本来の意味での飛び地

 
 Sankova-Medvezhe  ビュージンゲン  カンピオーネ・デ・イタリア  バールレ・ナッソー  リヴィア
 サスタビキ  ブレゾビカ  セレナホフ  パギリアイ  

「飛び地」というのは本来、陸続きなのに他国によって分断されている領土のことを言うのであって、海を隔てた領土や植民地はふつう「飛び 地」とは言わない。ましてや「奄美諸島はアメリカの飛び地だった」だなんて電波なことを言う人はいないでしょう(笑)。

ま、しかし、私自身が興味あるのは飛び地というより、小さな領土なのにひと通りの社会的機能が揃っていてその中だけで一生暮らせるような 「箱庭的領土」。敵国に包囲されちゃって周囲と交通が制限されてる都市なんて野次馬的にワクワクしますね〜。オスマントルコに包囲されたコンスタンティ ノーブルとか、ポル・ポト派に包囲されたロン・ノル政権のプノンペンとか(どっちも飛び地じゃないやん・・・)。

そんなわけで、家1軒、畑1枚だけの飛び地とか、現代のヨーロッパにあるような周囲の国と和気藹々で観光資源になっているような飛び地には あんまり興味が湧きません。でもHPに「世界飛び地領土研究会」だなんてタイトル付けちゃったものだから、とりあえずアリバイ的に紹介しておきますね (笑)。




Sankova-Medvezhe(ベラルーシに囲まれたロシア 領) 

Sankova -Medvezheの地図
Sankova-Medvezheの詳細地図 
Sankova-Medvezheの衛星写真 飛び地の国境線は描かれてい ないが、「白い枠」の北側の黄緑の一帯がMedvezhe村とSankovo村(google map)

左がベラルーシ、右はロ シア、下はウクライナ
白ロシア はソ連の一部だったのに国連に単独加盟している妙な国でしたが、いつの間にやら国名がベラルーシに変わってしまいました。白ロシア人と白系ロシア人(共産 党政権が嫌いで海外に亡命したロシア人。共産党=赤に反対だから白)も混同されがちだったし。私の友人で「戦前の上海に白ロシア人がたくさん住んでいたの はなぜ?」と完全に勘違いしていた人がいた。ま、ソ連が崩壊したら白系ロシア人も白ロシア人も死語ですね。

さて、白ロシア改めベラルーシの領内にロシアの小さな飛び地がある。ロシア本土から5kmくらい離れたMedvezhe村とSankovo 村だ。この飛び地が生まれた発端は、帝政ロシアの末期のこと。アメリカのペンシルバニア州の炭鉱へ3年間出稼ぎに行き、お金を貯めたロシア人農民たちがい て、彼らは帰国後にベラルーシ人の地主から土地を買い、Medvezhe村とSankovo村を作った。

その後、ロシア革命を経て旧帝政ロシアの領土には白ロシアやウクライナなどの共和国ができたが、1926年にロシアと白ロシアの境界線を決 定した際に、ロシア人農民が住むMedvezhe村とSankovo村はロシアへの帰属を求めて認められ、ロシア領の飛び地ができた。もっとも当時はロシ アであろうと白ロシアであろうと、どっちにしたってソ連だったのだが、1991年に白ロシア改めベラルーシが独立して、国際間の飛び地になってしまった。

住民たちはさぞや不便なことになっただろうと思いきや、その時Medvezhe村とSankovo村はすでに無人の地となっていた。86年 に起きたチェルノブイリの原発事故で、このあたりは放射能汚染地区に指定され、現在に至るも人間が住める場所ではないそうな。この地域はチェルノブイリ原 発から200km以上離れているが、事故当時の風向きのせいで大量の死の灰が降り注ぎ、放射能汚染の飛び地に なってしまったのだ。

チェルノブイリ原発事故の放射能汚染地図 3ヵ国の国境付近の Dobrushの「b」の字あたりがMedvezhe村やSankovo村

チェルノブイリ原発事故 チェルノブイリ原発事故についての概要や被害状況について(復元サイト)
チェルノ ブイリ原発事故:何が起きたのか チェルノブイリ原発事故についての概要や被害状況について(PDFファイル)




Busingen(スイスに囲まれたドイツ領)

