ロシアのお荷物となった、ドイツ人の「心の故郷」

東プロイセン&カリーニングラード

旧ドイツ領&ロシア領

1255年 ドイツ騎士団が入植
1525年 プロイセン公国が成立
1701年 プロイセン王国が成立。東プロイセンはその飛び地になる
1772年 プロイセン王国がポーランド領の西プロイセンを併合
1871年 プロイセン王がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立
1919年 ベルサイユ条約により、東プロイセンはポーランド回廊やダンヒチ自由市によってドイツ本土と分断され、再び飛び地となる
1939年 ドイツがポーランドに侵攻し、ドイツ本土と東プロイセンの間を占領
1945年 ソ連軍が占領。南北に分割され、南半分はポーランド領、北半分はソ連領(ロシア共和国)となりカリーニングラード州と改称
1990年 リトアニアがソ連から独立。さらにソ連が解体し、カリーニングラード州はロシア共和国の飛び地となる

ヨーロッパの地図(1908年)ドイツの領土がまだ大きく、東プロイセンが飛び地でなかった頃(日本語)
ドイツ北部の地図(1910年)KONIGSBERG(ケーニヒスベルク)が現在のカリーニングラード(ドイツ語)
現在のポーランドの地図ロシア領のカリーニングラードとポーランド領のWarminsqk-Mazurskieがほぼかつての東プロイセン(英語)

戦前のヨーロッパ地図を見ると東プロイセン(または東プロシア)というドイツの飛び地が目を引きます。で、その東プロイセンは今どうなっているかというと、カリーニングラードというロシアの飛び地になっていて、つくづく飛び地と縁が深い地域ですね。

東プロイセンにはもともとプルシ人とかプルッセン人とかいう先住民(つまり古プロイセン人)が住んでいて、しばしばキリスト教国のポーランドを脅かしていた。彼らは文字を知らず、時間を知らず、一夫一妻を守らないと言う、キリスト教徒からすると「未開で野蛮な異教徒」だったそうな。

そこで13世紀にドイツの騎士修道会が入植し、プルシ人を改宗させたり殺したりしながら植民地を築き、先住民の名を取って「プロイセン」と名乗るようになった。修道士の支配の下でプロイセンは開拓が進み、ドイツからの移民も増えてケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)やダンチヒ(現在のポーランド領グタニスク)などの都市が建設され、ポーランドを脅かすようになる。しかしやがて地主や貴族たちと修道士たちが内紛を起こすようになり、1466年に西プロイセンはポーランド領に、東プロイセンはポーランド国王の宗主権の下で修道会国家となった。そして宗教革命が起きると、1525年に修道会国家の総長でホーヘンツォレルン家出身のアルブレヒトはプロテスタントに改宗してしまい、世俗の「プロイセン公」となってプロイセン公国を作った。

ホーヘンツォレルン家は15世紀からブランデンブルグ(ベルリン一帯)を支配していたが、1618年にプロイセン公の後継ぎが絶えるとプロイセン公国を相続した。そして17世紀の三十年戦争で神聖ローマ帝国が実質的に崩壊しドイツがバラバラになると、ホーヘンツォレルン家はそれまで支配していた領地を合わせて1701年にプロイセン王国を築く。プロイセン王国の首都はベルリンで、東プロイセンはポーランド領の西プロイセンを挟んでその飛び地になったのだが、初代国王のフリードリッヒ1世はプロイセンを尊重してケーニヒスベルクで即位した。現在でも東プロイセンが「ドイツ人の心の故郷」と言われる由縁だ。

プロイセン王国は1772年にポーランドから西プロイセンを奪い、18世紀末にはロシア、オーストリアとともにポーランドを分割した。さらにビスマルク首相の下で国力を伸ばし、1871年には普仏戦争でフランスを破ったプロイセン国王がドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に即位して、ドイツ帝国が成立する。こうして辺境の植民地の名だったプロイセンがドイツを代表することになったのだ。

第1次世界大戦で破れたドイツは、ベルサイユ条約で領土を縮小させられた。西プロイセンは「海への出口」としてポーランドに与えられ、その中心都市だったダンチヒは国連管理下の自由市として独立し、東プロイセンは再びドイツ本土と切り離された飛び地となった。やがて台頭したヒトラーはドイツの歴史的な領土の回復を強く訴え、ドイツ西南端のザールに続いて1939年に東プロイセン東北端のメーメル(フランス軍の委任統治を経てリトアニアが併合。現在リトアニア領)を併合した。メーメルの住民は当時80%がドイツ人だったので、船で視察に訪れたヒトラーは熱狂的に歓迎されたが、この時ヒトラーはひどく船酔いをして大いに怒り、飛び地解消のためにポーランド侵攻を決意した・・・なんて説もあるけど、果たしてどうでしょう?

