南アが黒人を隔離するために作った、悪名高き国の数々

南アフリカのホームランド

 
 独立国  トランスカイ  ボプタツワナ  ベンダ  シスカイ    
 自治地域  クワズールー  レボワ  ガザンクル  クワクワ  クワンデベレ  カングワネ

ホームランドの仕組みについては地 図に載っていない非公認飛び地―旧ホームランドの項も参照してくださいね。

南アフリカと各ホームランドの地図 

少数派の白人が多数派の黒人を支配するために、アパルトヘイト(人種隔離政策)を実施していた南アフリカだが、その究極とも言える手段 がホームランド(バンツースタン)の設置だ。これは黒人を部 族ごとに作ったホームランドに所属させ、それぞれのホームランドを南アから独立させて「外国」 にしてしまうというもの。こうすれば黒人は「外国人」になるから政治的権利 を与えなくてもよく、南アで働く黒人は外国人の「出稼ぎ労働者」になるから、労 働者としての権利を制限しても、社会福祉を保障しなくても構わないことになる。

ホームランド政策は、もともと白人が土地を奪うために始まった。南アフリカ連邦が1910年に成立した後、13年に原住民土地法が制定 されて、黒人の所有できる土地は指定の居留地に限られた。こうして人口の8 割以上を占める黒人は、国土の13%に過ぎない土地しか持てなくなった

そして戦後、南アの白人政権は黒人居留地をホームランドに発展させた。ホームランドはバンツースタン(バントゥースタン)とも呼ばれた が、これは南アの黒人はほとんどがバンツー系民族なので、「バンツー人の土地」という意味(※)。

※南アフリカの先住民は、サン族(ブッシュマン)やコイ族(ホッテントット)。バ ンツー系民族はもともとアフリカ中部(ナイジェリアやカメルーン周辺)に住んでいて、3000年前から南下を開始し、南アフリカには4〜5世紀にやって来 たと見られている。
まず1951年のバンツー統治機構法で、黒人を南ア政府が認定した「部族」に分類し、居留地を部族ごとに割り振って、地域統治機構という黒人による行政機 関を設置した。地域統治機構は教育や医療、道路整備や住民サービスなどを管轄して、部族を率いていた伝統的な首長たちが委員に任命された。いわば地方自治 体のようなものを設置して、黒人にも一定の権限を与え、自分たちが住む地区の行政に参加できるようにするとともに、白人が支配する前から存在していた首長 たちの地位や権限を法的に認める形にもなった。

次に59年のバンツー自治促進法で、ホームランドの権限を拡大した。ホームランドでは首席大臣(首相に相当)が率いる行政評議会(内閣 に相当)や、立法評議会(国会に相当)が設置され、立法評議会議員の一部は黒人住民による選挙で選ばれるようになった。つまり黒人にホームランドでの参政 権を与えたのだ。

この段階に達したホームランドは「自治地域」に 昇格して、住民から徴税する権限と、外交や防衛、金融、通信を除く自治権が与えられた。 もっとも法律の制定には最終的に南ア大統領の承認が必要で、いわ南アの中 の黒人自治区だった。

一方で、70年にはすべての黒人が、いずれかのホームランドの「市民」とされ、ホームランドへの強制移住も行われた。そして76年にト ランスカイが南アから独立したのを皮切りに、4つのホームランドが「独立国」となった。

南アはこれらの国々を「民族国家が独立した」と主張したが、不毛の地を寄せ集めた飛び地だらけの領土で、外交・防衛・通貨は南アが担当 し、財政の多くも南アからの補助金に頼るという、いかにも「胡散臭い国」ばかり。国連をはじめ諸外国はどこもこれらの独立国を承認せず、一方で黒人たちも 自分が所属するホームランドが「独立国」になれば、南アの国籍や市民権を失ってしまうことから激しく反発し、独立を拒否するホームランドも相次いだ。

ホームランドの設置に対して、黒人国家の樹立を目指して武力闘争を続けていたアフリカ民族会議(ANC)は、「黒人を不毛な土地に押し 込めて懐柔しようとする欺瞞だ」と、ホームランドの解体を訴えたが、黒人リーダーの中には「黒人が権限を手にできる」と協力する人たちもいた。もっとも、 ホームランドのリーダーたちの真の「思惑」は様々だったようだ。



「独立国」になった国々

トランスカイ共和国 〜南アと断交したマンデラの甥が率いる国〜

 1959年5月29日 トランスカイ地域 評議会が発足
 1963年5月 トランスカイ自治地域が発足
 1976年10月26日 トランスカイ共和国が南アフリカ から独立
 1994年4月27日 南アフリカに復帰
 
 

首都:ウムタタ 人口:474万6796人(1992 年)

トランスカイの地図(1978年) 
トランスカイの国歌 

南アフリカで一番最初に成立したホームランドがトランスカイだ。トランスカイは現在の東ケープ州の東部で、南東はインド洋に、北はレソ ト王国に接し、面積4万1001平方km。2つの飛び地があるとはいえ、ホームランドの中では領土は広く、ほぼまとまった形をしている。また川が多く流れ て土地が肥沃で、牧畜やトウモロコシの栽培などが盛んと、比較的恵まれた環境の国だった。

トランスカイとは「カイ川沿いの地域」という意味で、かつてイギリスの拠点だったケープ植民地から見て、カイ川の向こう岸に当たること からそう呼ばれるようになった。国民の多くはコーサ族で、他に少数のソト族(レソト人)も住 んでいた。コーサ族はもともと南アフリカの南部で暮らしていたが、1795年にイギリスがケープ植民地を占領してから、圧迫されて東へ移動し、カイ川を中 心に現在の東ケープ州一帯に住み着いた。しかしイギリス勢力の拡大は続き、1866年にカイ川以西がケープ植民地に組み込まれ、カイ川以東(後にトランス カイの領域)も77年に併合された。

この間、1856年に「牛殺し事件」が起きた。ある日コーサ族のノンガウ セという少女が突然「牛をすべて殺し、穀物も焼き払えば災いはすべて消え去るだろう」というお告げを 聞いたと言い出し、これを信じたコーザ族は翌年2月、40万頭と言われる牛を殺してしまった。しかしお告げは当たらず、食糧であり資産でもあった牛を失っ たコーサ族はたちまち飢饉にあえぎ、イギリスに領土を奪われてしまったという次第。また牛を失ったコーサ族たちは白人が経営する鉱山や工場で働くようにな り、早い時期から賃金労働に組み込まれたことが、後に労組運動を通じて政治家を輩出し、マンデラ前大統領やムベキ大統領などアパルトヘイト撤廃後の南アフ リカの指導者を生むことになった。

さて、トランスカイはホームランドの先頭を切って、1963年に自治地域、76年には「独立国」となったが、その間20年以上にわたっ て権力を握っていたのがマタンジマだ。マタンジマはコーサ族の伝統的な王家であるテンブ家の 出身で、マンデラの甥にあたる。とはいってもマンデラより3歳年上で、ともにフォートヘア大 学で学び、若い頃は仲が良かったという。

マタンジマ
1950年代に南アフリカの白人政権がパンツースタン政策を制定すると、コーサ族の首長たちは自治地域の設置を拒否するこ とを決めたが、マタンジマは「黒人のリーダーがより多くの権限を手にすることができるチャンスだ」と 首長たちに政策受け入れを説得。トランスカイ地域評議会の代表を経て、63年の自治地域設置とともに首相に就任した。いわばホームランド設置の立役者だっ た(※)。
※当時すでにアフリカ民族会議(ANC)の活動家だったマンデラは、マタンジマを 「黒人に対する裏切りだ!」と非難して、2人は決別。これ以後、白人に抑圧されていた黒人のリーダーとして、マタンジマは「白人に協力して黒人の権限を増 やす」、マンデラは「白人を倒して黒人が権限を奪う」と、まったく対照的な道を歩んだ。
マタンジマはトランスカイ民族独立党を率いて選挙に勝利し、76年にトランスカイの独立とともに首相になったが、「確信犯」としてホームランドを率いただ けあって、単なる傀儡では終わらず、時には南アフリカに逆らった。特に78年2月には領土問題を巡って対立し、南アと国交断絶を宣言。不可侵条約も破棄して、トランスカイに駐留する南ア軍に撤退を求めた。