ビューシンゲンの詳細地図  Dはドイツ領、CHはスイス領です)
ビューシンゲンの衛星写真 (google map)
スイスの地図  Schaffhausen(シャフハウゼン)の右側にビューシンゲンがあります
バーデン王国の地図(19世紀初め) 下側の湖の近くに Schaffhausenとビューシンゲンの飛び地があります

ビューシンゲン はスイス領内にあるライン川に沿ったドイツの飛び地で、面積は7・62平方km、人口は約1500人の村だ。

法律はドイツのものが適用されるが、1967年の条約で関税はスイスのものを適用。通貨もスイス・フランが使用されている。もっとも日常的 にはドイツの通貨、というより西欧の共通通貨であるユーロも使われている。他に農業や公衆衛生(食品、薬物など)、そして有事の際の経済統制に関しては、 スイスの法律が適用されることになっていて、これらに関する取り締まりはスイスの警察が担当。その他の犯罪はドイツの警察が担当していて、ドイツの警察官 は指定されたルートを通って、700メートル離れた本土から村へ入るように定められている。

ビューシンゲンが飛び地になった経緯は15世紀に遡る。中世では現在のドイツやオーストリア、スイスは神聖ローマ帝国の領域で、さまざまな 諸侯が領地を支配していたが、封建領主の領地というものは血縁や同盟関係、相続や褒賞などによって飛び地だらけのモザイク状になっていくのは、日本の江戸 時代の藩の領地も同じ。スイスは15世紀末に神聖ローマ皇帝の支配から脱し、1648年のウェストファリア条約で正式に独立したが、ビューシンゲンは名目 的な神聖ローマ帝国の領土に留まり、オーストリアやバーデン王国を経てドイツの領土になった。

もっとも住民たちは歴史的に西隣のスイスの町・シャフハウゼンを中心とした生活を続けていた。第一次世界大戦が終わった1918年に住民投 票が行われ、住民の96%がスイスへの帰属を望んだが、スイスが飛び地交換に伴ってドイツへ渡す代替地を用意できなかったのでウヤムヤになり、その後住民 からのスイス領編入の要求もスイス側が拒否。1956年に西ドイツ政府がビューシンゲンと本土との間の農地を買収して西ドイツ領に編入し飛び地を解消しよ う試みたが、必要な予算の割に効果が期待できないことやスイス側が拒否したため断念。結局1967年にスイスが西ドイツと結んだ条約で、改めてドイツ領 (当時は西ドイツ領)として存続することが確定した。

政治的にはドイツの領土でも、住民生活はスイスの経済圏で、ビューシンゲンの住民の多くはシャフハウゼンで働いていて、スイスとの行き来は 完全に自由。村には小学校(ドイツは4年制)があるが、中学以降はドイツの学校に通ってもスイスの学校に通っても可。もっともビューシンゲンに隣接する シャフハウゼン州をはじめ、スイスの半分以上はドイツ語圏で、学校教育もドイツ語を使って行われている。

飛び地であってもさして不自由のないビューシンゲンだが、むしろ迷惑したのはスイスの方だ。第二次世界大戦では中立国のスイスの中で、シャ フハウゼンは連合軍の空襲を受けた唯一の町で、その理由はドイツ領と間違えられたからだった。

ビューシンゲンの北には、同じようにスイス領内のドイツの飛び地・セレナホフVerenahof)も存在していたが、こちらは住民がわずか3戸10数人だったので、1967年の条 約でスイスへ譲渡されています。

村役場の公式サイト  (独語)
Borders ブーシンゲンの写真があります(英語)
Verenahof 1967年まで存在したスイス領内のドイツの小さな飛び地の地図と写真(英語)
Unser Dorf Verenahofのルポ(独語)




Campione d'Italia(スイスに囲まれたイタリア領)

Campioneの詳細地図 
Campioneの衛星写真 (google map)

カン ピオーネはスイス領内にあるイタリアの飛び地。そのスイス領がスイス本土からルッガーノ湖を隔てて離れているので、飛び地の中の飛び地といった雰囲気だ が、現在では湖に橋が架かってスイス領同士はつながっている。面積は1・7平方kmで、人口は3000人ほど。

もともとこの場所にはローマ帝国の時代から砦があり、カンピリオ(バッカスが生い茂る地)と呼ばれていた。その後721年に一帯を支配して いたTotoneという領主が死亡した際に、カンピオーネはミラノの教会に寄進されて修道院の管理に任された。1512年にスイスが周囲の村々を併合した 際にも、ここは教会の特権を盾にスイス領には組み込まれず残り、スイスの中のミラノ(イタリア)の飛び地になったという次第。

