イスラム教徒の藩王なのにパキスタンへの帰属を拒否

カラート藩王国

人口:34万2101人(1941) 首都:カラート

1638年 カラート王国が成立
1876年 イギリス保護国のカラート藩王国となる
1947年8月12日 イギリスからインドとパキスタンの独立(15日)を前に、カラート藩王国が独立を宣言
1948年3月31日 藩王がパキスタンへの併合に署名し、パキスタン軍が侵攻
1952年10月3日 マクラン、カラン、ラスベラ藩王国とともにバロチスタン藩王国連合の一部になる
1955年10月14日 西パキスタン州の一部となり、消滅
 

英領インド全図(1909年)  黄色が藩王国、ピンクは直轄領
バロチスタンの地図(1909年)  黄色はカラートなどの藩王国領。ピンクはイギリスの直轄領
英領インドの行政区分図(1934〜1947) 現在のパキスタン、バングラデシュ、ミャンマーを含む。藩王国がウジャウジャあります
世界地図(1942年)  バロチスタンはビルマと同じようにインドと区切られています
 

国家の領土=ある民族の居住領域かといえば、日本のような単純な国は少ないのが国際社会の現実。例えば民族とは関係なしに、宗教で領土を区切ろうとして生まれた国がパキスタンだ。

パキスタンはかつては英領インドの一部だった。1947年にインドがイギリスから独立する際に、多数派のヒンズー教徒に支配されることを恐れたイスラム教徒が、イスラム教徒の多い地域を分離独立させたのがパキスタンの誕生。その領土は西パキスタン(現在のパキスタン)とベンガル地方の東パキスタンに分かれ、東西パキスタンはインドを挟んで1600kmも離れているという飛び地国家で、共通点は宗教だけ。人口が多く経済的にも豊かだったはずの東は首都が置かれた西に支配され、西の言語(ウルドゥー語)まで押し付けられたと怒りが爆発。インドが介入した内戦の末、1971年に東パキスタンはバングラデュとして独立した。

では西パキスタンはどうかといえば、こちらも地域によって民族や言語や歴史が異なっていて、まとまっていない。アフガニスタン国境沿いの北西部は連邦直轄部族地域(FATA)としてパシュトゥーン人の部族社会による伝統的な自治に委ねられ、現在に至るも中央政府の統治は及んでいない。そして南西部のバロチスタン州(またはバルチスタン州とも)でも独立運動が続き、パキスタンが独立した際には、バロチスタンの各藩王国はこれに加わらず、カラート藩王国は独自にイギリスからの独立を宣言した。

バロチスタンがパキスタンに加わろうとしなかったのは、そもそもバロチスタンはインドの一部ではなく、異なった歴史を歩んできたから。バローチ人はイラン東部やアフガニスタン南部に跨って住み、紀元前4世紀のアレキサンダー大王の遠征以来、ペルシャとの結び付きが深かった。7世紀にはウマイヤ朝、8世紀にはアッバース朝によってアラブ人の支配下に置かれ、13世紀にはモンゴル人が支配するイル汗国、15世紀にはティムール帝国と、「ペルシャの最果ての辺境」として世界帝国の版図に組み入れられてきたのだ(※)。

※もっともバローチ人の間では、「先祖は紀元前にアレッポ(シリア)方面から移住してきたので、ペルシャ人よりアラブの要素が多い」と信じられている。イスラム教もイランではシーア派なのに対して、バロチスタンではスンニ派が中心だ。バローチ語はペルシャ語系だがクルド語と共通点が多く、バローチ人の先祖はかつてカスピ海南岸から移動して来たらしい。「ペルシャ文化の辺境の民」だったからイスラム教受容に際してアラブ化が進みやすかったのかも知れない。またバローチ人の中には、南インドのトラヴィタ語系の言葉を話すブラフイ族もいる。
バロチスタンがインドと別に描かれた1933年の地図(クリックすると拡大します)
そして1638年にカラート王国が成立し、マクラン、カラン、ラスベラなどの属国も生まれた。カラート王国は18世紀半ばには、ペルシャのアフシャール朝に続いてアフガニスタンのドゥラニー朝の支配下に置かれるが、アフガンに兵士や上納金を提供することを約束して1758年に再び独立を回復する。

