南イエメンにあった首長国

かつて世界各地には首長国と称される国々がありました。国 際的には独立国として認められず、世界地図にも載っていなかった首長国って一体なんでしょう?数十年前まで日本のマスコミでは土侯国と書かれ、インドの場合は藩王国と 呼ばれていました。中国語では「酋長国」と書きます・・・あっ、これだとかなりわかり易い表 現ですね(笑)。

日本の例だと、江戸時代の「藩」もいわば首長国ということになります。皇帝や国王の下で自分の勢力範囲を支配していたわけですが、帝国 が弱体化したり滅んだりすると、国王の言うことなどは聞かなくなり、群雄割拠の状態となります。首長も部族を率いる伝統的なリーダーのほかに、もともと国 王から派遣された代官が独立を宣言した者や(守護大名ですね)、傭兵隊長が国を作ったり(軍閥?)、山賊・海賊の親分がのし上がったりと、さながら戦国大名と化します。

そういうところに付け込むのが得意だったのが、かつてのイギリス。インドではムガール帝国を滅ぼしてイギリス女王がインド皇帝の座につ き、ムガール皇帝に従っていた600と言われた藩王国を、イギリス女王の臣下にしてしまいました。アラビア半島の南岸では、オスマントルコ皇帝やイエメン 国王の支配を離れて群雄割拠の状態にあった首長国に介入し、重要拠点のアデン港を直轄植民地としたほか、19世紀後半に周囲の首長国を次々と保護領(アデ ン保護領とハドラマウト保護領)にしてしまいました。保護領になったいきさつは、イギリスが武力を使った場合よりも、首長国同士の争いに調停者として介入 し、首長国側はイギリスの軍事支援を期待して保護条約を結んだというケースが多かったようです。

イギリスはこれらの地域ではまったく統治を行わず、首長たちに補助金を支給し、それを毎月アデンの町まで取りに来させて懐柔していまし た。首長がアデンを訪れるたびに、イギリス軍は礼砲を鳴らして出迎えましたが、首長の実力や「忠誠度」によって11発、9発、4発と鳴らす数に差をつけ、 見栄っ張りな首長たちの心をくすぐり、「反乱の鎮圧を手伝ってやったら、イギリス人はワシに敬意を表して9発も鳴らして出迎えてくれたぜ」「畜生!俺には 4発だ。奴隷を100人くらい兵隊として貸してやるかな」てな感じで忠誠さを競わせました。補助金を与えたというと気前が良さそうですが、首長たちを懐柔 しておけばイギリスは駐留軍を削減できるので、トータルコストは安く済むというわけです。

一方で、イギリスはアデンに寄宿制の学校を作り、首長たちの子弟を集めてイギリス式の教育を施しました。こうして英語に堪能でイギリス 式の教養を身に付けた新たなリーダーたちを育成しました。

 
1954年の英エリザベス女王のアデン訪問を祝い、首長や部 族のリーダーたちを集めての食事会(左)。首長の子弟のための寄宿制学校(右)

これらアラビア南岸の保護領は、1967年に南イエメン人民共和国(=南イエメン)とし て独立し、首長国はすべて消滅しますが、それまで住民たちは中世さながらの統治の下で暮らしていました。1930年代半ばの各首長国の様子を、当時の資料 をもとに紹介してみましょう。

★のマークを付けた国は、1962〜67年にイギリス主導で成立した南 アラビア連邦の加盟国。このほか1960年代にアデン保護領に存在した「ベイハン土侯国」「シャイブ土侯国」「マフラヒ土侯国」も南アラビア連邦に加盟し、1967年時点ではさらにダシーナ、ドバイ、ハドラミ、マウサタなどの小国が存在していたようですが、これらの国々は1930年 代に関する資料には記載されていませんでした。


1960年代半ばのアラビア半島南岸の地図。南アラビア連邦 (=アデン保護領)+ハドラマウト保護領+ベリム島+カラマン諸島が後の南イエメン
現在ではイエメン(=北イエメン)と合併して、イエメン共和 国になっています


アデン保護領(西アデン保護領)の首長国

アラビア半島の土侯国の勢力分布図(1905〜1923) アデン保護領や ハドラマウト保護領の土侯国もあります
アデン保護領の土侯国の勢力分布図(1930年代) 
南アラビア連邦を構成した首長国の地図(1965年時点) 青は連邦加盟の首長国、緑は北イエメン領、赤は連邦に加わらなかった首長国