17世紀になると教会と村人たちが対立するようになり、ナポレオンがイタリア勢を破った際に結ばれた1797年のカンポ・フォルミオ条約 で、教会の支配を離れることになったもの。そしてムッソリーニの時代にイタリア領であることを強調するため、村の名前に「d'Italia」が追加された。

現在のカンピオーネは山と湖に囲まれたリゾート地として賑わっているが、最大のウリは1917年にオープンしたカジノで、村の産業はカジノ を中心とした観光によって支えられている。

ブーシンゲンと同様に、カンピオーネも関税や通貨はスイスと同じ扱いになっているが、イタリアの通貨、というより西欧の共通通貨であるユー ロも日常的に使われている。カンピオーネとスイス領との間は完全に自由に行き来できるが、周囲を囲むスイス領のティチーノ州はイタリア語圏なので、地域的 にほとんど差異はないようだ。

 

リヨン気まま倶楽 部 フランスのリヨン在住の人たちで作るサイト。カンピオーネほかヨーロッパの国境、小国、飛地の現地ルポがあります
イタリア建築通信 カンピオーネのカジノを紹介
カンピオーネ情報 不動産コンサルタント スイス銀行口座開設のお手伝いもしています・・・とか 
カンピオーネの公式サイト 4ヵ国語です
The Border of Campione d'Italia カンピオーネを取り囲む国境標識の写真(英語)


Vennbahn(ドイツ領とベルギー領が混在)

こ ちら へ移転しました。




Baarle(オランダ領とベルギー領が混在)

Baarle周辺の地図
Baarleの衛星写真 (google map)

オ ランダ領の中にベルギーの飛び地があって、その中にオランダの飛び地があるという町。「愉快な飛び地の町」として観光地にもなってる場所だ。町の名前はオ ランダ側はバールレ・ナッソー(Baarle -Nassau)、ベルギー側はバールレ・ヘルトホ(Baarle-Hertog)。具体的にはベルギーとの国境に近いオランダ領内に22ヵ所のベルギー の飛び地があって、その中に7ヵ所のオランダ領の「飛び地の中の飛び地」がある。また近くのベルギー領内にもオランダの飛び地が1ヵ所。人口はオランダ側 が6600人、ベルギー側は2300人で、合計9000人弱。

町のど真ん中に家一軒だけの飛び地などがあって、その家がどちらの国に属しているかを示すために、玄関脇には国旗のマークを付けている。家 が両方の国に跨って建っている場合は、その家の正面玄関がどちらの国にあるかで「帰属国」を決定する仕組み。町の役場や郵便局はオランダ側とベルギー側と 両方があり、電話会社も別々だが町内での通話は国境線に関係なく市内通話の扱い。警察署は1997年まで別々だったが、現在では同じ建物で両国の警官が机 を並べて仕事をするようになった。

国は違えど、ベルギー北部はオランダ語圏なので、国境線を越えたからといって言葉が違うわけでもない。境界線の行き来は完全に自由だし、現 在では通貨(ユーロ)も一緒だ。オランダとベルギーで「国際結婚」した家庭も多いが、生まれた子供は18歳まで二重国籍を持ち、その後どちらかを選択する 仕組み。しかし実際にはその後も両方の国籍を持ち続けている人が少なくない。ベルギーよりオランダの方が兵役期間が短いので、若者はたいていオランダ側に 住んでいるようだ。

これらの飛び地が生まれたきっかけは1198年のこと。それまでこの地域はバールレという1つの村で、ブレダ(ベルギー国境に近いオランダ 領)の領主が支配していたが、先祖がブレダ王に領地を売ったというブラバン公爵との間で領有をめぐるトラブルになり、ブレダ王はバールレ村をいったんブラ バン公に与え、ブラバン公は与えられた領地をローンの形で少しずつブレダ王に返上することになった。しかしブレダ王のもとに戻った土地は一部だけだったの で、バールレ一帯の領地はモザイク状に入り組んでしまったという次第。後にブレダ王の領地はナッソー家に渡り、それぞれバールレ・ナッソー(ナッソー領 バールレ)やバールレ・ヘルトホ(ヘルトホ=公爵領バールレ)と呼ばれるようになった。

