大量の餓死者を出した「ビアフラの悲劇」

ビアフラ共和国
 
首都:エヌグ→臨時首都:ウムアヒア(67年末)→オウェリ(69年) 人口:1350万(1967年)

1967年5月30日 ナイジェリア東部州政府がビア フラ共和国として独立宣言
1967年7月6日 ナイジェリアが東部州に宣戦布告
1970年1月11日 ビアフラ共和国がナイジェリアに降伏 し消滅

ビアフラ戦 況マップ
現在のナイジェリアの地図 旧東部州(=ビアフラ)は細分化されて、地域的 な区分は消滅 
ビアフラ亡命政府のサイトに掲載されている地図 旧中西部州のうち石油が出 る海岸地帯(現:デルタ州)も含まれています

1970年1月12日付『毎日新聞』
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戦後各地で起きたいわゆる独立紛争の中で、最も「凄惨」と言われたのがビアフラだ。2年半続いた独立戦争で死者は 約200万人、そのうち大部分が子供を含んだ餓死者で、国際的にも大きな問題となった。一体なぜこんな結果になったのだろう。

ナイジェリアは人口1億2000万人で西アフリカ最大の国。250以上の雑多な民族で構成されていて、3大民族のうち北部のハウサ族はイスラム教徒の遊牧民、西部のヨルバ族は イスラム教徒の農耕民、東部のイボ族はキリスト教徒の農耕民で商業も盛んと、文化的にまった く異なり、1961年にイギリスから独立した後は地域・部族対立が激しくなっていった。

66年のクーデターでハウサ族が実権を握り、連邦政府や各地方政府の閣僚を解任したが、イボ族の将校がクーデター未遂事件を起こすと、 北部ではイボ族への襲撃事件が相次ぎ、多くの難民が東部州へ流入。東部州政府は連邦政府にイボ族襲撃事件の真相究明を求めるが実行されず、連邦政府は東部 州への経済封鎖を実施したため、67年5月に東部州政府は「ビアフラ共和国」として独立を宣言。こ れを認めない連邦政府が東部州政府(=ビアフラ政府)に宣戦布告した。

緒戦では勢いに乗ったビアフラ軍が優勢で、隣の中 西部州を占領し、さらに(当時の)ナイジェリアの首都ラゴスに迫ったが、ナイジェリアはイギリス、ソ連などの支援を受けて盛り返した。一方、ビア フラはフランスから武器援助を受けて、内戦当初は小銃や棍棒(!)で戦っていたのが、戦車や航空隊を持つまでになった。68年にビアフラ南部の海岸地帯が ナイジェリアに占領されると、内陸に追い込まれ補給路を断たれたビアフラ側では食糧不足となり、やがて餓死者が続出してしまう。ビアフラは首都エヌグが陥 落しても、臨時首都をオウェリに移して抗戦を続けていたが、70年1月にここも陥落して降伏した。

大国が双方に武器援助をして内戦がエスカレートしたのは、ビアフラ南部の海岸沿いには莫大な石油資源があったから。ビアフラを支え続け たフランスは正式な国家承認をしなかったものの、親仏国の象牙海岸(コートジボワール)やガボン、ハイチ、 それとタンザニア、ザンビアがビアフラ共和国を承認した。特にビアフラに近いガボンは、内陸に閉じ込められたビアフラへフランスが行った大 空輸作戦の基地として重要な役割を果たした。

 
ビアフラ共和国の通貨と切手の発行を発表するオジュク大統領 (左)と、ナイジェリアのゴウォン元首(右)

石油資源の問題以外にも、もともとイボ族と北部の民族との間には歴史的な怨念もあった。ナイジェリア一帯の海岸地帯はかつて奴隷海岸と呼ばれ、ヨーロッパ諸国にとって奴隷の供給源だった時代がある。海岸沿いに住むイボ族は真っ 先に奴隷狩りの標的にされたが、やがてヨーロッパ人と手を結び、イボ族が北部で奴隷狩りを行ってヨーロッパ人に奴隷を売り渡すようになった。イギリスの植 民地時代、キリスト教に改宗して英語教育も進んだイボ族は植民地官吏として優遇され、商人としてもナイジェリア各地に進出いて経済を握る。こうしてイボ族 は他の民族からは黒い白人と呼ばれ、66年のイボ族襲撃事件の背景ともなった。内戦の後、ナ イジェリアは軍事政権の下で州の再編成を行い東部州を細分化、91年には首都を東部・西部・北部の中間地点に当たるアブジャへ移転した。

戦争が終わり、旧 「国境線」のニジェール川を渡って故郷へ戻る兵士や人々
しか し99年の民主化を契機に再び民族や宗教の対立が激化し、北部では12の州がイスラム法を導入したためキリスト教徒が迫害された。かつて「ビアフラ共和国 領」だったナイジェリア東南部の産油地帯では、「ナイジェリア最大の外貨獲得源になっている石油の利益が地元に還元されていない」と不満が高まって、オゴ ニ人生存運動(MOSOP)が自治を要求し、94年にはナイジェリア軍の弾圧で数千人の死者を出していたが、2004年には隣のデルタ州(旧中西部州)で もデルタ人民志願軍が自治を要求して武装闘争を仕掛けている。民主化によって上から強引に押さえつける者がいなくなり、富を奪われる側の地域からは不満が 噴出しているようだ。

ビアフラ共和国を率いたオジュク大統領は、オウェリ陥落の直前にコートジボワールへ亡命したが、84年に赦されて帰国。その後はすっか り連邦支持者になり、2003年にはナイジェリア大統領選に出馬したが、得票率3%ちょっとで落選した。まぁ、独立戦争で国民を200万人飢え死にさせて おいて、いまさら独立反対で「敵国」の大統領になろうというんじゃ、ビアフラの住民も支持しないでしょうねぇ。。。。

一方でビアフラを滅ぼしたナイジェリアのゴウォン元首は、75年のクーデターで国を追われてイギリスへ亡命。学生になって博士号を取得 し、やはり80年代に赦されて帰国している。


独立当時のビアフラとオジュ ク大統領のインタビュー

JICA フロンティア2004年5月号 海を越えた技術と情熱 国際協力50年  ビアフラから日本へ農業研修に来ていた青年の話です(復元サイト)
世界の紙幣  ビアフラの1ポンド札
ワールドコイン・ドットネット  ビアフラはコインも発行していました
ビアフラ の蝶切手  ビアフラは万国郵便連合には加盟できなかったので、国際郵便は出せませんでした
Biafra Index  ビアフラ戦争の難民の写真ちお
Biafra Nation  アメリカ拠点のビアフラ独立派による地下放送局「ビアフラの声インターナショナル」。ロシアから電波を出しているらしい(英語)
 
 

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