ラヘジ土侯国 ★ 1728年成立 1967年8月13日消滅

 

アデンの町の北側に隣接する国。住民は主にイエメン系のアブダリ族だが、他に1878年にアデンの町から追放されたソマリ人や、ハドラ マウト地方から移住したカサディ族、ユダヤ人やイスラム教に改宗したユダヤ人も住んでいる。兵力2000。

アデン保護領の中では最も肥沃な土地に恵まれ、かつアデンとサヌア(イエメン王国の首都)を結ぶ隊商ルートの要衝としても栄えている。 第一次世界大戦中にはアデン〜ラヘジ間の軍用鉄道が開通し、1921年以降はハビール・アルハムラーまで延長されたが、その後間もなく廃止された。

この一帯はかつてイエメンの王に支配されていたが、1728年にサヌアのイマーム(宗教指導者)から派遣されていた代官が反乱を起こし て独立し、1735年にはアデン港も占領した。その後、1802年にこの地へやってきたイギリスと友好通商条約を結んだが、イギリスはアデン港の売却を要 求したため戦争となり、結局1839年にイギリスがアデン港を占領。ラヘジ土侯国のスルタンはイギリスの保護下に入った。

第一次大戦中に、トルコ軍やイエメン軍に追われてアデンへ亡命する途中のスルタンが、援軍のイギリス軍に撃たれて死亡する事件が起きた が、イギリスに対しては常に従順で、軍隊はイギリス人士官が訓練に当たっている。イギリスは月3280ルピーの補助金を支給しているほか、スルタンに 「サー」の称号を与えて11発の礼砲で迎え、英領インドの最高勲章を贈ったりしている。

※ラヘジ土侯国は1951年に憲法を制定し、アラビア語を公用語としイスラム法を基礎と する回教土侯国と規定。土侯と21人の任命議員からなる参事会が立法権と次期土侯の選出権を持ち、行政は土侯と部長会議(内閣)が担当し、市民権や司法の 独立も規定した。しかしイギリスが各土侯国を連邦化する構想を打ち出すと、これに反発して武力闘争を始め、スルタンはイギリスの圧力によって58年に追放 された。

サッバイハ族地方

サッバイハ族は、アデン西方のオムラン岬からパブエルマンデブ海峡にかけての海岸沿いに住み、人口約3万人。

彼らは今日もなお略奪を稼業としており、通りかかった隊商や沿岸の帆船を襲っている。密輸で稼ぐ者も少なくない。住民はとても勇敢だ が、平気で裏切る気質がある。

オタイフィ、ブライミなど複数の支族に分かれ、統一した首長は存在せず、何人かの首長と、その下に支族ごとの族長が副首長格となって存 在している。

イギリスはこれら首長、副首長に定期的な補助金は支給していないが、首長たちは3ヶ月に1回くらいアデンへ来て、アデン当局から金をも らい、ついでに貿易業者や船会社をまわって金をせしめて帰ってゆく。またラヘジ土侯国のスルタンを通じて、アデン当局からの心付けを受け取っている者もい る。

アデン当局は、イギリス統治に協力的な態度を示し続けている首長らには、このような方法で金を渡して手なずけている。

※サッバイハ族の居住地域は、一般に地図ではラヘジ土侯国領として描かれている。名目的 にはラヘジ土侯国の一部であっても、統治はまったく及んでいなかったようだ。

ファドリー土侯国 ★ 18世紀に成立 1967年8月27日消滅

アデンの東の海岸沿いから内陸にかけての西アビアン地方に広がっていた。アビアン地方の諸部族はスルタンにしたがっているが、ムラケ シャ族やエラー族は独立して勢力を築き、スルタンに従っていない。兵力1000.