領土紛争になった南アとレソトを結ぶ回廊(矢印部分)
し かし国交断絶は、南アが「じゃあ補助金を停止する」とやり返すとほどなく撤回した。なにしろトランスカイの国家歳入は、85%が南アからの補助金だったか ら、マタンジマがどこまで本気で「断交」を言ったのかは疑問。またトランスカイの国民の半数が実際には南アで暮らし、国内の住民も国境付近に住んで南アへ 通勤している者が多く、経済でも南アに依存している状況だった。

マタンジマは79年に大統領に就任すると独裁色を強め、弟を首相に任命する一方で、野党を弾圧してジャーナリストや学生を逮捕。「大統 領の威厳を損ねた」とテンブー王が率いていた民進党を禁止し、有罪判決を受けた王はザンビアへ亡命して、ANCに加わった。その一方で、当時南アによって 投獄されていたマンデラを「トランスカイで引き取るから、国外追放処分にしてほしい」とも言い出している(マンデラが拒否)。

ホロミサ
しかしマタンジマは86年に汚職が発覚して辞任。首相だった弟も翌年マタンジマに実刑判決が出たため辞任し、トランスカイ 民族独立党の女性シグカウが首相に就いたが、2ヵ月後の87年12月にトランスカイ国防軍によるクーデターが 発生。軍司令官のホロミサ少将が軍事評議会議長として全権を掌握した。ホロミサはクーデター の理由を「民族独立党政権はどれも腐敗している」と説明したが、実際には民族独立党がANCに同情的なことを嫌った南アの意向を受けてのものだった。

かくしてトランスカイは名実共に南アの傀儡国になるかと思いきや、権力を握ったホロミサは政治犯を釈放し、ANCなど反アパルトヘイト の黒人組織を合法化してしまった。南アにとって「裏切り者」のホロミサを倒すべく、90年に再びクーデターが起きるが、ホロミサは首謀者を処刑して鎮圧。トランスカイは黒人解放運動の「避難所」になった。

アパルトヘイトが撤廃されホームランドが消滅した際に、ANCとの関係が良好だったトランスカイ政府は混乱なく解散した。94年の全人 種参加の総選挙では、ホロミサはANCの候補者として最多得票数で当選したが、やがて黒人政権が誕生しても一向に生活が良くならない黒人たちの不満が高ま るとANCを離党。98年に元白人政権の高官らと手を組んで新たに統一民主運動(UDM)を結成し、政権批判を続けている。ホロミサは機を見るのがうまい と言えそうだ。

一方で、刑期を終えたマタンジマはテンブ王に即位して、東ケープ州の伝統的首長会議の議長に就いた。2003年に死亡した時には、「テ ンブ王」として政府主催の葬儀(ただし国葬ではない)が行われ、ムベキ大統領はその業績を讃え、マンデラもマタンジマの「王」としての活躍ぶりを熱く語っ たという。




ボプタツワナ共和国 〜南アから承認を取り消された忠実政権〜

 1961年 ツワナランド地域評議会が発 足
 1972年4月1日 ボプタツワナ地域評議会に改称
 1972年4月1日 ボプタツワナ自治地域が発足
 1977年12月6日 ボプタツワナ共和国が独立
 1994年3月13日 南アフリカが占領
 1994年4月27日 南アフリカに復帰

首都:ムマバソ 人口:248万9347人(1992 年)

ボ プタツワナの地図(1977年) 
ボプタツワナの国歌 

ホームランドのなかで最もイカガワシイ形をしていたのがボプタツワナ。面積は約4万平方kmだが、領土は7ヵ所に分散していて、何百kmも離れた場所にもあるという状態。かと思えば南アの首都・プレト リアやヨハネスブルクの目と鼻の先で、ほとんどベッドタウンというような領土もあった。

ボプタツワナの国民の約70%がツワナ族で、ツワナ族はボツワナの主要民族でもあって、ボツワナとは「ツワナ族の土地」という意味。 もっとも南アにはボツワナの2倍のツワナ族が住んでいる。ボプタツワナとは「ツワナ族を縛り付ける土地」の 意味だ。

ボプタツワナの国民の半数は南アに住み、国内に住む住民も南アへ通勤する者が多かった。耕作可能な土地は10%に過ぎず、不毛な砂漠を かき集めたような領土だが、経済的にはホームランドの中で最も豊かな国だった。なにしろボプ タツワナにはプラチナの鉱山があり、西側諸国全体の生産量の3分の2を占めたほか、石綿、花崗岩、バナジウム、クロム、マンガンなどの鉱物資源も豊富だっ た。これらの鉱山は南ア企業が採掘したが、ボプタツワナ政府には年間3000万ドルの採掘料が入った。

またプレトリアやヨハネスブルクから日帰りできる立地を生かして、79年に大リゾート都市のサンシティがオープンし、南アでは禁止されているカジノや黒人とのセックスが楽 しめる国として、週末には1万5000人の白人が「国境」を越えて遊びに来たという(※)。

※アパルトヘイト時代の南アには「背徳法」という法律が存在し、白人と黒人のセッ クスは禁止されていた。

ボプタツワナが自治地域として発足してから「独立国」を経て消滅に至るまで、22年間ほとんど独裁体制を築いていたのがルーカス・マンゴペだ。マンゴペは伝統的な部族の王家出身で、高校教師をした後、59年に父の後をつい で首長になったが、68年に地域評議会の議長となったのを皮切りに、72年の自治地域発足で首相、77年の独立で大統領に就任し、一貫してトップの座に就 いていた。またマンゴペはボプタツワナ国民党も率いていたが、党内抗争で離党すると新たにボプタツワナ民主党を結成し、独立時には国会96議席のうち92 議席を占めるに至った。

マンゴペ
マンゴペは「ボプタツワナを絶対にANCの拠点にはしない」と白人政権に忠誠を誓い、「南アに協力することで、発言力が高まる」と唱えたが、80年代後半に反アパルトヘイト闘争が高揚する と、「マンゴペは南アの操り人形だ」と批判が高まり、独裁体制は揺るぎ始めた。マンゴペは87年に参政権などの市民権をツワナ族だけに制限して、批判を封 じ込めようとしたが、88年には野党の民進党と軍によるクーデターが発生し、マンゴペは南ア軍の介入で救出されたが(※)、90年にもクーデターが起きて 再び南ア軍に助けられるなど、政情は不安定となった。

ボプタツワナが豊かだったといっても、それは国民に還元されていなかった。鉱山やカジノからの税収が増えても、そのぶん南アからの補助 金が少なくなるだけで、富は南アへ吸い取られる仕組みに過ぎなかった。

白人政権に忠実だったマンゴペは、最後の土壇場で叛旗を翻した。白人政権 が93年末に全人種参加の総選挙実施とホームランドの廃止を発表すると、マンゴペはボプタツワナの消滅に抵抗して、南ア国籍を回復した国民の総選挙に向け た有権者登録作業への協力を拒否した。ホームランドを維持して自らの権力を守ろうとするマンゴペに国民は猛反発し、2月から公務員がゼネストに突入すると 軍や警察が発砲して流血の惨事となり、暴動は拡大。マンゴペはテレビ局やラジオ局を封鎖するなど一層強硬策に出た。

