最初から消滅予定だった5日間だけの独立国

ソマリランド

首都:ハルゲイザ

 
ソマリランドの旗は合併後のソマリアに引き継がれて、現在のソマリランド共和国の旗はこ ちら

1960年6月26日 英領ソマリランドが、ソマリラ ンドとして独立
1960年7月1日 イタリア信託統治領ソマリアがソマリア 共和国として独立。ソマリランドはこれと合併して消滅

1968年の旧英領ソマリランドの地図 
2002年のソマリアの地図  いちおう「統一国家」のように描かれています

目下のところ、国家としてほぼ崩壊状態の国といえばソマリア。 10年に及ぶ内戦の果てに、中央政府は完全に瓦解して、軍閥もどきの地方勢力や独立政権が各地で群雄割拠している状態。国連軍が介入したものの、軍閥に宣 戦布告されてホウホウの体で逃げ出すことになり、国際的にほとんど放置プレー状態だ。そんな中で、91年5月に北部の旧英領ソマリランドで成立したソマリ ランド共和国は、国際的に認められていないにもかかわらず、政治的にも経済的にもかなり安定しているようだ。

さて、そのソマリランドは、かつて5日間だけ世界公認の独立国だった歴史 がある。

ソマリア一帯は「アフリカの角」と呼ばれ、スエズ運河の開通で地中海からインド洋への出口に位置する海の要衝となったため、19世紀に イギリス、イタリア、フランスによって分割され植民地になった。この時の英領ソマリランドが現在のソマリランド共和国で、伊領ソマリランドはそれ以外のソ マリア、仏領ソマリランドは現在のジプチ共和国にあたる。
1960年になるとアフリカでは植民地の独立が相次ぎ、このうち英領ソマリランドが一足早く6月26日に独立。続いてイタリア信託統治領(こ ちらを参照)のソマリランドが7月1日に独立し、同時に両者が合併してソマリア共和国となったため、ソマリランドはわずか5日間で消滅した。

イギリス領とイタリア領のソマリアの合併がスムーズにいったのは、「ソマリ人が住む地域を1つに統一しよう」という大ソマリ主義が台頭していたため。ソマリ人はもともと6つの主要氏族に分かれ、それぞれの氏族に帰属意 識を持って暮らしていた。しかし第二次世界大戦で1941年にイギリス軍がイタリア領ソマリランドを占領。36年にイタリアに占領されていたエチオピアで も41年にイギリス軍の支援を受けた皇帝軍が奪還し、この時ソマリ人の遊牧地域になっていたエチオピア東部のオガデン地方をイギリスが暫定統治する条約が 結ばれ、ソマリ人が住む地域はケニア北東部も含めてイギリスによる支配の下で統一されることになった。

こうして1943年にはソマリ青年クラブ(後にソマリ青年連盟=SYLと改称)が結成されて、「統一された大ソマリアの独立」を掲げソ マリ人の住む全地域で活発な政治運動を始める。旧イタリア領ソマリランドは1950年から10年間の期限付きでイタリアの信託統治領になり、オガデン地区 は54年にエチオピアへ返還されたが、SYLはこれらへの抗議活動を通じて勢力を拡大し、イタリア領で設置された議会では第一党となった。一方イギリス領 の議会でも、SYLと選挙協力をしたソマリランド民族連盟(SNL)が第一党になった。

ソマリランドの閣僚と長老たち
1960 年にイタリアの信託統治が期限満了を迎え、7月1日にイタリア領が独立することが確定すると、これを機にイギリス領も独立し、イタリア領と合併して大ソマ リアを実現する絶好のチャンスと映った。そこで4月にイタリア領とイギリス領のリーダーらが会談して、両地の統合を宣言。イギリス領では独立を渋るイギリ スを相手に交渉が進み、6月26日にソマリランドとして独立した。

なぜイギリス領が一足先に独立したのかといえば、この間にイタリア領との合併に向けた立法手続きをまとめて済ませるためだった。独立 国・ソマリランドは5日間で消滅することが確定済みだったが、イギリスのほかアメリカ、中華人民共和国、イスラエル、エジプトなど世界35ヵ国が承認(※)。憲法が制定されて首相と3人の大臣からなる内閣が発足し、イギリス領時代の 立法評議会がそのまま国会になった。首相に就任したイーガルはイギリスに留学した教師で、SNLを率いてイタリア領との合併運動を推進していたリーダー だった。

※日本はソマリランドの独立にあたっては祝 電を送り、7月1日のソマリア共和国の成立には特派大使(在エチオピア大使)を派遣して、同日付で承認した。

こうして5日後にイタリア領と合併して成立したソマリアでは、SYLのオスマンが大統領に、SNLのイーガルが首相に就任したが、イー ガルは半月足らずで国防相に格下げされ、大統領・首相ともに旧イタリア領の南部出身者が占めた。合併後の国会は植民地時代の議会の定数をそのまま引き継い だために、南部90議席に対して北部は33議席と、人口比(2:1)よりも南部が有利な構成になった。

合併前に北部の議会では、合併の条件として「連合条約」を可決して南部へ送ったが、南部の議会では否決されてしまい、別の内容の「合併 条約」が可決していた。つまり合併にあたってソマリランド側の主張は反映されなかったのだ が、それでもソマリランドが合併に踏み切ったのは「大ソマリ主義の実現」という大義を優先させたからだった。