土地は肥沃で綿が名産。人口推定4万人。

住民は体格に優れて極めて好戦的であり、イギリスは1839年以降、ラヘジ土侯国をスルタンを通じて、ラヘジ国境に近い部族の族長に補 助金を与えて懐柔しようとしたが、その他の部族は従おうとしなかったため、イギリスは海岸に近いアサラを攻略した。それ以後、アデンの政庁に対して友好的 になったようで、月360ルピーの補助金を支給されている。

西隣のラヘジ土侯国のアブダリー族や北側のヤーファ族とは宿敵関係にあるが、東のワーヘディ土侯国やアブダリー族のさらに西にあるアク ラビ土侯国とは友好関係にある。

スルタンはトルコ人の末裔と言われているが、スルタンの一族には両手両足の指が6本あり、一帯の部族の間では「異常な体力の象徴」だと して畏敬されている。

上アウラキ・スルタン国 ★ 18世紀に成立 1967年11月29日消滅
上アウラキ・シャリフ国 ★ 成立不詳 1967年8月28日消滅
イルカ土侯国 19世紀に成立 1950年代に消滅
ハウラー土侯国 19世紀に成立 1950年代に消滅

アウラキ族の居住地は、上アウラキ地方と下アウラキ地方に分かれ、そのうち上アウラキ地方は土地が肥えていて、小麦、とうもろこし、タ バコ、藍などを生産している。

上アウラキ地方は、スルタンとシャリフがそれぞれ独立して支配領域を持ち、さらに海岸沿いのイルカとハウラーの町も独立状態にある。兵 力は全体で3000。上アウラキのスルタンは、かつてサヌアのイマームから派遣されていた代官が反乱を起こして独立したものだが、イルカのシャリフはかつ て旅人としてこの地に流れ込んできた男が死後聖者として祭られ、その子孫だと伝えられている。

イギリスは1903年にこれら4地域の支配者と友好条約を結び、支配下に置いた。補助金をスルタン国とシャリフ国にに月各250ル ピー、その他に月150ルピー与えている。

下アウラキ土侯国 ★ 18世紀に成立 1967年11月29日消滅

下アウラキ地方では、1、2の部族を除いて、海岸の町・アハワルに住む首長に従っている。兵力1000.

人口は約4万人だが、この国の住民はアデン保護領の中で最も原始的で、宗教らしきものもないと言われている。下アウラキのスルタンは、 かつてサヌアのイマームから派遣されていた代官が反乱を起こして独立したもの。1855年に下アウラキの首長はイギリスに対して奴隷輸入の禁止に同意した がほとんど守られず、1888年からイギリスの保護下に入った。月160ルピーの補助金を与えられている。

ワーヘディ土侯国(バル・ハーフ) ★ 1881年成立 1967年8月消滅
ワーヘディ土侯国(ビル・アリ) 1870年ごろに成立 1967年11月29日消滅
ワーヘディ土侯国(バッハン) 1870年代に成 立 1967年11月29日消滅

 
左はバル・ハーフ、右はバッハンの旗

アデン保護領の東端にあり、アウラキ地方とハドラマウト保護領のクアイチ土侯国との間に位置する。

ワーヘディ土侯国は、バル・ハーフ土侯領、ビル・アリ土侯領、バッハン土侯領の3つに分かれて並立し、いずれもワーヘディ一族が支配し ている。この他に若干の独立部族もいる。スルタンの一族はかつてヘジャス地方から移住してきたと言われている。

住民はノウマーン、サウッドなどの遊牧・半遊牧のベトウィンが中心で、バー・アウダ、アル・アハマッドなどの諸族もいる。河川流域は比 較的肥沃で、穀類、ナツメヤシ、タバコ、綿などの栽培が行われている。バル・ハーフはヤシュブーンとともに、アデン保護領東部の文化と宗教の中心地。

19世紀後半から、トルコは地元スルタンに対してバル・ハーフとビル・アリ両港の割譲を要求していたが、イギリスの介入で阻止され、イ ギリスは1888年に両地のスルタンと条約を結んで保護領にした。

しかしベトウィンはイギリス人による支配を嫌ってたびたび反乱を起こしたため、ワーヘディ土侯国のスルタンはアデンを訪れても礼砲を鳴 らしてもらえず、スルタンは不満を募らせているようだ。

※1962年にバル・ハーフのスルタンがワーヘディ土侯国を統一し、ビル・アリ土侯領、 バッハン土侯領を従えることになった。

アワーゼル土侯国 ★ 成立不詳 1967年9月消滅

アウラキ地方とヤーファ地方に挟まれた内陸部の国。河川沿いは土地が肥沃で、蜂蜜が名産。

住民はアワーゼル族というベトウィンで、ローダルという町にスルタンがいるが、外部の敵と戦う時以外には、住民たちはスルタンに従おう としない。

住民は頗る勇敢で、反英反乱の中心地であり、アデンから鎮圧に来たイギリス軍を再三撃破した。しかしアウラキ族がイギリスと関係を築く ようになると、アワーゼル族の反英姿勢も温和になりつつある。

