大マレーシア構想VS大インドネシア構想

マラヤ連邦

首都:クアラルンプール


マ レーシア連邦の国旗 と比べると、星の光とシマシマの数が違いますね

1957年8月31日 イギリスからマラヤ連邦が独立
1963年9月16日 イギリス自治領のシンガポールと、イ ギリス保護領のサバ、サラワクを統合して、マレーシア連邦となる
1965年8月9日 シンガポールが分離独立
リー・クワンユー リー・クワンユー リー・クワンユー リー・クワンユー リー・クワンユー
現在のマレーシア連邦の地図 

マラヤ連邦だった頃 の領土は、これだけでした
現 在マレーシアになっているマレー半島には、イギリス植民地時代からマレー連邦、マラヤ連合、マラヤ連邦・・・と、似たような名称の政体がいろいろ移り変 わってヤヤコシイ限りです。

イギリスはマレー半島を植民地にした後、重要な港であったペナン、マラッカ、シンガポールを直轄の海峡植民地とし(※)、残る地域ではスルタンを通じた間接統治を行ってマレー連邦州(ペラ、セランゴール、ネグリ・スンビラン、パハン)と、マレー非連邦州(ジョホール、クランタン、ケダ、トレンガヌ)に分けていた。

※厳密にいえば、海峡植民地はこのほかブルネイ沖合のラブアン島と、ジャワ島南方 のク リスマス島、インド洋のココス 諸島で構成。
日本軍による占領を経て、戦後はシンガポールを除くマレー半島をすべてマラヤ連合として統合 しようとしたが、スルタンの権限の縮小や、各州に配置される英国人知事による行政、中国系やインド系を含むすべての人種に平等な市民権を与えるなどの方針 にマレー人が猛反発。結局スルタンの特権を認め、マレー人以外の市民権を制限する形で1957年にマラヤ連 邦として独立した。

そして1961年、マラヤ連邦のラーマン首相は大マレーシア構想を発表す る。これはイギリス植民地として残ったシンガポールや、ボルネオ島の英領サ バ、サラワク、ブ ルネイを統合して、マレーシア連邦を結成するというもの。シンガポールはマレー半島の重要な商業・貿易拠点であるとともに、当時は中国系住民を中 心とした左派勢力が強く、もし単独で独立すれば共産政権が誕生し、マレー半島でゲリラ戦をしていたマレー共産党の出撃拠点となることが懸念されていた。こ のためイギリスの後押し(※)もあって、マレーシアとして統一しておきたかった。

※1950年代から60年代にかけて各地の植民地で独立要求が高まると、イギリス はそれまで分割して統治していた複数の植民地に連邦を組ませて自治権を与え、段階的に独立を認める方針を採った。異なる地域の雑多な政治勢力を組ませるこ とで、「調整役」としてのイギリスの影響力を残す狙いもあったようだ。しかしこうして生まれた「連邦」のうち、西 インド連邦はわずか4年半で解体、中 央アフリカ連邦も白人主導の連邦政府から黒人国家が離脱して分解、南 アラビア連邦(南アラブ首長国連邦)は封建的な首長制の維持に反対するゲリラによって倒された。マレーシア連邦とア ラブ首長国連邦は現在でも続いているが、いずれも連邦結成直後に分離独立した地域があって、イギリスの思惑通りにはいかなかったようだ。
またボルネオ島は未開発のジャングルが大部分を占めていたが、石油などの資源が豊富。そして何よりも、中国系住民が多いシンガポールだけを合併してしまう と、マレーシアの人口の半分以上が中国系になってしまうので、マラヤ連邦にとってボルネオ島 のイギリス領3地区はゼヒとも一緒に合併しておきたかった(※)。
※その結果、サラワクやサバは有利な立場で合併交渉をすることができた。財政や出 入国管理などで高度な自治権を持ち(マレー半島のマレーシア人がサラワク、サバへ行くのにもパスポートが必要)、イスラム教の国教化やマレー語の国語化に は緩和措置が採られ(サラワク、サバの住民には英語で教育を受けたキリスト教徒が多かった)、その一方でサラワクやサバの先住民も「マレー系住民としての 優遇措置」を受けられることになった。
蜜月時代のリー・クアンユー(左)とラーマン(右)
大マ レーシア構想には、強力な味方と強力な敵が現れた。強力な味方とはシンガポール自治領首相のリー・クアン ユーだ。リーはもともと労働組合の顧問弁護士で、人民行動党(PAP)を結成し左派勢力の支持で首相になったが、その路線は反共的な国家社 会主義で、共産主義志向の党内左派との抗争にあけくれていた。また彼は中国系だがもともと中国語を話せず英語とマレー語で育った人間であり(※)、人口の 大部分を占める中国系住民と中国政府の絆を断ち切るためにも、シンガポールの「マレー化」を推進し ようとしていた。こうしてリー・クアンユーは「シンガポールの生き残りのためにはマレー半島との一体化が不可欠」だと訴える一方、合併に反対する党内左派 を除名して住民投票を行い、マレーシアへの合流を決めた。リー・クワンユー
※後に政治活動を始めた時、選挙演説をするために必死に中国語を習得してベラベラ になった。またハリー・リーという英語名だったが、これじゃ「中国系の支持が得られない」と中国人風のリー・クアンユーに改めた。
一方で、強力な敵とはインドネシアのスカルノ大統領だ。インドネシアはインドネシアで、「宗 主国が違うというだけで、もともと歴史的に同じ民族、同じ言語、同じ宗教のインドネシア人とマレー人は統一されるべき」という大インドネシア構想を持っており、特にボルネオ島の分割は許しがたかった。スカルノはインドのネルー、 中国の周恩来、エ ジプトのナセルとともに非同盟諸国の盟主であり、アジア・アフリカ諸国を集めてバンドン会議(1955年)を成功させた自負があった。

