パキスタンにあった藩王国

 
 バハワルプール  カイルプール  カラート  ラスベラ  マクラン  カラン
 アンブ
 プルラ  チトラル  ディール  スワート  ナガール  フンザ

インドがイギリスの植民地だった時代、約600の藩王国がありました。藩 王とは、簡単に言ってしまえばかつての日本の殿様のような存在ですが、マハラジャやラジャな どが率いたこれらの藩王国は、イギリスに忠誠を誓えば内政の自治が認められ、独自に裁判や徴税を行い、軍隊も擁して、イギリスの植民地統治に害を及ぼさな い範囲で他の藩王国と領土の奪い合い(つまり戦争)も行っていました。

これらの藩王国は、1947年のインドの独立とともに廃止となり、インドへの併合を拒んで独立を宣言したハ イデラバード藩王国も翌年インドに武力併合されてしまいましたが、インド独立に際してイスラム教徒が多かった地域はパキスタンとして分離独立し、 パキスタン領になった藩王国はその後もしばらく存続し続けました。なお、パキスタンで藩王国があったのは西パキスタン(現在のパキスタン)だけで、東パキ スタンには藩王国はありませんでした。「東パキスタンって、なに?」という人はこ ちらを参照のこと。

インドが廃止した前近代的な藩王国をパキスタンでは存続させたのは、独立当時のパキスタンの政治指導者らは大部分がインドから移ってき た人たちで、自らの権力基盤を持っていなかったから。建国の父・ジンナーはボンベイ(現:ムンバイ)の出身だし、初代首相のアーカット・アリー・ハーンも ニューデリーの出身だった。

そこで地元有力者である藩王たちと権力を共有するシステムを採らざるを得なかったということ。西パキスタンでは当初、面積の半分近くが 藩王国領で、藩王国は外交と国防、通貨以外の権限を持ち、地域防衛のために独自の兵力を乗っていたが、パキスタン国内の安定とともに藩王国の権限は徐々に 縮小されるようになりました。藩王があらゆる権力を握っていた絶対王制から、議会やパキスタン政府が派遣した政務駐在官が権力を持つ立憲君主制に移行させ られて、藩王の権限は徐々に縮小。そして55年に南部の藩王国が廃止され、69年には西北部の藩王国も廃止されました。

最後に残ったフンザ藩王国とナガール藩王国はパキスタンの東北端、カラコルム(奥 ヒマラヤ)と呼ばれる地域で、かつてアレキサンダー大王がインドへ遠征した時(紀元前4世紀 ごろ)のギリシャ人兵士の末裔が住むという辺境の地。これらの藩王国は、イギリス時代には正式な藩王国ではなく、カシミール藩王国の属領でしたが、インド とパキスタンの分離独立にあたってカシミール藩王国が崩壊したため(※)、独立した藩王国として扱われるようになったもの。外界からは容易に近づけず、中 世そのままの暮らしが続いていたフンザとナガールも、中国とパキスタンを結ぶカラコルム・ハイウェイの建設が本格化すると(66年着工、82年開通)、戦 略的に重要な場所となり、最後に残った2つの藩王国も1974年に廃止されることになりました。

※カシミールの住民の大半はイスラム教徒で、イギリスからの独立にあたってパキス タンへの帰属を要求したが、ヒンズー教徒の藩王はインド帰属を決めたために戦争となり、現在では3分の2をインドが、3分の1をパキスタンが占領したま ま、紛争が継続中。
ちなみに、パキスタン北西部のアフガニスタンとの国境沿いには、連邦直轄部族地域(FATA)と 呼ばれる一帯があって、ここでは現在も地元のパシュトゥーン人による伝統的な自治に委ねられています。パシュトゥーン人はアフガニスタンとの間に跨って住 み、かつてはイギリスの進出に激しく抵抗し、植民地政府はまったく干渉できない地域でした。古くからの部族ごとの自治制度が続いていて、藩王国という地方 的な集権国家すら成立できなかったともいえます(強引に日本に当てはめれば、大名が登場する以前の武士団の社会?)。

いつぞや、アメリカがタリバンを攻撃していた時に、ビン・ラディンが潜伏していそうだが、治外法権の部族民に匿われていて手が出せな い・・・とか言ってた地域が、ここですね。

