
インフラ飛び地
アリカ港 プロチェ港 サイマー運河 モルダウハーフェン マレーシア国鉄 ベンバーン鉄道 バーゼル駅 バーゼル空港 パランカの高速道路 デケリア道路 洋館坪路堤 龍津石橋 鉄道や道路、港などの交通インフラを、他国が管理・運営している場合があります。なぜそうなったのかを調べてみると、どれもそれなりの「いわく」があるようで、(1)管理・運営権を他国が握っている(または租借している)ケースと、(2)管理・運営権だけでなく鉄道や道路の敷地も他国の領土(または租借地)になっているケースとがあります。
また、かつては植民地的な「インフラ飛び地」として 鉄道附属地 や延長道路(越界路) 、パナマ運河地帯 などがありました。
アリカ港 ペルーが管理するチリ領内の港1850年の南米の地図 ボリビアが海に面しています。アリカはペルー領
ボリビアといえば南米の内陸国ですが、なぜか海軍が存在していて、チチカカ湖に軍艦を浮かべて活動しているそうです。まぁ、チチカカ湖はペルーにも面しているので、国境警備の意味はあるんでしょうが、かつてボリビアは太平洋に面していて、正真正銘の海軍がありました。ボリビアが海岸を失ったのは太平洋戦争に敗れた結果だが、「太平洋戦争」といっても真珠湾攻撃で始まるアレではなくて、1879年に勃発したチリVSペルー&ボリビアの戦争のこと。
現在のチリ北部は、それまでペルーやボリビアの領土だった。この一帯では火薬の原料となる硝石が産出し、チリ企業が採掘していたが、ペルー政府とボリビア政府がそれを接収したり規制したため、チリ軍が侵攻。4年近くに及んだ戦いで、ボリビアは海への出口を失い、ペルーは首都リマを占領され、アリカ一帯をチリへ割譲することになった。
チリとペルーの国境線は1929年になってようやく確定したが、この時の条約でアリカ港の埠頭や鉄道施設、税関の一部がペルーに譲渡されることが決まった。なぜ税関かといえば、アリカ港を通じてペルーが外国製品を輸入する場合、チリとペルーと2ヵ所の税関で検査をすると手間がかかるし、輸入関税も二度徴収されて割高になってしまう。そこで、チリは通過貨物を免税にしてアリカ港で陸揚げされた時点でペルーの税関が検査し、チリとペルーの国境ではフリーパスで通過させるということ。輸出の場合もまたしかり。
※同様にかつて日本が中国から租借していた関東州の大連港にも、中国政府の税関が設置されていた。しかし実際には、ペルーが管理する施設の範囲をめぐって両国が対立し、条約が実行に移されたのは2000年にペルーのフジモリ大統領がチリを訪問してからのこと。現在これらの施設はペルー国有港湾公社が管理しているが、ペルー側の埠頭を利用する船は3ヶ月に1隻程度。ペルーにとってアリカ港の管理権獲得は、経済的な効果よりも、かつて自国の一部だったアリカへの「主権回復」を象徴する政治的な効果の方が大きいと言えそうだ。一方で、アリカ港のうちチリが管理している残りの部分は、2004年10月に港湾施設が民営化されたが、それに伴って施設の利用料が300%も値上げされ、ここを「海への玄関口」としていたボリビアとの間で外交問題に発展した。ボリビアは「アリカ港の民営化は、ボリビアの輸出・輸入商品の自由な通行を保障する1904年の平和友好条約の違反だ」と抗議して、ハーグの国際仲裁裁判所へ提訴する構えを見せたが、それだけでは収まらないボリビアは「海に面した領土の返還」を要求し始めた。チリ側は「領土問題は100年前に解決済み」と相手にしない構えだが、ボリビアは外相がバチカン市国を訪問してローマ法王に「海への出口返還」への支持を訴えたりしています。
太平洋の戦争 チリとペルー&ボリビアの戦争について
チリ・ペルー国境鉄道顛末記 アリカ→タクナの鉄道旅行記
JETRO 写真で見るチリ アリカ港や町の写真がたくさんあります
プロチェ港 ボスニア・ヘルチェゴビナが管理するクロアチア領内の港ボスニアとクロアチア南部の地図
ボスニア・ヘルツェゴビナの民族勢力図 黄色の部分がクロアチア人地区。緑(ムスリム人地区)と合わせてボスニア・ヘルツェゴビナ連邦
