南アが黒人を隔離するために作った、悪名高き「ホームランド」の国 々

南西アフ リカ(ナミビア) のホームランド

 独立国  ヘレロ  オバンボ  カバンゴ  東カプリビ    
 自治地域  バスターランド  ナマランド  ダマラランド  ツワナランド  カオコランド  ブッシュマンランド


ナミビアのホームランドの地図(下の地図の拡大)

ホームランドといえ ば、アパルトヘイト(人種隔離政策)で世界に悪名をとどろかせていた頃の南アフリカが、多数派の黒人を不毛地帯に押 し込めて「外国人」にしてしまうために作った傀儡国家ですが、隣りのナミビ ア(当時は南西アフリカ)でも南アフリカによる支配の下で、60年代末から80 年代末にかけて10のホームランドが設置され、うち4つは自治国になりました。ナミビアのホームランドはあまり知られてないですよね。

ナミビアはかつてはドイツの植民地で、第 一次世界大戦後は国連の監督の下で南アフリカが委任統治をしていたが、第二次世界大戦後に南ア フリカは委任統治から信託統治への移行を拒否して、ナミビアを併合してしまった(※)。

※戦後、新しく国際連合(現在の国連)ができると、それまでの委任統治は信託統治 に変わった。委任統治制度では、南西アフリカ(ナミビア)のように「C式」と認定された地域は、独立は不可能だと見なされて、南アフリカは自国領土と同じ く取り扱って良いとされていたが、信託統治制度ではすべて最終的に独立を目指すとされたので、ナミビアを手放したくなかった南アフリカは信託統治への移行 を拒否した。委任統治と信託統治についてはこ ちらを参照。
1960年代に入ると、南アはナミビアでも部族ごとにホームランドを設置する構想を立てたが、ナミビアは日本の2.2倍の面積がありながら、65年時点の 人口はわずか57万4000人(うち白人が7万3000人)しかなく、隔絶の対象となる黒人も、農場や工場、鉱山などの「近代産業」で労働者として働く者 が多かった南アと比べて、ナミビアでは半数以上が貨幣経済と無縁だった上に、狩猟採集の原始的生活を続ける人も少なくなかったため、ホームランドを黒人の 自治国を経て「独立国」に仕立て上げる構想はなかなか進まず、カオコランドやブッシュマンランドのように、ホームランド設置すら怪しかった地域もあったよ う だ。

ホームランドは北部に集中して設置されたが、その一方で南アは79年5月に白人によるナミビア暫定政府も設置して、南部や沿岸部を 支配させた。 こうして黒人は痩せた土地ばかりの北部へ押し込まれ、南部には白人の大農場が広がるという構造になったが、ポルトガル植民地だったアン ゴラが75年に独立 し、MPLAによる社会主義政権が成立すると様相はにわかに変わった。

ナミビアの独立を目指して1958年に結成されていた南 西アフリカ人民機構(SWAPO)は、アンゴラ領内を拠点にして武装闘争を本格 化させ、南アはアンゴラの右派反政府ゲリラ(UNITA)を支援してアンゴラ領内に攻め込み、アンゴラ政府を支援するキューバ軍と戦う事態に発展。アンゴ ラ内戦は南アフリカVSキューバという、当時の国際社会で爪弾きにされてい た者同士の泥沼の戦争と化してしまった(影で操っていたのはもちろん米ソ)。

こ のためアンゴラと境を接するナミビア北部は、南アにとって軍事的重要拠点となり、とりわけUNITAの本拠地があったアンゴラ内陸部と接する東カプリビ (後にロジと改称)では、せっかく作った自治国は解散させられ、南アによる直轄領に戻されてしまった(※)。

※ナミビア自体も、南アが作った暫定政 府は83年1月に崩壊して南アの直接統治に戻り、85年6月にふたたび暫定政府ができた。

しかし87年後半になると、南ア軍はキューバ軍の攻勢の前に苦戦を強いられ、ついに88年8月にはキューバとの間で、アンゴラからの南 ア 軍とキューバ軍の同時撤退とナミビア独立で合意。翌年、ナミビアは国 連による暫定統治に移され(90年3月独立)、ナミビアのホームランドは南アよりも一足早く消滅したのでした。



自治政府を設置したホームランド


ヘレロ
 
 1968年10月2日 南アフリカがヘレロランドを 設置
 1970年7月 ヘレロ自治国に昇格
 1989年5月 国連暫定統治下で消滅
 
 



