その他いろいろの怪しい地帯

スヴァールバル諸島 ノルウェー領
 
スピッツベルゲン諸島=スヴァールバル諸島です
日本人が海外で暮らすには、どこへ行くにしてもその国の許可が必要ですね。観光目的ならノービザで行ける国もあるけど、滞在期間が決まっています。そんな中で「好きなだけ勝手に居てもいいですよ」という場所が2つあって、1つはどこの国の領土でもない南極。そしてもう1つがスバールバル諸島で、一体どこにあるのかと思えば、北極。「北極だから、やはりどこの国の領土でもないのか」といえば、そういうわけではない。スバールバル諸島はれっきとしたノルウェー領だが、1920年のスヴァールバル条約で、条約国(日本も)の国民は、島で自由に滞在したり、工業、鉱業、商業などの事業を営んでも良いことに決められている。だから滞在どころか、ラーメン屋かなんかを開いてもいいわけですね。

スバールバルとは「冷たい海岸」の意味で、島々の3分の2は一年中氷に覆われている。1194年にバイキングが見つけていたが、島の存在が本格的に知られるようになったのは、16世紀末から17世紀初頭にかけてのこと。当時オランダやイギリスは、喜望峰回りでアジアへの航路を制覇していたポルトガルに対抗して、北極回りでアジアへ至る北東航路(※)を発見しようと、何度も探検隊を出していた。そして1596年にオランダ人のバレンツが探検の途中でスヴァールバル諸島の中心であるスピッツベルゲン島に上陸する。結局、北東航路の開拓はことごとく失敗したものの、北極海にクジラがたくさんいることがわかったので、イギリスとオランダは1610年代に相次いでスバールバル諸島に捕鯨の拠点を建設した。

※北東航路とは、シベリア北方からベーリング海峡を抜けて日本へ至るルート。年間の大半は氷に閉ざされているため、蒸気船が出現するまで航行は不可能で、横断に成功したのは結局1879年のこと。途中で越冬せずに航海できたのは、砕氷船ができた1932年。
当時イギリスやオランダは、スバールバル諸島はグリーンランドの一部だと思っていたので、捕鯨にあたってノルウェーの国王に許可を得ていた(※)。しかし、スバールバル諸島がグリーンランドとは別だとわかって、1615年にイギリスが領有を宣言。ところが島はオランダ人の方が先に見つけていたし、ノルウェー国王も「スバールバル諸島はノルウェー領だと認めない国には、捕鯨の許可を与えない」と言い出したため、イギリスの領有宣言は国際的に認められず、島は「なんとなくノルウェー領」ということになった。しかしノルウェーは島を本格的に統治しようとしたりせず、島に移住したいという住民に許可も出さなかった。これはスバールバル諸島を実効支配するとなると出費がかさむし、改めて領有宣言をすれば他の国も領有権を主張しだして揉めそうだからと懸念したから。かくして島では各国の船がクジラを捕ったり、ロシア人がキツネ狩りをしていたが、ノルウェーは放任状態で好き勝手にやらせていた。
※グリーンランドはデンマーク領だが、1380〜1814年は「デンマーク・ノルウェー連合王国」で国王は兼任だった。
1864年に島で鉱物資源が発見されると、スバールバル諸島の領有権問題にハリキリ出したのがスウェーデン。スウェーデンは各国に「スバールバル諸島はノルウェー領とすること」を打診してまわり(※)、イギリスやオランダ、フランス、ドイツ、デンマークは漁業や狩猟を認めることなどを条件に同意したが、ロシアも領有権を主張し始めて反対。そして肝心なノルウェーは相変わらず乗り気なしの状態。かくしてスバールバル諸島は「無主の地」つまりどこの国の領土でもないということになった。
※なぜスウェーデンが「島はノルウェー領」と主張したかといえば、1814〜1905年までスウェーデンとノルウェーは国王が兼任で連合王国だったから。スウェーデン領だと主張するには地理的にも歴史的にも無理があったので、ノルウェー領ということにして、スウェーデンが自国同様に支配しようとしたということ。
こうして20世紀に入ると、イギリスやアメリカ資本の炭鉱が操業を開始し、ドイツやノルウェーの船会社が観光ツアーを始めたりと、島の開発が本格化した。それに伴って、炭鉱の英米人経営者とノルウェー人労働者との間の労働争議や、ドイツ人観光客のトナカイ狩りに縄張りを荒らされたロシア人猟師の反発、炭鉱と猟師の対立など、さまざまなトラブルが起きるようになったが、無主の地のままでは法律も存在しないまま。これでは困るということで、1906年にイギリス資本の炭鉱でストライキが起きたことを契機に、イギリスはスヴァールバル諸島をノルウェー領にすることを提案。米仏露独蘭丁(デンマーク)と各国は相次いでこれに賛成したが、こんどはスウェーデンが猛反対して頓挫(※)。代ってスバールバル諸島を国際管理地帯にして、ノルウェーとスウェーデン、ロシアが国際委員会を作って統治する方針が決まった。
※なぜスウェーデンが一転して「島はノルウェー領」に猛反対したかといえば、1905年にスウェーデンとノルウェーは連合王国を解消して分離し、関係が悪化したため。スウェーデンは「島で石炭を発見したのもスウェーデン人だし、スウェーデン領にするべき」と主張した。勝手なもんですね。
こうして3ヵ国はスバールバル諸島の司法や行政に関する条約案を作り、関係諸国に調印するよう求めたが、アメリカが条約締結国に拒否権を与えるよう求めて反対し、アメリカが作成した修正案にはロシアが反対してまとまらず、そうこうしている間に第一次世界大戦が始まって、どこの国も島どころの話ではなくなってしまった。

