ソ連崩壊で勃発したアルメニア人の「失地回復」の聖戦

ナヒチェバン

アゼルバイジャン領

1829年 露土戦争後のアドリアノー ブル条約で、アルメニアやアゼルバイジャンなどコーカサス地方一帯が、トルコからロシアへ割譲される
1917年 ロシア革命でソビエト連邦が成立し、アルメニア とアゼルバイジャン、クルジアはコーカサス連合として独立。ナヒチェバンとナゴルノ・カラバフは住民の要求でアルメニアに編入
1920年 コーカサス連合で革命が発生し、ソ連の衛星国と なる
1921年11月 カルス条約により、ナヒチェバンはナゴル ノ・カラバフとともにアゼルバイジャンに編入され、アルメニア内の飛び地となる
1922年 トランス・コーカサス社会主義連邦ソビエト共和 国としてソ連に加盟
1936年 トランス・コーカサス社会主義連邦ソビエト共和 国が解体し、アルメニアとアゼルバイジャン、クルジアはソ連の共和国となる
1988年 スムカイド事件によりアルメニア人とアゼリ人の 暴力的対決が激化
1991年8月 ソ連からアゼルバイジャンが独立。翌月にア ルメニアも独立
1991年12月 ソ連崩壊。アゼルバイジャンとアルメニア との間で「宣戦布告なき全面戦争」に突入
1994年5月 ロシアの調停によりアゼルバイジャンとアル メニアが停戦

コーカサス地方の地図(1933年) トランス・コーカサス連邦としてソ連 に加盟していた頃。ナヒチェバンやナゴルノカラバフの境界線もあります


ソ連が崩壊したらそれまで聞いたこともなかったような国が次々と独立して、泥沼のような民族紛争があちこちで勃発したが、アゼルバイジャンとアルメニアの戦争もその一つだ。

アゼルバイジャンとアルメニアがあるのは旧ソ連のコーカサス地方、つまり黒海とカスピ海の間で、南側をトルコやイランと接した場所に位 置する。アゼルバイジャンは歴史的にペルシャと繋がりの深い地域で、多数派住民のアゼリ人はシーア派のイス ラム教徒。一方のアルメニア人はキリスト教徒で、アルメニアは301年に世界 で初めてキリスト教を国教にした国でもある。

戦争の原因は、アゼルバイジャン領内でアルメニア人が多いナヒチェバンナゴルノ・カラバフ自治州という2つの地区の帰属をめぐってだ。このうちナヒチェバンはアゼルバイジャ ン本土とは完全に切り離され、北側はアルメニア、南側はイランに挟まれた飛び地だが、過去数十年の間にアルメニア人よりアゼリ人の人口の方が多くなった。 一方、ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンの本土の中にあるのだが、人口は1923年でアルメニア人が94・4%を占め、現在でも77%と圧倒的に多 い。このためアルメニア人の武装勢力がアゼルバイジャン軍を追い出してアルメニアへの編入を主張、アルメニア軍も介入してアルメニア本土とナゴルノ・カラ バフの間の部分を占領している。したがって主な戦場はナゴルノ・カラバフ周辺だ。

この戦争はキリスト教徒とイスラム教徒の対立かといえば、そうでもない。キリスト教徒のアルメニアを支援しているのはアゼルバイジャン と同じシーア派イスラム教徒のイランなのだ(※)。イスラム教徒のクルド人もアルメニアを支持している。一方でアゼルバイジャンを支援しているのはスンナ 派イスラム教徒のトルコ。

※イランがアルメニアを支援し、アゼルバイジャンと対立する理由はこ ちらを参照のこと。

かつてアルメニア人はトルコ東部からクルジア、アゼルバイジャンにかけての広大な地域に住んでいた。しかし、ペルシャやトルコ、ロシアなどに征服されて国 を失った歴史がある。日本人にとっての富士山にあたるアルメニア人の心の故郷はアララト山だ が(ノアの箱舟が流れ着いた場所という伝説もある)、ここは現在トルコ領。第一次世界大戦後にトルコが行ったアルメニア人の追放は凄まじく、虐殺や砂漠地 帯への強制移住などで100万人以上の死者を出したといわれている。ユダヤ人やパレスチナ人のように故郷を追われ、中東やヨーロッパ、アメリカ各地に移住 したアルメニア人も多い。
 
第一次世界大戦が終 わってすぐの世界地図。アララト山を中心に現在のトルコ東部に広がる幻のアルメニアが・・・
つまりナ ヒチェバンやナゴルノ・カラバフをめぐる戦争は、アルメニア人にとっては「失地回復」という民族の大義を 掲げた戦いなのだ。「海から海まで」つまり黒海からカスピ海に至る地域に大アルメニアを建設することはかねてからアルメニア人たちの悲願だったが、ソ連の 崩壊は絶好のチャンス到来と映った。

