英語VSフランス語の争いで、あっちこっちと島が独立

タンナ国
ナグリアメル連邦
タフェア国
ベマラナ共和国 
 

 
1974年3月24日 英仏共同統治領ニューヘブリデズ諸島南部のタンナ島で、タンナ国の独立を宣言
1974年6月18日 フランス軍がタンナ島を制圧
1975年12月27日 北部のサント島を中心にアオバ島、マエウォ島、バンクス諸島、トレス諸島で、ナグリアメル連邦が独立を宣言
1980年1月1日 タンナ島を中心に南部でタフェア国が独立を宣言
1980年5月26日 イギリス軍がタフェア国の「首都」を制圧
1980年5月27日 北部のサント島で、ベマラナ共和国の独立を宣言
1980年7月30日 英仏共同統治領ニューヘブリデズ諸島がバヌアツ共和国として独立。サント島には24日に英仏両軍が上陸
1980年8月21日 バヌアツ共和国の要請でサント島に上陸したパプア・ニューギニア軍が制圧

バヌアツ共和国(旧ニューヘブリデス諸島)の地図
サント島の地図

イギリスとフランスが共同統治をしていたいう南太平洋の「変りダネ植民地」がニューヘブリデス諸島。1980年にバヌアツ共和国として独立を果たしたが、それと前後して南と北で「独立国」が出現し、危うくバラバラに解体してしまうところだった。

バヌアツは南北800kmの範囲に83の島々が点在する国で、住民はメラネシア系とはいえ100以上の言語が話されている。20世紀に入っても食人の風習が残り、特に北部では強い部族が弱い部族の村を襲って食べてしまうという、文字通り「弱肉強食」の世界となっていた島もあったほど。勇猛果敢な人々が暮らしていたのだ。

分離独立運動が盛んになった背景には、「白人ならともかく、他の島の連中にまで支配されたくない」という地理的な感情のほか、バヌアク党を率いてバヌアツの初代首相に就任したウォルター・リニが英国国教会の牧師だったことから、伝統文化の復活や独自の信仰を呼びかけていたグループが、「教会に支配される」と反発したことがあった。共同統治時代のニューヘブリデス諸島は、役所から警察、裁判所、学校に至るまでイギリス系とフランス系に分かれていて、島民たちはどちらの学校や教会に通ったかで、英語派と仏語派に分かれ、主導権争いをしていた。独立前の総選挙で英語派のバヌアク党が圧勝すると(※)、仏語派やフランス人入植者たちも分離独立の反乱に加わり、そこにアメリカの怪しい財団まで介入した。

※英語派はバヌアツの早期独立を掲げたバヌアク党でまとまっていたのに対し、仏語派はバヌアツ独立や分離独立、現状維持、フランスだけの植民地化などを主張するグループに分裂していた。
統治者だったイギリスとフランスの思惑も異なっていた。ニューヘブリデス諸島にはイギリス人はほとんど存在せず、オーストラリア人が多少住んでいただけだったが、フランス人は「コロン」と呼ばれた入植者があちこちの島に入植し、多くの土地を所有して農園を経営していた。イギリスは早くバヌアツを独立させて撤退したかったのに対して、フランスはコロンの保護と南太平洋を核実験で使っていたためにバヌアツ独立には消極的で、できるだけ長く植民地のまま残すか、せめて親仏政権の誕生を望んでいた。このためフランスは半ば公然と分離独立運動を支援した。反乱を鎮圧しようにも、両国の足並みが揃わないと軍隊を出動できず、ほとんど武器を持たない島民の反乱が相次ぐことになったのだ。

ナグリアメル連邦 〜反白人のはずがアメリカの財団をバックに独立〜

首都:バナフォ

「大統領モーゼ酋長」ことジミー・スチーブンス(中央)
サント島など北部の独立運動の中心となったのが、ジミー・スチーブンスという人物だ。

サント島生まれの彼は島の先住民ではなく、スコットランド人とトンガ人の血を引いているが、戦後、サント島にあった米軍基地で働いていて怪我をした時、島民たちに優しくされたことに感激して島民に尽くすことを決意。60年代にフランス人入植者がサント島バナフォ村で農場を作り始めると、白人による開発反対と伝統文化の復活を訴えて、地元酋長らと提携して白人農場の実力占拠を始めた。この運動はナグリアメル運動と呼ばれて島民たちの共感を呼び、スチーブンスがバナフォ村に作った「カスタム」という開拓村へ入植する島民が相次いだ。こうしてナグリアメル運動は他の島々にも広がっていった。

