海賊の首領や部族の酋長に奪われず残った国王の直轄領

ムサンダム半島&マダ

オマーン領

 
1508年 ポルトガルが占領
1650年 オマーンがポルトガル勢力を駆逐
1853年 イギリスがムサンダム半島の「海賊勢力」と永久休戦条約を締結
1891年 オマーンがイギリスの保護領になる
1970年 オマーン王国がイギリスから独立。ムサンダム半島はその飛び地となる
1971年 オマーンとアラブ首長国連邦がイギリスから独立。ムサンダム半島やマダ、ナワが飛び地となる
  
オマーンは昔の日本の地図では「オーマン」でした。それにしても「海賊岸」とはワクワクするような地名ですね
1978年のムサンダム半島の詳細図(北部) (南部) なぜかロシア語です
アラビア半島の地図(1933年) 現在のアラブ首長国連邦やカタールもオマーン領ということになっていました
ムサンダム半島の衛星写真 (google map)

「アラブ首長国連邦」って、なんかよくわからない名前の国ですね。日本で首長といえば市長や県知事など自治体のトップのこと。じゃあ「アラブ県知事国家連合」って意味?でも王族みたいな人がゾロゾロいるし、県知事の国とは何ぞや?ちなみに中国語では「阿拉伯連合酋長国」略して「阿酋」と書く。あ〜なるほど、酋長が率いる部族国家の連合か・・・というわけで、これなら大変わかりやすいですね。

で、アラブ首長国連邦はアブダビ、ドバイ、シャルジャ、アジュマン、ウム・アル・カイワイン、ラス・アル・ハイマ、フジャイラの、7人の「首長」に率いられた国々の連合体で、71年にイギリスから独立したのだが、それ以前は休戦オマーン(トルーシャル・オマーン)と呼ばれていた。ちなみに現在のオマーン王国は、イギリス時代はマスカット・オマーン。マスカット(オマーン王国の首都)を中心としたオマーンという意味だ。18世紀から19世紀前半にかけて、オマーンはアラビア半島を中心にインドからアフリカ東海岸にかけて広大な海洋帝国を築いたが、1832年に首都をザンジバル(タンザニア沖合の島)に移転した頃には各地で離反が相次いでいた。イ宮廷の内紛にイギリスが介入して、1861年に2人の王子がオマーンとザンジバルを分け合うことになって、オマーンの首都はマスカットに戻ったが、オマーンの首都はマスカットに戻ったが、その頃にはすでに大半の地域がオマーン国王の支配から離れ、各部族の酋長たちが群雄割拠する状態になっていた。 

この地図では「オマン」ですね。右上の「グウォダル」はグワダル
ホルムズ海峡に突き出たムサンダム半島は、ペルシャ湾の出口を押さえる海の要衝として大航海時代にポルトガルが占領していたが、その後ペルシャに征服され、後にオマーンによって追い出されていた。しかし19世紀に入ってオマーン国王の支配が弱まると、一帯は海賊が跋扈するようになり、ヨーロッパの船がたびたび襲われて、海賊海岸(パイレーツ・コースト)と呼ばれるようになった。もっとも「海賊海岸」というのはヨーロッパ側からの言い方であって、列強諸国の進出に対して地元部族の酋長たちが水軍で抵抗した・・・とも言える。

1806年からラス・アル・ハイマを拠点にした海賊は、63隻の大型船と800余隻のダウ船(一本マストのアラビア船)を擁して1万9000人もの手下を抱え、インドへ向かうイギリス東インド会社の船が20隻以上を襲って、乗組員を全員殺した。このためイギリスが海賊討伐に乗り出し、海賊を率いていた首領たちと1820年に航海自由条約を、1835年に休戦条約を、1853年に永久休戦条約を結ぶ。こうして海賊海岸は休戦オマーン(トルーシャル・オマーン)と呼ばれるようになり、19世紀末にはマスカット・オマーンともども英国の保護領に編入された。

つまり、オマーンのうちマスカットの国王が支配した地域が現在のオマーン王国となり、海賊の首領やら部族の酋長やらが率いていた地域はアラブ首長国連邦になった。ひょっとして、「首長」って首領+酋長の意味?そんなわけないか(笑)。江戸時代の日本がそのままヨーロッパのどこかの国の保護領になって、徳川将軍の直轄領が「日本国」、各大名の藩領が「アジア首長国連邦」に分かれて独立したみたいなものですかね。海峡を制するムサンダム半島の先端部分は国王が直接支配していたので、オマーン王国の飛び地になったというわけ。でも支配していたというのはあくまで「だいたい」ということで、オマーン国王や各「首長」たちの領土の境界線は1949年までははっきり決まっていなかった。後に石油採掘のために確定する必要ができたので、50年から62年にかけてイギリスが無数の弱小首長国を「御取り潰し」にするとともに、7つの首長国とオマーンの境界線を設定した。