1943年発行の地図。ポーランドは分割されたうえ、西プロイセンはドイツ本土に編入されています
第2次世界大戦の後、東プロイセンは南北に分割されて、南部は西プロイセンと共にポーランド領に、そして北部はソ連に併合されてロシア共和国の一部となった。この時、リトアニアなどバルト三国もソ連に併合され、ソ連の下での共和国となったが、なぜ東プロイセン共和国は作られずロシアになったのかといえば、東プロイセンに住んでいたドイツ人はほとんどドイツ本土へ強制移住させられ、新たにロシア人が入植したから。ケーニヒスベルクもソ連の元首(最高ソビエト幹部会議長)の名を取ってカリーニングラードと改称され、ソ連領の東プロイセンはカリーニングラード州となった。

カリーニングラードはソ連にとってバルト海に面する唯一の不凍港で、東西冷戦の中で軍事戦略拠点として重要な地域だった。しかしソ連が崩壊するとその意義は薄れ、バルト三国やウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)が独立するに及んで、ロシアの飛び地として取り残されてしまう。

それでも当初はここを自由貿易地区にし、「西欧へのロシアの玄関口」「ロシアの香港」として大々的に投資を呼び込もうという夢が広がっていたが、93年から経済特区に指定されたにも関わらず、政治や経済で混乱が続いて投資は呼び込めず、軍需産業を中心とした国営企業は多くが破綻し、20万人が駐屯していた軍隊は10分の1に削減されて、98年の同州のGDPは89年と比べてなんとマイナス57%。自由貿易どころか密輸の拠点となり、住民の約半数が「担ぎ屋」をやっていると言われる。ソ連からの独立で民族主義が台頭したバルト三国からはロシア系住民が流入し、人口43万人のの4割が貧困にあえぎ、犯罪率もロシア平均をおよそ20%上回って、売春や麻薬の蔓延でエイズ感染も拡大していると、一時は惨々な状態に陥った。

そんなカリーニングラードも、1990年代末からロシア経済が好転し始めると、V字型の回復を遂げた。経済特区としての優遇政策(※)がロシア本土からの投資を呼び込み、家電や家具製造、食品加工などの新たな産業が急成長した。カリーニングラードの工業製品のうち、域内消費は7%、海外への輸出は13%で、80%がロシア本土へ輸出されている。西欧への玄関口という構想は果たせなかったが、ロシアの新興工業地帯として本土との結びつきが一段と強くなった。

※海外から無制限な輸入と関税や付加価値税、間接税の免除、ロシア本土への輸出には付加価値税、間接税の免除、法人税の軽減など。つまりロシア企業が外国製品を輸入しようという場合、カリーニングラードに工場を建てて「ちょこっと加工」したうえでロシア本土へ運べば、安く無制限に輸入することができ、儲けも多く確保できた。いわば「密輸の合法化」に近い。そこでまず食品(缶詰やソーセージ)の加工工場が激増し、テレビや自動車の組立工場も進出した。
カリーニングラードの新たな懸念材料は、2004年のリトアニアとポーランドのEU加盟だった。カリーニングラードから陸路でロシア本土へ行くには、リトアニアかポーランドのどちらかを通らなくてはならない。これまでリトアニアは旧ソ連だったのでロシア人はビザなしで通過することができたが、EUに加盟すればリトアニアは西欧諸国と自由に行き来できるかわりに、ロシア人がリトアニアへ入るにはビザが必要になる。そうしなければ、ロシア人がリトアニア経由でフランスやドイツへどんどん流れ込んでしまうからだ。そこでロシアは「本土とカリーニングラードの間には自由通行権がある」「ビザなし通過を認めないのは非人道的」と反発していたが、結局リトアニアがカリーニングラードの住民に手続きが簡素な通過ビザを与えることで妥協することになりました。

いっそのこと、カリーニングラードを徹底的な自治州にして、ロシア本土とカリーニングラードとの間は自由な行き来を制限して関税も設ける。そのかわりカリーニングラードとEU諸国の間はノービザで行き来を自由にする・・・なんてことはできないんですかね?「ロシアの香港」を目指すと言っていたけど、香港は実際、そうしています。

★なぜか気になる東プロイセン(カリーニングラード)の砂州の上の国境線

こちらを参照してくださいね。

●関連リンク

ウィキペディア―カリーニングラード
Amber and Beads Jewelry 現在カリーニングラード州最大の産業が琥珀。全世界の90%がここで生産されているそうです
ロシア・ドイツ人の辿った道 ロシアへのドイツ人殖民の歴史と、戦争やソ連解体によるドイツへの引き揚げの現状(復元サイト)
フアマン・ミヒャエル 「EU・露関係の試金石カリーニングラード」 カリーニングラードの経済成長について(PDFファイル)
 
 

『世界飛び地領土研究会』トップページへ戻る