そこへアパルトヘイトの維持を主張する白人極右組織のAWBが、「マンゴ ペ政権を守れ!」と叫んで乱入。首都ムマパソで黒人を無差別に攻撃し始めたとこから、軍が反乱を起こし、マンゴペはヘリコプターで首都を脱出した。混乱は 収拾できない状態となり、3月13日に南ア政府は「マンゴペ政権の承認を取り消す」と宣言し てマンゴペを解任。ボプタツワナ駐在の南ア大使が知事に「変身」して、ボプタツワナの行政権を接収した。

マンゴペは「南アにボプタツワナの大統領を解任する権限はなく、自分は今でも大統領だ」と反論したが、国民からも相手にされず、ボプタ ツワナは総選挙前に消滅した。

マンゴペは98年に大統領時代の汚職事件で有罪判決が下されたが、現在では統一キリスト教民主党の党首に収まっている。


ボプタツワナの独立式典

おまけ:ボツワナよりも南アにツワナ族が多いわけ

ツワナ族は「自分たちの国」であるボツワナに住む人よりも、隣国の南アに2倍住んでいる。一体なぜかといえば、かつてイギリスはツワナ 族が住んでいた土地のうち、人が住むのに適した土地は直接支配して南ア領になり、砂漠だらけの不毛な土地は 放置して現在のボツワナになったからだ。

ツワナ族は王や首長たちの下で、トウモロコシの栽培や牧畜をして暮らしていたが、19世紀後半になるとボーア人(オランダ系移民)が建 てたトランスバール共和国に領土を侵食され、さらに現在のジンバブエに住むショナ族や、南のズールー王国にも脅かされるようになり、王のカーマ3世はイギ リスに保護を願い出た。イギリスは当初ボーア人との戦争に忙しくて構っていられなかったが、1884年にドイツが西海岸のナ ミビアと東海岸のタ ンザニアを植民地にし、さらにアフリカ南部を東西に横断して支配する構えを見せたため、方針を転換。王の願いを受け入れて、ベチュアナランド保護領を発足させた。

しかし翌85年、イギリスはリンポポ川やモロポ川を境に南側の価値がありそうな土地(=ツワナ族が多く住んでいる地域)を、直轄植民地 の英領ベチュアナランドとして切り離し、95年にケープ植民地と合併してしまった。

都市が存在しなかっ たベチュアナランド。政府が置かれていたマフェキングは南ア領内
イギリスは砂漠が広がる北部の保護領については資金を投じてまで開発するつもりはなく、ボーア人やドイツに取られたくな かったから確保していた程度で、王や首長たちに従来通り統治させていたが、ここに目をつけたのがケープ州首相のセシル・ローズだった。

ローズは南アフリカ会社を設立し、現在のジンバブエを征服して自らの名を冠したロー デシアと名付け、会 社が統治する植民地にしたが、ケープ植民地とローデシアを結ぶ鉄道を敷くために、1894年にはイギリス政府にベチュアナランド保護領も会社統治 領にするよう要求した。しかし「保護してもらうつもりだったのに、これ以上土地を奪われてはたまらない」とカーマ3世らがロンドンまで陳情に出かけて反対 し、ローズも翌年トランスバール共和国の攻略に失敗して失脚。南アフリカ会社は鉄道建設だけが認められた。

1910年にケープ植民地やその他の直轄植民地が合併して、イギリス自治領の南アフリカ 連邦が発足した。南アはベチュアナランド保護領も併合したいとイギリス本国に要求したが、再びカーマ3世らが反対したため、ベチュアナラン ドはスワジランドやバストランド(現:レソト)とともに保護領のまま残った。イギリスとしては自治領にしても保護領にしても、自国の領土には変わりないか ら、先住民に反乱を起こされかねないことは避けた方が賢明だと判断したのだ。

それでもイギリスはいずれ折を見てベチュアナランドを南アへ移そうと考えていたが、34年に南アが英連邦内の主権国家になり、61年に 英連邦を脱退してしまうと、アパルトヘイトで評判の悪い南アにベチュアナランドを渡すわけにはいかなくなる。そこでベチュアナランドを単独で独立させるこ とに決め、66年にボツワナとして独立させた次第。

ところで保護領時代、ベチュアナランドの政府は「外国」である南ア領内のマフェキングに置かれていた。なにしろベチュアナランドには、町と呼べるものは全く存在せず、鉄道の駅 の周りに数百人か数千人程度の村があっただけ。しかしボツワナとして独立することが決まると、いくらなんでも独立国の首都が外国にあるのはマズイということになり、独立前年の65年に人工都市・ハボロネス(現:ハボロー ネ)を建設して、政府を慌てて国内に移した。

独立当初のボツワナは、輸出できるものといえば牛くらいで世界最貧国の1つだった。しかし67年にダイヤモンドの大鉱脈が見つかったの を皮切りに、胴やニッケルなども発見。イギリスが見放していた不毛な土地には、実は財宝がザクザク眠ってい たことがわかり、ボツワナはダイヤモンドの輸出などでアフリカ有数の豊かな国になっている。

ちなみに今でも政府が外国にあるのが、南太平洋の英領ピ トケアン島。ピトケアン島は人口40人足らずの絶海の孤島なので政府が置けない。かつてはフィジーのイギリス政庁が管轄していたが、1970年にフィ ジーが独立してしまったので、現在はニュージーランドのイギリス大使館(高等弁務官事務所)がピトケアン島の政府を兼務しています。




ベンダ共和国 〜おとなしく消滅した辺境の「独立国」〜

 1962年 トホヤンドウ地域評議会が発 足
 1969年6月20日 ベンダ地域評議会に改称
 1973年2月1日 ベンダ自治地域が発足
 1979年9月13日 ベンダ共和国が独立
 1994年4月27日 南アフリカに復帰
 

首都:シバサ→トホヤンドウ 人口:71万8207人 (1990年)

ベンダ共和国は南アフリカの北東端、ジンバブエとの国境に近い場所にあった。面積7716平方kmで、ガザンクル自治地域と入り乱れた 飛び地が2ヵ所あったが、うち1ヵ所は独立にあたって南アから割譲されたもの。

国民の多くはベンダ族で、ベンダ族はジンバブエにも跨って住んでいる。し かしベンダ共和国とジンバブエの間は、幅5〜10kmの「マディムボ回廊」と呼ばれた南アの 領土で切り離されていた。ジンバブエには1979年までロー デシアという南ア同様にアパルトヘイトを実施していた白人国家が存在し、黒人ゲリラとの間で激しい戦争が続いていた。南アはローデシア政府軍を支 援し、ANCは黒人ゲリラと連携していたので、マディムボ回廊は南ア軍の管理下に置かれてい たのだ。

ベンダ共和国の領土は不毛な乾燥地帯が広がり、牧畜やトウモロコシ栽培が行われていたものの、干ばつに見舞われることもしばしばだっ た。このため農業は振るわず、1990年のGDPで農業が占める割合は8・3%に過ぎず、政府部門が54%を占めていた。政府の歳入は70〜80%を南ア 政府からの補助金に頼っていて、つまり国内にほとんど産業はなく、南ア政府と南アへの出稼ぎ 労働者に養ってもらっているような状態だった。

ホームランド設置に伴ってベンダ族の強制移住が行われ、周辺の南ア領と比べて人口密度は13倍にも及んでいたが、インフラの整備は放置 され、79年の独立時に舗装道路は2本しかなかったという。

ベンダのトップに就いていたのはベンダ族の王であるパトリック・ラマーノ・ムペプで、 地域評議会の議長や自治政府の首相を経て、独立とともに大統領に就任した。独立前の選挙では野党のベンダ独立人民党が議席の多数を占めていたが、ムペプは 首長たちの支持を集めて大統領になると、激しい野党弾圧に乗り出し、84年の総選挙ではムペプが率いるベンダ国民党が45議席中41議席を奪って圧勝。野 党が不正選挙だと抗議すると非合法化して、指導者らを逮捕してしまった。