イギリスがこの一帯を支配したのは、インドへの航海の安全確保と他の列強諸国に取られたくなかったから。産業は真珠採取があったが20世紀に入ると日本産の真珠に押されて衰退し、あとはわずかな農業と漁業があるだけで、アラビア半島で最も貧しい地域だった。だからイギリスも海賊退治が済めば積極的な植民地経営を行うつもりはなく、近代的な統治機構は作られずに放置状態に置かれた。首領や酋長という前近代的な実力者が権力を握り続けることができたのはそのためだ。

もっとも、オマーン王国になった地域だって、実は内陸部ではイマーム(宗教指導者)が実権を握り、ほとんど国王の支配は及んでいなかった。独立前のオマーンは完全な鎖国体制を敷き、学校や病院もなく中世さながらの国だった。オマーンがまともな国になったのは、独立直後に現在のカブース国王が前国王だった父親を宮廷クーデターで追放してからのこと。同時に国内の統一にも乗り出して、内陸部が国王に帰順したのは1970年代後半だ。現在のオマーン王国は、オイルマネーのおかげですっかり潤い、ムサンダム半島もフィヨルドの海岸線やダイビングをウリにした観光地として賑わってます。




★もう1つのオマーンの飛び地:マダ(Madha)

Madhaが載っている国連の地図(PDFファイル)
マダの衛星写真 (google map)

ちなみに、オマーンには本土とムサンダム半島の中間に、もうひとつマダ(Madha)という飛び地もあります。これは内陸部にあり、周囲は完全にアラブ首長国連邦(シャルジャ首長国)に囲まれた形。マダの面積は75平方kmで、ニュー・マダと呼ばれる町といくつかの村がありますが、ほとんどの地図には載ってません。そんな場所でも石油が出るみたいで、最近オーストラリアとノルウェーの会社が採掘権を購入しています。アラブの国ってうらやましいね




★マダの中のアラブ首長国連邦の飛び地:ナワ(Nahwa)

Nahwaが載っている地図
ナワの衛星写真 右上の集落が新しい町、左下は昔からの集落(google map)

で、その狭いマダの中に、ナワ(Nahwa)というアラブ首長国連邦(のシャルジャ首長国)の飛び地の中の飛び地が存在している。ニュー・マダの町から、山道を西へおよそ8km行った地点で、民家が40軒ほどと警察署、学校。モスク、診療所があります。両国の政府の間では、領土を交換してナワの飛び地を解消しようと交渉しているが、住民たちは部族のつながりで領土交換には反対していて、暗礁に乗り上げているようです。


なぜかロシア語の詳細地図(1978年)。国境線は描かれていませんが、98−24の位置にNahwaらしき集落が・・(クリックすると全体図に拡大します)




★アラブ首長国連邦の、首長国同士の飛び地

各首長国の地図(1984年)
各首長国の地図(1993年)

アラブ首長国連邦は7つの首長国で構成されていますが、その首長国同士の境界線はゴチャゴチャで、特にナワやマダがある東部一帯は飛び地だらけ。80年代の地図を見ると「フジャイラ首長国とシャルジャ首長国の共同統治領」や「アブダビ首長国とドバイ首長国の間の中立地帯」、さらに「アジュマン首長国とオマーンの中立地帯」というのもあります。

これら首長国同士の境界線は見直しが行われているようで、90年代に発行された地図を見ると、「アブダビ首長国とドバイ首長国の間の中立地帯」や「アジュマン首長国とオマーンの中立地帯」は消滅しています。小さい首長国ほど領土が入り乱れていて、面積の大半を占める「大国」のアブダビ首長国は飛び地とは無縁なようですが、95年の地図を80年代のものと比べてみると、サウジアラビアへ西部の領土を大きく割譲したようで、カタールとは陸続きではなくなりました。割譲した地域は具体的にこんな場所で、まったく何にもなさそうですが、石油は眠っているんでしょうね。

その一方でアブダビ首長国は、中部のブライミ・オアシス周辺ではオマーンから領土を獲得したようで、アラビア半島の国境線は現在に至ってもしばしば変動しているようです。
 
 

●関連リンク

アラブ首長国連邦の謎之2  国境錯綜地帯へ行く このHPの姉妹サイト。マダとナワの潜入記です

旅に出よう、ムダンダムへ! ムサンダムへの旅行記。
OMAN navi オマーンやムサンダムの写真がたくさんあります。
人と風景 オマーン 写真を中心としたオマーンの旅行記。ムサンダムのページもあります
アラブ首長国連邦の歴史 ドバイ日本人学校の副読本だそうです。それにしても翻訳調でわかりずらい・・・。
日本ラス・アル・ハイマ友好協会 地味な感じの首長国ですが、石油は出るそうな
Nizwa Net > Madha マダの観光案内(英語)
 


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