高校球児の心を踏みにじった異民族支配の現実

飛地と甲子園

甲子園と言えば高校野球。甲子園大会は日本高等学校野球連盟が主催しているし、日本の高校だけが出場するのかと思えば、かつては海外から出場したチームもありました。

例えば、戦前は台湾、朝鮮、関東州などの代表校が出場。当時これらの地域は日本の植民地、つまり日本の領土だったので日本の学校のチームとして出場したわけですが、戦後はアメリカから出場していたチームがありました。

アメリカと言うのは沖縄のこと。1972年まで沖縄はアメリカの統治下で、アメリカの飛び地のような場所だったが、日本政府の見解は「アメリカが統治することを認めたとはいえ、沖縄は本来日本の領土であって、日本が潜在的な主権を持つ地域」だったので、いちおう日本領。1958年に夏の甲子園大会が第40回の記念と言うことで、すべての都道府県から代表チームを出場させることになり、「沖縄も本来日本領だから」と、代表が甲子園へ招かれることになった。

こうして沖縄代表の首里高校が甲子園のマウンドに立ったのだが、アメリカの統治下で祖国復帰運動が続いていた沖縄では、「一足早い高校野球の祖国復帰だ!」と感激もひとしお。まぁ、しかし、参加することに意義があるというのが甲子園で、初戦で敗退。選手たちは他のチームと同様に、出場の記念に拾った甲子園の土を懐に、船で沖縄へと戻っていった。

ところが、高校球児たちの大事な思い出の土にもイチャモンがつくのが飛び地の現実、異民族支配と言うもの。沖縄はアメリカ統治下にあったから、日本本土から船や飛行機で着くとパスポート(沖縄住民の場合は渡航証明書)の審査や税関、検疫の検査を受けなければならなかったが、検疫では「外国の土は持ち込んではならない」という規定があり、球児たちが大事に持ち帰った甲子園の土は外国の土だから検疫法違反と言うことで没収され、那覇港の海に棄てられてしまったのだ。

この事件がマスコミで報じられると、高校球児の心を踏みにじり、甲子園の土=祖国の土を持ち込ませない無情な異民族支配の現実は、大きな反響を巻き起こした。折りしも沖縄では、1957年に植民地でいえば総督にあたる絶大な権限を持つ高等弁務官がアメリカから派遣されるようになり、58年には通貨がそれまでのB円(軍票)から米ドルに切り替えられて、アメリカによる沖縄の永久支配に向けた体制が着々と整えられていた時期でもあった。かくして沖縄では祖国復帰を求める声がますます高まり、1960年には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成されて、沖縄の日本への返還を求める本格的な大衆運動が始まったのでした。

ちなみに首里高校の球児たちには、事件を知って同情したスチュワーデスが「土がダメでも石ならいいでしょ」と甲子園の石を贈り、今も首里高校の記念碑にはめ込まれているとか。

また那覇港では、アメリカ人の職員が仁王立ちになって「ヘイ!ユー!」とか言いながら土を没収したわけではなく、沖縄人の係官が「あの〜、規則ですので土持ってきた人は出してください・・・」という感じで没収したため、正直に出さずにちゃんと土を持ち帰った高校生も、実際にはいたそうです。

※アメリカ統治時代の沖縄については、飛び地の運営実態『守礼の光』奄美群島委任統治領と信託統治領も参照してくださいね。
 

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