ようするにもともとは神聖ローマ帝国の下で領主が異なっていただけに過ぎな かったのだが、神聖ローマ帝国のハプスブルグ家がオーストリア系とスペイン系に分裂し、スペインがオランダを支配するようになると反乱が続出。16世紀末 から17世紀にかけての80年戦争やそれに続く30年戦争を経て、1648年のウェストファリア条約でオランダが正式にスペインから独立すると、カトリッ クの影響力が強かった現在のベルギーはスペイン領に留まることになり、バールレ村は2つの国の領土に分けら れることになった。

鉄道が飛び地を貫いていたいた少し前の地図。ピンクの部分 がベルギー領
その後、ベルギーはオーストリア領やフランスの占領を経て、1815年にはオランダの一部になったが、39年に独 立。その際に飛び地を解消しようとオランダとベルギーで協議を試みたが話がつかず、1882年には両国政府の間でほぼ同じ面積の領土を交換して飛び地を解 消するプランがまとまったが、オランダ領へ編入されることになるバールレ・ヘルトグの住民、特にベルギーとの結びつきが強いカトリック信者が反対して中 断。その後もこれまでにオランダ政府とベルギー政府で飛び地の交換が何回か検討されたが、いずれも難航した。1906年にはオランダがベルギーとバール レ・ヘルトホとの間の貨物に関税をかけたことから、ベルギーは本土との間を結ぶ回廊の設置を求めたが、代わりにオランダへ割譲する土地が見つからずに断念 した。

1つの町の中で国境線が複雑怪奇に入り乱れていたら住んでいる住民は不便だろうし、道路の制限速度にしてもオランダでは60km、ベルギー では50kmだったので数メートルおきに速度を変えて走らなくてはいけなかったり(現在ではオランダ側も50km制限に統一)、交通事故で救急車が出動し たらけが人は相手国の領土に倒れていたので救助できなかった・・・なんて切実な事件も起きたが(通行人に頼んで救急車までけが人を運んでもらったとか)、 実際には町の住民たちは飛び地の解消を望んでいなかった。

実のところバールレは長年、密輸の拠点として潤ってきたのだ(※)。EU統合による関税撤廃で密輸のうまみが減った今でも、酒やタバコ、ガ ソリンなどでは税率の差があるし、境界線上にある家や店は「正面玄関がどちらの国にあるかで帰属国を決める」というルールを生かして、しばしば所得税の安 い方へ玄関を付け替えたりしているとか。最近では2004年からベルギーで飲食店など公共の場所での喫煙が禁止されると、オランダ側の出入口を正面玄関に 変えたレストランやバーが相次いだという。

※密輸だけでなく、マネーロンダリングの拠点にもなっていた。例えば1971年にカリ ブ海のアンギラで登録されたフェミス銀行がバールレに支店を開設し、国境線の真上にビルを建てた。ビルの入口はちょ うど国境線の上にあり(つまりどちらの国に所属するか曖昧)、金庫への通路はオランダ領だが、金庫はベルギー領に置かれていた。このため両国の税務署職員 はいずれも金庫へ調査に入ることができなかった。その後両国の税務署は共同作戦で金庫を調べることができて、フェミス銀行は1992年に破産。この銀行 は、インドネシアからの南マルク共和国の独立を要求する組織が、麻薬取引で得た資金をマネーロンダリングするのに使っていたという。
それに、飛び地がきれいに整理されてしまったら観光客は来なくなるわけで、現在のバールレに とっては死活問題。住民の間からは「世界的にも貴重な町だから、飛び地は放置しておいて」という声が多いようだ。同じようにゴチャゴチャと飛び地が入り組 むクチビハールとは天地の差ですね。

リ ビングに国境のある家 『アンビリバボー世界ミステリーツアー』の放送から




Llivia(フランスに囲まれたスペイン領) 

Lliviaの地図
Lliviaの詳細図
Lliviaの衛星写真 拡大するとD68号線(旧中立道路)がわかりま す。(google map)

フラ ンスとスペインの国境地帯にアンドラ公国という妙な国がある。フランスの大統領とスペインの司教が交代で元首を務めるという国だったが、1993年に両国 からようやく主権国家として認められて、国連に加盟した。

で、そのアンドラから20kmほど東のフランス領内にリビア村というスペインの飛び地がある。面積12・84平方kmで人口は約1200 人。スペイン本土との距離はわずか1kmくらいで、D68号線という中立道路で本土と結ばれ ている。この道路は1995年までスペインの車両しか通行できなかったが、途中2ヵ所でフランスの道路と交差しているために管理上不都合が起き、うち1ヵ 所が立体交差化された。現在ではシェンゲン協定によって両国の国境検問は廃止されたので、自由に行き来できるようになった。

