領時代の法制度のままなのだ。
※イスラエルが西岸とガザを併合しなかったのは、両地区を併合すると両地区のパレスチナ人にイスラエル国籍を与えなければならず、そうなるとイスラエルの人口はユダヤ人よりパレスチナ人の方が多くなってしまいかねないから。


また西岸とガザ地区との間の通行は、目下のところイスラエルの気分次第。2006年3月に対イスラエル強硬派のハマスによる内閣が発足したが、ハマスを「テロ組織」とみなすイスラエルは、ハマスのメンバーが西岸とガザを行き来することを認めなかったため、自治政府の立法評議会(国会)や閣議は西岸とガザの2会場で開かれ、ビデオ回線で同時中継している有り様だ。西岸の面積5800平方kmに対してガザの面積は365平方kmと10分の1以下だが、人口では西岸208万人に対してガザには136万人が住む(※)。

※パレスチナ人(イスラエル独立前にパレスチナに住んでいたアラブ人とその子孫)の総人口は947万人。西岸とガザに344万人、イスラエル国内に130万人(イスラエル国籍)、東エルサレムに26万人(無国籍だが自治政府の選挙には参加)が住み、500万人近くがアラブ諸国はじめ海外に移り住んで、そのうち半数が難民。
さて、ガザは古代エジプトの時代からエジプトとメソポタミアとを中継する貿易拠点として栄え、紀元前15世紀にエジプトが占領したというから、相当古い町だ。イギリス時代、ガザの人口は3万人ほどで、1947年には8万人に増えていたが、イスラエルの建国とともに各地から大量のパレスチナ人が流入して、一挙に25万人に膨れ上がった。その後もイスラエルとの戦争のたびに難民が流入して、現在では136万人のうち実に94万人が難民だ。

イスラエルの建国に対抗して、ガザでは全パレスチナ政府が建国を宣言したが、閣僚だけが存在する実態のない政府のまま消滅し、エジプト軍の軍政下に置かれた。その後イスラエル国内のパレスチナ人にはイスラエル国籍が、ヨルダンが併合した西岸のパレスチナ人にはヨルダン国籍が与えられたが、エジプトはガザを併合せずに占領地として扱い続けたので、ガザのパレスチナ人にエジプト国籍は与えられず、無国籍のままだった(※)。このため他の地域のパレスチナ難民が石油生産で潤い出した湾岸諸国へ続々と出稼ぎに行ったのに比べて、国籍を持たないガザのパレスチナ人は海外渡航に困難が付きまとい、一方でエジプトはガザ住民のエジプト本土への行き来も厳しく制限したため、地区全体が難民キャンプのようになった。エジプトは占領地にすぎないガザの経済開発には消極的で、イスラエルとの密貿易の拠点として栄えることになる。

※エジプトがガザを併合しなかったのは、パレスチナの領土であるべき土地を自国領にしてしまったらアラブ諸国の反発を招きかねないため。一方でヨルダン王室のハーシム家は、パレスチナやシリア、レバノン、イラクを「大シリア」として統一しアラブの盟主になろうとしていたので、手始めに西岸地区をさっさと併合してしまった。
エジプトが占領していた頃のガザ
67年にイスラエルが占領した後は、ガザの住民はイスラエルへ出稼ぎに行くようになった。しかしガザ産の農作物はイスラエルでの販売を制限する一方で、イスラエル産の農作物が大量にガザへ流れ込んで来たため、ガザの農民は困窮して土地を手放す者が相次ぎ、30%の土地がユダヤ人の入植地になった。こうしてイスラエル本土への通勤者はますます増え、ガザの労働人口の40%がイスラエルで働くようになって、ガザの経済はすっかりイスラエルに依存するようになった。

インティファーダの後、イスラエルは治安対策を理由に、ガザ住民がイスラエル本土へ行く際に労働許可証や入境許可証の取得を課すようになった。その後はイスラエルが通行を制限すれば失業者が増えてガザの経済は低迷し、イスラエルが通行制限を緩和すれば経済が回復するという状況が繰り返されている。2000年にイスラエルのシャロン首相がエルサレムのイスラム教の聖地「岩のドーム」を訪問したことを機に第二次インティファーダが起きると、イスラエルは再びガザとの通行を厳しく制限したため、ガザの住民1人あたりのGDPは1年間で35%も落ち込み、失業率は4割に達した。

ガザのまわりはエジプト統治時代からのフェンスで囲まれ、パレスチナ人が通行できるイスラエルへの出入口は北端のエレツ検問所だけ(この他に貨物用のカルニ検問所や、ユダヤ人入植者専用の出入口が何ヵ所かあった)。エジプトへの出入口も1ヵ所だけで、いずれもイスラエル軍によってしばしば閉鎖された。ガザは海に面しているが、沿岸をイスラエル軍が封鎖して漁船以外は入港できず、98年にガザ国際空港が開港したものの、3年後にはイスラエル軍に破壊されて使用不能になった。