首都:オカハンジャ

ヘレロ族はナミビアからアンゴラ、ボツワナにかけて住んでいて、人口24万人。派手な民族衣装が特徴的で、特に女性は中世ヨーロッパの貴婦人のようなドレ スと帽子を身につけている。

1884年にドイツはナミビア(当時は南西アフリカ)を植民地にすると、ドイツ人移民を送り込み、先住民から土地を奪ったうえに牛も奪ってしまった。そこ でヘレロ族は1904年に反乱を起こしたが、ドイツ軍によって不毛な砂漠へ追い込まれ、当時の人口8万人のうち6万5000人が死に、生き残った者も収容 所 に入れられた(※)。

※収容所の設置は、後にナチスドイツに よる強制収容所設置のモデルになったという。
 
クタコ
さて、南アが1968年にヘレロランドを設 置した際、トップに据えたホセア・クタコは当時98歳で「ヘ レロ大虐殺」の生き残りだった。クタコ は教会で教育 を受けた後、1920年にヘレロ族の王になったが、第二次世界大戦後、南アがナミビアを併合しようとすると、それを阻止するために国連へ請願に向かっ た。南ア当局はクタコの出国を妨害したが、イギリス人の牧師に助けられて成功。さらに南アを相手に武力闘争を始めたSWAPOやSWANU(南西アフリカ 国民連合)のメンバーで、リーダーたちの亡命を手助けした人物だったが、南アがヘレロ族のホームランドを作るなら、ヘレロ族を代表するクタコを担がなけれ ばならなかったのだ(※)。

※南アに担がれたクタコだったが、その 時すでに98歳。現在 ナミビア政府は独立運動へのクタコの功績を讃えて、首都ウィントフックの空港を「ホセア・クタコ国際空港」と命名している。

クタコが70年に死去した後、クタコに指名されて後を継いだクレメンス・カプオは教師で、南アや白人の主導下で各ホームランドの政党を集め、民主ターンハ レ同盟(DTA)を設立した。彼も国連に南アによ るナミビア支配を終わらせるよう要求していたが、73年に国連がSWAPOを「ナミビアを代表する唯一かつ正統な代表」だとして承認すると、これに抗議し たため、78年に暗殺された。

リルラコ
カプオの後にリーダーとなっ たクアイマ・リ ルラコは、ヘレロの王かつDTAのリーダーで、86年以降は制憲会議や国会の議員も務め、ナミビア独立後の大統領選にもDTAの候補者とし て2回出馬している。 リルラコは「ヘレロ大虐殺」に対するドイツの責任を追及し続け、04年にドイツ政府を公式に謝罪させたが、さらにドイツ政府はユダヤ人へ補償したようにヘレロ族にも補償すべきだと要求を続けてい る。

ヘレロの首都が置かれたオカハンジャは、ヘレロから西へ300km離れた場所にあった。つまり町ができるような良い場所はヘレロ族のホームランドにはしな かったということだが、そのオカハンジャにしても、人口はたったの1万4000人だ。



オバンボ

 1968年10月2日 南アフリカがオバンボランドを設置
 1973年4月27日 オバンボ自治国に昇格
 1989年5月 国連暫定統治下で消滅






首都:オンダングア 人口: 35万3000人(1975年)


ナミビアの人口200万人のうち半分がオバンボ族で、そのオバンボ族に割り当てられたホームランドが、ナミビアの北端・アンゴラとの国境沿いのオバンボラ ンド。面積はナミビアのわずか6%に過ぎず、塩湖が点在する痩せた土地に100万人が暮らしている。

ドイツがナミビアを植民地にした後も、貧しい北部はポリスゾーン外、つまり警察権力が及ばない地域(=白人が立ち入ったら自己責任)として放置し、行政が 及ぶようになったのは第一次世界大戦で南アが占領した後の1917年になってから。かわって1870年代から積極的に進出していたのがフィンランドの伝道 協会だった。

1960年代から70年代にかけて SWAPOによる独立戦争が本格化し、アンゴラがSWAPOの出撃拠点になると、南アは国境沿いの人口が多い地帯にホー ムランドを設置して、オバンコ族の王だったフィレモン・エリファスを 首席大臣に据えた。

オバンボ族は南部の農場へ出稼ぎで働く労働者が多かったが、71年末から72年にかけて、待遇改善や不安定な契約労働の廃止などを求めてストライキが発生 し(※)、さらに農民も反乱を起こすと、エリファスは非常事態を宣言して鎮圧した。