またインドネシアは強力なオランダ軍を相手に武力闘争を戦い抜いて独立を勝ち取り、大マレーシア構想が発表された当時は、残された植民 地の西 イリアン獲得のためにオランダ軍相手に再び「植民地解放戦争」をしているまっ最中。それに比べてマラヤ連邦は血も流さずにイギリスとの政治会談だ けで独立を実現し、今また政治交渉だけで領土拡大を果たそうとするのは許せない。特に連邦制には自 国の経験で「傀儡国家づくりを狙う帝国主義の陰謀」と拒否感が強かった。
 

マラヤ連邦の頃の標 識は、英語タミール語マレー語中国語の4ヵ国語表記
現在ではアルファベット化したマレー語のみ
こ うしてスカルノ大統領はマレーシアに対して対決政策(コンフロンタシ)を宣言して、ブルネイでマレーシア参加反対のクーデターを起こそうとしていた北ボル ネオ国民軍を支援したほか、さらに「マレーシア粉砕」へとエスカレートさせて、ボル ネオ島の国境地帯や海軍が軍事行動に出た。また「マレーシアはイギリスによる新植民地主義の陰謀」だと国際社会へ訴えて、後にマレーシアが国連安 保理の非常任理事国に当選すると、インドネシアはこれに抗議して国連を脱退してしまう(65年1月)。

またサバの領有権を主張していたフィリピンも大マレーシア構想には反発し、マレー系民族であるフィリピン、マレーシア、インドネシアを 統合するマフィリンド構想を発表した。

結局、ブルネイは石油の利権とスルタンの権限をめぐってマレーシアへの統合を拒否し、 イギリス保護国のまま残留。1963年8月31日を予定していたマレーシア連邦の発足は、国連調査団によるサバ・サラワク住民の意向確認を受け入れて9月 16日まで延期となり、インドネシアやフィリピンには国交を断絶されるなど、マレーシアは前途多難なスタートを切った。その後、スカルノ大統領がアジア・ アフリカ諸国に振りまいた「マレーシアはイギリスによる新植民地主義の陰謀」という悪評に反論するため、ラーマンはシンガポール州のリー・クアンユー州首 相をアフリカ諸国へ派遣し、35日間で17ヵ国を歴訪させて「私達はホントに自ら心底望んでマレーシアに統合したのです。カイライじゃありません」といち いち説明にまわらせた。

 
エジプトのナセル大統領(左)やケニアのケニヤッタ大統領 (右)に「マレーシアはいい国ですよ〜」と宣伝

しかしシンガポールはマレー系住民の優先政策を進める連邦政府と対立するようになり、リー・クアンユーが率いるPAPはマラヤでも中国 系住民を基盤に勢力を伸ばして、サバ、サラワクとともに野党連合を結成。マレーシア政府がインドネシアとの経済断交を打ち出すと、中継貿易で繁栄していたシンガポールは「もう付き合いきれない」と1965年に独立してしまう。マレーシアにとっては中国系の 人口がなんとか過半数にはならなかったもの、シンガポールが加わっているおかげで、中国系がマレー系よりも上回ってしまい、マレー人には「中国人に祖国を 乗っ取られる」という危機感があった(※)。
 

マレーシアからの分 離独立の記者会見で涙を流すリー・クアンユー
※最も危機感を抱いたマレー人はラーマン首相だったらしい。リー・クアンユーがマレーシ ア国会で演説した際、「中国語訛り」がない生粋のマレー語で喋ったため、マレー人議員が聞きほれてしまい、「このままでは必ず首相の座を奪われる」と思っ たラーマンは、シンガポールの追い出しを決断した・・・と、自伝で書いているそうな。シンガポールの独立は事前に何の予告もなく、当日の朝になって政府が 「今日からシンガポールが独立しました」と発表したので、国民特にシンガポール市民はびっくり仰天。実際にはラーマン首相がリーにシンガポールの独立を 迫って追い出したというのが真相に近く、リー・クワンユーの自伝によれば「独立しなければ戒厳令を敷いて逮捕するぞ!」と脅されたとか。それまで国内はお ろか全世界にマレーシアとの合併の素晴らしさを宣伝していたリー・クアンユー首相は、独立発表のテレビ記者会見で途中から泣き出してしまった。
そういえば私も、15年くらい前にクアラルンプールの映画館でマレー人に話しかけられ、マレー語がわからないのでポカンとしてたら、そのマレー人は「而家 幾点鐘?(いま何時ですか?)」と広東語で聞き直してきました。クアラルンプールの人口は7割以上が華人(中国系)。自分の国の首都なのに外国語(の方 言)を使わなきゃならないなんて、マレー人の憤りが少しわかった気がしました。協議離婚できて良かったですね。

分離してからのマレーシアとシンガポールは、こ ういう意地の張り合いのようなケンカをしょっちゅうしていますが、基本的には仲良く共存してやっています。シンガポールの中国系住民の帰属意識の 変遷についてはこ ちらも参照してくださいね。

  
マラヤ連邦の独立式典(右)、シンガポー ルでのマレーシア結成の祝賀式典(中)、シンガポールの分離独立(右)


参考資料:
『世界年鑑 昭和17年版』 (日本国際問題調査会 1942)
『世界の文化地理 第二巻 東南アジア』 (講談社 1968)
池端雪浦、生田滋 『東南アジア現代史2』 (山川出版社 1977)
リー・クアンユー 『李光耀回憶録―風雨独立路』 (シンガポール:連合早報、連邦出版 1998)
マレーシア百科 http: //www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page081.html
 

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