ソ連成立時に一度はアルメニア共和国の管轄とされたナヒチェバンとナゴルノ・カラバフが、4年後にアゼルバイジャン共和国へ移されたの は、当時のソ連中央がトルコとの関係を重視したためだった。ソ連はトルコ系の言葉を話すアゼリ人にてこ入れする一方で、トルコを宿敵と見なしているアルメ ニア人の力を弱めようとしたと言われているだけに、なおさらアルメニア人の「失地回復」への思いは強い(※)。

※当時トルコはセーブル条約で連合国(英仏米伊やギリシャ)によってば らばらに分割されたトルコ本土の領土を取り戻すために奮戦中で、一方のソ連はソビエト政権の樹立に反対した連合国(英仏米伊や日本)の軍事介入 (シベリア出兵など)と戦っている最中だった。つまり第一次世界大戦では敵味方に分かれた両国だったが、当面の敵が同じになったのでお互いの軍事対立を避 けることで思惑が一致。1921年3月に両国はモスクワ条約を結び、ソ連はトルコ領内のアルメニア人地区の独立や旧ロシア領内のアルメニアとの一体化を認 めないかわりに、トルコはグルジアが黒海の重要港であるバ トゥミを併合することを認めた。
1万7000人の死者と100万人以上の難民を出したといわれるこの戦争は、94年にロシアの調停でとりあ えず停戦が実現。ナゴルノ・カラバフはナゴルノ・カラバフ共和国として独立し (もっとも実際にはアルメニアの傀儡国)、アルメニアとの間はラチン回廊を確保した。

ナゴルノカラバフの地図とラチン回廊(Lachinを通って左下のアルメニアと結ぶ道)
ラチン回廊の詳細図(Lachinを通る道)

紛争の最終的な解決策としては、アゼルバイジャンがナゴルノ・カラバフ共和国の独立を認め、アルメニア本土との間の回廊部分もアルメニ アに割譲。一方で、見かえりとしてアルメニアはナヒチェバンをアゼルバイジャン領として認めたうえ、アゼルバイジャン本土との間を結ぶ幅10kmの回廊を アゼルバイジャンに割譲する・・・という案がアメリカから提案されている。この案だと飛び地は解消されることになるが、アゼルバイジャンにとってナゴル ノ・カラバフを失うのは敗戦を意味するし、アルメニアにとっても支援国であるイランとの国境が断たれるのは損失が大きいわけで、提案がすんなり受け入れら れるかどうかは微妙だ。




★ナヒチェバン以外のアゼルバイジャンの飛び地

上アスキバラの衛星写真 (google map)
バルフダリの衛星写真 (google map)
キャルキの衛星写真 (google map)

ところでアルメニア領内には、ナヒチェバン以外にもアゼルバイジャンの小さな飛び地が5ヵ所かある。一番上の地図にも載っている北側の 2ヵ所・上アスキバラ(ユハリ・アスキバラ=Upper Askipara) バルフダリ(Azatamut) で、それぞれ本土から約1km離れたところに存在する。これらの村は92年早々にアルメニア軍に占領され、アゼリ人住民は追い出されて「民族浄化」が完 了。上アスキパラ村と向かい合う下アスキバラ(アシャギ・アスキバラ=Lower Askipara) はアゼルバイジャン本土にありながら、山に隔てられて道路はアルメニアにしか通じていないという場所だが、ここもアルメニア軍に占領されてアゼリ人はいな くなり、廃墟の中に7世紀のアルメニア教会 が建っている。

また上アスキパラ村や下アスキパラ村から東南へ25kmほど離れたタトリー (Tatly)という町の近くの道路沿いに、アゼルバイジャン領の極めて小さな飛び地が2ヵ所ある。面積は12ヘクタールと6ヘクタールの 農場で、道路と川を挟んでアゼルバイジャン本土とは100メートル足らずしか離れていないが、アルメニア軍が占領しているようだ(下の左図)。

ナヒチェバンの4・5km北側にも、道路沿いに 「おむすび」のような形をした飛び地・キャ ルキ(Kiarki) がある。面積は7平方kmほど。ここも91年にアルメニア軍に占領されて、アゼリ人の住民は難民となってナヒチェバンへ逃れている(下の右図)。