英領インドの行政区分図(1934〜1947) 現在のパキスタン、バング ラデシュ、ミャンマーを含む。藩王国がウジャウジャあります
英領時代のカシミール、北西辺境州の行政区分図(1947) 赤字が藩王 国。黄色や薄緑色の部分は部族地域


バハワルプール藩王国  1701年成立 1955年10月4日消滅 首都:バハワルプール 

 

インダス川流域のパンジャブ州は東のガンジス川流域(ベンガル地方)と並ぶインド亜大陸の穀倉地帯。1947年の回印分離にあたって は、ベンガル州とともにヒンズー教徒とイスラム教徒の対立が激しく、インドとパキスタンで州を2分することになった場所。そのパキスタン・パンジャブ州の 南東にあったのがバハワルプール藩王国で、面積4万5911平方km、人口134万人(1941)と、パキスタンでは最大規模の藩王国だった。

バハワルプールの王は、アッバース朝(※)のカリフを祖先とすると言われる。アッバース朝の滅亡後、その末裔はエジプトのマルムーク朝 に保護され、カイロでカリフに据えられていたが、1人の息子がシンド地方へやって来て1370年に地元のラジャ(王)の娘と結婚し、部族のリーダーとなっ た。その後17世紀末にアフガニスタンから派遣されていた知事と対立し、パンジャブ地方へ移って興したのがバハワルプール王国だ。

※8世紀から13世紀にかけて、バクダッドを首都に現在のパキスタンからアルジェ リアにかけてのイスラム世界を支配した帝国。その支配者はイスラム教の最高権威者だった世襲制のカリフ。
イスラム教徒の王国ではニザームに次ぐ地位のナワブの称号を持ち、1833年にイギリスと条約を結んでその宗主下の藩王国となった。当時ラホールを中心と したパンジャブやカシミール一帯ではシーク教徒の王国が勢力を誇っており、バハワルプールはイギリスと手を結ぶことでシーク王国に対抗しようとした。そし て1840年代のシーク戦争でイギリスはシーク王国を滅ぼし、バハワルプールはパンジャブ西部唯一の藩王国として安定することになった。

最後の藩王となったサーディク・ムハンマド・ハーン5世の時代に、バハワルプールは近代化が進み、1942年以降は首相が置かれるよう になった。バハワルプールは1945年から49年まで藩王国の郵便切手を発行したが、この切手で使用済みのものは少なく、切手マニアの間で高値で取引され ているらしい。というのは、サーディク・ムハンマド・ハーン5世自身が相当な切手マニアで、住民に対して「バハワルプール切手が貼ってある郵便を受け取っ たら、切手を剥がして郵便局に返却すること」というお触れを出したため。かくして使用済みのバハワルプール切手は藩王が独占してしまい、それを元手に世界 各地のコレクター相手に高価な切手と交換して、藩王の切手コレクションを充実させたのだとか。いやはや・・・。

 
最後の藩王サーディク・ムハンマド・ハーン5世(左)と、バ ハワルプール藩王国の切手(右)


カイルプール藩王国  1775年成立 1955年10月4日消滅 首都:カイルプール

インダス川下流のシンド州は、かつてはヒンズー教徒も多く住み、パキスタンの分離独立にあたっては100万人以上の難民がインドへ逃げ たと言われる地域。世界各地へ散ったシンド商人は印僑社会で大きな勢力を占めるようになっている。

さて、シンド州のほぼ中央に当たるカイルプール藩王国は面積1万7530平方kmで、人口23万7000人(1941)。灌漑水路が張 り巡らされた肥沃な沖積平野が広がる場所。シンド地方の有力な部族だったタルプール一族の分家であるソハラブ・カーンが樹立したもので、王はエミールの称 号を名乗っていた。

最後の藩王・ムラド
本家のシンド王国はハイデラバード(デカン高原のハ イデラバード藩王国とは別)を中心に11世紀半ばに成立した国だった。シンド地方は18世紀になるとアフガニスタンで成立したドゥラニー朝の属国 になるが、19世紀に入ってドゥラニー朝が弱体化し、1826年にバラクザイ朝が成立すると、シンド王国はアフガニスタンの支配を離れたのもつかの間、 34年にイギリスの保護国となった後、47年にイギリスによって滅ぼされてしまった。一方で分家のカイルプールは、1832年にイギリスにインダス川や道 路の使用を認める条約を結び、38年にイギリスがアフガンへ侵攻するとこれに協力したので、イギリス宗主下の藩王国として生き残ることが許されたという次 第。

