ロシアが本気で後押しせず、独立はうやむやに

クリミア共和国
 
首都:シンフェロポリ 人口:270万人

1991年8月24日 ウクライナがソ連から独立を宣 言
1992年5月5日 クリミア議会がウクライナから独立を宣 言し、クリミア共和国憲法を制定
1992年9月 クリミヤ議会が独立宣言を取り消す
1994年5月 クリミヤ議会がクリミア共和国憲法の復活を 決議し、再度独立を宣言
1995年3月17日 ウクライナ政府の支配下に復帰し、ク リミア自治共和国となる


ウクライナの地図。黒海に突き出た半島がクリミア自治共和国

クリミアがロシア領 だった1933年の地図(クリックすると拡大します)
クリミア半島といえば、「ヤルタ会談」が開かれたヤルタがあるの で、日本にも関係する場所。クリミヤ半島は帝政ロシアでは貴族、ソ連では幹部、つまり歴代ロシアエライ人たちの保養地として有名。あぁ、そういえば 1991年にゴルバチョフ大統領が休暇中にクーデターで軟禁されたのもクリミア半島の別荘でしたね。あの事件はソ連解体の最終を飾る出来事になってしまい ましたが、クリミアはソ連亡き今ではウクライナ領になっています。でもウクライナ領になるにはひと悶着あったわけで、ソ連が解体してから2度にわたって 「クリミア共和国」として独立を宣言しました。

ウクライナの民族別人口は、ウクライナ人73%に対してロシア人22%だが、クリミヤで はウクライナ人20%に対してロシア人が65%と逆転している。実はソ連時代、クリミアはもともとロシアの一部だったが、1954年に地続きのウクライナ へ「所属替え」になった経緯がある(※)。ソ連の下ではロシアだろうがウクライナだろうが、どっちにしたってソ連の社会主義体制に変わりはなかったが、 91年にウクライナがソ連から独立すると話は別。ロシア人が多いクリミヤでは、「クリミヤをロシアへ戻せ」と主張し始め、それがダメならと92年5月にバ ハロフ最高会議議長の下で、クリミア議会が独立を決定し、クリミア共和国憲法を制定した。

※クリミア移管の理由は、公式には 「ロシアとウクライナの友好のため」だったが、当時、ソ連の第一書記だったフルシチョフが、クリミアを自分の生まれ故郷のウクライナに与えたかったからと いう話もある。
ウクライナはすぐに独立の無効を発表したが、ロシアはクリミアを後押ししていた。そもそもクリ ミア独立の直接のきっかけは、92年1月にロシア議会が「ソ連が54年にクリミアをロシアからウクライナへ移管したことは違法だ」と決議したことだった。 しかし、ロシアは軍事介入もクリミア共和国の承認もせず、ロシアからの支援が期待外れに終わったクリミアは、9月に独立宣言を取り消してしまう。

次にクリミアが独立の行動に出たのは94年。1月末の初代クリミア大統領選で、独立を主 張するメシコフが独立を取り消したバハロフを破って当選し、議会も再度独立を決定した。メシコフはクリミアの時間をモスクワ時間に合わせ、通貨をウクライ ナ・クーポンからロシア・ルーブルへ戻そうとしたり、ウクライナ人に外国人パスポートを発給したり、ウクライナ国籍を持たないロシア人経済学者を副首相に 任命しようとしたりと、ウクライナ政府をまったく無視した政策に乗り出した。

   
ハバロフ議長(左)とメシコ フ大統領(右)

ロシアもこれを支援する構えを見せたが、当時ロシアはチェチェンの独立を阻止するために 軍事弾圧をしていたのに、ウクライナからのクリミア独立をそそのかすのでは立場が矛盾すると非難され、結局この時もクリミア共和国を正式に承認することは せず、95年3月にウクライナはクリミアへの武力介入を構えを見せつつ、大統領と独自憲法を廃止させ、クリミアはウクライナの統治下に戻った。ク リミアはウクライナ国内の自治共和国となり、98年12月にウクライナ政府の承認で新たな憲法が制定された。