やがてジミー・スチーブンスは国際社会へのアピールを始め、71年には国連にイギリスとフランスによる植民地支配の不当性を訴えて、民族自決による独立を嘆願した。この時点ではスチーブンスが主張していたのはニューヘブリデス諸島全体の独立で、サント島の分離独立ではなかった。しかし75年に英語派がバヌアク党を結成すると、スチーブンスは当初の敵であったはずのフランス人入植者と手を握るようになった。フランス政府も英語派の台頭を牽制するためにナグリアメルを利用しようと考え、スチーブンスをパリへ招待して大統領と会見させた。

そしてもう1つ、スチーブンスに接近したのがマイケル・オリバーが率いる「フェニックス財団」だった。フェニックス財団は71年にタックスヘイブン(租税回避地)となったニューヘブリデス諸島で4000ヘクタールの土地を買い占め、それらの土地を細分化してアメリカで売り出し稼いでいた(いわゆる原野商法)。こうして集めた資金で「あらゆる国家から干渉されない、企業活動にとって自由な理想郷」の実現を目指し、トンガ沖で「独立国」のミネルバ共和国を作ってみたり、バハマのアバコ島で独立運動を煽ってみたが、ことごとく失敗。そこでスチーブンスを操って傀儡国家を作ろうと、資金提供を持ちかけて分離独立をけしかけた。

かくしてフランス大統領やアメリカの財団を味方につけたと舞い上がったスチーブンスは、75年末にサント島やアオバ島、マエウォ島、バンクス諸島、テレス諸島など北部の島々でナグリアメル連邦の独立を宣言した(※)。

※ナグリアメルの支持者たちがサント島で集会やデモをした際、フェニックス財団の工作員がプラカードの文字に「連邦」を書き足して、独立を既成事実にしてしまった・・・とか。
スチーブンスは大統領モーゼ酋長を名乗り、バヌアク党首が英国国教会の牧師であることに対抗してナグリアメル・ロイヤル教会を設立して信者を獲得し、各島々の女性と結婚して影響力を広げる手段も採った(※)。またフェニックス財団からの援助で地下放送局を作って独立を宣伝し、ナグリアメル連邦銀行を設立して独自のコインも発行した。
※スチーブンスには23人の妻と4ダースの子供がいたという。
そしてナグリアメル連邦は、「税の廃止」「あらゆる金融規制の撤廃」「他者の権利を侵害しない限り完全に自由な企業活動」などを謳った憲法草案を発表した。大半の住民はほとんど裸同然で自給自足の生活によって暮らし、貨幣経済すらどこまで浸透しているのやらといった状態なのに、いきなり「金融規制」を云々してもと思うが、この草案はオリバーの手で作成されたもので、フェニックス財団がアメリカやオーストラリアで新たな出資者を募る時の宣伝に利用された。

世界各地で独立運動に資金提供するだなんて、フェニックス財団はずいぶん気前がいいなと思いきや、「あらゆるビジネスの理想郷がいよいよ実現!世界から大企業が集まり発展確実な島にあなたも投資をしませんか?」と呼びかけて金を集めていたわけで、何のことは無い独立運動の支援自体が「オリバー流錬金術」だったのだ。

ジミー・スチーブンスは外交活動も積極的に行い、アメリカやオーストラリアを訪問して、「サント島にベトナム帰還兵の受け入れ村を作る」「マエウォ島にインドシナ難民1000人を受け入れる」など、欧米人の関心を呼びそうなプロジェクトを次々とぶち上げた。しかしフェニックス財団の意を受けたこれらの構想は、各島の酋長たちの反発を招いた。そして本来は「白人から土地を取り戻す」はずだった運動が、フランス人入植者や土地を買い占める白人と手を結ぶようになって支持者たちも離れていき、ナグリアメルが支配した島々は、77年には再び英仏両国の統治下に戻った。オリバーはスチーブンスに「サント島だけの独立に専念するように」とアドバイスしたという。

ベマラナ共和国 〜弓矢が武器の反乱を英仏両軍は鎮圧できず〜

首都:ルーガンビル

やがて80年のバヌアツ独立に向けて交渉が始まると、ナグリアメルは連邦制を主張するが受け入れられず決裂。79年秋の選挙で英語派のバヌアク党が圧勝すると、惨敗したナグリアメルや仏語派は「不正選挙だ」と暴動を起こし、バヌアツ独立を2ヵ月後に控えた80年5月にサント島でベマラナ共和国が独立を宣言した。

