
石油探査の邪魔になり消滅させられた教主国家
オマーン・イマーム国
首都:ニズワ

1913年5月14日 成立
1957年8月11日 スルタン軍とイギリス軍が首都ニズワを占領
アラビア半島の土侯国の勢力分布図(1905〜23) Nizwaを中心にしたオマーン内陸部の黄色の部分がオマーン・イマーム国
オマーンという国は今でこそ「オマーン」ですが、つい最近まで日本では「オーマン」ということになっていました。で、そのオーマンですが、1970年頃までの世界地図を見ると、現在のオマーンはマスカット・オーマンになっていて、隣にはトルーシャルオーマンもしくは休戦オーマンがあり、こちらは現在ではアラブ首長国連邦になっています。さらにマスカット・オーマンは、1950年代までマスカットを首都とする沿海部のオーマン・スルタン国と、ニズワを首都とする内陸部のオーマン・イマーム国に分かれていました。現在のオマーンは、英語でSultanate of Oman=スルタン国なのですが、もう一方のイマーム国はどうなってしまったのかと言えば、スルタン国に滅ぼされてしまったのでした。
オマーンでは7世紀にイスラム教が広まって以来、内陸部を中心にイマームと呼ばれる宗教指導者が権力を握っていた。その後、オマーンの沿海部はペルシャやポルトガルに占領されていたが、17世紀にイマームがヤールバ王朝を開いて、1650年にポルトガルが占領していたマスカットを奪還。勢いに乗ってペルシャ湾岸や遠くアフリカ東岸のポルトガル植民地を次々と奪って、東はバーレーンから、南はアフリカのモガディシオ(ソマリア)やモンバサ(ケニア)、ザンジバル(タンザニア)にかけての大海洋帝国を築いた。ヤールバ王朝は18世紀初めに内乱で倒れ、現在に続くブーサイード王朝に代わったが、グワダル(パキスタン)にも領土を広げて帝国は最盛期を迎えた。
ブーサイード王朝でも当初はイマームを名乗っていたが、18世紀末に政教分離を実施して世俗の君主を意味するスルタンを名乗るようになった。オマーンはアフリカの領土からの香料や奴隷の輸出と、インド洋やペルシャ湾の海上貿易で潤っていたが、19世紀に入るとイギリスが進出。サイード大王(1804〜56)の死後に起きた宮廷の内紛にイギリスが介入して、稼ぎ頭だったザンジバルやアフリカの領土は切り離され、奴隷貿易は禁止され、海上貿易もイギリスの汽船に圧倒されて、栄華の歴史を誇ったオマーン帝国はたちまちアラビアの貧乏国へ転落してしまった。
帝国が栄えていたうちは、住民たちは大部分の税を免除されていたが、貧乏国に転落すれば税負担が重くのしかかるようになる。かくして内陸部ではイマームの地位が復活してスルタンに反旗を翻し、1868年にはイマーム率いる内陸の部族がマスカットを占領。71年にイギリスが介入してマスカットを占拠し、スルタンを復活させたが、その後もイマーム軍はたびたびマスカット襲撃を繰り返した。こうした中で、イギリスの加勢を求めるスルタンは1891年にイギリスとの条約にサインして、オマーンは大英帝国の保護領になった。
その後も内陸部とスルタンとの対立は続いたが、1912年にイギリスの圧力でスルタンが武器の輸入禁止を決めると、内陸部の部族はこれは自分たちへの抑圧だと猛反発。「スルタンはもはやイギリスの手先になった」と、翌年オマーン・イマーム国を旗揚げし、再びスルタンが治めるマスカットへ攻撃を繰り返した。この時もイギリス軍がマスカットに上陸してスルタンの政権を守り、1920年にスルタン国とイマーム国はシブ条約を結んで共存することになった。
シブ条約の内容は、イマーム国はスルタンの宗主権を認めて攻撃を行わない代わりに、スルタンはイマーム国の司法、行政、財政、貿易などについて全面的な自治を認めるというもの。イギリスにとっても、重要な沿海部では協力者であるスルタンは保たれ、どうでもいい内陸部では地元部族の連中が好きにやるのを放任しておくということで、都合の良い内容だった。