※黒人がホームランドの外へ働きに出る 場合、1年から1年半ごとの契約労働しか認められていなかった。

オバンボは73年に自治国に昇格して選挙を行ったが、ホームランド設置に反対するSWAPOや教会は選挙をボイコットし、オバンボ独立党(DIP)だけが 参加して、投票率はわずか2・5%だった。メンツが潰された エリファスは、南アと協力してSWAPOの活動家を逮捕し拷問にかけ、さらに国連がSWAPO をナミビアを代表する組織だと承認すると、南アがSWAPO抜きで組織した多民族評議会こそ国連はナミビア代表として承認すべきだと抗議した。こうしてエ リファンスは75年に暗殺されてしまった。

 81年からトップに就いたピーター・カラングアは 南アの聖公会(英国国教会)の牧師で、オバンボ聖公会を独立させようと活動していた。またオ バンボ自治国 のトップを務める傍ら、南アが設置した暫定政府でDTAの議員もしていたが、南アの諜報関係者だったのではないかと言われている。

  
カラングアとテレビでのインタビュー(1981 年)



カバンゴ

 1970年10月2日 南アフリカがカバンゴランドを設置
 1973年5月4日 カバンゴ自治国に昇格
 1989年5月 国連暫定統治下で消滅







首都:ルンドゥ


カバンゴ族はナミビアで2番目に多い民族だ。とはいえ人口は20万人足らず。北東部の川沿いに住み、主に魚を捕って暮らしている。

 カバンゴの初代首席大臣に任命されたのは、1945年から84年に死去するまで王に就いていたリーナス・シャシパポ。5つの部族の代表からな る立法評 議会を設置した後に選挙を行ったが、SWAPOとの関係は悪くなかったようでボイコットはされず、投票率は66・2%でオバンボとは対照的だった。

81年からトップに就いたセバスチャン・カンワンガも、85 年からカバンゴの大首長にもなったが、南アの傀儡ホームランドの責任者でありながら、自分の農 場をSWAPOの隠れ家として提供していた。ナミビア独立後はアフリカーンス語の聖書をカバンゴ族の言葉に翻訳することに打ち込んだ。



東カプリビ

 1972年3月 東カプリビ・ホームランドを設置
 1976年3月 東カプリビ自治国に昇格
 1976年4月1日 ロジ自治国と改称
 1984年7月1日 南アの直接統治になる







首都:カティマ・ムリロ(一時期はクワンド)


ナミビア北東部から400kmにわたって東へ細長く突き出した一角を、カプリビ回廊という。なぜこんな妙な国境線になったかといえば、ドイツとイギリスの 妥協の産物だからだ。

1884年にドイツは西海岸のナミビアを植民地にした後、86年には東海岸のタンガ ニーカ(ザンジバル島を除くタンザニア)も植民地にした。そこで東西の 植民地を結ぼうと内陸部へ進出したところ、「ケープタウンからカイロまで」とアフリカの南北を縦断支配しようとしていたイギリスの利害と衝突。そこで90 年に妥協が成立し、ドイツは東海岸(ポ ルトガル領モザンビーク)へ下るザンベジ川までの通路として、イギリスが支配していたベチュアナランド(現:ボツワ ナ)からカプリビ回廊の部分を割譲された(詳しくはこ ちらを参照)。

さて、南アはカプリビ回廊の東部(先端部)にホームランドを作って自治政府を発足させようとしたが、なかなかうまく進まなかった。東カプリビには東部(先 端部)はスビア(ロジ族)、西部〈根元の部分)にはフェ族が住み、主導権争いをしたのだ。

76年にようやく自治政府が発足したが、選挙の結果、首席大臣は政府発足前からホームランドの代表に任命されていたスビアのモラリスアネから、フェのマミ リへと替わった(モラリスアネは81年に再び政権を奪還)。国名が東カプリビからロジに変わったり、首都が東部のカティマ・ムリロから西部 のクワンドへ 移ったのも、「政権交代」と関係していたようだ。

カプリビ回廊は幅が3kmほどしかなく、北側のアンゴラ領を拠点にするSWAPOとの激戦地帯になった。おまけにホームランドも、スピアとフェの2大派閥 でゴタゴタが続いていたため、南アは84年に直接統治に戻すこ とにして、自治政府を解散してしまった。

