対岸の飛び地
 
 エンゲブ  ロバーツ岬  ウッズ湖西岸  エルム岬  プロビンス岬  Vistytis湖東岸
 Dubki  ベンデル  エディルネ  コンスタンツ  コパカバーナ  
 リコマ島&チスムル島  マーチン・ガルシア島  リオ・リコ      

エンゲブ(‘En Gev ) シリアに囲まれたイスラエル領

‘En Gev とゴラン高原の地図  
‘En Gev とゴラン高原の詳細地図(1970年代) ロシア語
‘En Gevの衛星写真  (google map)

茶色はイスラエル領、灰色はシリア領。もっとも現時点ではどちらもイスラエルが占領中
1967年の第三次中東戦争で激戦地の1つとなったのがゴラン高原。ゴラン高原はシリア領だがその麓はイスラエル領なので、シリアはここからバンバン大砲をぶっ放した。またゴラン高原には雪が降り、イスラエルの貴重な水源にもなっていた。そこで第三次中東戦争でイスラエルはゴラン高原を占領し、同時に占領したシナイ半島はエジプトへ返還、ガザとヨルダン川西岸ではパレスチナ自治政府の設置を認めたが、ゴラン高原はシリアへの返還を拒んでいる。現在、ゴラン高原とシリア本土との間の停戦ラインには、国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)が常駐し、日本から自衛隊の輸送隊も派遣されている。

さて、そのゴラン高原の麓にガリラア湖がある。イエス・キリストが伝道した場所として様々なエピソードが伝わっている一帯だが、その西岸に周囲をシリア領で囲まれたイスラエルの飛び地がエンゲブ。エンゲブには20世紀前半のシオニズム運動でキブツ(ユダヤ人の農業共同体)が作られ、ユダヤ人が入植していたことから、1948年のイスラエル独立にあたってはイスラエル領となった。第一次中東戦争の後、エンゲブはその南側のシリア領と共に非武装地帯に指定されていたが、第三次中東戦争の際、イスラエル軍はここを出撃拠点としてゴラン高原を一挙に占領してしまう。いざ戦争になったら非武装もクソもないということですね。

現在のエンゲブは周囲がイスラエルの占領地になったので平和になったのか、キブツが経営するのどかなリゾート地になっていて、むかしむかしイエス様がパン5つとこの魚2匹で5000人の胃袋を満たしたという 聖ペトロの魚 が名物料理なんだとか。

HOME★9(ほめく)別館  イスラエルの旅行記、エンゲブやガリラヤ湖周辺の写真があります
エンゲヴ発掘  立教大学文学部のサイトにあったエンゲブの古代遺跡の発掘の様子。写真日誌もあります




ロバーツ岬 カナダに囲まれたアメリカ領

ロバーツ岬の地図  
ロバーツ岬の拡大図  
ロバーツ岬の衛星写真  (google map)

カナダの太平洋岸、バンクーバーの南にあるロバーツ岬(ポイント・ロバーツ)は先端部だけがアメリカ領。これはアメリカとカナダ(当時はイギリス植民地)が北緯49度を国境線と決めたため、49度線を南に飛び出した岬の先端が律儀にアメリカ領となったため。もっとも、ロバーツ岬がアメリカ領と確定するのはすんなり決まらなかった。アメリカ側は岬と太平洋との間にあるバンクーバー島もきちんと49度線で分割するように要求、一方でイギリス側はバンクーバー島にはビクトリア砦があることや、バンクーバーから太平洋への出口を確保するために、バンクーバー島と岬は特例としてイギリス領にすることを要求。交渉はなかなかまとまらず、1846年に岬は両国の共有地とされた後、1855年にイギリスはバンクーバー島全体の領有と引き換えにロバーツ岬を放棄することになった。

ロバーツ岬はゴールドラッシュの時代には密輸基地として栄え、その後は漁業基地となったが、最近ではクルーザーの拠点になり、日本人が経営するゴルフ場もあって、ちょっとしたリゾート地だ。バンクーバーから車で30分ほどなので訪れるのはカナダ人が多く、アメリカのガソリン代は安いため給油に寄る車も多いとか。

ここに住むアメリカ人は1200人ほどだが、他にバンクーバーのカナダ人で、節税対策を兼ねてここで暮らす人も少なくない。実際の人口は5000人に達すこともあるようだ。

バンクーバーからお出かけしませんか―もう1つの国境 バンクーバー在住の筆者によるロバーツ岬の詳しい現地ルポです
開戦前の米加国境(2) ポイントロバーツを行く 9・11テロの翌年のロバーツ岬の現地ルポ
Point Roberts Page 1 ロバーツ岬の国境線の写真があります。なんだか一昔前の日本の民家の庭の境みたい・・・




ウッズ湖西岸 カナダに囲まれたアメリカ領

ミネソタ州の地図  
ウッズ湖西岸の地図
ウッズ湖西岸の衛星写真  (google map)