ところが時が流れればイギリスの都合も変わるというもの。20世紀半ばからアラビア半島では続々と石油採掘が始まり、イギリスはオマーン内陸部でも石油探査を計画。1955年にイギリスの石油開発機構(PDO)の探査隊がオマーン内陸部に入ったところ、イマームたちは内陸の自治を侵害するものだと抗議した。これによってイギリスは石油採掘の邪魔となったイマーム国を葬り去ることを決意。イギリス軍を出動させて首都ニズワを占領した。
これに対して、イマーム側はサウジアラビアの支援を受けてオマーン解放軍を組織し、ゲリラ戦で反撃してニズワを奪還。エジプトやソ連圏の支持も取り付けて、オマーン・イマーム国の独立とイギリス軍の撤退を要求した(※)。イギリス軍とスルタン軍は57年8月に再びニズワや主要地域を占領したが、イマーム国のゲリラ戦は59年末まで続いた。その後イマーム国はカイロに亡命政府を樹立して、国連にイギリスやスルタン国による侵略を提訴。63年には国連がイマーム国の独立に関する調査団を派遣し、イマーム国の独立は認めなかったものの、65年の国連総会でオマーンに対するイギリス支配の終結を求める決議が採択された。
※サウジアラビアがイマーム国を支援したのは、ブライミ地区の9ヵ村の領有をめぐってオマーンと対立していたから。ブライミは隊商ルートにあるオアシスで、オマーンとアブダビが統治していたが、石油が発見されたことで注目され、1953年にアメリカの石油会社に支援されたサウジアラビアが占領。55年にオマーンのスルタン軍とイギリスが指揮する休戦オマーン軍が奪還して、3ヵ村をオマーンが、6ヵ村をアブダビが支配した。サウジアラビアがブライミ地区の領有権を完全に放棄したのはようやく2005年6月のことで、アブダビがシャイバハ油田の80%の利権請求を放棄したことと引き換え。こうしてイギリスの力でオマーンを再統一したスルタン(サイード国王)だったが、その統治たるやメチャクチャだった。スルタンはイマーム国を併合した1957年以降、首都マスカットには寄り付かずに遠く離れた南部ドファール地方のサラーラに作った離宮に、黒人奴隷500人とハーレムの女性150人とともに引き篭もり、内務大臣に無線連絡で国政を指示するだけになった。さらに66年に暗殺未遂事件が起きると、スルタンは公然の場に二度と現れず、生きているのか死んでいるのかも秘密にしてしまった。オマーンはイギリス保護下で徹底した鎖国政策を採り、議会も存在せず、58年に飛び地のグワダルをパキスタンに売却して得た300万英ポンドの収入は、スイスの銀行の口座に振り込まれたままにされ、67年から石油生産が本格化しても、その収入はやはり銀行に預金されて、国民のためには使われなかった。こうして1970年には8000万英ポンド(当時の日本円で約800億円)の積立金が貯まったにも関わらず、オマーン国内に学校は3ヵ所、病院は1ヵ所しかなく、乳幼児の死亡率は75%、国民の文盲率は95%で、新聞やテレビ、ラジオなどのマスメディアは一切存在せず、国民の生活レベルは中世さながらの状態だった。スルタンが溜め込んだのはお金だけではなく、イギリスが援助した対戦車砲やロケット砲などの兵器も「軍隊に渡したら反乱に使われるかも知れない」と離宮の奥に隠され、イギリス軍で訓練を受けた自分の息子(カブース王子)まで離宮に幽閉してしまった。さすがのイギリスもスルタンの異常なドケチぶりに呆れ果ててしまい、1970年にイギリスの支援でカブース王子がクーデターを起こしてサイード国王を追放。その後のオマーンはカブース国王の下でイギリスの保護領を離れて71年には国連に加盟し、開放改革政策と近代化路線を進めてマトモな国になっています。またオイルマネーをもとに各部族のリーダーには毎月巨額の手当が支給されるようになり、内陸部への宥和政策が進んでいるようだ。
●関連リンク
外務省・オマーン
オマーンの主要部族および部族政策の現状 外務省調査月報に掲載された石川勝利氏の論文(PDFファイル)
ニズワ (バフラ城・ジャブリン城・バット遺跡) かつてのイマーム国の中心地です
Manah 現在では放棄されたかつてのイマーム国の都市の写真
Magan Stamp 70年代に発行され実際には使用されなかったState of Oman(イマーム国)の切手の写真があります