イギリスが進出してきたのは19世紀に入ってからで、イギリス軍は1838年に第一次アフガン戦争を起こし、カブールを占領したが、40年にはカラート王国へも侵攻。王を殺して占領した。しかしアフガンでの反乱に悩まされたイギリス軍は42年にカブールから撤退すると、カラートからも撤退。その後、アフガンの弱体化によってカラート王国は1854年にイギリスと条約を結んでその保護下に入った。この頃から、バロチスタンはイギリスにとってヨーロッパ〜中東〜インドを結ぶ電信線の建設ルートとして重要になり、1872年にペルシャと協定を結んでバルチスタンを分割。76年にはカラートやマクラン、カラン、ラスベラはイギリスの保護国になった。

バロチスタンを勢力圏に収めたイギリスは、第二次アフガン戦争(1878〜81)ではカラート北部のクエッタを中心にアフガン国境まで鉄道を建設。82年にこれらの地域をカラートから租借(後に買収)して直轄領としたが、カラートなどの保護国はイギリス宗主権下の藩王国としてそのまま残し、外交・防衛以外の内政自治を認め、駐剳官を派遣して監督した。

こうしてバロチスタンは、ペルシャ領になった西部を除いてイギリスのインド政庁の統治下に入ったのだが、そもそもイギリスの植民地になった経緯は東インド会社によるムガール帝国征服とは関係なく、1876年にイギリスと結んだ条約でも、イギリスはカラートを独立国だと認めたうえで保護国にしたのだった。同じくインド政庁によって支配されていたビルマ(※)やネパール、ブータンシッキムは、インドとパキスタンの独立にあたって別個の国になったのだから、バロチスタンもインド・パキスタンとは別の国として独立してしかるべき・・・というのがバロチスタン側の主張だ。

※ビルマはイギリス統治の下で、1937年に自治領となりインド政庁の管轄を離れて別扱いの植民地になった。
さて、1947年にインドとパキスタンがイギリスから独立すると、各藩王国はどちらかに帰属することを選択することになり、大部分の藩王国はすぐに帰属が決まったが、住民の大多数と藩王の信仰が異なっていたジャンムー・カシミールやジュナガル(住民:イスラム教徒が多数、藩王:ヒンズー教徒)では紛争となり、住民の多くがヒンズー教徒で藩王はイスラム教徒だったハイデラバードは独立を宣言して、翌年インド軍に占領された。

一方でカラート藩王国は、住民のほとんどがイスラム教徒なら藩王もイスラム教徒だったが、「そもそもインドの一部じゃないので、1876年以前の状態に戻る」と、インドとパキスタンが独立する直前にイギリスからの単独独立を宣言し、議会や内閣を設置した。マクラン、カラン、ラスベラの3藩王国もパキスタンへの帰属を保留して、カラートの属国に戻った。独立前(8月4日)のデリー円卓会議で、パキスタンやイギリスもカラートが独立国になることを認め、そのうえでカラートはパキスタンと外交や防衛などで特別な関係を結ぶことになった。
 

こうして47年10月からパキスタンとカラートは「特別な関係」について交渉を始めたが、パキスタンはかつてのイギリスとカラートとの関係のように、カラートがパキスタン宗主下の藩王国になるよう求めた。藩王のアフマド・ヤール・カーンは「ソ連やアフガニスタンからの潜在的な脅威から守るためだ」と説得され、パキスタンによる併合に賛成したが、カラートの議会に全会一致で否決されてしまった。そこでパキスタンはマクランやカランに圧力をかけ、48年3月半ばにカラートからの独立とパキスタンへの帰属を宣言させた。バロチスタンでは反パキスタンの機運が高まったが、パキスタンは軍事併合の準備を進め、3月末にカーンは併合を承認する文書に署名。たちまちパキスタン軍がカラートに侵攻して、併合反対派の議員や閣僚を次々と逮捕した。