第一次世界大戦の間に、ノルウェーはアメリカ資本の炭鉱を買収し、島と本土を結ぶ通信網を完成させて、島への影響力を強めた。一方で敗戦国となったドイツは発言力がなくなり、ロシア革命で誕生したソ連も島にかまっていられない状態だったので、大戦後のパリ平和会議では「もうノルウェーに任せちゃっていいんじゃないの?」という雰囲気になった。イギリスは「国連の下で委任統治(C式)にすべき」と主張したが、将来独立を目指すことが目的の委任統治とは本質的に違うと却下され、1920年に島を正式にノルウェー領と認めるスバールバル条約が結ばれて、25年から発効した。

この条約では、スバールバル諸島をノルウェーの領土として認める代わりに、ノルウェーは条約締結国の国民がノルウェー国民と同様に島で滞在したり、土地の所有や漁業、狩猟、工業、鉱業、商業、海洋活動をすることを認めた。またスバールバル諸島はノルウェー本土から財政的に独立し、ノルウェー政府が島内で徴収した税金は島内で使用することや、島の非武装化が規定された。条約締結国は米英仏蘭伊とノルウェー、スウェーデン、デンマークに日本で、なぜまた日本がいきなり登場したのかと言えば、パリ平和会議での最高理事国の1つだったから。条約には後にドイツとソ連も加わり、現在では41ヵ国に増えている。

第二次世界大戦でノルウェーはドイツ軍に占領され、スバールバル諸島にはドイツの気象測候所が設置されたが、ロンドンに亡命したノルウェー政府は「島の非武装を守るため」と称してノルウェー軍を島に上陸させ、ドイツ軍を追い出した。ソ連は島をソ連とノルウェーの共同統治領にすることを提案したが、ノルウェー亡命政府が強く反対してウヤムヤになり、ソ連を刺激しないためにノルウェー軍も撤退し、島は再び非武装地帯に戻っている。

現在、島の人口は2811人(2003年)。ノルウェーとロシアの炭鉱が操業を続け、住民の55%はノルウェー人で、45%はロシア人やウクライナ人。漁業や狩猟のほか、学術研究の拠点や、衛星基地局も設置され、90年代以降は観光地としても発展しているようだ。

The svalbard Pages  スバールバル諸島の観光案内や写真などがあります


ブーベ島 ノルウェー領

南大西洋の地図  

ノルウェーといえば北欧の国、というか北の方は北極圏に入ってるし、さらに北の北緯80度くらいの場所にスヴァールバル諸島を領有しているが、なぜか南極にも領土を持っている。厳密に言えば南緯54度なので南極圏ではないが、ほとんどそれに近い場所。一年中氷河に閉ざされているブーベ島だ。

ブーベ島は無人島で、1739年にブーベ氏によって発見されたのでブーベ島。ブーベはフランス人で、この時点では島を眺望しただけで、島なのか南極大陸の一部なのかも確かめなかった。その後19世紀になると各国の捕鯨船が周辺海域を訪れるようになり、1822年にキャプテン・モーレルが初めて上陸。1825年にやって来た英国人のキャプテン・モーレルはここをリバプール島と名づけ、イギリス領だと主張した。19世紀末にはドイツ海軍もやって来たが、1927年にノルウェーの捕鯨船の乗組員が島で1ヶ月生活。結局この「実績」によってノルウェーの領有権が認められ、イギリスも翌年領有権の主張を取り下げた。