最後の藩王ジョージ・アリ・ムラドはイギリスで教育を受け、父の退位に伴ってパキスタンの独立直前の1947年7月に即位。49年には 藩王国で初めて普通選挙を実施したり、豊かな財源をもとに教育や医療の無料化などの政策を進めた。藩王国がパキスタンへ併合された後、ムラドは自然保護区 を設置するなど動物保護活動に携わっている。


カラート藩王国 1638年成立  1955年10月4日消滅  首都:カラート

パキスタンの西部・バロチスタン地方を支配していた藩王国で、ラスベラ、マクラン、カランの各藩王国を属国として従え、知事を派遣して いた。面積9万1909平方km、34万2101人(1941)。

1947年にイギリスからパキスタンが独立した時に、単独で独立を宣言したが、翌48年3月31日にパキスタンが併合。52年から旧属 国とともにバロチスタン藩王国連合を組んだが、55年に廃止された。

詳しくはこちらをご覧下さい。


ラスベラ藩王国 1742年成立 1955年10月4日消滅 首都:ベラ

ラスベラは現在パキスタン随一の商業都市・カラチのすぐ西から海岸沿いに広がっていた藩王国。面積1万8254平方kmで、人口は6万 5000人ほど。古くからインドとペルシャ、アラブの交易拠点になっていた場所。7世紀には仏教王国が栄えたが、イスラム化した後もかなりの数のヒンズー 教徒が存在していた。

首都はベラで、ラシス族が支配していたからラス・ベラ。他にバローチ人やシンド人も暮らしていた。20世紀初め、ベラの町は人口 5000人ほどの隊商町で、藩王(エミール)が率いる兵力は兵士300人と銃50丁で、有事の際には宗主国であるカラート藩王国の命に従って動員されてい た。

1947年にイギリスからパキスタンが独立した際、ラスベラは独自に独立を宣言したカラートの属国としてパキスタンには加わらなかっ た。しかしパキスタンの「カラート切り崩し工作」によって翌48年3月17日にカラートからの独立を宣言して、同時にパキスタンに加盟した。


マクラン藩王国 成立不詳 1955年10月4日消滅 首都:ケッチ

マクランはイランと国境を接するバロチスタンの海岸地帯にあった藩王国で、カラート藩王国の属国だった。面積は約5万4000平方km ほど。

マクランは紀元前のアレキサンダー大王の遠征の頃から、天然の良港・グワダル中心にインドとペルシャの交易ルートとして、またはアフガ ニスタンにとって海への出口として、古くから支配者が入れ替わっていた地域。1290年代に中国からイタリアへ帰国する途中に船でこの地を通りかかったと いうマルコ・ポーロは、『東方見聞録』でバローチ人の王に統治された「ケスマコラン国」を紹介している。16世紀にポルトガルがインドへ進出すると、ペル シャ湾岸にも拠点を築こうとして侵攻を繰り返し、オマーン沿岸やホルムズを占領したが、1583年にはマクランの海岸を襲撃して、グワダルとバスニの町を 焼き払った。

もともとマクランは現在のパキスタン西部からイラン東部にかけての1000kmあまりの海岸地域で、15世紀からは土着のジクリ家が統 治し、ときどきペルシャの支配を受けていたが、18世紀になるとカラート王国の支配を受けるようになった。そして1783年、カラートの王はオマーンから 追放された王子に同情して、グ ワダルの港を領地として与えたが、97年にこの王子はオマーンの国王に即位したため、それ以降、グワダルはオマーンの飛び地になってしまった (1958年にパキスタン政府がオマーンに300万英ポンドを支払って買収)。

この頃からマクランにはカラートによる支配の下で王国が生まれたが、ラスベラやカランよりもカラートへの従属度が強く、カラートからは 知事が派遣され、マクランの王(エミール)が空位のまま総督が統治した時期もあった。19世紀にはインドとペルシャ、ヨーロッパを結ぶ電信線を建設するた めにイギリスが進出し、1872年にイギリスはペルシャと条約を結んでマクラン西部をペルシャに割譲してしまった。