ムペプが88年に死ぬと、蔵相でやはり首長出身だったラベレが大統領に就 任したが、南アでのANCによる反アパルトヘイト運動の激化に伴って、ベンダでもムペプ政権の辞任やホームランド廃止を掲げた抗議運動が激しくなっていっ た。そしてラベレ政権が窮地に追い込まれると、90年4月にガブリエル・ラムシュワナ大佐が 南ア軍の支持を得てクーデターを起こし、挙国協議会議長に就任して全権を掌握。ラムシュワナは首長たちの権限を奪って軍事独裁体制を築いた。

しかし、94年に南アの全人種選挙の実施とホームランド廃止が決まると、ラムシュワナは抵抗せずに従った。ホームランド廃止より一足早 く1月に挙国協議会議長をラマブラナに譲って政権から退き、南ア軍とANCゲリラが統合して発足した国家平和維持軍に加わった。




シスカイ共和国 〜部族のリーダー達を敵に回してクーデター頻発〜

 1961年 シスカイ地域評議会が発足
 1972年8月1日 シスカイ自治地域が発足
 1981年12月4日 シスカイ共和国が独立
 1994年3月22日 南アフリカが占領
 1994年4月27日 南アフリカに復帰
 

首都:ズウェリシャ→ビショ 人口:108万8476 人(1992年)

トランスカイに続いてコーザ族のもう1つのホームランドとして「建国」さ れたのがシスカイだ。面積7700平方kmで、当初の首都・ズウェリシャは白人の町・グラハムズタウン、独立時に移転したビショはキングウイリアムズタウ ンに隣接して、国民の多くはそれら「外国の都市」に住むか、働きに通っていた。シスカイに工場を誘致しようという計画はあったが、アパルトヘイトで南アが 国際的な経済制裁を受けていたため、進出した海外メーカーは台湾だけだったようだ(※)。

※「国際的に孤立した国同士」ということで、かつての南アと台湾、イスラエルは仲 が良かった。
セベ
シスカイでは1961年に南アが地元の首長たちを集めて地域評議会が作られ、72年に自治地域になったが、そのトップの座 に長年座ったのがレノックス・セベだった。セベは師範大学を卒業して教員になり、校長や視学 官などを歴任して地域評議会では教育や文化の担当委員になったが、73年の首相選出で、地元部族の首長でもあった現職を26票対24票で破って2代目の首 相に就き、81年の独立に伴って大統領になった。

セベは他のホームランドの元首たちと違って、部族の首長出身ではなく、か つ部族の首長を僅差で破ってトップに就いたため、権力基盤が弱かった。そのため一貫して反対派潰しに躍起となり、シスカイ民族独立党を結成する一方で、自 らの権力を脅かしかねない部族の首長たちを追放した。またシスカイ国防軍(2000人)に加えて警察軍も創設して恐怖政治を敷き、南アフリカでは合法的な 労働団体も禁止、83年の出国税導入に反対する民衆の抗議運動が巻き起こると、武力を使って弾圧した(※)。

※住民の多くは「外国」である南アへ毎日通勤しているため、出国税が導入されたら 毎日税金を取られることになってしまう。
セベに対する反乱は身内からも起こり、83年に情報機関のトップだった弟のチャールズ・セベ中尉がクーデターを起こそうとするが失敗。チャールズは逮捕さ れるが86年に脱獄し、セベの息子を誘拐してトランスカイへ逃げ去り、政治犯の釈放を要求する事件が起きた。

そして1990年、セベは香港外遊中にシスカイ国防軍のグクォゾ大佐によるクーデターで 倒された。グクォゾ大佐は軍事評議会議長を名乗って議会を封鎖し実権を握ったが、その後シスカイでは1年間で3回もクーデター未遂事件が起きて混乱が続 き、南ア軍による支援でどうにか乗り切った。グクォゾはセベ追放の理由を「不正と人権抑圧を取り除くため」と発表していたが、手にした権力が脅かされると 今度はセベ以上の抑圧に乗り出した。

グクォゾ
南アではアパルトヘイト撤廃に動き出した白人政権が、90年にANCを合法化してマンデラなど政治犯を釈放したが、シスカ イでは92年にANCを非合法化。キングウイリアムズタウンからビショへANCの抗議デモが押しかけると、軍や警察が発砲して多数の死傷者を出した。

白人政権が93年末に全人種参加の総選挙実施とホームランドの廃止を発表すると、グクォゾは選挙への協力を拒否してシスカイの独立を維持しようとしたが、住民の反乱に加えて公務員はゼネストに突入し、警察も反乱。強気 の構えを続けたグクォゾだったが、南ア政府がボプタツワナのマンゴペ政権の承認を取り消すと、一転して弱気になり、3月22日に辞任を発表して、シスカイ の行政権を南アへ返還した。

グクォゾはその後、92年の抗議デモへ発砲を命じた件で裁かれ、精神科医の報告によって罰金刑で終わったが、交通事故と火災による火傷 で不遇な人生を送ったようだ。



自治地域

クワズールー 〜「独立国」よりも南アが介入できなかった「王国」〜

左は85年1月まで、右は85年1月以降の旗
  

 1970年6月9日 ズールーランド地域評議会が発 足
 1972年4月1日 クワズールー地域評議会に改称
 1977年2月1日 クワズールー自治地域が発足
 1994年4月27日 自治地域を廃止

首都:ウルンディ 人口:574万8950人 (1992年)

自治地域のまま消滅したホームランドは、「独立国」になるだけの規模や基盤がなかったからだと思えば、そうとは限らない。「独立しろ」という南アからの圧力を拒み続け、敢えて自治地域のまま残ったホームランドもあった。クワ ズールーがその代表で、いくつもの飛び地に細分化されていたとはいえ、人口は500万を超え、ホームランドで最大だった。

クワズールーの国民はズールー族で、南ア人口の26・8%を占める最大民 族。ズールー語は南ア国民の半数以上が理解でき、英語やアフリカーナ語を上回る。人口が2番目に多いコーサ族(26・1%)とはライバル関係だ。

ズールー族はかつて強大な王国を築き、19世紀後半に進出してきたイギリス人に激しく抵抗し、ボーア人(オランダ系移民)を傭兵に雇う こともあった(※)。ズールー王国は1887年にイギリスに征服されたが、その後もズールー 族は王の下で結束し続け、1923年には「インタカ民族文化解放運動」を結成して、南ア政府にズールー王の地位を公認するよう要求した。これは現在のイン タカ自由党のルーツにあたる。「インタカ」とはズールーの王が代々所有し、民族の統合を象徴 する神器のことらしい。

※ズールー王の傭兵隊長だったルイス・ボタは、後にトランスバール共和国の首相を 経て、南アフリカの初代首相になった。
さて、クワズールーで最初から最後まで一貫してトップに就いていたブテレジ・マンゴスツも、 ズールー族の王族だ。マンゴスツはフォートヘア大学在学中に、ANCの青年組織に加わり、反アパルトヘイト 運動のリーダーとなったことで退学処分になった経歴を持つ。53年に父の跡を継いでマンゴスツの首長になり、叔父であるズールー王の補佐官 になったが、ANCとは密接な関係を保ち続けた。
マンゴスツ
そして1970年にズールーランド(72年にクワズールーに改称)の地域評議会が設置されると、マンゴスツは首相に就任す る。なぜまた白人政権がANCシンパのマンゴスツをトップに据えたのかといえば、王族を擁立しなければズールー族が納得せず、反乱が起きるのが目に見えて いたから。ズールー王は68年に死去し、皇太子はまだ21歳で海外亡命中だったから(※)、マンゴスツ以外に適した人選はなかった。
※ズールー王家では王位継承でゴタゴタが続き、皇太子は暗殺を恐れてセントヘレナ 島へ逃げていた。
マンゴスツもホームランドの権力を手に入れることで、ズールー族を合法的に結束させることができ、事実上の 王国が復活できると考えた。ANCもその戦略を支持して、クワズールーを「同盟国」と見なした。