ブーベ島は1971年から鳥類保護区に指定されたが、いったいどんな鳥が生息してるのかと思えばペンギン。そういえばペンギンって鳥でしたね。。。1977年には無人気象測候所が建設されている。

1979年9月にはブーベ島と英領プリンス・エドワード島の間で大規模な爆発が観測され、島に放射性物資が降り注いだことから、どこかの国が核実験をしたと見られているが、「私がやりました」と名乗り出た国はなかった。でもたぶん、南アフリカがやったに違いないと言われています。

これが絶海の孤島 3Ybu−be島だ!  アマチュア無線で日本からブーベ島との交信に成功した人たちの話です


アトス山 東方正教会の自治領 

アトス山の地図  

ギリシャの北部にエーゲ海へ突き出した3本の指のような半島があるが、その最も東寄りの半島がアトス山。このアトス山はギリシャにあってギリシャ政府の権限が及ばない治外法権の一角で、東方正教会(ギリシャ正教会)の自治領になっている。アトス山には大小合わせて20の修道院があり、1400人の住民はほとんどが修道士。本土との陸上交通は遮断され、1日2便の船だけが「下界」との間を結ぶ。ここへ巡礼(または観光)へ訪れようという世俗の人は、まずギリシャ外務省で仮入域許可証をもらってから船に乗り、アトス山の「首都」カリエで、各修道院の代表で構成されるアトス政庁からビザをもらわなくてはならない。そしてアトス山は女人禁制、ここで飼われている牛もオスだけという徹底ぶりだ。ギリシャ人はアギオン・オロス(聖山)と呼んでいる。

アトス山が聖山になったのは紀元49年のことで、エルサレムで隠匿生活を送っていた聖母マリアがキプロス島に住んでいた伝道者・ラザロから「死ぬ前にもう一度お会いしたい」という手紙を受け取り、キプロス島へ向かったところ船長が誤ってこの半島に漂着。当時、アトス山には異教徒の町があったが、マリアさまが上陸するとアラ不思議、たちまち天地鳴動して大地震が起こり、異教の神像はすべて壊れ、倒れた家々から這い出た人たちは助けを求めてマリアにすがり、マリアは人々に洗礼を施してアトス山は聖山になった・・・という伝説があるが、いくらなんでもこれはマユツバ。文献では843年にコンスタンチノープルで開かれた公会議にアトス山から修道士が出席している記録が最古だから、ここに修道院が建てられたのは9世紀の初めらしい。そして885年に東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の皇帝・ヴァシリオス1世がアトス山を修道士たちの聖域とする勅状を出したことで、ここは治外法権の場所になった。つまりアトス山に世俗の権力が及ばないのは、東ローマ皇帝の勅状が生き続けているということ。アトス政庁の公文書には東ローマ帝国の紋章だった「双頭の鷲」が今も使われている。

15世紀にはビサンティン帝国が滅ぼされオスマン・トルコがギリシャを征服したが、アトス山の特権はそのまま残された。イスラム王朝の中に存在するキリスト教の聖域としてアトス山が大きな意味を持ったのはこの時代で、ギリシャ人の宗教心とともに、民族心の拠り所ともなった。1830年にオスマン・トルコからギリシャが独立すると、アトス山にはロシア帝国の後押しを受けて大量のロシア人修道士が渡来し、20世紀初めには7400人の修道士のうち3500人がロシア人となる。しかし、ロシア革命の後は新たなロシア人の入山が途絶え、2000人近い修道士が生活して最大規模を誇ったロシア正教会の聖パンテレイモン修道院は、1980年代にはわずか3人を残すのみで廃墟寸前になったようだ。

こうして1000年以上伝統と特権を守り続けてきたアトス山だが、時代の変化の波は押し寄せつつある。「文化遺産の保護」を理由にギリシャ政府の警察官が常駐するようになり、文明の利器を排してランプ生活を送っていた修道院にもこの10数年の間に電気が引かれ、漏電で修道院が全焼する事件も起きた。そして2002年には欧州会議が「アトス山が女性の立ち入りを禁止しているのは、女性の人権に反している」とギリシャ政府に女人禁制の撤廃を要求。ギリシャ政府とアトス政庁、東方正教会は「1000年も続いたもので、国の伝統、価値観、シンボル、信仰と結び付いている」と反発していますが・・・。


アトス山の「国旗」は、もともと東西ローマ帝国の結合を意味した東ローマ帝国の「双頭の鷲」の紋章

東方正教会とアトス  アトス山の写真がたくさんあります
 
 

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