1947年にイギリスからパキスタンが独立した時、マクランはカラートの属国としてパキスタンには加わらなかったが、翌48年3月17 日にパキスタンの圧力によって藩王はカラートから独立を宣言してパキスタンと合併した。しかし当時カラートからマクランへ派遣されていた総督(カラート藩 王の弟)は、カラートがパキスタンに併合された後も武力抵抗を続け、マクランはパキスタンからの独立を目指すバロチスタン・ゲリラの拠点になった。


カラン藩王国 1697年成立 1955年10月4日消滅 首都:カラン

カラン藩王国はバルチスタンの内陸に存在した国。国土の大部分は砂漠で、面積3万6800平方kmに対して、人口はわずか1万9215 人(1941)だった。藩王はエミールと称したが、1921年からは称号をナワブに変えた。

カランは不毛な土地が広がるだけだったので、長年にわたってどこの国の領土にもならず、バローチ人の部族民同士が抗争や略奪を繰り返し ていた。やがてイランの北東部を支配していたNausherwanisという一族がペルシャの内乱によってシスタン地方(イラン領バロチスタンの内陸部) へ追放され、徐々に勢力を広げてカラン王国を作り、カラートの属国になった。しかしカラートとはしばしば対立して、1940年には2つの村をめぐる領土争 いでカラート藩王国の属国から脱すると宣言したこともある。

1947年にイギリスからパキスタンが独立した時、カランは再びカラートの属国となってパキスタンには加わらなかったが、バロチスタン を併合したかったパキスタンは、カラン藩王のカラートに対する対立感情を利用して分断工作を進め、翌48年3月17日にパキスタンの圧力によって藩王はカ ラートから独立を宣言してパキスタンと合併した。


アンブ藩王国  成立不詳 1969年7月28日消滅 首都:アンブ


アンブ藩王国はパキスタン北西部の谷沿いにあった面積585平方kmほどの小さな国で、ミールの称号を持つ王がタナワル族を率いてい た。

タナワル族(またはタノリ族とも)はチンギス・ハーンとともに中央アジアへやって来たモンゴル人の末裔と言われるハザラ人の一部族だ が、文化的にはバシュトゥーン人への同化が進んでいる。イスラム化した13世紀頃から勇猛な部族として知られ、1752年にはインドへ攻め込んだアフガニ スタンのアフマド・シャーを支援して名を馳せたほか、19世紀にはシーク教徒の王国に激しい抵抗を続け、領土は大幅に縮小したものの、やがて進出してきた イギリスによって1868年に藩王国として公認され、王はナワブの称号を認められた。20世紀に入ると北部に新しく建国されたスワート藩王国にさらに領土 を奪われて、アンブの町のまわりを残すだけとなった。

パキスタン政府によって藩王国が廃止された後、アンブの谷には1974年にダムが建設され、旧領土の大部分は水没してしまった。

プルラ藩王国  1828年成立 1969年7月28日消滅 首都:プルラ

アンブ藩王国の隣りにあった面積わずか94平方kmという小さな国。アンブのミールの弟が、カシミール藩王国の宗主下で建国したのが始 まりで、1919年にイギリスのインド政庁によって公認された藩王国になった。


チトラル藩王国 1585年成立 1969年7月28日消滅 首都:チトラル

チトラルはパキスタンの北西の端、アフガニスタンの盲腸のような部分(ワ ハン回廊)に面した辺境の藩王国。歴史的にアフガニスタンとの繋がりが深く、公用語はペルシャ語で、藩王はメータルという独自の称号を使ってい た。面積1万2400平方km、人口は約8万人(1941)。

チトラルは古代から中国とインド、ペルシャを結ぶ交易路として重要な場所で、住民の多くは11世紀にイスラム化したコー族だが、現在も イスラムに改宗せず独自の信仰を守り続けているカラッシュ族も住んでいる。彼らは肌の色が白く、かつてギリシャからこの地に遠征してきたアレキサンダー大 王の軍勢の子孫と言われる人たち。