  
地図を見ると家が建っているようだが、あまりに小さなタト リーの2つの飛び地(左)。カワイイ形の「おむすび谷」だが、住民は難民に・・・(右)。
いずれもクリックすると全体図に拡大します。



★アゼルバイジャン領内にあるアルメニア の飛び地

アルツバシェンの衛星写真 (google map)

一方で、アゼルバイジャン領内にあるアルメニアの飛び地は、本土から小さな峠をはさんで存在するアルツバシェン( Artzvashen) という場所。ここには1845年からアルメニア人の村があり、1945年にはベルリンを占領したソ連軍の先陣を切ってドイツの国会議事堂に赤旗を立てたと いう英雄兵士の生まれ故郷として「誉れ高き村」になったが、ソ連が解体すると村の運命は一転。91年から92年にかけての戦闘でアゼルバイジャン軍に占領 され、村に住んでいたアルメニア人(約1000世帯)は難民となり、セバン湖近くのアルメニア領内に「リトル・ヘブン」という新しい村を作って暮らしてい る。


★「ナゴルノ・カルバフ共和国」とアゼルバイジャンの 飛び地

ナゴルノ・カラバフの東側とアゼルバイジャンの境界線(左側がナゴルノ・カラバフ) もかなり複雑に入り組んでいるので、将来もしアゼルバイジャンがナゴルノ・カラバフ共和国を承認したら、お互い飛び地だらけになりそうだ。もっともこの境 界線はソ連時代に引かれたもので、「国境」一帯、特にナゴルノ・カラバフの東端に沿ってAGHDAM〜MARTUNI〜FIZUL〜HADRUTを結ぶア ゼルバイジャン領内の道路周辺はアルメニア軍が占領しているので、現状では地図の上だけの飛び地と化している。


★アゼルバイジャン領内にあったロシアの 飛び地

アゼルバイジャンとダゲスタンの境界付近の地図 この中のどこかに2つの村が有るはずです が、探す気力はありません・・・

アゼルバイジャンの北東部・ロシアとの国境から50kmほど離れたKhrakhobaUryanobaという2つの村は、2010年9月までロシアの飛び地 だった。人口はKhrakhobaが210人、 Uryanobaが15人ほどで、あまりに小さくて地図にも載っていない。

この2つ村は1954年にもともとアゼルバイジャンの管轄だったが、1954年にソ連政府は牧草地として一時的にタゲスタンの管轄に移した。一時的な移管 は何回か延長されて、84年にソ連政府は20年間の延長を決めた。そうして期限を迎えた2004年には、ソ連政府は消滅していてアゼルバイジャンは独立国 に、ダゲスタンはロシアの一部となっていたので、国同士の飛び地になっていたという次第。

2つの村に住んでいるのは、ダゲスタンに多く住むレズギン人。アゼルバイジャンとダゲスタンは、アルメニアとのように戦争しているわけではないので、住民 たちはアゼルバイジャン政府から特に迫害されていたわけではなく、日用品や電気などの供給はアゼルバイジャンから行われ、村の中学校を卒業するとアゼルバ イジャンのロシア語高校へ進学していた。

しかし、タゲスタン本土へ行く時にはパスポート検査が必要で、ダゲスタンで買い物をすれば国境で関税をかけられる。住民はロシア国籍なので、ロシア軍に徴 兵され、ロシアの大統領選挙にも投票しているが、普段はダゲスタン政府が役人を派遣して行政を行えないので、村の長老たちによる自治が続いていた。

2010年9月にロシアとアゼルバイジャンが国境画定の条約に 調印して、2つの村は正式にアゼルバイジャン領になった。村人たちは2011年8月24日までに、アゼルバイジャン国籍を取得して村に残る か、ロシア国籍を保持してダゲスタンに移住するかの選択を迫られた。村人たちは「ロシア国籍のままで村に住み続け、ダゲスタンとの行き来を自由にして欲し い」と要求していたが、取り合ってもらえず、結局約半数の住民がダゲスタンへ移り、村に残った住民は年寄りがほとんどとか。

 

●関連リンク

2003年外務省―アゼルバイジャン共和国
外務省―アルメニア共和国
アルメニアへようこそ 日本アルメニア友好協会のサイト。 ナゴルノカラバフ の案内もあります
アルメニア共和国軍 アルメニアをめぐる軍事情勢について
不思議な不思議な「アルメニア 共和国」 ナゴルノ・カラハブの激戦地レポートもあります
虐 殺(ポグロム)の序奏=ソ連政治マフィアが民族弾圧に罠を仕掛けた 講談社『現代』の1991年3月号に掲載された岩上安身氏の記事
apa  Khrakhoba村の写真があります
 

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