イギリスから放り出された首長たちがとりあえず結成したもの の・・・

元祖:アラブ首長 国連邦

首都:ドバイ


ついでに現在のアラブ首長国連 邦の旗

1971年3月 イギリス保護領の休戦オマーン(ト ルーシャル・オマーン)の7首長国とカタール、バーレーンでアラブ首長国連邦(FAE)を結成
1971年8月16日 バーレーンがFAEから離脱して独立
1971年9月3日 カタールがFAEから離脱して独立
1971年12月2日 ラス・アル・ハイマを除く6首長国で アラブ首長国連邦(UAE)として独立。FAEは消滅
1972年2月11日 ラス・アル・ハイマ首長国がUAEに 加盟

各首長国の境界線とアブムサ島、大トンブ島、小トンブ島の地図

アラ ブ首長国連邦って、ときどき「アラブ首長国連合」と書く人がいますね。試しにgoogleで検索してみたところ、「アラブ首長国連邦」で15万2000 件、「アラブ首長国連合」では1320件のヒット数でしたから、1%に満たないわけですが・・・。確かに国名はUnited Arab Emiratesだから、そのまま訳せば「アラブ首長国連合」になります(そもそも「首長国」ってのがよくわからん・・・という 人はこ ちらを参照)。しかし日本語での名称は、外務省でもアラブ首長国連邦の大使館でも「アラブ首長国連邦」を使っているので、こちらがあくまで正式。 では一体なぜUnitedを連合と「誤訳」してしまったのだろう?

実はかつてFederation of Arab Emirates、そのまま訳して「アラブ首長国連邦」という国が存在していた。もっとも完全な独立国ではなくて、イギリスの保護国。その 存続期間も1年に満たなかった。

かつて中東一帯は大英帝国の勢力圏。アラビア半島のペルシャ湾沿いもイギリスの保護領に置かれていたが、石油が出るようになる前のこの 地域は、めぼしい産業もないアラブの貧困地帯。イギリスにとって最大の植民地だったインドへの航海安全を確保するため、19世紀に跋扈していた海賊たちを 成敗して「休戦協定」を結んだ後は(だからこの一帯は休戦オマーン=トルーシャル・オマー ン、または休戦海岸=トルーシャル・コーストと呼ばれた)、イギリスの統治はほとんど放置プ レー状態で、スルタンやシャリフが小さな首長国(当時の表現で言えば土侯国)を率いて群雄割 拠するままになっていた(詳しくはこ ちらこ ちらを参照)。

さて戦後。さしもの大英帝国も戦争ですっかり経済的に疲弊し、1956年にのスエズ動乱ではフ ランスとともにエジプトへ出兵したものの、米ソはじめ国際的な大非難を浴び、67年のア デン撤退では戦略を誤った末にほうほうの体で逃げ出すという有様で、ついに68年には「71年までにスエズ以東から軍事的撤退をする」と発表し た。以後、中東は米ソが覇権を競う場となるのだが、イギリスからいきなり放り出される形となって困惑したのが、ペルシャ湾沿いの首長たち。

休戦オマーンと呼ばれたアブダビ、ドバイ 、シャルジャ 、アジュマン 、ウム・アル・カイワイン、ラス・アル・ハイマ 、フジャイラの7カ国は、イギリスの指導の下、1952年に評議会を作っていたが、小さな首長国のまま独立してはやってゆけないと、バーレーン、カタール を加えた9つの首長国が、68年2月25日に連邦国家として独立することで協定を結ぶ。長年に渡って手なずけて来た首長たちに引き続き権力を握らせて英軍 撤退後も影響力(と利権)を残したいイギリスの後押しで、71年春には独立に向けた連邦体制として、Federation of Arab Emirates(アラブ首長国連邦)を結成した。

