
首都が突然「独立宣言」して、田舎へ追い返された大統領
マリ連邦
首都:ダカール 人口596万人(1960年)
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ついでに現在のマリ共和国の旗1960年6月20日 フランスから独立
1960年8月20日 セネガルが分離独立
1960年9月22日 残った部分はマリ共和国に改称し、連邦消滅1960年8月21日付『朝日新聞』
「スーダン」とは現在のマリのこと今でこそ「スーダン」といえばエジプトの南にあるイギリスの植民地(正式にはイギリスとエジプトの共同統治領)だった国のことですが、昔は英領スーダンのほかに仏領スーダンというのもありました。現在のマリ共和国のことです。ま、スーダンってアラビア語で「黒人の国」って意味だそうだから、サハラ砂漠の南は「どこでもスーダン」なんですけどね。
1950年代末になると植民地の独立は時代の趨勢になり、フランスもこれまでのような植民地支配は諦めて、英連邦をモデルに58年の憲法改正でフランス共同体を創設した。各植民地は王国や共和国となって共同体の一員となったが、フランス共同体は英連邦とは違って、主権はあくまでフランスで、外交や防衛、通貨、経済、財政政策の権限もフランス本国にあるというシロモノ。「これじゃマヤカシの独立だ」と、60年になると本格的に主権国家として独立する国が相次いだ。
さて、西アフリカのフランス植民地でも、58年にフランス共同体内の自治権を持つ国として、スーダン共和国をはじめセネガル、オートボルタ(現:ブルキナファソ)、ダオメー(現:ベニン)、ニジェール、トーゴ、象牙海岸(現:コートジボワール)などの共和国が相次いで生まれたが、このうちスーダンとセネガル、オートボルタ、ダオメーの4ヵ国は59年1月にマリ連邦の結成を決めた。「マリ」という国名は、14世紀を最盛期としてかつてこの地で栄えた黄金のマリ帝国から取ったもの。脱植民地の意気込みを表わすにはふさわしいネーミングだ。
しかし、マリ連邦のあり方について、完全な独立国家を目指すスーダン&セネガルと、とりあえず共同体の中で対等な地位を目指そうとするオートボルタ&ダオメーで意見が分かれ、結局59年4月にスーダンとセネガルだけで共同体内のマリ連邦を結成。翌60年6月には完全独立を達成した。スーダン(現在のマリ)とセネガルは地理的にあまり接していないようにも見えるが、内陸国スーダンにとって、セネガルとの間の鉄道はほとんど唯一の対外交通路だったから、経済的な結びつきは深かった。
マリ連邦の首都は西アフリカ随一の大都会だったセネガルのダカールに置かれ、大統領にはとりあえずスーダン共和国のモディボ・ケイタ首相が、副大統領にはセネガル共和国のママドゥ・ディア首相が就任した。また連邦議会の議長にはゼネガルのレオポルド・セダール・サンゴールが就いた。
そして2ヵ月後、双方の閣僚が首都ダカールに集まり、連邦の新制度や正式な大統領や閣僚の選出方法について討議していたところ、突然セネガルが独立を宣言。ケイタ大統領はじめスーダン側の閣僚や公務員たちは軟禁され、翌日ダカール駅から臨時列車に乗せられて、スーダンへ追い返されてしまった。
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着の身着のままでスーダンへ追い返されたケイタ大統領(左)と、独立したセネガルで大統領就任を宣言するサンゴール(右)セネガル側は独立に踏み切った理由を「ケイタ大統領はあくなく野望を持ち、セネガル人圧迫のクーデターを企てたからだ」と発表し、一方でスーダン側はセネガルが言う「クーデター」について「セネガルの高官たちがマリ連邦の存亡に関わる重大事態を作り出したので、ケイタ大統領がディア副大統領から国防の権限を取り上げた」と表明して、まるでニワトリが先かタマゴが先かという状態。
ケイタ大統領はセネガル独立阻止のため国連軍の派遣を求めたが、国連側に「独立が無効というのなら、『内政問題』だから国連軍は出せない」と断られ、結局翌月スーダン共和国は「マリ共和国」に改称し、マリ連邦は消滅した。
エチオピアのハイレセラシェ皇帝(左)とケイタ大統領(右)
セネガルが分離独立した背景には、緩やかな連邦制を求めるセネガル側と中央集権を目指すスーダン側との対立があった。セネガルはアフリカのフランス植民地の中で経済的に恵まれた地域だったが、面積や人口が多いスーダン側に政治的主導権を握られたうえ、中央集権を強化されてスーダンの植民地にされたらたまらないという危機感があった。独立したセネガルで大統領に就任したサンゴールは、マリ連邦の実態を「セネガルにとっては、より残忍な植民地化だった」と非難した。
なにしろ当時のスーダンには工場が36ヵ所しかなく、それも精米、パン、ドリンクなどの軽工業ばかりで、連邦政府の税収の大半はセネガルからのものだった。ケイタ大統領はインフラがほとんど整っていないスーダンの開発を進めようとしたが、セネガルにとってはフランス植民地だった頃よりも自分たちの富が搾取されると映り、連邦予算の配分をめぐって対立した。
またセネガルは独立してもフランスとは緊密に協力していこうという考えだったのに対し、スーダンはフランスとは完全に絶縁すべきだと主張していた。セネガルは古くから西アフリカのフランス植民地の中心地で、サンルイ、ダガール、ゴレ、ルフィスクの4都市では、早くも1833年から黒人に市民権や参政権が与えられ、他のフランス植民地の黒人と比べると特別扱いされていて、対仏感情は良かった。一方、スーダンの黒人はフランスから「従属民」見なされて市民権が与えられず、1946年になってようやく参政権を得ていた。