首都は南部のモガディシュに置かれたが、経済的には紅海の出口にあたるベルベラ港を抱え、アラビア半島との貿易が活発だった北部の方が 上だった。ソマリ人が住む地域同士とはいえ、南北間の経済的な結びつきはほとんどなく、域内取引は1%にも満たなかった。このため北部では連邦制を求めて 南部と対立が深まり、61年の憲法制定の国民投票では、SNLは「草案作成に北部の意見が取り入れられなかった」と投票ボイコットを呼びかけ、北部の旧首 都・ハルゲイザではソマリランドの独立を求めて暴動やクーデター未遂事件も起きた。

67年にイーガルが再びソマリアの首相に就任して、北部の声が政治の中枢部に反映されるようになったのもつかの間。69年に大統領が暗 殺されて革命が起き、バレ議長(後に大統領)が率いる社会主義の軍事政権によってイーガル首相は投獄され、独裁体制の下で北部は抑圧され続けた。

そして、「ソマリ人が住む地域を1つに統一しよう」という大ソマリ主義も破綻した。 フランス領ソマリランドは67年の住民投票でフランス残留を選び(77年にジブチ共和国として独立)、ソマリ人が多く住むケニアの北東部州も、63年のケ ニア独立に際して住民の6割がソマリアへの編入を希望したものの、無視された。そしてエチオピアのオガデン地方も、74年にエチオピアでも革命が発生し、 社会主義の軍事政権が誕生して混乱が続くと、これを「大ソマリ主義実現のチャンス」とみたソマリアは77年にオガデン地区へ攻め込み、一時は大部分を占領 したが、ソ連の援助で軍備を整えたエチオピアが反撃に転じて、78年に撤退した。

大ソマリ主義への幻想が消えた北部では、1981年にソマリア国民運動(SNM)が結成されて、エチオピアを拠点にゲリラ戦を始めた が、87年にバレ政権がエチオピア政府との間で双方の反政府ゲリラへの支援中止の協定を結ぶと、エチオピアを追い出されたゲリラはソマリアに流れ込んで一 挙に内戦が激化。南部や中部でも反乱が起きて、1991年にバレ大統領は海外へ亡命し、20年以上続いた独裁政権は崩壊した。それに代わる新政権樹立をめ ぐって各勢力が泥沼の内戦を始め、ソマリアは国家が解体してバラバラとなり現在に至っている。
 

再びソマリランドの 元首になったイーガル
SNM は新政権をめぐる勢力争いには加わらず、91年5月に「1960年の合併条約の破棄」を宣言し、 ソマリランドを「復活」させて、SMNのトゥール議長が大統領に就任した。つまりソマリランドはソマリアから新たに分離独立するのではなくて、「独立を回復した」と主張した(※)。トゥール政権は半年あまりで瓦解し、93年からは「5日間だけの 独立」時に首相を務めたイーガルが大統領に就任した。
※ただし、国名はソマリランド(State of Somaliland)からソマリランド共和国(Republic of Somaliland)に変わり、国旗も60年の独立時のものはソマリア国旗として使われてしまったため、新しいものを制定した。
実はイーガルは91年のソマリア解体時にはまだ「大ソマリ主義」の夢を捨てきれず、ソマリアの再統一を唱えていたが、その後アラブ首長国連邦へ亡命し、長 老たちに説得されて帰国したもの。

イーガルはエチオピアの海への出口として外貨収入源だったベルベラ港を復興させ、無政府状態が続く南部を尻目に経済を立て直し、「かつ ての私たちの理想や熱望は裏切られ、合併は悪夢と化した」とソマリランド再独立の正当性を国際社会に訴えたが、かつて「5日間だけの独立」を承認した 35ヵ国を含めて、現在までのところソマリランドを再承認した国はない。

ソマリランドについては、こ ちらも参照してくださいね。
 

 
右は1960年6月26日付『朝日新聞』、左は同27日付 『朝日新聞』


ソマリランドの歴史(冒頭に 1960年のソマリランド独立の映像)


●関連リンク

外務省−ソマリア
ソマリアの和平を壊 す米軍の戦場探し  
ソマリア内戦
ソマリア内戦  部族分布とアメリカ海兵隊の作戦を中心に解説しています  
ソマリア内戦に見るエスニックな対抗運動の展開  専修大の宮田励子さんの卒論です
Somaliland Official Website  現在のソマリランド共和国の公式サイト(英語)
Somaliland Constitution 1960  「5日間だけのソマリランド」の憲法(英語)
Somaliland 1960  「5日間だけのソマリランド」の国歌(英語)

参考資料:
『外交青書』1961年版 (外務省 1961)
進藤貢 「ソマリアにおけるシアド・バーレ体制とは何だったのか」 佐藤章編 『アフリカの「個人支配」再考 共同研究会中間報告』 (アジア経済研究所  2006)
http://ideaix03.ide.go.jp/Japanese/Publish/Report/pdf/2005_04_10_02.pdf

進藤貢 「崩壊国家と国際社会:ソマリアと「ソマリランド」」 http: //www.sirag.org.uk/Somaliland(ENDO).pdf
afrol News - African News Agency http://www.afrol.com/
Somaliland Time  http://www.somalilandtimes.net
The Voice Of Somaliland Diaspora-Ottawa http://waridaad.blogspot.com/
SOMALILAND FORUM http://www.somalilandforum.com/
 
 

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