最後の藩王・アフマド・ヤール・カーン
かくしてカラートはパキスタン宗主下の藩王国となったが、イギリス時代と比べて内政自治は制限されるようになり、52年には旧属国の3藩王国とバロチスタン藩王国連合を組まされて権限を縮小され、55年には藩王国自体が廃止させられてしまった。しかしバロチスタンの独立運動はその後も続き、反乱が繰り返されている。48年にはカーンの弟が反乱を起こしたが、58年や73年から77年にかけても大掛かりな反乱が起き、2001年にアフガニスタンでタリバン政権が崩壊すると、バロチスタン解放軍(BLA)によるテロ活動が活発になった(※)。

※タリバンはバシュトゥーン人中心の組織だが、バロチスタンのアフガン難民キャンプを拠点に勢力を拡大し、96年にカブールを占領して政権の座に就いた。当初パキスタンはタリバンを支援していたが、2001年にアメリカがアフガンへ侵攻するに及んでアメリカ支持にまわり、バシュトゥーン人やバローチ人の反パキスタン感情が再燃する契機になった。
バロチスタンが独立を求め続ける理由は、歴史的な経緯に加えて、パキスタンの政治や経済が独立時にインドから亡命して来たイスラム教徒(ムハージル)たちに支配されたため。インドへ逃げ出したヒンズー教徒と入れ替わりにやって来たムハージルは、カラチやラホールなど主要都市の人口の約半数を占め、建国の父・ジンナーはボンベイ(現:ムンバイ)の出身で、初代首相のアーカット・アリー・ハーンもニューデリーの出身と、初期の政治指導者たちの多くはムハージルが多かった。さらに彼らの言葉であるウルドゥー語(※)が国語とされたことから、文化的にも支配される形になった。そもそも「インドから分離してイスラム教徒のためのパキスタンを建国しよう」という運動は、多数のヒンズー教徒に囲まれて暮らしていたムハージルたちが「少数派の権利獲得」のために始めたもので、イスラム教徒が絶対的多数を占めていた現在のパキスタンにあたる地域では、すでにイスラム藩王国による権力構造が確立しており、パキスタンの建国運動には消極的だったのだ。
※主に北インドで話されていた言葉。基本的にはインドの公用語であるヒンディー語と同じだが、ヒンディー語はサンスクリット語からの語彙が多くデーヴァナーガリー文字を使うのに対して、ウルドゥー語はアラビア語からの借用が多く、アラビア文字を使う。
そしてバロチスタンはパキスタンの国土の約4割を占めながら、バローチ人はパキスタン総人口の5%に過ぎず、肥沃なインダス川流域と比べて不毛な砂漠地帯が広がり、開発が遅れたままだった。バロチスタンは石炭、天然ガス、クロム鉄鉱などの産地でパキスタン経済を支えているのにも関わらず、バロチスタンの住民の40%は貧困層で、富が収奪されているとの思いが強い。近年ではアフガニスタンの海の出口や天然ガスの積み出し港として中国の援助でグワダル港の整備や、カラチ〜グワダル間の高速道路の建設が進んでいるが、その一方でムハージルやパンジャブ人の移住者が増え、バローチ人はバロチスタンでも少数派になりかねないと警戒している。

●関連リンク

アフガニスタン:一千万個の地雷が埋まる国  NHKによるバロチスタン解放軍と政府軍の戦闘レポート
世界のトイレ情報  「バロチスタン砂漠越えのバスは世界3大地獄交通機関のひとつに挙げられているほど・・・」だそうです
第41回CFカード送付  バロチスタンの砂漠横断の写真です
バルチスタン・コミミトビネズミ  カワイイですね
The Government of Balochistan in Exile  本当かどうかわからないけど、バロチスタン亡命政府のサイト(英語)

参考資料:
ウイリアム・バートン著:国土計画研究所訳 『印度藩王国』 (中川書房 1943)
黒崎卓、子島進、山根聡編 『現代パキスタン分析』 (岩波書店 2004)
Country Data http://www.country-data.com/
Balochvoice - Baloch Struggle of self-determination http://www.balochvoice.com/
Radio Balochi FM http://www.radiobalochi.org/
Wikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Balochistan
Classic Encyclopedia http://www.1911encyclopedia.org/
 

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