プロチェ(左上の河口)とネウム(右下)の衛星写真 (google map)![]()
ボスニア・ヘルツェゴビナは内陸国だと思いきや、ネウムと言う場所で幅21kmだけ海に接している。じゃあネウムはボスニア唯一の海への出口として重要な役割を果たしているのかと思いきや、ネウムはボスニア本土と山で隔てられ、細い峠道でどうにかつながっている程度の場所。こんなネウムがボスニア領になった歴史的経緯はこちらで書いたが、ボスニアにとって実際に海への出口になっているのは、ネウムから30kmほど北にあるクロアチア領のプロチェという町だ。
プロチェはボスニアから流れるネレトバ川の河口に位置する港町で、ボスニアから海へ向かう鉄道や道路も川沿いの平野を通ってプロチェへ通じている。ボスニアやクロアチアがユーゴスラビア連邦として1つの国家だった時代は、港がクロアチアにあろうがボスニアにあろうが問題はなく、もともと東欧が社会主義圏だった時代に、ユーゴスラビアはもちろんハンガリーやルーマニアからの対外ルートとして整備された港だが、90年代初めにユーゴスラビアからクロアチアやボスニアが独立するとややこしいことになる。ボスニアでは92年春から95年秋にかけて、セルビア人とクロアチア人、ムスリム人が三つ巴で民族挙げての殺し合いを繰り返した結果、国土はすっかり荒廃して産業は壊滅。「海への出口」どころではなくなった(※)。
※ボスニア紛争は、当初は独立賛成のムスリム人+クロアチア人+介入したクロアチア軍vs独立反対のセルビア人+連邦軍(セルビア軍)の争いだったが、後半はクロアチア人VSムスリム人の殺し合いになった。なかでも激戦になったのはボスニア南部の都市・モスタルで、クロアチア人がムスリム人を包囲し攻撃。モスタルからクロアチアとの国境にかけてはヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国としてボスニアからの独立を宣言し、クロアチアが併合しようとしたこともある。結局ボスニアは、ムスリム人+クロアチア人のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人のスルプスカ共和国という事実上2つの国に分かれて停戦し、復興が進んでいるが、そこで新たに問題となったのが、プロチェ港の管理権の問題だ。プロチェからボスニアへ向かう鉄道はボスニア国鉄が運行し、プロチェのアルミニウム積み出し埠頭はモスタルの鉱山会社が所有していた。ボスニアとクロアチアは1998年にボスニアによるプロチェ港の利用と、ボスニア本土までの通行権を保障する条約を結んだが、その具体的な利用方法について、ボスニア側はプロチェ港の主権を含めた99年間の租借を要求。これに対してクロアチア側は「主権が脅かされる」と反発しあくまで港の商業的利用を認めるだけだと主張して、交渉は暗礁に乗り上げていた。
結局、ネウムによって本土と隔絶され、飛び地になったクロアチア領のドゥブロヴニクと本土を結ぶ橋の建設をボスニアが認めることと引き換えに、クロアチアはプロチェ港を関税がかからない自由港に指定し、ボスニアの企業3社によって構成される委員会に港の30年間の管理権を与えることになった。
ボスニア・ヘルツェゴビナ国鉄 現在ではプロチェからボスニア、再びクロアチアを通ってハンガリーまでの国際列車が走っているとか。道路国境のルポもあります
サイマー運河とマリービソッキー島 フィンランドが租借しているロシア領内の運河サイマー運河の地図 薄い灰色の線が国境線です
マリービソッキー島の衛星写真 (google map)![]()
フィンランド東南部のサイマー湖一帯は天然資源が豊富な地域だが、これらの資源をフィンランド湾を経て外洋へ運び出すルートとして重要な役割を果たしているのがサイマー運河。フィンランドがロシア領だった1845年に着工され、1856年に開通。ロシア革命に乗じてフィンランドが1918年に独立した後、1926年に拡張工事が始まったが、39年の独ソ戦勃発に乗じてソ連がフィンランドへ攻め込んだ(冬戦争)ため工事は停止。翌40年にカレリア地方などフィンランドの領土の10%がソ連へ割譲されて、サイマー運河は途中で新たな国境線により分断されてしまい、出口に当たる部分がソ連領となってしまったので、運河の通行はストップしてしまった。