英語派主導による独立を嫌うサント島のフランス人は、「マギー」という島民のゲリラ組織を訓練してナグリアメルに協力した(※)。ゲリラと言っても弓矢で武装していた程度だが、サント島の中心地・ルーガンビルを島民800人とフランス人50人が襲撃し、島駐在のイギリス人官吏や警官を人質に取りながら、戦闘機が並ぶ空港を弓矢で襲って占拠した。この事件で英語派の島民やイギリス人、オーストラリア人入植者ら2000人が難民となって他の島へ避難する騒ぎになった。

※バヌアク党は土地所有権を先住民の手に取り戻す政策を掲げていたため、多くの土地を所有していたフランス人入植者たちは独立後の政府による土地没収を恐れて分離独立を支援した。またフランス人はできればマヨット島のように、サント島だけはフランス領のまま残留することを望んでいた。
スチーブンスはベマラナ共和国の首相に就任し、ナグリアメルのリーダーたちやフランス人を閣僚にした内閣を発足させた。オリバーはさっそくベマラナ共和国からサント島北部のビッグベイ一帯を租借する契約を結び、アメリカでベマラナ共和国への投資計画を発表した。租借契約の内容はといえば、オリバーはベマラナ共和国の憲法(実はオリバーが作成)に反しない限り、租借した土地をいかなる目的のために利用しても良く、たとえ憲法が改正されようがオリバーの権利は絶対に変わらない・・・というもの。苦節10年にして念願の傀儡国家を手に入れたフェニックス財団は、パナマで設立した「ベマラナ・デベロープメント社」を通じて信託ファンドを売り出し、サント島を舞台にした「オリバー流錬金術」もいよいよ本番を迎えつつあった(※)。
※ちなみに、カンボジアが国連に暫定統治されていた頃、私の知り合いの不動産会社の社長さんが、間もなく国王に即位することになっていたシアヌーク一家に取り入って、「アンコールワットを買収してテーマパークにする」という怖ろしい計画をブチ上げ、バブルがはじける直前の日本で大々的に出資を集めていました。で、ちょうどその時、たまたまカンボジアをバッグパッカーとして貧乏旅行していた私は、プノンペンの街中で社長さんとばったり逢ってしまい、「アンコールワット投資ファンド」宣伝のお先棒を担がされたことがあります・・・。その時の現地ルポはこちらですが、シアヌークが晴れて国王に即位した頃には、社長さんはもちろん夜逃げw
フェニックス財団提供の放送機材とジミー・スチーブンス
地下放送局から流れるスチーブンスのアジテーションによって、分離独立の動きは他島へも広がり、アオバ島でも35人の酋長がアガタカポ臨時政府を樹立して、ベマラナ共和国と政治・通商協定を結ぶと発表。マレクラ島でも分離独立運動が盛んになった。

せいぜい弓矢が武器の反乱だから英仏両国が軍隊が出動すればいとも簡単に鎮圧できそうだが、そうはうまくいかなかった。イギリスは「反乱にはフランス人も加わっているから仏軍が鎮圧すべき」と言い、フランスは「イギリス人が人質に取られているから英軍が鎮圧すべき」と主張して、互いに軍隊出動を押し付けあった。そうこうしている間に、バヌアツ共和国の独立日になってしまい、英仏両軍はとりあえずルーガンビルに上陸してバヌアツの国旗を掲げたが、独立国となったバヌアツから英仏両軍は撤退。バヌアツには軍隊はなかったのでどうすることもできず、8月にパプア・ニューギニアへ派兵を要請した。

パプア・ニューギニア軍がサント島へ上陸して3日目に、ベマラナ共和国側の抵抗は突然終わった。スチーブンスの息子が撃たれて死ぬと、スチーブンスは「暴力は望んでいない」と投降したのだ。放送局は閉鎖させられ、フランス人も追放されて(※)、ベマラナ共和国の独立運動は死者1人を出して終息。フェニックス財団は25万ドル以上の資金を投じたと言われているが、マイケル・オリバーの野望はまたも失敗に終わった。

※独立後のバヌアツの土地所有権は、憲法の規定によって伝統的所有者(=先住民)に限定された。土地を奪われて追放されたフランス人の多くはヌメア(仏領ニューカレドニア)へ移住し、フランス政府から補償を受け取った。
スチーブンスは懲役14年の判決を受けたが、病気で91年に釈放され、3年後に死亡した。現在でもスチーブンスの息子の1人、フランキー・スチーブンスがリーダーとなって、バナフォ村の「カスタム」を拠点に伝統文化に基づいた生活を実践するナグリアメル運動が続いている。ただし分離独立を目指すことはせず、政府との和解式も行われたようだ。バナフォ村にはナグリアメル銀行や地下放送局に使っていた建物が残っていて、スチーブンスの墓とともに観光スポットになっている。