こうしてマンゴスツはホームランドのトップでありながら、アパルトヘイト政策を公然と批 判した。南ア政府がクワズールーの「独立」を求めても拒否し続け、マンデラら政治犯全員の釈放を要求して交渉のテーブルに就くことも拒否し た。82年に南ア政府が内陸国のスワジランドに、「海への出口」としてクワズールーのイングワブマ地区を割譲すると発表すると(※)、クワズールーは「南 ア政府がクワズールー政府と事前協議せずに割譲を発表したのは違法だ」と裁判を起こして勝訴し、割譲構想を撤回させた。

※南アがスワジランドと不可侵条約を結んだ際に、スワジランドがANCにゲリラ基 地を提供しないことの見返りに、海への出口を与えようとした。南アとしてはクワズールーはいずれ独立させるつもりだったし、それならばクワズールーの一部 を事実上衛星国のスワジランドへ渡しても構わないと考えた南アが割譲を撤回した後も、スワジランドは「公約実行」を求め続け、「本来はスワジランドの領土 だったのに白人が進出した際に奪われた土地だ」と、2006年には国際司法裁判所に提訴する構えも見せている。
しかしマンゴスツはANCの社会主義路線を批判し、70年代後半からANCの武力闘争が活発になると、非暴力を主張して溝を深めていった。その一方で75 年にインタカ自由党(IFP)を結成し、79年にはANCと決裂。アパルトヘイトを批判して 国連が南アへの経済制裁を決めると、マンゴスツは「制裁で苦しむのは黒人だ」と制裁解除を訴えたが、ANCは裏切り者だと非難した。

民族色を前面に出したインタカ自由党のデモ隊を率いる マンゴスツ
マンゴスツが唱えた「反アパルトヘイト、反社会主義、反経済制裁、非暴力」の路線は、西側諸国で一定の支持を集め、インタカ 自由党は合法組織として南アの黒人を代表するかに映った。いずれ白人政権が崩壊したら、マンデラよりもマンゴスツが南アのトップに就くことを待望する声も 出始めた。しかし非暴力と言いながら、IFPの過激派はクワズールー警察から入手した武器で武装し、ANCとの抗争が激化した。

90年に白人政権がANCの合法化と政治犯の釈放を実行すると、マンゴスツの敵は白人政権ではなく、アパルトヘイト後の南アでトップを 争うはずのマンデラになり、IFPの過激派は南ア軍や白人右翼勢力と連携して、ANCとの武力衝突を繰り返した。ズールー王はマンゴスツと袂を分かち ANCに入党するが、もはやマンゴスツは公称100万人の党員を擁するIFPと、反ANCで一致する南ア軍部にがっちり支えられていたので、その地位は揺 るがなかった。他のホームランドではこの時期クーデターが繰り返されたが、クワズールーは政変とは無縁だっ た。

94年の全人種選挙実施が決まると、マンゴスツが率いるIFPは南アの連邦制導入とズー ルー王国の復活を要求して(※)、選挙をボイコットすると発表し、ANCとの間で流血の抗争が続いた。結局、IFPは土壇場になって選挙参 加を決めたが、第三党になったとはいえ10%足らずの票しか集められなかった。IFPの強固な地盤だったはずのズールー族でも、白人右翼と連携するIFP よりANCを選択した人が多かったのだ。

※クワズールーだけでなく、ズールー地方全体(現在のクワズールー・ナタール州に 相当)をズールー王国にして、独自の軍隊を擁するホームランド並みの自治権を認めろという主張。連邦制の下で「白人ホームランド」を設置しろという白人右 翼の主張と一致していた。
かくしてIFPはANC政権の連立与党に加わって、マンゴスツはマンデラ大統領の下で自治相に就任した。ズールー王国の復活は果たせなかったが、州名に 「ズールー」という民族名を入れさせたことで、とりあえず最低限の面目は保ったと言えそうだ。ナタール・クワズールー州でズールー王は政治的権限を有して いないが、「宮廷費」の一部は公費で賄われている。




レボワ 〜 白人都市の割譲を求めて独立をかわし続ける〜 

 1969年8月 レボワ地域評議会が発足
 1972年10月2日 レボワ自治地域が発足
 1994年4月27日 自治地域を廃止
 
 
 

首都:セシェゴ→レボワクゴモ 人口:292万 4584人(1992年)

レボワは南ア東北部にあったホームランドで、白人都市・ピーターズブルグ(現:ポロクワネ)を挟んで南北に領土が分かれていた。当初の 首都はピーターズブルグの北8kmのセシェゴに置かれたが、やがて南60kmにレボワクゴモが建設されて、こちらへ移転した。

レボワの住民は主にレソトと同じソト族で、北ソト族とも呼ばれる。初代首 相に就任したのは、伝統的なl族長出身のマトララだが、73年の総選挙でレボワ人民党(LPP)を率いたパトゥディが首相となり、マトララはレボワ国民党 (LNP)とともに野党に転じた。

パトゥディは教師出身で、南ア政府によるホームランド政策には批判的だった。南アがレボワに独立を促すと、パトゥディは「独立には経済 的自立が不可欠だ」と、ピーターズブルグなど白人都市の割譲を要求した。南ア政府はレボワに 周辺の領土を追加したものの、白人都市を譲り渡すわけにはいかず、結果としてレボワは独立を拒み通すことができた。

アパルトヘイトで国際非難を浴びた南アのボタ政権は、84年にインド系議会、カラード(混血)議会を設置して、「白人と有色人種との一 定の融和」を謳ったが、人口の大多数を占める黒人は相変わらず政治的権利を与えられなかったため、黒人による反政府暴動は激しさを増し、国際的にも「アパ ルトヘイトを誤魔化そうとする欺瞞的融和に過ぎない」と一層の非難を浴びた。しかしパトゥディはボタ首相の「改革」を賞賛したため、レボワでも学生らの反 政府運動が盛んになり、パトゥディは警察力で学校を閉鎖したり、反政府リーダーを暗殺するなどの強硬手段で対抗。86年には暴動はますます激しくなり、立 法評議会(国会に相当)の議員100人のうち、39人が抗議のため欠席する事態になった。

パトゥディが87年に急死したが、代わって首相に就任したLPPのラモディケは、ホームランド政策を完全に否定し、アパルトヘイトの解 消を主張する人物だった。このためレボワの暴動は収束した。

94年にホームランドが撤廃されると、ラモディケはANCに加わったが、翌年追放された。そして白人政権の元高官やトランスカイのホロ ミサらが結成した統一民主運動(UDM)に加わり、マンデラ政権と対立する一方で、レボワ地区の鉱業権を求めて訴訟を起こしたりしている。




ガザンクル 〜 「善政」を敷いたつもりが退陣要求で逆ギレ〜 

 1971年7月1日 マチャンガナ地域評 議会が発足
 1973年2月1日 ガザンクル自治地域が発足
 1994年4月27日 自治地域を廃止
 
 
 

首都:ギヤニ 人口:80万3806人(1992年)

南アフリカ東北部にあったガザンクルは、ツォンガ族のホームランド。ツォンガ族は南アに約150万人住んでいたが、ほぼ同数がモザン ビーク南部のガザ州に住み、さらにジンバブエにも跨って住んでいる。もっとも南アのツォンガ族のうち、約半数はヨハネスブルグやプレトリアの近郊で出稼ぎ 労働者として暮らし、ガザンクルにいたのは半数だった。

ホームランドの名称には、当初はツォンガ族の別称であるマチャンガナが用いられたが、自治地域の発足にあたって、モザンビークとの国境 に 跨ってかつて存在しガザ王国の名をもとに、ガザンクルと改称した。もっともモ ザンビークとの国境の間は、モザンビークに拠点を置くANCのゲリラの越境 に備えて南アが引き続き支配して切り離されたうえ、領土も南北に分断されていた。