その後1963年にフィンランドとソ連は条約を結び、ソ連領内の運河の管理と、出口に位置するマリービソッキー島をフィンランドが租借することで拡張工事が再開され、68年から通行を再開。ソ連解体後はロシアから租借する形に改められています。
マリービソッキー島(Malyj Vysotskij Island)は長さ1・5km、幅500mの小さな島で、19世紀にビボルグを守るための要塞が築かれていた。フィンランドが独立してからは、外洋から来る大型船と運河へ入る小型船とで貨物を積み替える中継地として賑わったほか、製材所があり、そこで働く職人や漁師など900人が住んでいた。しかし冬戦争でロシア領になってからは放棄されていた。マリービソッキー島が運河とセットでフィンランドへ租借されたのは、中継地として不可欠とされたためだったが、運河拡張によって貨物積み替えの必要はなくなり、現在では無人島です。
入江に突き出したVysotsk(ビソッキー)の町(左)。ビソッキーの町(オレンジ色)の対岸にある斜線の島がマリービソッキー島(右)
kotisivu title of your page マリービソッキー島に上陸してアマチュア無線をやったという話です。島や運河の写真があります(英語)
モルダウハーフェン チェコが租借しているドイツ領内の港ハンブルク市内の地図 赤丸のあたりがモルダウハーフェン
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ベルサイユ条約でヨーロッパの内陸各国が取得した「海への出口」の通行権ハンブルクの港の一角に、チェコが租借し、管理している一角「モルダウハーフェン」が存在している。モルダウハーフェンは面積30000平方mで、埠頭や倉庫、鉄道の引込み線、チェコ政府の税関などがあり、チェコが輸出入する商品は、モルダウハーフェンを経由すればドイツの関税はかからないという仕組みだ。
第一次世界大戦で東欧では新たな独立国が生まれたが、チェコスロバキアもその1つ。これらの国には「大国の奴隷」とならないために、海への出口が与えられた。ポーランドには旧ドイツ領の西プロイセンが割譲されたうえ、ダンチヒ自由市の港湾施設の共同管理権が与えられ、リトアニアにはすったもんだの挙句にメーメルが割譲されたが、内陸国のチェコスロバキアに「海への出口」として与えられたのが、プラハとハンブルグを結ぶエルベ川の通行権と、その河口に位置するモルダウハーフェンの租借権だった。これらはベルサイユ条約で定められ、モルダウハーフェンは1928年からチェコスロバキアがドイツから99年間租借することになった。同様にオーデル川の通行権と河口のステッチン(現:ポーランド領シュチェチン)の港の一部の租借権も得たが、こちらはルートが不便だったためか、実施されずに終わった。
しかし、チェコスロバキアという国自体が歴史の波に翻弄され続けたため、モルダウハーフェンの役割は十分果たせない状態だった。1938年にチェコスロバキアの工業地帯だったスデーテン地方がドイツに併合され、翌39年にはチェコもドイツに編入されてしまう。戦後チェコスロバキアは独立を回復したものの、社会主義国となったので、輸出入はエルベ川を通って「敵国」西ドイツ領のハンブルグ港を経由するよりも、主に運河やオーデル川を通って「同盟国」東ドイツやポーランド領の港を利用するようになった。
93年にチェコとスロバキアが分離すると、モルダウハーフェンの租借契約はチェコが受け継ぎ、利用促進が図られたが、関税撤廃が進んだのでモルダウハーウェンの意義は薄れた。モルダウハーフェンの管理運営は、チェコスロバキアの国営船会社だったCSPLOが請け負っていたが、経済改革で92年に民営化された後、経営が行き詰まって2002年4月に破産。現在、モルダウハーフェンはチェコ政府の運輸省が管理しているが、港湾施設としては機能停止状態で、再開発して観光利用する構想もあるが、チェコの租借期限は2027年までなので、具体的には進展していないようだ。