 
ナグリアメル連邦が発行した硬貨。もっとも島では使われず、フェニックス財団が世界のコレクター向けに販売して資金を稼ぐ手段の1つだった


タンナ国 〜アメリカを崇拝する島民たちがフランス人を王に担いで独立〜

首都:イマフィン

一方、タンナ島を中心とした南部の独立運動原動力になったのは、ジョン・フラム運動と呼ばれる信仰だった。

南太平洋の島々では、ヨーロッパ人が来航するようになってから伝染病が持ち込まれて人口が急減した。伝統社会が崩壊の危機に瀕した島民たちは救世主の到来を熱望し、19世紀末から「いつの日か、ご先祖さまが白人に姿を変えて、船にたくさんの物資を満載してやって来るはずだ」という教えが広まった。これが積荷信仰(カーゴ・カルト)と呼ばれるもので、それまで見たことも無い文明の利器を持っている白人への畏怖が信仰と化した。

そして戦後、タンナ島では積荷信仰がますます盛んになった。そのきっかけは第二次世界大戦で、ニューヘブリデス諸島にはアメリカ軍が進駐して来たが、彼らはある日突然、大量の物資を船に満載して現れ、その中には自分たちと肌の色が似た黒人兵(ご先祖さま?)も混じっていた。島民たちは「やっぱり教えは本当だった!」と仰天し、「アメリカにはジャングルや海では生み出せない、ラジオやジープ、冷蔵庫などの工業製品が作れるジョン・フラムという神がいて、ジョン・フラムはいつか必ずそれらの工業製品を満載した船に乗って島へやって来る」という新たな教えが広まった。

島民たちはアメリカ軍が医療活動を行う時に掲げていた赤十字の旗や星条旗を「ジョン・フラムの象徴」として掲げ、村にはジョン・フラムと交信するために櫓に蔓をまいた電波塔が建てられ、アメリカ軍の行進を模して胸に「USA」と書いた男たちが竹槍を担いでパレードする祭りを始めた。

竹槍を担いでパレードする島民たち
やがてタンナ島では「アメリカ軍がいなくなり、ジョン・フラムが島へ来れないのは、政府や教会が邪魔をしているからだ」と、反政府運動が盛んになり、73年になるとイギリスの教会が襲撃されるなどの暴動に発展した。島に入植していたフランス人たちは、アントワーヌ・フォーナリを代表に選んで島民たちと交渉を始めたところ、フォーナリは島の5人の酋長たちからすっかり信頼されて、「タンナ島の王」に担がれてしまう。こうして74年3月には島北部のイマフィン村に800人の島民が集まり、タンナ国の独立を宣言した。

3ヵ月後にフランス軍が上陸してイマフィン村を占領したが、島民たちとの関係悪化を恐れた島のフランス人たちが反発し、フォーナリ王はフランス大統領とイギリス女王宛てに、タンナ島の独立と8日以内にイギリスの役人が立ち去るよう求める手紙を送ったが、無視された。そして6月末には英仏連合軍が改めて上陸してタンナ国の指導者らを逮捕。フォーナリ王も1年の実刑判決を受けた後、仏領ニューカレドニアへ追放された。

タフェア国 〜エジンバラ公が「竹槍」で鎮圧した独立運動〜

首都:ラムル

こうしてタンナ島の独立運動はいったん収拾したが、ジョン・フラム運動は新たにイギリスのエジンバラ公を神と崇めて、再び盛んになっていった。なぜまたアメリカ人の次はイギリス人を崇拝したのかというと、74年にエジンバラ公がエリザベス女王とともにニューヘブリデス諸島を訪問した際、「イギリスから高貴な人がやって来た」という噂を聞いた島民たちは、海軍の白い制服を着たエジンバラ公を見て、「ジョン・フラムを島へ運んでくる飛行機のパイロットに違いない!」と確信したから。さらにエジンバラ公はジョン・フラムと兄弟の神だと、新たな教えが広まった(※)。

※タンナ島に聳える活火山の神には2人の息子がいて、1人はアメリカのジョン・フラム、もう1人は海の向こうで白人女性と結婚した・・・という言い伝えがあったが、それが実はエジンバラ公だったと「解明」されたらしい。
やがて英語派のバヌアク党主導によるバヌアツの独立が決まると、「選挙で不正があった」と反発したフランス人たちは、ジョン・フラム運動のリーダーと手を組んで反乱を起こし、80年1月にタフェア国の独立を宣言した。「タフェア」とは、タンナ島とフツマ島、エロマンガ島、アナトム島、アニワ島の頭文字をつなげたもので、反乱の直前にこれらの島からはフランス人の役人が姿を消していたという。