ハドソン・ンサンウィシ

ガザンクルには伝統的な部族のリーダーたち を中心にした68人の立法評議会が置かれ、首相にはハドソン・ンサンウィシが 就任した。ンサン ウィシは地元の教育大学を出た後、アメリカで言語学を学び、帰国後は高校教師や校長、大学教授、視学官などを歴任した教育界のリーダーで、長老派教会 の議長を務めたり、欧米で講演をしてまわるなど幅広い活動をしていたが、69年から政界に身を投じた。

ンサンウィシは「白人による恩着せがましい好意はいらない」「黒人が望むのは人間として扱われることで、自分たちの運命を自分たちで決 められることだ」と、アパルトヘイト政策を批判して、白人と黒人との分離を唱えた。しかし南アからの独立は拒み、南アとの連邦制を要求した。

80年代後半に南ア各地で反アパルトヘイト闘争が激しくなっても、ガザンクルは平穏だった。ガザンクルには金鉱や工場があり、経済的に そこそこの水準だったのに加え、政治的にもンサンウィシが対立候補のないまま再選を続け、89年には対立候補が出たものの5期目の首相に選出されるなど、 安定が続いていた。そしてガザンクルは他の地域に比べて言論などの自由が保たれていた。

しかし90年2月に南ア政府がANCの合法化と政治犯の釈放を実行すると、ガザンクルではンサンウィシが前年に創設したギヤニ大学を拠 点に、ギヤニ青年会議(GYC)が結成され、「ンサンウィシ退陣」を要求し始めた。

GYCの集会を警察や軍が弾圧し4人の死者が出ると、GYCが率いる住民たちは暴動を起こし、南ア軍が介入して多数の死傷者や逮捕者を 出した。さらに公務員たちも長期ストライキに入り、ンサンウィシは立法評議会のムシュワナ議長が暴動に関わっていると言い出して逮捕しようとするなど、ガ ザ ンクルはたちまち混乱状態となった。

結局、ホームランドでいかに「善政」を敷こうが、反アパルトヘイト闘争に加わる黒人からすれば、ホームランドの存在やそのリーダーであることが南アの傀儡に映り、いざ 反政府闘争が起これば南ア軍の介入で事態を収拾しようとするのでは、それが実証されたことになるだけだった。

ンサンウィシは強硬手段で暴動を押さえつけ、ムシュワナを議長から辞職させるなどして独裁体制を敷き、93年3月に死亡するまで首相の 座に就き続けた。その後はンサンウィシが設立したシモコ進歩党のンスマロが、ホームランド廃止まで首相を引き継いでいる。シモコ進歩党はガザンクルが消滅 した後も存在し続け、98年にシモコ民主党と合併してシモコ党となり、国会の議席は失いながらも、ANCによる一党独裁の阻止と更なる差別の撤廃を掲げて 活動を続けている。


ガザンクルの立法議事堂




クワクワ 〜 「もっと領土をくれなきゃ独立しない」と南アを困惑〜

 1969年4月24日 バソトバボルワ地 域評議会が発足
 1972年4月1日 バソトクワクワ地域評議会に改称
 1974年11月1日 クワクワ自治地域が発足
 1994年4月27日 自治地域を廃止
 
 

首都:プチャディジハバ 人口:28万8155人 (1992年)

ホームランドの他にも、周囲を南アフリカに囲まれた黒人の王国がある。レソトスワジランドだが、この2つは南アフリカがでっち上げた国ではなくて、国連に加盟しているマトモな国 だ。なぜまた白人政権が続いた南アフリカの中に、「ブラック・アフリカ」の飛び地のような独立国があったのか。

レソトが独立したのは1966年、スワジランドは68年で、それまではイギリスの保護国だっ た。イギリスは1795年に南アフリカの南端にケープ植民地を築いて北上したが、イギリスに圧迫されたボーア人(オランダ系移民)は北へ逃れてオレンジ自 由国やトランスバール共和国を作り、ズールー族の王国も北東へ押されていった。こうしてオレンジ自由国に脅かされたレソト王国と、ズールー族に侵食された スワジランド王国は、19世紀後半に相次いでイギリスに保護を願い出て、イギリス宗主下の保護国となった。

一方で、ズールー王国やオレンジ自由国、トランスバール共和国は相次いでイギリスに征服されて直轄植民地となり、1910年にケープ植 民地と合わせてイギリス自治領の南アフリカ連邦が成立。34年に英連邦内の主権国家になった(※)。この時点では、南アもレソト、スワジランドもどちらも 大英帝国の宗主下にあったので、イギリスはレソトとスワジランドをいずれ南アへ移すつもりでいたが、戦後アパルトヘイトを非難された南アは61年に英連邦 を脱退してしまい、イギリスも悪名高いアパルトヘイトを続ける南アに黒人王国を渡すわけにはいかなくなり、 それぞれ単独で独立させることになった。つまり、かつてイギリスに抵抗して敗れた国々が現在の南アになり、もっと弱かった国々はイギリスに保護されて独立 国として残ったという次第。

※カナダやオーストラリア、ニュージーランドもそうだが、英連邦の国々は果たして いつから独立国になったのか、解釈の仕方がいろいろで、いまひとつはっきりしない。南アの場合で言うと、1910年に南アフリカ連邦としてイギリスの自治 領となる。31に英連邦発足にあたってその加盟国となる。34年イギリス国会で南アフリカ連邦地位法が可決し、主権国家として規定される。49年に英連邦 が改組されてイギリス国王(女王)への忠誠は必要なくなり(実はこの時、英連邦の名称からBritish=英がなくなったが、日本語ではそのまま「英連 邦」を使い続ける)。61年にアパルトヘイト政策を批判されて英連邦を脱退し、独自の国家元首(大統領)を擁する南アフリカ共和国へ移行する・・・、さ て、どれ?私は1934年が大きな区切りだと思いますが、日本の外務省のHPでは1910年と61年が区切りなようで。
さて、レソトの住民はソト族、スワジランドの住民はスワジ族だが、ソト族やスワジ族はかつて王国が失った領土にあたる南ア領内にも住んでいる。南アに居住 するソト族のホームランドとして作られたのが、クワクワだ。

クワクワとは、ソト語で「とっても白い」という意味。クワクワにはクワクワ山という白い岩石の山があり、かつて部族のリーダーがここに 立て篭もり、白人の侵略者に抵抗したという伝説の山だ。

クワクワのソト族は、バコエネとバトロコアという2つの部族に分かれていて、かつては「ワニ」が祖先だというバコエネがバトロコアを支 配していた。南ア政府は1969年に2つの部族の居留地を合わせてホームランドを作ることにしたが、部族名を冠すると揉めそうなので、紆余曲折の末、クワ クワになった。

クワクワは74年に自治地域となり、初代首相にはバトロコアの首長であるウェッセル・モ タが任命されたが、翌年の選挙でディクワンクエトラ党(勇者国民党)を率いたケネス・モペリが 勝利し、首相に就いた。モべリはラジオ局のアナウンサーとして人気を集めていたが、バコエネの首長の一族でもあった。

クワクワとブルーム フォンテーン。間にある黄色はボプタツワナ領のタバ・ンチュ
ホームランドの中でクワクワは最も小さく、面積わずか655平方kmで、神戸市(552平方km)よりやや大きいくらい。 南ア政府はクワクワが「独立」するよう求めたが、モペリは「狭くて産業もないのに独立なんかできない」と突っぱねて、独立してもらいたければもっと領土を寄越せと要求し続けた。ネを上げた南アは87年12月、オレンジ自 由州の州都・ブルームフォンテーン郊外の黒人居住地・ボチャベロをクワクワに割譲した。