Hafen- + Kaianlagen モルダウハーフェンの写真があります
シンガポール領内のマレーシア国鉄
国際列車といえば、ふつうは異なった国の鉄道会社(主に国鉄)同士が相互乗り入れで列車を走らせているものだが、変わった形式なのがシンガポールとマレーシアを結ぶ国際列車。シンガポールには国鉄やそれに相当する鉄道会社はなく(地下鉄ならあります)、シンガポール領内で列車を走らせているのはマレーシア国鉄、線路や駅などの施設や敷地もすべてマレーシア国鉄が所有し、管理している。
そればかりか鉄道運行に関連するマレーシアの政府機関もシンガポールにある。例えばシンガポール駅にはシンガポール政府の入管・税関とともに、マレーシア政府の入管・税関があって、乗客はここで出国と入国手続きをしてから列車に乗る仕組み。となると、シンガポール駅のホームにいる時点では、手続き的にはすでにマレーシア入国済みなわけで、この列車は国際列車じゃなくて「シンガポール領内を走るマレーシアの国内列車」ということになるのかも??
マレーシア国鉄(マレー鉄道)はもともとイギリスが植民地時代にシンガポールを起点にマレー半島を縦断する形で建設したもので、当時はシンガポールもマレーシアも英領だったわけだから、こんなおかしな状況になるとは想定しなかった。独立後も当初はシンガポールはマレーシア連邦の州だったから問題はなかったのだが、1965年にシンガポールがいきなり分離独立したためヤヤコシイことになってしまった。
もっとも「ヤヤコシイ」と感じるのは野次馬的な第三者であって、実際の利用者にとってはシンガポール駅で2カ国分の手続きが済んでしまうわけだから、便利な制度ではあった。ところが、1998年8月にシンガポール政府がマレーシアとの国境手前にWoodlands駅を作り入管・税関をこちらへ移したので、本当にややこしくなった。マレーシア政府はこれに反発してマレーシアの入管・税関はシンガポール駅に残したため、乗客はシンガポール駅で先にマレーシアの入国手続きをし、国境に到着してからシンガポールの出国手続きをするわけで、シンガポール駅〜Woodlands駅間は「二重入国状態」になってしまうのだ。その後、マレーシア政府はシンガポール駅での入管・税関を廃止したが、国境に新たな入管・税関を作らないので乗客はマレーシアの入国手続きをしないまま、マレーシアに入ることになった。外国人の場合は「鉄道で入国した場合は、パスポートにシンガポール(Woodlands駅)の出国スタンプが押してあれば、マレーシアに入国したとみなす」と解釈しているそうだが、その証明として出国時まで切符を保存していなければならないらしい。
入管・税関を移した理由について、シンガポール政府は「不法入国者の取締りを強化するため」と説明している。シンガポール駅と国境の間には客扱いをする駅はなかったが、列車がすれ違いをするための信号所があるので、マレーシアから来た列車がここで停車している時に降りてしまえば、不法入国ができてしまった。また同様に、マレーシアからやって来た列車がシンガポール領内を走っている間に、あらかじめ打ち合わせをした場所で窓から麻薬の包みを投げる方法が、麻薬の密輸ルートとして利用されていたので、シンガポールの入口で税関検査をする必要があると説明していた。
しかし、シンガポール政府の真の目的は、シンガポール領内のマレーシア国鉄を廃止して、跡地を再開発することだったので、マレーシア側は猛反発。シンガポールが分離独立した時の協定で、シンガポール領内の鉄道用地の土地所有権はマレーシア側にあるが、鉄道運行用に使われなくなった場合は、所有権がシンガポール政府に移ることとされていた。そこでシンガポールは鉄道跡地の再開発のうち、一部地区の権益をマレーシアとの共同開発にすると提案したが、マレーシアは一等地のブキティマ地区が共同開発に含まれていないと反発して、交渉は頓挫したままになっている。