しかし現実は、いくら小さな国でも石油がたんまり出れば国際的に十分やっていけるわけで、石油生産が軌道に乗っていたバーレーンとカ タールは、ほどなく離脱して単独で独立(※)。残る7カ国のうちラス・アル・ハイマを除く6ヵ国は、新たに United Arab Emiratesを結成して独立した。ホントはこの時点で日本語の国名表記を「アラブ首長国連合」に変えるべきだったんでしょう が、似たようなもんだし面倒だからいいや、ということになったんでしょうね(たぶん)。ま、Uneited Statesが合州国じゃなくて合衆国で定着してしまったのに比べれば、たいした差じゃないかも知れませんね。

※連邦離脱の背景には、権力配分と軍再編の問題もあった。人口の4割を占めたバー レーンは、連邦の最高機関では人口比に応じて決定権を持つように主張して反対された。また兵力1500人の連邦軍に対して、アブダビ軍は4000人もいた ことが問題になった。

ラス・アル・ハイマ 〜「領土を手放すな!」と要求して、2ヵ月間だけ単独で独立(?)〜



UAEの独立に際して、ラス・アル・ハイマが参加しなかったのは、ペルシャ湾に浮かぶ島を巡るイランとの国境紛争で、他の6ヵ国と意見が分かれたためだっ た。

アブムサ島(シャルジャ領)と大 トンブ島、小トンブ島(ラス・アル・ハイマ領)はペルシャ湾の入り口にあたる要としてイギリス軍が駐屯していたが、イランはかねがね領有権 を主張していた(※)。UAEの独立に伴ってイギリス軍が撤退することを好機とみたイランは、UAE独立の3日前にこれらの島々に軍隊を上陸させた。実は シャルジャとは事前に協定が成立していて、アブムサ島の領有権は曖昧にしたまま(1)島の住民は引き続きシャルジャが統治する、(2)イギリス軍が使用し ていた軍事基地はイラン軍が使用する、(3)アブムサ島で得られる石油の収益は両国で折半する、(4)イランはシャルジャに対して年間150万ポンドを援 助する・・・という内容だったが、ラス・アル・ハイマはイランとの協定を拒否したため、イラン軍は2つの島を砲撃して実力で占領した。

アブムサ島と大小トンブ島の地図 

今でこそアメリカに「ならず者国家」と名指しされているイランだが、当時はパーレビ国王 が率いる中東随一の親米国。イラン軍によるペルシャ湾の3島進駐の裏には、アメリカの後押しがあった。アメリカとしてはペルシャ湾の入り口 を今後どうなるかわからない弱小首長国に委ねるより、親米地域大国のイランに任せた方が安心というもの。当時、ペルシャ湾一帯ではイギリスの撤退に乗じて ソ連の進出が強まっており、南イエメンでは弱小首長国の寄り合い世帯だった南アラビア連邦が崩壊して社会主義政権が誕生し、アデン港はソ連海軍の基地に なっていた。オマーンでも南イエメンの支援を受けた独立ゲリラが「解放区」を広げ、王制が危ぶまれていた状態。アメリカが前近代的な首長国の将来を不安に 思ったのは、無理もないことだった。

※アブムサ島はその後、92年にイラン軍が発電所や学校・診療所を運営していた UAEの国民を追放して全面占領した。
かくして、ラス・アル・ハイマ首長のサク ル・カシミは、 UAEがシャルジャの「領土放棄」を追認せず、あくまでイラン政府が占領した島々の領有権を主張し続けることを求めて、UAE成立の協定書に調印すること を拒否した。71年12月1日限りでイギリスは撤退してしてしまったから、ラス・アル・ハイマは単独で独立したことになるが、国連に加盟しようとも、世界 各国と国交を結ぼうとするわけでもなかった。UAEもイギリスも世界各国も、ラス・アル・ハイマがUAEへの参加を拒否したのは、あくまで「条件交渉」のためで、単独で独立するつもりはないことはわ かっていた。