ボチャベロは南アの司法首都でもあるブルームフォンテーン(※)から45km離れた場所に建設された、黒人用のニュータウンで人口は 30万人。ホームタウン以外ではヨハネスブルク郊外のソウェトに次ぐ黒人居住区だった。(ボチャベロの地図

※南アは首都が分散していて、官庁があるプレトリアは行政首都、国会が開かれる ケープタウンが立法首都。司法首都のブルームフォンテーンには最高裁がある。
ボチャベロには主にソト族が住み、多くがブルームフォンテーンへ通って働いていたほか、150以上の工場が集中していた。ボチャベロの近くにあるタバ・ン チュはボプタツワナの飛び地で、こちらは白人用のカジノがある歓楽地として賑わっていた(※)。
※ボチャベロのソト族はタバ・ンチュから移住してきた人も多かった。これはボプタ ツワナのマンゴベ大統領が独裁体制を固めるために、87年にツワナ族以外の市民権を剥奪し、ソト族の子供が学校へ通えなくなったため。
ボチャベロがクワクワ領になれば、人口は一挙に倍以上に増えるし、工業地帯が加わって「独立国らしい体裁」 が整うだろうというのが南アの目論見だった。しかし、ボチャベロはクワクワから300km近くも離れた飛び地だし、クワクワ領になって独立 されれば南ア国籍を失ってしまうとボチャベロの住民は猛反対。クワクワの首都もやがてボチャベロへ移転する予定になって、クワクワの公務員たちも抗議する 騒ぎになり、88年3月に高裁はボチャベロをオレンジ自由州へ戻すように命じた(※)。
※クワクワ政府は上訴したので、ボチャベロが返還されたのは最高裁で判決が出た 90年3月。
こうしてクワクワの領土はもとの狭さに戻り、モペリは独立を拒み通すことができた。モペリは「南ア政府に最も立ち向かったホームランドの指導者」と言われ たが、ANCには同情的で、90年に釈放されたマンデラがホームランドの首脳たちに会談を呼びかけた際、ほとんどが南アに気兼ねして欠席したなかで、会談 に応じたのはモペリとクワズールーのマンゴスツだけだった。

ホームランドが廃止された後、モペリが率いたディクワンクエトラ党は地域政党として活動を続けている。

Kwasizabantu Mission クワクワ山と旧首都・プチャディジハバの写真があります。




クワンデベレ 〜王子が率いた反独立運動〜

 1977年10月7日 ンデベレ地域評議 会が発足
 1981年4月1日 クワンデベレ自治地域が発足
 1994年4月27日 自治地域を廃止
 
 
 

首都:シヤブスワ→クワマランガ 人口:37万 3012人(1992年)

南アフリカにあった10のホームランドのうち、最後に設置されたのがクワンデベレだ。

ホームランドは建前上、南アに住む黒人各部族ごとの居住区であり「部族国家」ということになっていて、クワンデベレはンデベレ族の「国」ということにされたが、実際には人口の55%は周辺の白人農場から集められた雑多な 部族の黒人で、さらにツワナ族優先政策を進めたボプタツワナから流入してきた黒人も29%を占めていた。つまりンデベレ族はクワンデベレの中でも多数派で はなかったのだが、「ンデベレ族のホームランド」という体裁を繕うために、南ア政府はンデベレ族の首長に自治政府を率いるよう求めたが拒否され、スコサネ が初代首相に任命された。

権力基盤が弱かったスコサネは、「ンデベレ族の新しいアイデンティティを復興するため」と称してMookodoという文化団体を結成し たが、Mookodoはクワンデベレ政府から自警団としての権限を与えられ、警察が捕まえた反政府活動家を引き取ってリンチを加えるなど、暴力支配のため の機関と化していた。

クワンデベレはホームランドの中でも生活環境がとりわけ劣悪で、80年末時点で約20万人が配給物資に頼って生きていたといわれ、勤労 者の45%は「国外」の職場へ通うために、午前3時半から4時半の間に起きなくてはならなかった。86年までに電気が引かれた家はわずか0・2%で、病院 は1つだけ。医師は8人、歯科医は1人しかいなかったという。

このような状態では、「独立国」に仕立てるのはあまりに不可能だということで、南ア政府はもともとレボワへの編入を予定していたモウ ツェ地区をクワンデベレに割譲することを決定した。モウツェは土地が肥沃で、石炭等の鉱物資源も存在していたので、ここを加えればクワンデベレは経済的自 立の目途がついて安定するだろうという目論見だった。

ところがモウツェの住民12万人のうちほとんどはンデベレ族ではなく、クワンデベレに編入されれば土地も鉱業権も失いかねないと猛反発 した。スコサネはMookodoをモウツェに送り込んで85年12月31日に編入を強行したが、住民の激しい抵抗は3ヵ月間続き、クワンデベレはかえって不安定な状態になった。

スコサネがモウツェをようやく鎮圧したことで、南ア政府は「クワンデベレを86年12月に独立させる」と発表したが、これによって本土 でも南アの市民権を失うことを恐れた住民たちが激しい暴動を起こした。抵抗運動のシンボルとなったのは、ンデベレ族の王子であるジェームス・マラングで、Intando Yesizwe党と呼ばれる準地下組織を率いてANCと連携し、反独立運動を指揮していた。こうしてクワンデベレでは600台以上のバスが相次いでジャッ クされ、ゼネストも呼びかけられた。これに対してスコサネはMookodoによる徹底弾圧を続け、120人以上の犠牲者を出したが、7月にスコサネの右腕 だったヌトゥリが暗殺されると、ついに独立を断念。8月にスコサネは「南アによる独立要請を 引き受けない」と発表し、立法評議会もこれを承認した。

11月にスコサネが病死すると、Mookodoの突き上げでクワンデベレ政府はやっぱり独立しても良いと南ア政府に申し入れたが、こん どは南ア側が拒否し、87年に南ア政府は「住民投票で承認されない限り独立は与えられない」と発表。住民投票を実施すれば独立反対派が多数なのは確実で、 独立は事実上不可能になった。

クワンデベレ政府が混迷し続ける中で、マラングはANCのアドバイスによってコントレサと呼ばれる首長たちの評議会を結成し、反アパル トヘイト運動と首長たちが持つ伝統的な権威を結びつけるとともに、90年の選挙で勝利してクワンデベレの首相に就任した。

アパルトヘイトが撤廃されてホームランドが消滅し、94年に全人種参加の総選挙が行われると、マラングはIntando Yesizwe党をANCに合流させて、ANCの党員として南アの国会議員になった。しかしやがてANCと袂を分かって統一民主運動(UDM)に参加し た。

晩年のマラングは王に即位することを夢見ていたが、王位をめぐるお家騒動が決着せず、王子のまま2005年に死去した。




カングワネ 〜 黒人を減らすためなら領土も捨てる!〜

 1976年 スワジ地域評議会が発足
 1981年 カングワネ自治地域が発足
 1982年6月18日 自治を停止
 1984年8月31日 自治が復活
 1994年4月27日 自治地域を廃止

首都:ルイヴィル 人口:59万7783人(1992 年)

10ヵ所あったホームランドのうち、一度消滅してまた復活したのがカングワネ。カングワネは南アの東端にあり、スワジランド王国に張り付くように海岸沿いの大きい領土と内陸に小さな領土が3ヵ所ある。しかし公式の 首都・ルイヴィルや実際の首都・スコエマンスダルがあったのは小さな領土の方だ。住んでいるのはスワジ族で、スワジランドの国民と同じ。かつてカングワネはスワジランドの領土だったこともある。

スワジ族は現在のモザンビークのあたりに住んでいたが、16世紀から南下を開始。現在の南ア領に入ったところで、ズールー族に押し戻さ れ、現在のスワジランド一帯に定住して王国を建てた。しかしズールー族からの攻撃は続いて海岸沿いを奪われ、イギリスの保護国となってどうにか内陸の領土 は保つことはできた。こうして南アがイギリスから独立した後も、スワジランドはイギリス保護国のまま残り、1968年に独立した。