多くの住民はガザに閉じ込められ、「地域全体がまるで監獄」とまでいわれる閉塞感から、ガザではハマスなどの過激派組織が台頭し、イスラエル軍が報復攻撃を繰り返すという殺伐とした状況が続いている。2005年の夏にガザのユダヤ人入植地は閉鎖され、イスラエル軍がガザから撤退したが、その後も何かにつけてガザへの空爆やミサイル攻撃は続行中。

一方で、自治政府の発足によりそれまでのパレスチナ・ゲリラはパレスチナ警察に再編成されたが、そのため14の警察組織が乱立して、警官の総数はガザだけで2万人。成人男子15人に1人が警官という状態で、自治政府の財政を圧迫しているほか、警察の腐敗や横暴も問題になっているようだ。



★西岸とガザとの間の「安全通行路」 

パレスチナと安全通行路の地図 1が北ルート、2が南ルート、3は貨物ルート

パレスチナ人が西岸とガザとの間を行き来するために、イスラエルが通行を認めたのが安全通行路(または安全回廊)という道路。安全通行路の設置は95年にイスラエルとパレスチナとの間で合意したもので、99年10月にガザ北端のエレツ検問所と西岸のヘブロンとを結ぶ45kmの南ルートが開放された。「安全」とは、イスラエル側が「このルートを規定通りに通行する場合は、安全に通してやる」という意味だ。

安全通行路が開放されるのは朝7時から夕方5時までで、イスラエルの休日には通行できない。イスラエルの入境許可証を持つパレスチナ人が車で通過する場合は、車に電子装置が取り付けられ、90〜120分以内に向こう側に到着しないと警報が作動し、不審車と見なされることになる(つまり「安全」に通してもらえなくなる)。入境許可証を持たないパレスチナ人はバスに乗り、イスラエルの治安当局の車が並走する。もし途中でバスを降りようとすれば、ただちに「安全」は保障されなくなってしまう。また安全通行路を通ろうとする者は、16〜50歳の男性は事前に磁気カードの交付を受けなくてはならず、それ以外の者も前日までに自治政府へ氏名を届けなくてはならない。

なんとも不自由な通行路だが、このルートができたことで生まれて初めてガザから外に出たというパレスチナ人も少なくなかったようだ。「壁」が建設されるまで、西岸からイスラエルへは入境がかなり容易だったので、失業者の多いガザからいったん西岸へ行き、改めてエルサレムに入って仕事探しを狙う人や、イスラムの戒律が厳しいガザからキリスト教徒もいる西岸へ酒を飲みに行く人もいたという。

安全通行路の開放は、パレスチナ人同士の行き来のみならず、98年に開港したガザ国際空港と西岸をつなぐルートにもなり、パレスチナ経済の大動脈になることが期待された。またエレツ検問所と西岸の中心地・ラマッラを結ぶ北ルートの開放も協議された。

しかし2000年に第二次インティファーダが起こると、イスラエルはたびたび安全通行路を閉鎖するようになった。通行路がイスラエルによって管理されている限り、通すも通さないもイスラエルの気分次第になるわけで、西岸とガザの通行を保障するためには、パレスチナ側によって管理される回廊が実現しない限り無理。そこでパレスチナ側では「西岸のユダヤ人入植地をイスラエル領として認める代わりに、回廊部分をパレスチナ領にして、立体交差の回廊ハイウェイを建設する」という案も出ていたとか。



★ガザのユダヤ人入植地と専用アクセス道路 
水色の部分がユダヤ人入植地と専用道路(クリックすると拡大します)
領土は拡大したい、でもそこに住むパレスチナ人にはイスラエル国籍を与えたくない・・・、そんなジレンマを抱えたイスラエルが考え付いたのが、ユダヤ人入植地の建設だ。

1967年の第三次中東戦争で占領したヨルダン川西岸やガザ、ゴラン高原、シナイ半島などの地域はイスラエルの領土には併合せず、代わりにあちこちに入植地を建設してユダヤ人を移住させた(※)。それらの入植地は周囲と壁や鉄条網で隔絶され、パレスチナ人は入植地で雇用された労働者を除いて立ち入ることはできず、いわばイスラエルの飛び地のような格好だ。ジュネーブ条約では占領地への入植は禁止されており、国連でも入植地建設に対する非難決議が挙がったが、イスラエル政府は「パレスチナはもともとすべてユダヤ人の土地であり、占領地ではなく管理地だ」と称して入植地の建設を続けた。

※シナイ半島は1982年にエジプトへ返還され、入植地は撤去された。
入植地の確保にあたっては、パレスチナ人からの土地購入のほか、軍事上の理由でパレスチナ人を強制移転させたり、難民となって逃げ出した者の土地を接収したり、個人所有されていなかった放牧地などを国有地とみなしたり、軍事上の理由で農地を立ち入り禁止にした後にオスマントルコ時代の「3年間耕作されなかった土地は国有地とする」という法律を引用するなど、あらゆる手段が使われた。