最後の藩王・ナセル
チトラルの王家はイラン東部のホラサン地方からやって来たペルシャ人聖者の子孫だと言われ、アレキサンダー大王の子孫とい う娘と結婚して、支配者になった。1634年から1712年にかけてはバダクシャン(アフガニスタン北部)の属国になり、その後も断続的にアフガニスタン の影響下にあったが、1895年にカシミール藩王国を通じてイギリスの宗主下に入り、1911年に単独の藩王国としてイギリスから承認された。

パキスタンに加盟した後、チトラルでは内乱が続き、ラーマン藩王はパキスタン政府の介入によってペシャワールへ追放されて、パキスタン 政府と地元住民による評議会が藩王国の実権を握った。1954年にラーマンは帰国が許されたが飛行機事故で死亡し、跡を継いで藩王に即位したナセルは4歳 にすぎず、パキスタン政府が派遣した政務駐在官が統治した。パキスタン政府によって藩王国が廃止された後、ナセルは外務省に入り、香港総領事などを歴任し ている。


ディール藩王国 成立不詳 1969年7月28日消滅 首都:ディール

チトラルの南側にあったディール藩王国は、面積は5282平方km、公用語はペルシャ語だが住民の多くはバシュトー語を話している。 ディールは18世紀末から19世紀初めに生まれた国だが、当初は複数のカーンに率いられ、内紛が続いていた。1895年にイギリス軍がチトラルへ遠征する 際に、道路通行を認める条約を結んでイギリス傘下の藩王国となり、藩王はナワブと称するようになった。


スワート藩王国 1915年成立 1969年7月28日消滅 首都:スワート

現在のスワートの観 光マップ

スワートが建国されたのは20世紀に入ってからで、1917年のこと。ではそれまでどこの国の領土だったのかといえば、どこの国でもな い。いわゆる部族社会が続いていたのだ。

部族はハンと呼ばれるリーダーに率いられているが、政治は土地を所有する 男たちが集まってジルガ(部族会議)を開いて決める。司法はイスラム聖職者が行い、ダッラと呼ばれる派閥ごとに武装して、他の派閥との勢力争いを繰り返し た。日本で言えば、戦国時代以前の武士団の社会のようなイメージだ。

しかし国家という権力がなければ、部族や派閥同士の抗争が果てしなく続いて治安は悪いし、いつ殺されるかもわからない。しかも群雄割拠 の状態が続いていれば、早くから国家を成立させていたディールやチトラルなど周囲の国々や、さらに新たに登場したイギリスなど、部族共通の敵に団結して戦 うのは難しい。そこで19世紀になるとスワートでも国家を作ろうという機運が現れ、聖職者の推薦で他の地方出身の(つまり地元のどの部族とも直接利害関係 にない)サイヤド・アクバル・シャーを王に招聘して、1849年に王国を成立させた。しかしサイヤド・アクバル・シャーが連れてきた同郷の取り巻きたちと 地元部族の折り合いが悪く、1863年に王が死ぬと聖職者は後継者の承認を拒否したため、スワートは再び部族社会に戻った。

この間、1862年にやって来たイギリス軍と協定を結び、スワートは名目的には英領インドの一部に組み込まれることになったが、イギリ スは一切の干渉をしなかった。そして周辺国からの脅威が高まる中で、1915年に再び聖職者によってサイヤド・アクバル・シャーの孫が王に迎えられ、ス ワート王国が再興するが、やはり他郷出身の王と地元部族はしっくりいかず、さらにスワートの部族がイスラム教でもスンニ派だったのに対して、王はアフマ ディー派(19世紀末に生まれたイスラム改革派)の信者だったことが発覚して追放され(※)、1917年に部族会議で地元部族の派閥のリーダーの1人であ り、かつての聖職者の子孫でもあるミヤーングル・グルシャハザーダ・アブドゥル・ワドゥードが王に推挙され、即位した。

※追放された王は、隣りのアンブ藩王国で首相となり、スワート征服の指揮を執った が失敗。
最後の藩王・ワー リー
ワドゥード王は部族を統一するとともに、周辺の部族社会地域を征服したり、ディールやアンブとの戦争で8250平方kmほ どの領土を確保した。また住民がそれまで部族のハンに納めていた年貢を廃止させて、税金の徴収を始めた。なぜハンは従ったのかといえば、国に一定数以上の 兵士と武器を提供すれば、軍の高官に任命されて、権力や給与が与えられる制度も作ったから。また政府が犯罪者に課した罰金はハンが徴収することにして、徴 収した罰金のうち3分の1から半額をハンに徴収手数料として与える仕組みも確立した。