※またの名を「アウダリ土侯国」。

上ヤーファ土侯国 18世紀に成立 1967年11月29日消滅

この地方のヤーファ族は、奥地の住民の中ではラヘジ土侯国のアブダリー族と並んで先進的で、インドやジャワ方面と交易している裕福な商 人も少なくない。

1895年からイギリスの保護下に入っているが、スルタンはイギリスに対して何も期待しておらず、自由にやらせてもらいたいという姿勢 でいる。

※上ヤーファ土侯国は伝統的に北イエメンとのつながりが深く、1960年代にイギリス主 導の南アラビア連邦が結成されても、アデン保護領で唯一これに加わらなかった。

下ヤーファ土侯国 ★ 18世紀に成立 1967年8月28日消滅

この地方では、下ヤーファ土侯国のスルタンの他にも、ヤファイー支族の部族長であるスルタンや、数人のシャリフに分かれて支配してい る。兵力合計3000。

1839年からイギリスと友好関係を持ち、1895年に保護領となり、イギリスは土侯国のスルタンを9発の礼砲で遇しているほか、その 他のスルタンやシャリフにもそれぞれ月50〜100ルピーの補助金を与えている。

アラウィ族地方 ★ 1839年成立 1967年8月28日消滅

アラウィ族はラヘジ土侯国の北、ハワーシェブ土侯国の東に住む精悍な部族で、全体を支配するスルタンは存在せず、数人の首長が群雄割拠 している。兵力合計500。

イギリスへの抵抗も激しく、1895年にイギリスとの友好条約が結ばれ、アデン当局は首長たちに補助金を支給しているが、友好条約は守 られず、イギリスは月に100ルピーの補助金を与えているが、「アラウィは捕捉し難し」と匙を投げている。

コタイビー土侯国 成立、消滅ともに不詳

上ヤーファ土侯国の西側にあり、イエメン王国と隣接している。住民のコタイビー族はサッバイハ族と並んで昔から強盗として有名で、近隣 地域を略奪するほか、隊商を襲って生活してきた。アラウィ族とは仲が悪い。兵力500。

イギリスは1860年にコタイビー土侯国と保護関係を結び、月200ルピーの補助金を支給しているが、コタイビー側は金銭の授受以外に はアデン当局の要請をほとんど聞かなかったという。1921年にイエメン王国軍が侵入した際、コタイビー土侯国はこれと交戦したが、アデンから援軍が来な かったのでイエメン軍に降伏し、イエメン軍はヤーファ地方も占領した。そのためイエメン王国の影響力も強く、コタイビー土侯国は上ヤーファ土侯国ととも に、イエメンからも補助金を支給されている。

※コタイビー土侯国はしばしばダリ土侯国(後述)の一部だとされることが多い。おそらく 名目上はダリのエミールの領域になっていても、実際にはコタイビー族によって独立状態にあったものと思われる。コタイビー族が住むラドファン山脈には、ア デンとメッカを結ぶ古くからの隊商ルートがあり、1960年代になってもキャラバン襲撃を続けていた。さらに1964〜67年には、共産ゲリラ(NLF) と結びついてイギリス軍を襲い、「赤い狼」と恐れられていた。

ハワーシェブ土侯国 ★ 18世紀に成立 1967年11月29日消滅

アデンの北方にあり、北はコタイビー土侯国に、東はしたヤーファ土侯国に、西と南はサッバイハ族の地域に接する。ハワーシェブ族は古代 アラビアのヒミアール族の純粋な後裔だと言われている。

スルタンの通常兵力は1500人だが、有事の際には2万丁のライフル銃を集められるという。つまり同国の成人男子の人口が2万人という ことらしい。

イギリスとは古くから友好関係にあったが、裏切ることもたびたびで、1915年にトルコとイエメンの連合軍がアデンを攻撃した際には、 それに合流した。イエメン王国に対する交通上・軍事上の要衝に当たる場所であり、また対英姿勢がはっきりしない近隣部族に与える影響も大きいので、イギリ スはハワーシェブ土侯国への宣撫を重視して、他より多めに月400ルピーの補助金を与え、ハワーシェブ土侯国を通じて周辺部族にも配布させている。