これらの入植地は国境地帯や水源地、沿岸部、エルサレム近郊などに多く建設され、国防上の役割(つまり屯田兵)も期待されたほか、世界各地からイスラエルへ集まって来るユダヤ人移民、特に1980年代後半以降はソ連・東欧からの大量の移民の受け皿にもなった。入植地の多くは農場で、キブツと呼ばれるユダヤ人の農業共同体によって運営されたが、エルサレム近郊ではベッドタウン的な入植地もあり、イスラエル領内と比べて4分の1の値段でマイホームが手に入ることをウリにして入植者を集めた。

さて、ガザにも19ヵ所の入植地が建設され、ガザの面積の30%に7500人のユダヤ人が入植した。一方で130万人以上のパレスチナ人は残り70%に追いやられ、タダでさえ狭いガザはますます狭くなってしまった。さらに各入植地とイスラエル本土との間には、ユダヤ人専用のアクセス道路が設定された。これらの道路の両脇にあるパレスチナ人の家は立ち退かされて幅200〜300メートルの空き地となり、襲撃者を早く発見できるように備えられたが、一般道路を利用する区間では銃撃や自爆テロを防ぐために高い壁で車線が区切られた。

ユダヤ人専用アクセス道路の衛星写真 入植地(左上)とイスラエル本土(右下)を結ぶ道の両側は立ち退かされて広大な空き地に(google map)
一般道路が交差する地点では、専用道路を通行する車が来るたびにイスラエル兵が一般道を封鎖してパレスチナ人の通行を遮断した。時には何時間にもわたって通行止めになることもあり、パレスチナ人はガザの中ですら自由に行き来できず、ガザは「細かく仕切られた監獄」だと言われた。

これらの入植地や連絡道路は、パレスチナ暫定自治政府が成立した後もイスラエル軍が管理していたが、防衛コストが高くつき割に合わないと判断したのか、イスラエルは2005年にガザの入植地をすべて放棄。入植地に立て篭もったユダヤ人強硬派を排除して8月には撤去を完了した。



★飛び地だらけの西岸地区と建設中の「壁」
ピンクの部分がA、B地区。青はユダヤ人入植地(クリックすると拡大します)
壁の地図 
壁の詳細地図 青線が壁とその予定地。水色の道路はイスラエル軍が管理するユダヤ人専用のアクセス道路(PDFファイル)

イスラエルがガザから入植地を撤去した後も、西岸地区にはユダヤ人入植地が残り、頑強な「壁」を建設してパレスチナ人との隔絶が進行中だ。ガザの入植地を撤去したのは、「西岸の入植地恒久化に専念するためだ」とも言われている。

西岸はA、B、Cの3つの地区に区分され、A地区はパレスチナ暫定自治政府が行政と防衛の両方を担当、B地区は行政は自治政府が行うが防衛はイスラエル軍が担当、C地区はイスラエル軍が支配、このほか東エルサレムはイスラエルが併合している。イスラエルは段階的に自治政府の権限が及ぶA地区とB地区を増やしているが、それでも合わせて西岸の4割に過ぎず、その領域も細かな飛び地状に分割されている。

さらにイスラエルは現在、A・B地区を囲んでアパルトヘイト・ウォール(隔離壁)と呼ばれる高さ7・5メートル、幅3メートルの壁やフェンスを建設中だ。「壁」の建設は「これ以上、A・B地区は増やさない」というイスラエルの意思の表れでもあり、主要なユダヤ人入植地を恒久的にイスラエル領と一体化させるとともに、将来パレスチナ国家が正式に成立する際には、「壁」が国境線になりかねない。

「壁」を通り抜けるにはイスラエル軍が発行する許可証が必要だが、成人男性にはなかなか発行されない。「壁」が完成した地域ではパレスチナ人の家と農地が分断され、多くの農民が農作業に出られず、「壁」の向こう側にある農地を放棄せざるを得ないような状態になっている。また「壁」がすべて完成すれば、将来のパレスチナ国家はラマッラなどの北部とヘブロンなどの南部が完全に分断されるうえ、ユダヤ人入植地への専用アクセス道路によっていくつにも細分化されてしまう。東部はヨルダンからも完全に切り離されて、パレスチナはイスラエルに浮かぶ群島のようになってしまうのだ。

国際司法裁判所は2004年に「壁」建設は国際法に違反すると勧告したが、イスラエルはパレスチナ人のテロ攻撃から国土や入植地を守るために必要なフェンスだとして、建設を続行している。
 

●関連リンク

外務省−パレスチナ
パレスチナ暫定自治政府政府一覧
ガザ訪問記 田中宇の国際ニュース解説
パレスチナ情報センター ガザや「壁」についての最新情報があります
passia (英語)
 

参考資料:
阿部俊哉 『パレスチナ 紛争と最終的地位問題の歴史』 (ミネルヴァ書房 2004)
土井敏邦 『パレスチナの声、イスラエルの声』 (岩波書店 2004)
パレスチナ情報センター http://palestine-heiwa.org/
中東調査会 http://www.meij.or.jp/
P-navi info http://0000000000.net/p-navi/info/news/200602042204.htm
Wikipedia http://en.wikipedia.org/
Jewish Virtual Library http://www.jewishvirtuallibrary.org/index.html
PASSIA http://www.passia.org/
Anti-Apartheid Wall Campaign http://stopthewall.org/index.shtml

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