こうしてスワート藩王国は各地のハンを傘下に収め、部族や派閥ごとの兵力を国軍に再編成し、国家財政の基盤を確保した。また部族ごとの 兵力をなくし、ハンを通じた罰金徴収で治安を安定させたことで、豊富な森林資源の開発が可能になり、それによって得た収入で、道路や学校建設など公共事業 を行った。これらは国家がなかった時代には不可能なことだった。こうしてスワートは1926年にイギリスに公認され、正式な藩王国となった。

スワートは新しく生まれた藩王国だけあって、その統治は開明的だった。特に49年に即位したワーリーはイギリス式の教育を受けて育ち、 インフラや教育を充実させ大学も開設した。政情不安が続くパキスタンにあってスワート藩王国は安定と発展が続いたが、そのためパキスタン政府による藩王国 の廃止を公然と批判し続けた。


ナガール藩王国 14世紀成立 1974年9月25日消滅 首都:ナガール

パキスタン北部にあった藩王国で、面積約5000平方km。ナガールの南には7788メートルの山があり、パキスタン本土と隔絶されて いた。1891年にイギリスの支配下に入ったが、ナガールはその時、年に1回カシミールへ貢物を送っていたため、イギリスはナガールをカシミール藩王国の 属領だとみなしていた。ナガールが藩王国として公認されたのはパキスタンになってからのこと。

住民は系統不明のブルーシャスキー語を話す人とンド・イラン語系のシナ語を話す人がいて、ともにシーア派のイスラム教徒。年に1回の シーア派の教主・アリの戦死記念日には、宮殿前に国民が集まって盛大なお祭りが行われた。大臣や兵士の宣誓に始まって、寺院での説教、国民へのごちそうの 振る舞い、弓道大会や部族対抗の運動会などが3日間続いたという。

  
ナガール藩王国の閣僚(左)と、国民へのごちそう振る舞い大 会(右)


フンザ藩王国 16世紀成立 1974年9月25日消滅 首都:バルチット

『風の谷のナウシカ』の舞台のモデルだと言われているのがパキスタン最北部にあるフンザ地方。かつて三蔵法師がインドのお経を求めて、 はるばる中国から辿ってきたのもこのあたり。高さ7000メートル級の険しい崖の難所を越えると、そこには緑豊かな高原が広がって、「桃源郷」とも呼ばれ た一帯だ。

そのような天然の要塞に囲まれて、フンザは長年独立した地位を保ってきたが、1891年にイギリスの支配下に入った。フンザはナガール と共に、年に1回カシミールへ貢物を送っていたため、イギリスはフンザをカシミール藩王国の属領だとみなし、フンザが藩王国として公認されたのはパキスタ ンになってからのこと。面積約1万平方km。

フンザの言葉は系統不明のブルーシャスキー語が中心で、他にペルシャ語系のワキ・タジキ語やインド・イラン語系のシナ語を話す人もい る。宗教はイスラム教でも戒律が緩いイスマイル派で、住民たちはワインも飲んでいた。隣りのナガールとは宿敵同士で、しばしば交戦を繰り返していた。最後 の藩王モハメド・ジャマル・カーンは開明的で、ヨーロッパ・スタイルの宮殿を建てて住んでいたという。

  
フンザ藩王国の王様夫妻(左)と、王宮(右)
 

参考資料:
ウイリアム・バートン著:国土計画研究所訳 『印度藩王国』 (中川書房 1943)
 『カラコルム 中央アジア探検記録』 (平凡出版 1956)
フレドリック バルト・著、子島進・訳 『スワート最後の支配者』 (勁草書房 1998)
黒崎卓、子島進、山根聡編 『現代パキスタン分析』 (岩波書店 2004)
黒崎卓 「バハーワルプル藩王国の切手」 http: //homepage3.nifty.com/~mariamma/tak-p13.htm
The Royal Ark http://www.4dw.net/royalark/contact.html
Wikipedia http://en.wikipedia.org/
Classic Encyclopedia http://www.1911encyclopedia.org/
 
 



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