かつてはシンガポール駅で両国の出入国手続きが済んだのに、国境のWoodlands駅でいったん下車するようになってからは、手間も時間もかかるようになり、乗客は減少。シンガポールに乗り入れる列車の数もどんどん減っているが、マレーシア側は意地でも運行を続けている。シンガポールとマレーシアの「意地の張り合い」は鉄道に限った話じゃないですけどね。
自国内の鉄道を他国の国鉄が運行・管理している例は、他にモナコ(フランス国鉄が運行)やリヒテンシュタイン(オーストリア国鉄が運行)なんて例もありますが、これらの国は出入国手続きがもとから不要なので、乗客にとってヤヤコシイことはないでしょう。バチカン市国にもイタリア国鉄の引込み線がありますが、貨物専用です。
1980年代の地図を見ると、サンマリノにはイタリアの登山電車が走っていたようですが、これは私鉄でしょうね。廃止されたのはもっと早かったようです。
シンガポールの鉄道―マレー鉄道 シンガポール駅や出入国審査のために新しくできた駅など
旧きよきマレー鉄道 シンガポール領内のマレーシア国鉄の写真があります
KTM マレーシア国鉄の時刻表検索サイト。シンガポールからは1日7本の列車が出てます、いや5本に減便?(マレー語)
Vennbahn鉄道 ドイツ領に囲まれたベルギー領の鉄道
ベルギー領の鉄道線路のおかげで本土と分断されているというドイツの飛び地。この鉄道は1885年から89年にかけてドイツが開通させたもので、ドイツとベルギーを結ぶ路線だったが大部分はドイツ領内を通っていた。ところが第一次世界大戦で負けたドイツはベルギーに領土を割譲したため(上の地図の赤やピンクの部分)、この鉄道は大部分がベルギー領内を走ることになり、ベルギー国鉄に譲渡された。それでも一部の区間はまだドイツ領内を通過するため、ベルギーは鉄道の敷地(線路や駅など)すべてをベルギー領にすることを要求し、連合国の委員会によって1922年に認められたもの。
こうして細長く伸びるベルギー領によってドイツ領の5ヵ所が本土と分断されたのだが、協定によってドイツ人が踏切などでベルギー領の線路を横断することは自由とされ、ドイツに張り出した5つの駅の区間内で乗車する場合には、ベルギーの入国審査や税関検査は不要。一方で、ベルギー領内相互を行き来する乗客や貨物を乗せた車両は、ドイツ領に囲まれた区間を通過する際には車両に鍵がかけられた。
戦後、この鉄道は旅客輸送を止めて貨物だけを運んでいたが、それも89年には廃止。使われなくなった鉄道敷地はドイツへ返還するのかと思いきや、ベルギーの地元自治体が「観光資源として活用しよう」と準備を進め、93年から蒸気機関車による観光列車 が走っています(これも2003年までで運行停止したとか)。
オーストリア国鉄の回廊列車(コリドア・ツーク)こちら へ移転しました。
バーゼル市電 フランスを走っている(ドイツも走っていた)スイスの市電こちら へ移転しました。
バーゼル駅 スイス領内のフランス国鉄駅とドイツ国鉄駅バーゼル市内の地図 上がドイツ国鉄の駅で、下がスイスとフランス国鉄の駅
スイス北西部のバーゼルは、チューリッヒに次ぐスイス第二の都市。フランスやドイツに隣接する国境の都市で、市内にはスイス国鉄のバーゼル駅のほか、フランス国鉄のバーゼル駅とドイツ国鉄のバーゼル駅がある。フランス国鉄の駅はスイス国鉄と同じ敷地にあるが、両者のホームは金網で仕切られていて、フランス国鉄のホームに入るにはパスポートなどのチェックが必要だ。
一方、ドイツ国鉄の駅は3km近く離れた場所にあって、駅で乗り降りするにはやはりパスポートなどの検査が必要だが、バーセル駅で降りずにそのまま列車に乗り続けているぶんには、検査なしにスイス領を通過できる仕組み。もっともドイツ国鉄の列車の一部はスイス国鉄のバーセル駅へも乗り入れている。
ドイツ駅とスイス・フランス駅の間はバーセル市電で結ばれていますが、この市電は国境線を越えて本当のドイツ領やフランス領まで走っていたこともあります。