ラス・アル・ハイマとシャルジャは、ともに海洋民族(イギリスに言わせれば海賊)だったカーシム家が設立した首長国で(※)、かつてはペルシャ湾の交易拠 点として主導権争いを繰り広げ、ラス・アル・ハイマは1869年に正式にシャルジャから独立したものの、1900年から21年まで、再びシャルジャに支配 されていたこともある。だからラス・アル・ハイマにとって、シャルジャの「裏切り」は絶対に許せなかったのだ。

※カーシム家はもともとアラブ出身だ が、後にペルシャ(現在のイラン)へ移住してペルシャ湾で勢力を築き、18世紀にアラブ側へ移った。アブムサ島や大小トンブ島は、カーシム家がイランに居 た頃から支配していたのだが、「歴史的にイランに居た者が支配してきたからイラン領だ」というのがイラン側の主張。「現在はラス・アル・ハイマ(とシャル ジャ)の首長であるカーシム家が、歴史的に支配してきたからラス・アル・ハイマ領(とシャルジャ領)だ」というのがラス・アル・ハイマ側の主張。

結局イランと妥協したシャルジャの首長は、72年1月末に皇太子によるクーデターで殺されてしまい、UAEもイランに占領された島々の領有権を放棄しない ことを約束したので、ラス・アル・ハイマは2ヵ月遅れでUAEに加盟することになった。

UAEでは各首長国は対等とされ、7人の首長で構成する連邦最高評議会が大統領を選出するが(首長国なのに大統領とは、これいかに?)、実際には石油が豊 富に出るアブダビが実権を握り、大統領はアブダビ首長による世襲と化している。

このようなアブダビ主導の建国体制も、サ クル・カシミにとっては不満だった。実はサクル・カシミは1965年から71年までの間に、2回にわたって休戦オマーン首長国評議会の議長を務め、FAE やUAEの連邦制確立に向けて様々なアイデアを出していたのだ。

しかし現実に、連邦政府の財源はアブダビが8割を負担して(1割はドバイ、残り1割は連邦政府の税収で、他の5つの首長国は負担な し)、それによって本来はロクな産業がなかった各首長国でも先進国顔負けのインフラ整備が進められたわけで、現在ではアブダビ主導の体制も「ま、金出して くれてるし」ということですっかり定着(※)。71年末の独立にあたって、それまでイギリスの政庁があったドバイに代わってアブダビが臨時首都になった が、96年からは正式な首都となっている。

※アブダビの首長はずいぶん気前がいい感じだが、かつては全く違っていた。60年 代にはアブダビの首長は石油会社に採掘料を黄金で支払うように要求してそれを1人占め。アブダビ港に浮かべたヨットに、金の延べ棒と元からの財産である羊 を仕舞い込んで喜んでいた。あまりのドケチぶりにイギリスも呆れ果て、66年に追放されたほど。
1948年から実に62年間にわたって首長の座に就いていたサクル・カシミは2010年10月に92歳で死去。皇太子だった4男のサウド・カシミが首長に なったが、2003年に父から皇太子の地位を剥奪された長男のハリド・カシミは「宿敵」シャルジャに亡命して、正統な首長は自分だと主張し続けている (※)。

※ハリドが皇太子の地位を剥奪された理 由は、アブムサ島や大小トンブ島を占領したイランへの強硬姿勢と、当時イラクの大統領だったサダム・フセ インを支持して、反米運動を起こしたからと言われる。もっともUAEは当時、フセインに同情的で、大統領辞任と亡命を勧めていた。そしてハリドの反米運動 は、国民の反米感情のガス抜きを図るために、UAEにとって必要だったとも言われている。

話は変わりますが、私はUFJ銀行って、てっきりユニオン富士銀行か、ユナイテッド富士銀行か、はたまたユニバーサル富士銀行の略かと思ってました。で も、旧富士銀行とは関係なかったんですね(笑)
 

■関連リンク
ラスアルカイマの真実 シャルジャに亡命中の元皇太子からのメッセージ(日本語字幕付き)


参考資料
RAKpedia http://www.rakpedia.com/history/recent-history.html
wikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/Saqr_bin_Mohammad_al-Qassimi


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