タフェア国の資金を支えたのは、例によってマイケル・オリバーが率いるフェニックス財団、フランスの植民地銀行だったインド・スエズ銀行のヌメア支店(ニューカレドニア)を通じて、月2万ドルの資金援助を始めた(※)。アメリカから贈られて来る資金は、島民たちに「ついにジョン・フラムの降臨か!?」と錯覚させる効果もあったようだ。

※その一方で、フェニックス財団は「タフェア・デベロープメント社」を設立し、ベマラナ共和国のような「オリバー流錬金術」の準備も進めていた。またナグリアメル連邦憲法とそっくりのタフェア国憲法も作られたが、タンナ島ではほとんど発表されず、フェニックス財団の広報誌によってアメリカで宣伝された。
しかしタンナ島に「降臨」したのは、もう1人の神様・エジンバラ公だった。反乱勃発にフランス軍はなかなか鎮圧に乗り出そうとせず、5月末にイギリス軍が上陸。分離独立運動に関与したフランス人をニューカレドニアへ追放する一方で、島民たちを竹槍を抱えたエジンバラ公の御真影で懐柔し、反乱は終息した。

一体どうしてエジンバラ公と竹槍なのかというと、反乱が起きる前、ジョン・フラム運動のリーダーは神と崇めるエジンバラ公宛てに竹槍を献上し、そのお返しにエジンバラ公が竹槍を手にした写真を下賜してくれるよう求めていた。エジンバラ公はいきなり送られてきた竹槍に驚きながらも、律儀にバッキンガム宮殿で竹槍を手に写真を撮影し、島民に渡すようニューヘブリデス諸島の政庁へ送った。反乱が起きたとき、ちょうどエジンバラ公から写真が届いたので、イギリス軍は反乱鎮圧にこの「御真影」を利用したという次第。まるで「水戸黄門の印籠」みたいですね。

竹槍を手にしたエジンバラ公の「御真影」を崇める島民たち
現在でもタンナ島ではジョン・フラムやエジンバラ公を崇拝する信仰が続いていて、村には星条旗がはためき、毎年2月15日には盛大な祭が開かれている。バヌアツ国会にはジョン・フラム運動の議員もいるようだ。
 

フォトギャラリー ダンナ島やサント島の写真がたくさんあります
国際機関 太平洋諸島センター サント島の観光案内
全的理解と積荷信仰 タナ島(タンナ島)の積荷信仰について。伝統的な踊りの映像もあります
社会人類学の可能性 歴史のなかの社会 ナグリアメル運動についての吉岡政徳氏の論文です
Laurent Theeten . Photographe ナグリアメルの「カスタム」の写真(仏語)
 

参考資料:
吉岡政徳 社会人類学の可能性 歴史のなかの社会 http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Ibunka/kyokan/yoshioka/yoshioka-sub4-nagriamel.html
吉岡政徳 <場>によって結びつく人々ーヴァヌアツにおける住民・民族・国民 http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Ibunka/kyokan/yoshioka/yoshioka-sub4-ba.html
全的理解と積荷信仰 http://www.apa-apa.net/kok/news/kok197.htm
Radium Software Development http://www.radiumsoftware.com/0604.html
バヌアツ政府観光局 http://vanuatu.sitedekanko.jp/index.htm
South Pacific Organaizer http://www.southpacific.org/text/finding_vanuatu.html
Erik Victor McCrea http://www.geocities.com/erik_mccrea/linksN.html
Daily Mail http://www.dailymail.co.uk/
Port Vila Presse http://www.news.vu/en/news/
Vanuatu Daily Post http://vanuatudaily.com/
New Internationalist http://www.newint.org/issue101/phoenix.htm
Monty Lindstrom "CULT AND CULTURE: AMERICAN DREAMS IN VANUATU" http://patriot.lib.byu.edu/PacificStudies/image/2959161932003_91925.pdf
TIME. Coup in Paradise http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,924208,00.html
AllStates Flag. com http://www.allstates-flag.com/index.htm
The British Friends of Vanuatu http://www.british-friends-of-vanuatu.com/index.html
Xignite WorldNews http://www.xignite.com/xWorldNews.aspx?articleid=SEP20060921107006
 
 

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