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フランス国鉄(SNCF)とスイス国鉄(SBB)のバーセル駅(左)と、ドイツ国鉄(DB)のバーセル駅(右)Basel(CH) フランス国鉄バーセル駅のホームの写真があります(ドイツ語)
バーゼル・ミュールーズ空港 フランス領内のスイス・フランス共用空港成田空港は千葉県にあるのに「新東京国際空港」だったりしますが、スイスのバーセル国際空港はフランスのミュールーズ市にあります。飛行機を降りるとフランス側出口とスイス側出口があって、スイス側出口ではそのままスイスのイミグレと税関を通って、専用の高速道路でバーゼル市内へ直行する仕組み。なおフランス国内線の飛行機は同じ空港に発着するのに「ミュールーズ空港ゆき」となっていて、航空券などに書いてある空港コードは、バーセル(BSL)とミュールーズ(MLH)の2つある。
最近ではドイツへの玄関口もアピールしたいようで、「ユーロ空港」とも称しているようだ。ユーロと言えばフランスとドイツは通貨を統一したのに、スイスはEUに加盟していないので相変わらずスイス・フランを使い続けています。スイスも国連に加盟したことだし、変な意地張らないでユーロ導入しちゃえば便利だろうに。
パランカの高速道路 モルドバ領に囲まれたウクライナ領の高速道路Palancaの地図
Palancaの衛星写真 地図には載ってませんが、高速道路に沿って川もあるようですね(google maps)
ウクライナの南部の都市・オデッサから西へ伸びる高速道路は、ほんのわずかモルドバの領土をかすめる。しかし、この道路はウクライナ領とされているため、モルドバのPalancaという町が二分され、7・77平方kmが道路によって隔てられた飛び地になっている。
もともとソ連時代にまさかウクライナやモルドバが独立するなどとは想像もしないで道路を建設したためだが、2000年にウクライナはモルドバに領土交換による飛び地の解消を要求。「領土交換に応じなければ、モルドバがウクライナの道路を通って輸出入するのを禁止する」と圧力をかけたため、2001年7月にモルドバ国会でも領土交換の条約が承認されたが、モルドバの右派は「領土の変更は国民投票が必要とされているモルドバ憲法に違反している」と反発。Palancaの住民も高速道路に座り込んで抗議するなどの騒ぎになった。
その後、結局領土交換は実施されて飛び地が消滅したかどうかは不明です・・・。
デケリア〜アイオスニコラオス道路 キプロス領と「北キプロス領」に挟まれたイギリス領の道路
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キプロス島の東南部に存在するイギリスの飛び地・デケリア。デケリアから東北へ約10km離れたアイオスニコラオスもイギリス領で、両者を結ぶ道路もイギリス領。この道路の南側はギリシャ系住民のキプロス共和国(世界公認)、北側はトルコ系住民の北キプロス・トルコ共和国(世界非公認)で、イギリス領の道路は双方を引き離す停戦監視ラインも兼ねているようだ。
詳しくはこちら を参照してくださいね。
洋館坪路堤 ロシア領と北朝鮮領に挟まれた中国領の道路洋館坪路堤の衛星写真 えぐられた河原を走る道路が洋館坪路堤(google maps)
豆満江(中国語では図們江)といえば、鴨緑江とともに中国と北朝鮮との国境線。近年では北朝鮮からの「脱北者」が渡って来る場所として、何かとニュースになる川です。その豆満江は河口から15kmまでは片側がロシア領になっていて、ロシアと北朝鮮はちょっとだけ国境を接している状態。逆に言えば、中国はギリギリのところで日本海に到達できないことになっている。さらに3ヵ国の国境地帯には、防川というほとんど飛び地状態の中国領があり、中国本土との間は洋館坪路堤という長さ880m、幅8mの堤防でかろうじて繋がっている状態だ。