★東カプリビが独立を宣言

東カプリビは人口8万人のうち1万7000人がロジ族だが、ロジ族はザンビアにも46万人、ジンバブエに7万人、ボツワナに1万 4000人と、国境線を跨って4ヵ国に分散して住んでいる。というより、昔からザンベジ川の畔で暮らしていたら、いつの間にか自分たちの故郷が4ヵ国に分 断されてしまい、自治国ができたと思ったら南アの勝手な都合で取り消されたというのが真相だ。だからカプリビの住民たちは、遠くの同国人(ナミビア人)よ り近くの外国人(周辺各国のロジ族)に一体感を持ち、ナミビアからの独立を求める声も根強い。

1963年には南アの白人支配に反対するカプリビ・アフリカ人国民連合 (CANU)が結成され、SWAPOと共闘していたが、「SWAPOはナミビアが独 立を達成した暁には、カプリビの分離独立を認めると約束したのに裏切った」と、ナミビア独立後に再びCANUやカプリビ解放戦線(CLF)が登場。CANUは96年にカナダ に亡命政府を樹立して、ザンビア西部で独立を目指すロジ族のバロツェ愛国戦線(BPF)とともに武力闘争を開始した(※)。

※さらにボツワナ政府もナミビアに「カプリビの返還」を要 求している。「もともとボツワナの領土だったのに、イギリスの都合でドイツへ割譲されたのは不当」というのがその根拠。またイギリスは第一次世界大戦後の 1922年に、カプリビ回廊の管轄をナミビア(南西アフリカ)からボツワナ(ベチュアナランド)へ戻したが、当時ナミビアは南ア(イギリス)が支配してい たとはいえ国連の委任統治領だったので、29年に再びナミビアへ移したという経緯もあった。

ナミビア政府は、CANUやCLFはアンゴラのUNITAに支援されているものと見て、アンゴラ政府軍と協力して討伐戦争に乗り出し、 カプリビからは多く の難民がボツワナへ逃れ、99年には数百人の独立派を逮捕された。2002年2月にUNITAのサビンビ議長が戦死すると、UNITAは壊滅状態に なり、カプリビの独立闘争も下火になったが、10月にイテンゲ自由国(また はカプリビ回廊国)の独立を宣言した。

軍事的には敗北しているのに一体なぜ独立を宣言したかというと、どうやら「カプリビは独立したんだから、ナミビア政府が裁判を行う資格 は無 い!」という論法らしい。う〜む、なるほど。。。。


イテンゲ自由国の旗。かつてのホームランドの旗と似てます


自治政府を設置できなかったホームラン ド

バスターランド 〜「カピタン」が率いる白人側のホームランド

 1979年7月 南アフリカがバスターランドを設置
 1989年5月 国連暫定統治下で消滅





首都:リホボス

ホームランドと言えば「先住民の黒人を僻地に追いやり、土地を奪うためのもの」だとイメージするが、例外だったのがバスターランドだ。

バスター(またはバスターズ)とは、17世紀に南アへやって来たオランダ人男性と先住民の黒人女性との間に生まれた混血の子孫で、南ア ではカラードと呼ばれている。彼らが話しているのは、オラン ダ語がもとになったアフリカーンス語だ。

オランダ統治下の南アで、彼らは「現地に精通した白人系住民」ということで支配層の一員とされ、やがて白人が増えると地位は転 落。19世紀末から20世紀初頭にかけてボーア戦争が勃発し、南アが完全にイギリスの支配下に置かれるのに前後して、一部がナミビアへ移住してきた (※)。

※一部はさらに北へ向かい、当時ポルトガル 領だったアンゴラのルバンゴ周辺にも定住した。

バスターたちが定住したのは、豊かな土地が広がる中部一帯で、ここにリホボスという町を築き、1872年には議会を設置して憲法を制定 した。ナミビアは1884年にドイツ領になり、ドイツ人はリホボスのすぐ北にウイントフック(現在ナミビアの首都)を建設したが、バスターはリホボスで カプティーンと呼ばれるリーダーの下で自治を認 められていた(※)。

※英語で言うところのキャプテン、古来の日 本語で言えば甲必丹(カピタン)。

1904年にヘレロ族やナマ族が反乱を起こすと、バスターはドイツ軍と協力して戦い、自分たちの土地を広げたが、第一次世界大戦では中 立と称してドイツ軍への協力を拒んだ。しかし新たな支配者となった南アはリホボスの自治を認めず、バスターは52年にリホボスを独立国として認めるように 国連へ請願したが、無視された。