アクラビ土侯国 ★ 18世紀に成立 1967年8月28日消滅

アデンのすぐ東、ラヘジ土侯国南方のビル・アハマッドという小さな集落に住む部族の国で、彼らはラヘジのアブダリー族から分岐したもの といわれている。アデン保護領の中では最も小さい土侯国。18世紀から独立を続け、アブダリー族と抗争を続けてきた。イギリスは1868年にアクラビ土侯 国から小アデン(アデン港の東側)を買収し、同国と保護関係を結んだ。毎月若干の補助金を与えている。

ダーラ部族連合(ダリ土侯国) ★ 1839年ごろ成立 1967年8月17日消滅

ダーラの町(1963年)

アラウィ族地方の西北にあり、アデンとサヌア(イエメン王国の首都)を結ぶ道路沿いにある。1人のエミール(部族長)がい くつかの部族を率いていたが、1921年にイエメン軍が侵入した際、エミールはアデンに亡命し、それ以後は各部族の首長がそれぞれ支配を行っている状態。 兵力1000。

これらの首長たちの祖先は、いずれもサヌアのイマーム(宗教指導者)に仕えていたムワラディンと呼ばれる奴隷たちで、かつてサヌアから 地方統制のために代官として派遣されて来た者が、19世紀の初めにそれぞれ独立を宣言したもの。このためイエメン王国はラヘジ土侯国や上ヤーファ土侯国と 同様に、ダーラでも勢力拡大を図っている。イギリスは月300ルピーの補助金を与え、エミールには9発の礼砲で迎えることにしている。


ハドラマウト保護領(東アデン保護領)の首長国

ハドラマウト保護領の土侯国の勢力分布図(1930年代)  

※ハドラマウトは古くから香料貿易で栄えた地域で、中世から北アフリカや東アフリカ、イ ンド、東南アジアなどへ多くの移民が渡っていった。現在インドネシアやシンガポールに住む数十万人の「アラブ人」は多くがハドラマウト出身の商人で、 1930年代には彼らからの送金でハドラマウトは潤い、住民は輸入米を主食とするようになったため、農業が低迷した。ところが1940年代に東南アジアが 日本軍に占領されると、移民からの送金が途絶え、ハドラマウトは43年と46年に飢餓に襲われるハメになった。一方で、日本軍占領下で高揚したインドネシ アの民族主義の影響を受けて、1950年代からハドラマウトではスルタンへの改革要求や反英闘争が盛んになっていった。

クアイチ土侯国  1881年11月10日成立 1967年9月17日消滅

英領アデンの保護国で最大の土侯国であり、近代的な統治システムが整えられつつある唯一の国。

クアイチ土侯国が建国されたのは、1881年で比較的新しい。クアイチ族の祖先は西側のヤーファ地方に住むヤファイー族で、カーシリ土 侯国によって16世紀の初めに傭兵として迎えられたが、19世紀にはインドのハイデラバード藩王国などへ傭兵として出稼ぎに行く者が多かった。19世紀半 ばにクアイチ族はカーシリ土侯国に反乱を起こし、ハイデラバード藩王国で傭兵部隊のジェマダール(隊長)をしていたオマル・ベン・アワッドが同族の傭兵た ちを引き連れて帰国し、ムッカラ、シェールなどの港町を占領。イギリスの仲裁で1881年に独立し、88年にはイギリスの保護下に入ったが、その後も 1918年まで領土を広げ続けて、カーシリ土侯国を内陸へ追い込んだ。

そのような歴史から、クアイチ土侯国のスルタンは「ジャマダール」の称号を持ち、スルタンは代々インドに滞在していることが多く、皇太 子が宰相(ワジール)となって国を運営している。イギリスはスルタンに「サー」の称号を与え、11発の礼砲で迎えることにしている。

●中央政府
クアイチ土侯国の首都はムカッラで、宰相の下に税関長、警務官、財務官、医務官、軍司令官がおり、諮問機関として法官会議がある。司法機関としては、シャ リア裁判所と警察裁判所(12日以内の拘留刑を下す軽犯罪を担当)、最高裁判所(宰相が主宰)があり、最高裁判所では重大な民事事件を取り扱う際には商人 などを陪審員に任命している。シャリア裁判所ではイスラム法に基づいて裁判が行われるが、コーランに記載されている手足の切断などの刑罰は廃止されてい る。