かつては豆満江の東岸は河口まで中国領だった。しかし1860年の北京条約で沿海州がロシア領となり、86年の琿春条約で豆満江一帯の国境が決まって、中国は日本海への出口を失い、防川が中国領の最前線となった。しかしこの頃の防川は飛び地ではなく、豆満江に沿った細長い土地で中国本土と繋がっていた。
20世紀に入ると朝鮮は日本領に、帝政ロシアはソ連に、中国領は満州国となり、防川一帯は日ソ両軍が対峙する最前線になった。そして1938年夏に防川の満ソ(=中露)国境線をめぐって日本軍とソ連軍が軍事衝突を起こした結果(張鼓峰事件※)、中国領はますます細くなり、1970年代の洪水で豆満江の流れが変わると、中国領の土地は川の水にえぐられて、防川は飛び地になってしまった。
※張鼓峰事件=日本側はハサン湖(日本語名は長池)が国境線だと主張し、ソ連側はハサン湖と豆満江の間にある丘(張鼓峰)が国境線だと主張して、軍事衝突になった事件。日本軍は機動部隊を繰り出したソ連軍に圧倒されて退いたため、翌年のノモンハン事件とともに「日本軍の敗北」と言われていたが、1990年代に公開されたロシア側の資料によると、ソ連軍は日本軍以上の損害を出したらしい。これではイカンということで、1979年に中国本土と防川をつなぐために完成したのが洋館坪路堤。ヘンな名前ですが、「洋館坪という場所にある道路兼用の堤防」という意味です。防川には約500人の朝鮮人(朝鮮族)が住んでいたが、張鼓峰事件の時に軍事上の妨げになると強制的に立ち退かされ、防川は無人地帯となっていた。中国が洋館坪路堤を作ったのは、住民の不便解消というより、領土確保の象徴としての意地だったんでしょうね。また中国政府はロシアに対して、ハサン地区の「返還」を要求していたが、1997年に中露両国の国境画定 で中国側はハサン地区の領有権を放棄。防川は鶏鳴聞三国、犬吠驚三疆(ニワトリが鳴けば3ヵ国で聞こえ、犬が吠えれば3辺境を驚かす)をキャッチフレーズに中国人観光客で賑わっているらしい。
一方で、中国政府は上海や広州などの沿岸部と比べて遅れている東北部(旧満州)発展の起爆剤とするために、日本海への出口として豆満江に代わってロシア領内のピーター大帝湾に面したポシエト港とサルビノ港に目をつけている。1990年代に入ると中国とポシエト港をつなぐ鉄道を建設し、ロシア側へ両港の49年間租借と港湾施設の共同開発(コンテナの取扱能力を10倍に拡大)の構想を申し出た。日本や韓国でもこの構想で環日本海経済圏が本格化すると期待する声があったが、ロシア特に沿海州では「中国に経済支配される」「領土を中国に明け渡すな」と中国脅威論が高まって租借交渉は頓挫しているようだ。
それにしても、かつてはロシアが海への出口を求め、中国に圧力をかけて鉄道を建設し、大連港一帯の関東州を租借した歴史があるわけですが、時代はすっかり逆転してしまいましたね。ロシア人はさぞやカリカリしていることでしょう。
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防川一帯のロシア語の地図。クリックすると全体図に拡大します(左)。満鉄が作成した1933年の地図。満州国が日本海に接していることになっていますが、本気?(右)満ソ国境紛争/乾岔子島事件、張鼓峰事件 張鼓峰事件についての解説が詳しいです
沿海地方の地方都市 ロシア側から見た国境の様子です
宋小南 一路風采 洋館坪路堤でのピース写真(中国語)
延辺旅遊網 防川―三国風貌 防川の観光案内(中国語)
ティンビガ回廊 インド領を横切るバングラデシュ領の道路
詳しくはこちら を参照してくださいね。
中立道路(D68号線) スペインが管理するフランス領内の道路
詳しくはこちら を参照してくださいね。
【過去形】コロン回廊と領土の立体交差 アメリカ領に囲まれたパナマ領の道路
詳しくはこちら を参照してくださいね。
【過去形】東ベルリンの地下を通る西ベルリンの地下鉄&西ベルリンを走る東ドイツの国電&市電
詳しくはこちら を参照してくださいね。
【過去形】ニース沿岸軌道 モナコを走っていたフランスの路面電車こちら へ移転しました。