ディーアハールデ(前列中)とバスターランドの閣僚たち
さて70年代後半にナミビア で独立戦争が激しくなると、南アはバスターに対して、リホボスの自治を認める代わりにSWAPOと戦うよう に提案。しかしバスターはこれを拒否して、ホームランドが設置されることになった。こうしてバスターは部族の1つと認定され、「先住民の黒人でない民族の ホームランド」が誕生した。

ホームランドになったと言っても、100年前から続いてきたリホボスの議会が地域評議会となり、カプティーンがその議長になっただ け。第5代カプティーンのハンス・ディーアハールデが就任した。

南アが白人中心のナミビア暫定政府を樹立すると、ディーアハールデは85年にそちらの議長にも就任し、黒人主体によるナミビア独立に反 対し続けた。しかし90年にナミビアが独立すると、ホームランドは廃止され、バスターランドも消滅した。もっとも伝統的なリホボスの議会はその後も続いて いて、今でもカプティーンの下で運営を続けている。

ディーアハールデはナミビア政府がローデシアのように、白人やバスターの土地を没収し、人口が多い北部の黒人に分け与えることを恐れ、 ホームランドとしてのバスターランドの復活を主張するとともに、「いざとなれば武装闘争を始めて、リホボスの独立を勝ち取る」と、南アの白 人右翼と連携し ようとしていたが、そんな危惧は無用に終わり、98年に死去した。

バスターたちが新たに危機を感じているのが言語の問題だ。独立前の公用語は英語とアフリカーンス語だったが、独立後は英語に一本化さ れ、リホボスの議会は「ナミビア政府にアフリカーンス語で業務連絡をしよう としたら拒否された」と国連に提訴。2000年に「ナミビア政府による少数民 族(バスター)への人権侵害である」という国連人権委員会の報告書が発表されている(※)。

※ナミビアの白人も60%がアフリカーンス 語を使用している。またドイツ系の白人(1万8000人)は今もドイツ語を使用し続け、小学3年生までは「部族語」としてドイツ語による教育が認められて いる。



ナマランド

1980年6月28日 南アフリカ がナマランドを設置
1989年5月 国連暫定統治下で消滅

首都:ケートマンス フープ

ナマ族は人口約6万人で、主に牧畜をしている。1904年にヘレロ族が反乱を起こすと、それに呼応して反乱を起こし、ドイツ軍によって 討伐された後、生き残った者は収容所に入れられて、半数以上が犠牲になった。

1920年代にはオレンジ川の河口付近でダイヤモンド鉱脈が見つかり、ナマ族は内陸へ追いやられ、ホームランドの設置で中南部の荒涼と した砂漠地帯をあてがわれた。

2003年にナマランドから南アにかけての地域がリヒタース国立公園に指定され、ナマ族はその中で伝統的な牧畜を続けている。

ナマランドの地域評議会が置かれていたのは、20kmほど南に離れたケートマンスフープという町。ケートマンというドイツ人実業家が資 金援助をしてやって来た伝道団がここに教会を建てたからで、現在ではナミビアと南アを結ぶ鉄道の中間拠点になっている。



ダマラランド

 1980年12月 南アフリカがタマラランドを設置
 1989年5月 国連暫定統治下で消滅





首都:コリクサス

ダマラ族は人口約10万人で、牧畜をして暮らしていて、言葉はナマ族と近い。 もともとナミビア中部の豊かな地域に住んでいたが、 1870年頃からナマ族やヘ レロ族に侵入されて良い土地を奪われ、彼らの下で働く者も増えた。そして南アがホームランドを設置すると、さらに条件の悪い土地へ追いやられてしまった。

ガロエブ

ダマラ族は11の部族に分か れ王が群雄割拠 している状態だった。南アはなんとか自治政府を作らせようと、1970年にリーダーのデビッ ド・ゴレセブに迫ったが協力してもらえず、一部の王は代わりにヨストス・ガ ロエブをリーダーに選び、南アは暫定的なホームランドを発足させた。しかし王た ちの大半は地域評議会への参加を拒否し、74年には評議会も分裂。選挙を実施してダマラ族をまとめようとしたものの失敗し、77年には評議会は解散してし まった。

ガロエブは80年に地域評議会を再結成し、82年に王に即位。南アに忠実なリーダーとして活動していたが、89年にホームランドが廃止 されるとUDF(統一民主戦線)の党首に就き、大統領選に3回出馬している。