両国のリーダーは経歴も思想もまったく異なっていた。教員出身で反フランス植民地主義の言論活動から政治家になったケイタは、反帝国主義と「アフリカ統一」を掲げる汎アフリカ主義の急先鋒。一方でサンゴールは、第二次世界大戦ではフランス軍兵士としてドイツ軍の捕虜になり、戦後はフランスの大学教授やフランス政府のアフリカ担当官などどを歴任するとともに、フランス文化とアフリカをこよなく愛する詩人として知られ、独立後もアフリカの旧フランス植民地が共同体として結束することを提唱する親仏家だった(※)。
※マリ連邦の国旗は、フランスをモデルにした三色旗に、人間の生命とエスプリを象徴する「カナガ」を描いたものだったが、カナガを加えるよう主張したのはサンゴールだった。そのためマリは61年に国旗からカナガを削除した(表向きの理由は「イスラム教で禁止されている偶像崇拝につながりかねないため」)。双方の考えの違いは経済政策にも影を落とした。マリ連邦では西アフリカのフランス植民地の共通通貨だったCFAフランを使っていたが、ケイタは「来るべきアフリカ統一に向けて新しい通貨を作ろう」と主張したが、セネガル側はCFAフランの使用をやめたら、西アフリカの共同市場から取り残されてしまうことを恐れた(※)。※CFAフランは現在でも旧フランス植民地を中心に14ヵ国で使用されている。かつてはフランス・フラン、現在はユーロと固定レートでリンクしているため、アフリカで最も安定した通貨。民衆の間でも、連邦を結成したことでかえってお互いの対立感情が生まれた。セネガル人はスーダン人を「貧しい未開の田舎者」と見なし、スーダン人に政治的に支配されることを屈辱と感じた。一方でスーダン人はセネガル人がフランスに媚びへつらっていると感じ、「フランスから独立できたのは自分たちのおかげ」という自負があった。スーダン人は独立後もセネガル政府でフランス人が働き続けていることに呆れ、スーダン人がダカールの連邦政府で働き始めると、セネガル人は「スーダン人が支配しにやって来た」と不満を抱いた。これでは「一緒に新しい国を作っていこう」というのが無理だろう。
66年にかつての「執務地」ダカールを訪問してサンゴール(右)と仲直りしたケイタ(左)独立後のセネガルは民間人もスーダンへ追い返し、両国は国境を封鎖して険悪になったが、63年に通商や関税、債務、鉄道の運行再開、セネガルの港湾利用について協定を結び、今度は「国同士」として関係を再スタートさせた。
マリ連邦で失敗したケイタだったが、「アフリカ統一」への夢はあきらめず、新たに制定したマリ共和国憲法では、「アフリカ統一のためなら主権の一部もしくは全部を放棄する」と規定したほど。ガーナのエンクルマ大統領と並んで汎アフリカ主義のリーダーとして活躍し、63年のアフリカ統一機構(後のアフリカ連合)結成に尽力した。そして一時はガーナ、ギニアとマリで連邦を組むと発表したが、社会主義路線を歩んだエンクルマが66年にクーデターで倒されたため頓挫した。
セネガルとの国境封鎖でマリは経済的に打撃を受け、ケイタも社会主義路線に傾倒していった。東側諸国と関係を深めて一党独裁体制を敷き、国有化政策を進めたうえに、「フランスへの依存を断ち切る」と通貨をCFAフランから独自のマリ・フランに変えたところ、周辺諸国の市場から孤立してマリ経済はますます困窮。68年に無血クーデターで失脚し、失意のまま77年に獄中で死亡した。もっともその後のマリは、フランスをはじめ西側諸国との関係を改善して投資を呼び込もうとしたものの、干ばつに見舞われて経済は好転せず、91年に再度クーデターが発生して、現在ではケイタは「独立の父」として名誉を回復している。
一方、セネガルのサンゴールは、社会主義路線を主張した首相のディアを「クーデターを計画している」と62年に逮捕して、親フランスの安定政権を固めながら、アフリカのみならず全世界のフランス語圏の団結を目指したフランコフォニー運動を提唱した。フランスが政治・経済の支配継続を目論んだフランス共同体は失敗したが、文化と言語の絆を介してフランスとの良好な関係を築こうというフランコフォニー運動は成功して、70年に文化技術協力機構(ACCT)を結成。現在では旧フランス植民地以外も含めて56ヵ国が加盟している。サンゴールは80年に大統領を引退した後も、フランコフォニー運動の旗振り役を続け、2001年に死亡したが、フランスやフランコフォニー各国の援助でエジプトのアレキサンドリアにサンゴール大学が設立された。
ところでセネガルは、連邦結成にはこりごりしたのかと思いきや、82年に自国が三方を取り囲んでいるガンビアと合併してセネガンビア国家連合 を作ろうとした。この時はガンビアが双方に主権を残したままのゆるい国家連合を唱えたのに対して、セネガルは完全統合を主張したため、「セネガルに支配される」と感じたガンビアが危機を抱き、89年に解消し、失敗に終わった。
ようするに、主導権が奪われる連邦には抵抗するけど、主導権を奪える連邦なら賛成!ということでしょう。
参考資料:
『世界年鑑』 (共同通信社)
Timeline of Events in Independent Mali http://courses.wcupa.edu/jones/his311/timeline/t-mali.htm
L'Essor Quotidien(1949、1960 & 1963) http://courses.wcupa.edu/jones/his311/archives/sec/essor.htm
(Modibo Keita) http://modibokeita.free.fr/modibokeita.html(仏語)
Assemble nationaleLeopold Sedar Senghor http://www.assemblee-nationale.fr/histoire/senghor/senghobiographie.asp(仏語)