【過去形】租界のチンチン電車こちら へ移転しました。
【過去形】龍津石橋 イギリス領に囲まれた中国政府の桟橋1933年発行の香港の地図 「龍津石橋」がまだ描かれています
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19世紀末の九龍城砦と龍津石橋(左=クリックすると拡大します)。19世紀後半の龍津石橋(右)「正真正銘の無法地帯」だの「東洋の魔窟」だの言われ、すっかり伝説になってしまった九龍城砦。ここにあらゆる法律が適用されなかったのは、イギリス植民地だった香港の中で、 九龍城砦だけは中国領の飛び地として残ったからだが、九龍城砦が飛び地として定められた1898年当時、城砦には中国(清朝)の役人や兵隊が常駐していて、中国の法律によって城砦内を統治し続けていた。
その役人や兵隊たちも、ずっと城砦内に引き篭もっているわけにはいかない。そこで中国本土との間を行き来するために、中国側には専用の桟橋(龍津石橋)とそこまでの道路(九龍大街)の使用権と管理権が認められていた。龍津石橋の入口には牌楼(パイラウ)というアーチ(上の写真)が建てられ、桟橋の先端には役人接待用に二階建ての休憩所があったそうな。
ところが翌1899年には、イギリス側のイチャモンで九龍城砦の役人や兵隊は追い払われ、中国政府の桟橋使用権は有名無実のものになってしまう。龍津石橋はその後、九龍城と香港島とを結ぶ渡し舟の乗り場として使われていたが、1920年代に啓徳空港の建設のために海岸が埋め立てられた時、撤去された。
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戦時中の地図。「支那人街」が九龍城砦で、すでに消えたはずの龍津石橋も。でも香港ってビクトリアピークを除けばどこでも「支那人街」だと思うけど・・・?九龍城砦探検記1 地底の迷路を歩く このHPの姉妹サイト。龍津石橋から城砦内に続いていた龍津道、龍津路の写真があります
九龍城砦秘宝館 これまたこのHPの姉妹サイト
九龍城探訪 魔窟で暮らす人々 高い本ですが、「龍津石橋」の歴史も詳しく書かれてますよ。監修者は私です。。。
参考資料:
『世界新地図』 (大阪朝日新聞社 1919)
『満州国地図』 (南満州鉄道資料部調査課 1933)
『最新世界現勢地図帖』 (新光社 1933)
村川堅固 『世界時局地図』 (宝文館 1936)
中村敏 『満ソ国境紛争史』 (改造社 1939)
『世界地図』 (三省堂 1942)
『世界大百科事典』 (平凡社 1971)
『現代地図帳 三訂版』 (二宮書店 1979)
魯金 『九龍城寨史話』 (香港:三連書店 1988)
リー・クアンユー 小牧利寿・訳 『リー・クアンユー回顧録(上)』 (日本経済新聞社 2000)
岩下明裕 『中・ロ国境4000キロ』 (角川書店 2003)
岩下明裕 『中・ロ国境の旅 : 「4000キロ」の舞台裏 』 (東洋書店 2003)
グレッグ・ジラード、イアン・ランボット 訳:尾原 美保 監修:吉田一郎 『九龍城探訪』 (イーストプレス 2004)
吉田一郎 『国マニア 』 (交通新聞社 2005)
浦部浩之 『チリ/最北の町アリカ――地域統合と変貌する国境』 (『アジ研 ワールド・トレンド』2003年2月号 アジア経済研究所)
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延辺旅遊網 http://www.cybta.com/ReadNews.asp?NewsID=60
華夏経緯―俄炒作“中国租港事件” http://www.huaxia.com/200373/00035197.html
PORT OF PLOCE AUTHORITY http://www.port-authority-ploce.hr/
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