ロシアがクリミアに関心を示すのは、なにも「ロシア人が多いから」ではない。クリミアには地中海に睨みを利かせる黒海艦隊の母港が存在 するからだ。ソ連解体で黒海艦隊はウクライナ海軍とロシア海軍で分割することになったが、その具体的な条件についてはなかなかまとまらず、交渉が続いてい た。結局、クリミア半島の海軍基地はロシアが20年間使用できることになり、基地使用料や艦隊分割にあたってウクライナから艦船を購入する費用は、ロシア がウクライナへ供給した天然ガスの債務で帳消しとなった。つまりロシアは現金を払わずにクリミアの基地と艦隊を手にすることができたわけだが、クリミア独 立にロシアが支援をちらつかせることは、交渉を有利に進めるためのカードになった。

こうしてクリミアの独立運動は収拾したのだが、将来的には新たな火種になりそうな状況もあって、クリミア・タタール人の帰還問題がそ れ。クリミアにはかつてジンギスカンの血を引くクリミア汗国があり(最近はふつう「ハーン国」って書きますが、私は「汗国」って表記が面白いから好きで す)、1783年にロシアに併合されるまで340年間存在した。そこに住んでいたのがモンゴルやトルコ系でイスラム教徒のクリミア・タタール人(※)だっ た。

※タタールとは、もともとモンゴル系の遊牧民で古代中国の文献にある「韃靼」だ が、ロシアでは東方から来た遊牧部族をタタールと呼び、15世紀までロシアがキプチャク汗国によって支配された時代を「タタールのくびき」と言う。ロシア 一帯に定着したタタール人はトルコ語化とイスラム化が進み、クリミア・タタール人のほか、ボルガ・タタール人、シベリア・タタール人などに分かれていっ た。
クリミア汗国の領土の変遷  深緑と紫色の部分がクリミア汗国領

クリミア・タタール人はロシア帝政下で抑圧され、多くの住民がトルコへ移ったが、1917年のロシア革命で帝政ロシアが崩壊した際、ク リミア・タタール人たちはクルルタイ(民族大会)を開き、クリミア人民共和国の独立を宣言する。しかし新たに成立したソ連政府はそれを認めず、かわってク リミア自治ソビエト社会主義共和国を作ったが、クリミア・タタール語の使用禁止やクリミア・タタール人の公職追放などの抑圧が続き、1944年にはスター リンによって「ナチスに協力している」と因縁をつけられ、クリミア・タタール人はすべてウズベキスタンなど中央アジアへ追放された。こうして19世紀から 続いたクリミア・タタール人への迫害と同時に、クリミアへのロシア人入植が進められ、人口の多数を占めるに至ったのだ。

ソ連が崩壊してウズベキスタンが独立すると、民族主義的な政府の下でクリミア・タタール人は新たな差別を受け、さらにウズベキスタンは 独裁政治やテロ事件などで政情が不安定なため、歴史的な故郷であるクリミアへ戻ってくるクリミア・タタール人が増え、その数は2001年末には24万 5000人となり、クリミアの人口の12%に達した。ウクライナやクリミア政府は帰還したタタール人に住宅を提供するなどの優遇措置を実施しているが、ク リミア・タタール人たちは再びクルルタイを開いて、クリミアにおける「民族主権」や、クリミアの土地・資源利用はクリミア・タタール人の同意が必要と宣言 している。最近ではクリミア政府がヤルタ会談が開かれた場所に、観光の目玉としてスターリンとルーズベルト、チャーチルの3人の銅像を建てようとしたとこ ろ、クリミア・タタール人たちの猛烈な抗議を受けて中止する事件が起きた。今後も帰還者が増えるにしたがって、その動向が注目されそうだ。

94年の大統領選に敗れたバハロフは、政界を引退して本業の地理学教授として大学の学長などを務めている。一方で大統領を失職させられ たメシコフは、その後ロシアへ渡りモスクワで大学教授をしていたが、2011年にクリミアへ戻り、独立憲法復活のための住民投票の実施を呼び掛けたとこ ろ、ウクライナ政府から強制退去を命じられている。

●関連リンク

クリミアにおける民族関係と紛争予防  南野大介氏の論文です(PDFファイル)

参考資料:
wikipedia http://ru.wikipedia.org/
pravda Ukrine http://www.pravda.com.ua/rus/news/2011/07/13/6384087/(露語)

 

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