ツワナランド

1980年12月 南アフリカがツ ワナランドを設置
1989年5月 国連暫定統治下で消滅

首都:アミノイス 

ボツワナという国は「ツワナ人の国」という意味。実際にボツワナの人口195万人のうちツワナ人が9割を占めているが、ツワナ人は南アに2倍くらい住んで いて、ボ プタツワナというホームランドも作られた。そしてツワナ人はナミビアにも1万2000人くらい住んでいるので、南アは彼らのホームランドを用意し た。

しかしアミノイスはヘレロ族の地域にあり、移転を命じられたヘレロ族は猛反発して、カプオも南アに強く抗議した。このためツワナランドの設置は予定より遅 れ、79年にツワナ族の王だっコンスタン・レタン・ゴシマングが地域評議会の議長に任命 された。ゴシマングはナミビア独立後も、92年までツワナ族の伝 統的な代表者としてナミビア政府に迎えられている。



カオコランド

実際には設置されず

カオコランドはナミビアの北西部のうち、白人に有用な沿岸部を除いた地域。人口が希薄なナミビアでも最も人が少ない一帯で人口1万 6000人、うち5000がヒンバ族だ。ヒンバ族は今もほとんど裸で暮らし、特に女性は赤い泥とバターを混ぜた物を全身に塗っていて、「世界一美しい」と 観光客に大人気とか(※)。

※例えば、こんな感じ

ヒンバ族は主に牧畜をし、ヘレロ族とほとんど同じ言葉を話している。もともと同じ民族だったが、ドイツ人の「ヘレロ大虐殺」で収容所に 入れられたヘレロ族は 服装や生活が大きく変わり、北のアンゴラへ逃げたヒンバ族は昔ながらの姿で生活しているらしい。

そんなヒンバ族のホームランドとして設定されたのがカオコランドだが、実際には自治政府も地域評議会も設置されず、名前だけの存在だっ た。そして「カオコランド」の呼称て現在も地名として使われている。



ブッシュマンランド


実際には設置されず

ブッシュマンとはナミビアからボツワナ、南アフリカにかけてのカラハリ砂漠に住む先住民で、狩猟と採集の生活をしている。全体で10万 人くらいだが、うちナミビアには北東部に2万7000人いる。

現在では「ブッシュマン」という呼称は差別的なのでサン 族と呼ぶことになっているが、人種差別主義の南アが作ったホームランドは、当然 のことながら「ブッシュマンランド」だ。

しかし、ブッシュマンは数家族単位で移動しながら暮らし、王もいなければ村長もいないというほとんど原始共産制の社会。南アが地域評議 会を作らせようとしても、伝統的な権威を持っている王や実力者を据えることもできないから、結局ホームランドを設定したところで、具体的なものは何も設置 されず、名前だけで終わった。

話は変わりますが、むかし『ブッシュマン』(後に「コイサンマン」と改称)という南アフリカの映画が日本でヒットしていましたが、主演 のニカウさんはナミビア人 だったんですね。まぁ、当時は南アが支配していたわけで、あの作品は「未開な黒人」をクローズアップするための人種差別正当化のための啓蒙映画だなんて説 もありま すが・・・。

ニカウさんはその後なぜか香港映画のスターとなり、私が香港で働いてた時には、なんとアパートの前でニカウさんがロケしてました(この作品)。 中 国で芸達者なパンダと共演したり(ここ の94/4/1を参照)、キョンシーやとっくに死んだはずのブルース・リーとの共演する作品までありました。

ニカウさんは「ブッシュマンランド」に住 んでたわけじゃなかったそうですが、映画出演を契機に草原での伝統的な生活を実践しはじめ、焚き木を拾いに行ったまま亡く なったそうです。。。合掌

ニカウ+ブ ルース・リー+キョンシー共演の香港映画『アフリカ和尚』(コイサンマン、キョンシーアフリカへ行く)


参考資料
高田明 「ナミビア北部におけるサンとオバンボの関係史」
北川勝弘 「ナミビア事情」 『健康文化』25号 (1999)
元老院議員施設資料展示館 http://www.kaho.biz/germany.html
Rehoboth Baster http://www.rehobothbasters.org/
CHRONOLOGY OF NAMIBIAN HISTORY http://www.klausdierks.com/Chronology/contents.htm
Cardboard Box Travel Shop Namibia http://www.namibian.org/travel/namibia/caprivi.html
worldstatesmen http://www.worldstatesmen.org/Namibia.htm
.wikipedia http://en.wikipedia.org/



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