●地方行政
シェール、ムカッラ、ドアーン、ハジル、シバムの5県があり、それぞれに知事が派遣されスルタンに代わって統治しているが、住民はその統治に対して宰相に 上訴することができ、宰相は場合によってはスルタンへ上訴を取り次ぐ。各県の中で特定の部族が「縄張り」を主張している地域では、協定を結んで自治を認め ている。協定には「いつでもスルタンの要請に従う」という甲協定と、「相互に共通の利害を有する時には提携する」という乙協定があり、甲協定を結んだ部族 は18、乙協定を結んだ部族は35。スルタンや知事はこれら自治地域の内政には干渉しないが、隊商ルートの安全は保障しなくてはならない。したがって、ク アイチ国内では隊商が襲撃されることはないことになっている。

●財政
歳入は主にスルタン所有地を農民に貸して得られる地代で、他に関税(輸出入税)、入港税、タバコ消費税、タバコ栽培借地税、ラクダに1頭あたりの国内輸送 税、不動産登記税、市場税(バザールの各店舗から徴収する清掃代)や旅券発行収入がある。アデン政庁の調べでは年間歳入は125万ルピー規模で、イギリス からの補助金(月60ルピー)に頼る割合はほとんどゼロに等しい。

●軍隊と警察
正規軍は400人のヤファイー族と250人の黒人奴隷からなり、隊長の下に4人の士官がいて、うち2人は元イエメン軍の士官であり、残る2人はインド人。 このほか各地方には知事が指揮する民兵が1200人いて、ふだんは農耕を行っており、屯田兵のような存在。

●社会施設
ムカッラには3つの公立学校があり、うち2つはアラビア語、もう1つは英語で授業を行っている。英語学校はアデンのデンマーク系ミッション・スクールから 派遣されたインド人が教師をしており、クジャラート語も教えていて、生徒はすべてボーイスカウトに入隊している。この他インド人子弟が通うクジャラート語 の私立学校もある。ムカッラには公立病院もあるが、ヒンズー教徒のインド医師が1人いるに過ぎない。

 
クアイチ土侯国が発行した切手に描かれたスルタン。右がサ リー(在位1936〜56)、左はガリブ2世(在位1966〜67)

中級者による切手分類 東京オリンピック編 その2 一番下にクアイチ土侯国が発行した東京オリンピックの切 手があります

カシーリ土侯国  15世紀ごろ成立 1967年10月2日消滅

カーシリ土侯国はかつてハドラマウト全域を支配していたが、クアイチ土侯国の勃興によって内陸のサユーン、タリムを中心とした狭い範囲 に押し込められてからは、部族間や支族間の抗争が続き、全体を統括しているスルタンはいない。名目的にはサユーンにいるアブドラ族のスルタンが全体の首長 となっているが、その絶対権力が及ぶ範囲は狭く、重要都市のタリムはアル・カフ一族が独自に統治している。ただし、種族間で紛争が起きた際にはスルタンが 調停役を務めることがあり、象徴的な権威は認められているようだ。

※宿敵ともいえる関係のクアイチとカシーリだったが、1961年にアメリカの石油会社に よる探査が行われると手を結び、両国は司法を除く行政を統一する連邦制の協定を結んだ。南アラビア連邦には加わらず、石油が出たら両国は南イエメンとは別 枠で独立するつもりだったようだ。67年に反英反スルタンの南イエメン独立戦争が活発になると、両国のスルタンはサウジアラビアへ避難していたが、9月 17日にムッカラ港へ戻ったところ、革命側に転じた兵士たちに上陸を許されず、そのままサウジアラビアへ亡命した。

 
カーシリ土侯国が発行した切手に描かれたスルタン。右がジャ ファール(在位1938〜49)、左はフセイン(在位1950〜67)

砂漠の摩天楼シバームとサユーン,タリム 砂漠の中の高層都市として現在はイエメンの観光名所となっています
サユンとその周辺 ムカッラ→サユーン→タリムの写真があります

マハラ土侯国  1549年成立 1967年10月16日消滅

 