リビア村が飛び地になったのは17世紀のこと。16世紀に世界最強を誇っていたスペインは、1588年に無敵艦隊がイギリスに敗れてからケ チがつき始め、1641年にそれまで支配していたポルトガルが独立、48年にはオランダも独立し、フランスとの30年に及ぶ戦争にも負けて1659年のピ レネー条約でカルターニャ地方の領土を割譲することになった。しかしリビア村には城があったためスペインはあくまで割譲を拒否。1660年のリビア条約で は周囲の33ヵ村だけ割譲してリビア村はスペインの飛び地として残ることになった。

飛び地になったリビア村への補償として、フランスは北側にある牧草地の所有権をリビア村に与えた(領土としての主権はフランス)。周囲は現 在スキー場になっていて、牧草地に建ったホテルの所有権をめぐって裁判が続いていたが、結局2030年にホテルの所有権はリビア村へ移ることになったらし い。

村 役場の公式サイト があるけど、何て書いてあるのか不明。音楽フェスティバルを開催して観光客を集めようとしているらしい。




Palanca(ウクライナ領で隔てられたモルドバ領) 

こ ちら へ移転しました。




Sastavci(セルビアに囲まれたボスニア・ヘルツェゴビナ 領)

ボスニア・ヘルツェゴビナの地図 サスタビキの飛び地は小さすぎて地図には 載っていませんが、セルビア領内のPribojの近くにあります

セルビ ア南西部の都市・プリボイ(Priboj)近くに、サスタビキ(Sastavci)という面積395ヘクタールほどのボスニア・ヘルツェゴビナ領の飛び地 がある。もっとも飛び地を実効支配しているのはセルビア側で、小学校はセルビアが運営しているし、電力もセルビアが供給、住民の多くはプリボイへ通勤し、 高校生もブリボイへ通っている。住民の70%はセルビア人で、75世帯のうち25世帯はイスラム教徒のムスリム人(最近ではボスニア人と言う)だ。ただし 住民たちは地税はボスニア政府へ支払っていて、郵便や通信もボスニアが行っているらしい。一種の共同統治のような現状だ。

ユーゴスラビア時代、サスタビキはボスニア・ヘルツェゴビナのルドという町の一部だった。ユーゴスラビアが解体して、セルビアとボスニア・ ヘルツェゴビナが別々の国になったので、自治体の飛び地がそのまま国の飛び地になってしまったということ。かつてセルビアはオスマントルコが支配し、ボス ニア・ヘルツェゴビナはオーストリア領だったが、飛び地ができた経緯はその時代に遡るようだ。

1990年代前半、ボスニアではセルビア人とムスリム人・クロアチア人が対立して泥沼の内戦となったが、サスタビキでは「民族浄化」のよう な虐殺事件は起こらず、ムスリム人の10世帯がボスニア本土へ移住したが、うち4世帯はまたサスタビキへ戻って来たという。

ボスニア・ヘルツェゴビナという国は、実際にはムスリム人とクロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人が主体のスル プスカ共和国とに分かれている。サスタビキが所属するルドなどの一帯のボスニアはスルプスカ共和国の領域なので、セルビアとの関係は悪くなく、2001年 から飛び地解決に向けての話し合いが続いている。

セルビア側は国境線の全面的な見直しを提案していて、ユーゴ時代の自治体の境界ではなく、山の稜線など地形に合った新しい国境線を引き直す ことを主張。サスタビキをセルビア領に編入するだけでなく、Uvacなどボスニア領の一部もセルビア領に移す代わりに、セルビア政府はボスニアに補償を行 うとしている。現在、プリボイからサスタビキ周辺のセルビア領の村々へ行くには、南側を100km近く大回りしなくてはならないが、Uvacがセルビア領 に編入されれば10分の1以下の距離で行けることになるし、国境線で寸断された鉄道も運行再開することができるのだ。

これに対してボスニア側は、国境線はそのままにして、飛び地と本土との間の道路を回廊に指定し、自由な通行を保障することを求めている。

しかし近年では、セルビア人もムスリム人も若い人たちは不便なサスタビキに見切りをつけて、海外へ移住してしまう人が増えているという。



Brezovica Žumberačka(スロベニアに囲まれたクロアチア領)