だからスワジランドは独立以来、スワジ族が住む海岸地帯を「もともとウチの領土だから返還しろ」と南アに求めていたが、82年6月に南 アは突然要求に応じて、カングワネをスワジランドへ割譲すると発表した。こうして前年に成立 したばかりのカングワネ自治地域は取り消され、イーノス・マブザ首相が率いるカングワネ政府は解散を命じら れてしまった。

スワジランドへ割譲されようとしたカングワネ(黄色)
南 アとスワジランドは82年2月に、「テロリズムと転覆活動」を一掃するという不可侵条約を秘密裏に締結し、スワジランドは国内にあるANCのゲリラ基地を 取り締まることを確約していた。南アがスワジランドに「海への出口」を与えるのはその見返りだった。また当時、ANCはモザンビークの社会主義政権に支援 されていて、南ア軍は80年からモザンビークへ特殊部隊を越境させたり、首都マプトへの爆撃を繰り返していた。そこでモザンビークとの国境地帯をスワジラ ンドへ割譲してしまえば、ANCはモザンビーク国内のゲリラ基地から南アを攻撃しにくくなるだろうと考えた。

そして南アのもう1つの目論見は、領土と一緒にそこに住むスワジ族もスワジランドへ割譲してしまうこと。南アはホームランドを次々と 「独立」させて、黒人から南ア国籍を剥奪していたが、そうして作った「独立国」を国際社会は認めず、非難を浴びるばかりだった。そこで国連加盟国で「世界 公認」のスワジランドへ領土付きで黒人を移すのなら、誰も文句は言えないだろ!というわけ で、いやはや、そこまでして黒人を減らしたいのかって感じですね・・・。

しかし、差別されているとはいえアフリカ随一の先進国・南アから、後進国のスワジランドへ移されてしまうスワジ族は猛反対。そして「カ ングワネは本来、ズールー王国の領土」だと思っているズールー族も大反発した。自治地域消滅に伴って首相を解任されたマブザは、解散命令の撤回を求めて訴訟を起こし勝訴。82年12月にカングワネ政府は復活したが、モザンビークか らのANCゲリラの侵入を食い止めたい南ア政府は自治の復活を認めなかった。カングワネが再び自治地域に戻ったのは、モザンビークが南アと不可侵条約を結 んで、ANCへの支援停止とゲリラ基地一掃を約束した84年のことだった(※)。

※モザンビークではポルトガル植民地時代の警察関係者らがMNR(モザンビーク民 族抵抗運動)という反共ゲリラを結成し、79年まではロー デシアが、それ以降は南アが支援していた。つまり南アとモザンビークの不可侵条約は「お互いの反政府ゲリラを支援しない」ということ。MNRは 92年に政府と和平協定を結び、モザンビークの内戦は終結。MNRはモザンビーク民族抵抗運動選挙同盟(レナモ)と名を変えて、民主化後は最大野党になっ ている。
さて、マブザは教育者出身で、ANCには同情的だった。91年に首相を退いた後、ペンリン大学の学長や銀行など企業の社長、国立公園の責任者などを歴任 し、97年に死去している。

アパルトヘイトが撤廃され、ANCが政権に就いた現在、南アでは「カングワネ割譲」の話は完全になかったものとされているが、スワジラ ンドは今でも「南アは公約を守れ!」と割譲を要求し続け、2006年には国際司法裁判所に提訴す る構えを見せた。

もっとも、すっかり民主化された南アに対して、スワジランドは国王ムスワティ三世が独裁的な権限を持ち、「アフリカ最後の専制君主国」 と言われるほど。しかもムスワティ三世の放蕩ぶりはハチャメチャで、13人の妻と2人の婚約者を持ち、国家予算の4分の1を国王のリムジンや自家用機の購 入費用に充てている。

さらに人口116万人の国なのに2万人の処女を集めて裸踊りをさせ16歳の新たな王妃を選んだり(※)、18歳の女子高生を学校から連 れ去って王妃にしたと母親から訴えられたり、「エイズ蔓延防止のため」と称して18歳未満の少女へ「5年間セックス禁止令」を出したかと思えば王自ら17 歳の少女と婚約して罰金(牛1頭)を払ったり・・・。その一方でスワジランドは干ばつが続いて多くの国民が貧困にあえぎ、エイズ蔓延で平均寿命は世界最短の35歳。これじゃスワジ族でもスワジランドへ移されたらタマラナイですね。

※リード・ダンスと呼ばれる伝統的な祭で、本来は処女が共同生活をして大人の女性 から「結婚の手ほどき」を学び、その仕上げにダンスをするというもの。最近では南アのズールー王もリード・ダンスを復活させて、現場の模様はこ んな感じ

参考資料:
政治的単位としての「部族」の創出とキリスト教宣教師の役割  http://www3.aa.tufs.ac.jp/~tkamiya/Xhosa_ethn.html
バントゥースタン http: //terasima.gooside.com/bantustans.html
新生南アフリカ・1994 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad- Ocean/7870/senkyomenu.html
楠原彰 「「黒人抗争」「部族対立」の真実」 http: //www.h3.dion.ne.jp/~win-tom/asahi02i.htm
南部アフリカ解放運動の歴史年表 http: //www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/africa/africa.htm
Kaiser Daliwonga Matanzima http://sahistory.org.za/pages/people/matanzima-k.htm
THE RISE AND FALL OF BANTU HOLOMISA http://www.anc.org.za/ancdocs/misc/holomisa.html
United Democratic Movement (UDM) http://www.udm.org.za/
UCD http://www.ucdp.org.za/
72 days that shaped South Africa http: //www.southafrica.info/ess_info/sa_glance/history/tenyearsago2.htm
TIME http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,945848,00.html
South Africa: Politics: News24 http://www.news24.com/News24/South_Africa/Politics/0,,2-7- 12_2032832,00.html
Chief Mangosuthu Gatsha Buthelezi http: //www.ccds.charlotte.nc.us/History/Africa/02/linge/linge.htm
A moment in time in South Africa http: //www.findarticles.com/p/articles/mi_m1285/is_n6_v24/ai_16009082
Armoria patric - Qwaqwa- http://www.geocities.com/haigariep/QwaqwaE.html
RaZSAR Holidays in Kimberley http://www.razsar.com/
Routes Travel Info http://www.routes.co.za/fs/phuthaditjhaba/index.html
Free State Tourism http://www.dteea.fs.gov.za/motheo.htm
Regional Profile Orange Free State http: //www.stanford.edu/class/history48q/Documents/EMBARGO/3chap4.htm
Botswana History Pages, by Neil Parsons http://www.thuto.org/ubh/bw/bhp1.htm
Paul Holden and Sello Mathabatha Mpumalanga 1948-1990: The Politics of Resistance http://www.mpumalanga.gov.za/HeritageManuscript/10%20Politics %20of%20Resistance.pdf
24.com http://www.news24.com/News24/South_Africa/0 、_1008083、00.html
SABC News  http://www.sabcnews.com/south_africa/general/0 、2172、110730、00.html
if you want to stay alive Stay away Conflicts in Gazankulu's Transition to a part of the Democratic South Africa
by Pascal Schmid http: //pages.unibas.ch/afrika/limpopo/papers/limpopo_html/limpopo_schmid.html
South African History Online http://sahistory.org.za/pages/people/bios/ntsanwisi-hwe.htm
The Black Past http://www.blackpast.org/?q=1973-h-w-e-ntsanwisi-petty-apartheid

Kruger2Canyons.com http://www.kruger2canyons.com/learningcentre/kruger_people_tsonga.ph
p

 

「消 滅した国々」へ戻る

『世界飛び地領 土研究会』TOPへ戻る