ハドラマウト保護領の東にあり、オマーンと境を接する地域にある国。住民はマハラ族と総称されているが、実際にはベトウィン系の数多く の部族に分かれている。スルタンはケシン(キシン)という港町に住んでいるが、ケシン以外ではスルタンの統治は及んでいない。一番大きな町は海岸沿いのセ イフトで、人口約1万人。乳香や没薬などの香料の産地として古くから知られていた。

ケシンの沖合いにあるソコトラ島もスルタンの支配地だが、イギリスは1886年にマハラ土侯国と保護関係を結んだので、この島もイギリ スの支配下に入った。島の住民は17世紀末までキリスト教徒だったが、その後イスラム教に改宗している。ソコトラ島の重要性からイギリスはスルタンを9発 の礼砲で迎えている。


英国保護領時代に南アラビアに存在した首長国の数は、31とか25とか20とか19とか15とか14とか、資料によってまちまちです が、滅んだり独立したり従属関係が変動したりといろいろだったので、仕方がないですね。日本の戦国時代に例えれば、織田信長に仕えていた秀吉や光秀の領地 は「秀吉領」「光秀領」だったのか、それとも「信長領」とするべきかを論じるようなものでしょう。また各首長国の紹介でも書いたように、実際には首長国の 支配が及んでいない地域が多かったのです。アデン保護領では1954年までにイギリスは90以上の族長と個別に保護条約を結び、ハドラマウト保護領では 1934年にイギリスが特使を派遣したところ、なんと約2000の族長が分立していることがわかり、1400の条約を結んだとか。

なお、1953年のデータとして、こんな統計もあります。
 
土侯国名 首都 人口 面積
ラヘジ★ ラヘジ 41400 4.5
ファドリー★ シュクラ 25000 2.5
上アウラキ★ ニサブ 53000 1.8
ハウラ ハウラ 300  
イルカ イルカ 350  
下アウラキ★ アフワル 12000 2.5
ワーヘディ(バル・ハーフ)★ バル・ハーフ 25000 5
ワーヘディ(ビル・アリ) ビル・アリ    
アワーゼル★ ローダリ 10000 1
上ヤーファ アル・カラ 23000 0.7
下ヤーファ★ マフシャバ 89000 0.9
アラウィ★ アル・カシヤ 1200 0.08
コタイビー      
ハワーシェブ★ ムセイミル 10000 0.3
アクラビ★ ビル・アハマッド 2000 0.1
ダーラ★ アミリ 27000 1.0
ベイハン★ カスブ 13000 4
シャイブ★      
マフラヒ★      
ドバイ      
マウサタ      
アラミ      
クアイチ ムッカラ 197000 30
カーシリ サユーン 60000 6
マハラ ケシン 22000 13
※面積は1000平方マイル=2600平方km

アラビア半島には1960年代まで「首長国」がたくさんありましたが、ペルシャ湾沿いのクウェートやカ タールやバーレーン、アラブ首長国連邦が独立国となって現在も生き残っているのに、南アラビアの首長国は消滅したのはなぜでしょう?やはり石油が 豊富に出るかどうかが運命の分かれ道。住民にとって、政治的にはスルタンの封建体制が続こうが、石油財源のおかげでインフラが良くなり、税金や教育費、医 療費がみんなタダになって生活が格段に向上すれば、文句はないってことですね。オマーンはやる気のない国王をやる気マンマンの皇太子がクーデターで追放し て、国内に跋扈していた首長、イマームたちを一掃しながら独立したし、ここもやっぱり石油がジャンジャン出ます。それに比べると南イエメンは石油はわずか しか出ないから、首長国が続くのは単に封建社会が続くということ。住民にメリットがないんじゃ「野蛮な土侯は出て行け!」ってことになるでしょう。

もっとも、今でも地方の部族社会では、族長たちが隠然たる実力を持っているようです。


南イエメンの各首長国の写真


●関連リンク
イエメン3 被りもの イエメン人はターバンを見れば部族がわかるとか
海外安全ホームページ 外務省提供。「武装部族勢力」にご注意!
 

参考文献:
『ハドラマウト事情・附アデン植民地事情』 (東亜研究所 1942)
『世界年鑑 昭和17年版』 (日本国際問題調査会 1942)
『西南アジア・アフリカ要覧』 (国際日本協会 1957)
『世界の文化地理 第四巻 西アジア』 (講談社 1966)
F・ハリデー著 岩永博、菊池弘、伏見楚代子訳 『現代アラビア』 (法政大学出版局 1978)
 
 

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