スロベニアとクロアチアの国境地帯の地図 左上がスロベニア領、右下がクロ アチア領。Brezovicの飛び地は小さすぎて載っていません。
Brezovica村の詳細地図 緑がスロベニア領、灰色がクロ アチア領

国境線より右と上がクロアチア領。黒丸のあたりがクロアチア領の飛び地
90年代初めの連邦解体にあたって、凄惨な 殺し合いとなったユーゴスラビアだが、わずか10日たらずの戦闘で、独立を達成できたのがスロベニアだ。連邦からの独立を認めないセルビアとの間に、同時 に独立を宣言したクロアチアが横たわっていたため、連邦軍(=セルビア軍)が派遣できなかったのだ。

そのスロベニアとクロアチアの国境には、クロアチア領の小さな飛び地がある。Brezovicという村で、スロベニア領のBrezovic pri Metlikiと、クロアチア領のBrezovica Žumberačkaに分かれているが、スロベニア領の中に面積1・83ヘクタール(長さ437メートル、幅60メートル)のクロアチア領が島のように存 在していて、家が4軒ある。飛び地の100メートル南東はクロアチア本土だ。周囲は畑と森で、国境線が複雑に入り組んでいる。

スロベニアとクロアチアは、かつてはともにオーストリア=ハンガリー帝国で、第一次世界大戦後はユーゴスラビアの一部で、同じ国の中の地方 境界に過ぎなかった。Brezovica Žumberačkaはもともと無人で、19世紀末に十数人のクロアチア人が入植したが、再び無人となり、第二次世界大戦後に約50人のクロアチア人が再 び入植したもの。91年のスロベニアとクロアチアの独立で、村は国境線で二分されてしまったが、Brezovic pri MetlikiとBrezovica Žumberačkaは、Brezovic村としてスロベニア側が一体統治しており、飛び地の周囲には検問所や鉄条網は存在していない。 Brezovica Žumberačkaは飛び地と本土を合わせて、2001年時点で32人が住んでいるようだ。

Brezovica  Brezovica Žumberačkaの詳細地図と写真(英語)




【過去形】Verenahof(スイスに囲まれたドイツ領) 

●まだ準備中です




【過去形】Pagiriai(ベラルーシに囲まれたリトアニア 領) 

リトアニアの地図 パギリアイがあったのは右下のSalcininkaiの 近く
パギリアイの詳細地図 赤線がベラルーシからリトアニア側へ、青線がリトア ニアからベラルーシ側へ移動した新しい国境線
パギリアイの衛星写真 国境線はすでに描かれていないので、上の詳細地図と 見比べてください(google map)
 

パギリアイがまだ残って いる地図。左上がリトアニア領、右下がベラルーシ領
ソ連 の崩壊とともに、それまでソ連国内の共和国同士の飛び地だったものが国家間の飛び地になってしまったが、話し合いによって消滅した飛び地もあって、例えば ベラルーシ領内にあったリトアニア領のパギリアイ(Pagiriai)。

パギリアイは面積1・6平方kmで、リトアニア本土から1km弱離れている。ここはソ連時代、リトアニアのコルホーズ(集団農場)が開拓し たためリトアニア政府の管轄地になっていたが、1990年から91年にかけてリトアニアとベラルーシ(当時は白ロシア)が相次いでソ連から独立したため に、リトアニア本土と国境線で隔てられてしまったもの。

両国の間では飛び地解消のために国境線を見直すことになり、リトアニアはパギリアイと本土との間に幅200メートルの回廊を設置するよう求 めたが、ベラルーシが拒絶。結局、リトアニアはベラルーシにパギリアイを割譲し、その代わり周囲の国境線を引きなおしてベラルーシは4ヵ所の代替地(すべ て農地)をリトアニアに与えることになった。同時に国境線で道路が寸断されている1ヵ所がリトアニアからベラルーシに移された。

パギリアイに住んでいたのはロシア人の1家族だけで、おばあさんと2人の息子が暮らしていたが、リトアニアの市民権と年金を保障することで 95年に移転に同意したとか。

なお、国境地帯のベラルーシ領内には、他にもいくつかリトアニア人の村が散在している。これらの村はあくまでベラルーシ領なのだが、リトア ニア側が運営する学校があり、リトアニアから週に1〜2回医師の巡回診療もあるようだ。
 
 

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