米ミネソタ州の北端はウッズ湖を挟んでカナダ領と接しているが、ウッズ湖の中で国境線が北に張り出し、西岸の半島の一部がアメリカ領になっている。この飛び地は南北20km、東西10kmほど。半島の大部分はインディアン保留地になっているが、中心地のAngel Inletには空港があるようだ。ウッズ湖は古代に火山が陥没してできたカルデラ湖で、湖内には1万4572もの島があるが、そのうち一部もアメリカ領。

ウッズ湖に国境線が引かれたのは、イギリスがアメリカの独立を承認した1783年のこと(アメリカの独立宣言は1776年)。当時、アメリカの西限は西経95度線と決められたが、ウッズ湖に関してはウッズ湖の北西岸から南へ線を引き、その東側をアメリカ領にするとされた。しかしこれは不正確な現地の地図をもとにして決めてしまったようで、「ウッズ湖の北西岸」とはバッファロー・ベイのことだろうと思って国境を決めたら、実はウッズ湖はもっと北へ広がっていて、正確な「ウッズ湖の北西岸」はAngel Inlet北側の入り江だったことが判明。そこから南へ国境線を引いた結果、半島がアメリカ領とイギリス領(後のカナダ領)に分断されたというのが真相らしい。

ウッズ湖の沿岸はかつては毛皮の産地として賑わい、19世紀までカナダ領内(当時はイギリス植民地領内)でも、マニトバ州とオンタリオ州で境界争いを続けていたが、結局この時のアメリカとイギリスの国境線を北へ延長することで州境が引かれている。




エルム岬 カナダに囲まれたアメリカ領 

ムスケグ湾の地図
エルム岬の衛星写真 (google map)

さて、ウッズ湖にはもっと小さな飛び地がいくつか存在している。バッファローベイの南にあるムスケグベイの北岸で、湖に突き出したアメリカ領の岬が3つ、そして地図をよ〜く見ると、アメリカから突き出したカナダ領の岬も1つあるようだ(左側の矢印)。これらの中で一番大きなエルム岬でも、東西1km、南北500メートルほど。

ここに国境線が引かれたのは1818年のこと。アメリカは1803年にフランス領だったルイジアナなどを買収し、領土は中西部へ大きく広がった。それに関連してアメリカ領とイギリス領の境を整理することにしたが、Angel Inletのようなヘマをやらないためにも、例外を作らずに北緯49度線で一直線に国境線を引くことにした。その結果、バカ正直に国境をまっすぐにしたので、またしても新たな飛び地が生まれてしまったという次第。

この北緯49度線の国境は、後に太平洋岸まで延長されて、上で書いたようにロバーツ岬という飛び地も生んでいます。

それにしても、エルム岬は一体どんな場所かといえば、地図を見て想像できるような湿地帯で、このサイトによればこんな場所だとか。むかし♪エリモの春は〜何もない、春です〜♪という歌があって襟裳岬の人たちからクレームが来たようですが、エルム岬は本格的に何も無さそうな場所ですね。写真に写っている女性はインディアンっぽいですが、エリム岬の北側のカナダ領は、インディアン保留地になっています。




プロビンス岬 カナダに囲まれたアメリカ領 

アメリカ側から見たプロビンス岬一帯の地図
プロビンズ岬の衛星写真 (google map)

アメリカとカナダの間にはさらに小さな飛び地が存在している。カナダのモントリオールのすぐ南、ケベック州と米バーモント州にまたがるシャンプレーン湖のプロビンス岬がそれ。カナダ領から岬の先端だけアメリカ領に飛び出しているのだが、地図を見る限り100メートルあるかどうか。アメリカとイギリス(現在はカナダ)で国境線を引いた時、北緯45度で一直線にしたのでプロビンス岬の先が引っかかってしまったというわけ。 

もっとも、縮尺の大きな地図を見てみると、プロビンス岬の付け根の部分だって、カナダ領からアメリカ領へ10数km突き出した大きな半島の飛び地のように見える。ここはGrand Isle Co、つまり「大島郡」という場所。アメリカの「本土」とは橋で結ばれているようですが・・・。

 
上はカナダ、下はアメリカ(左)。シャンプレーン湖で国境線に分断されているように描かれている半島は、たぶんプロビンス岬ではなく「大島郡」(右)




Vistytis湖東岸 リトアニアに囲まれたロシア領
ドイツ(下)とリトアニア(上)の国境だった頃のビスティティズ
ロシアの飛び地・カリーニングラードとリトアニアの国境にあるVistytis湖は、国境線はリトアニア側の湖岸に引かれて水域は大部分がロシア領。ところが湖の東岸にあるリトアニア領の町・Vistytisでは、水域が少しだけリトアニア領で、岬に国境線が食い込み先端がロシア領になっている飛び地が2ヵ所存在している。その幅は数メートルから数十メートルほど。

ロシア領の飛び地には2家族6人のリトアニア人が住み、ソ連時代には何の問題もなかったはずだが、リトアニアが独立してからはここにも国境の警備所ができて、友人が家に訪ねてくるのにも厄介な制限がついたようだ。

97年10月に、これらの飛び地を含んだ湖の水面の一部をリトアニアがロシアから49年間租借する条約が承認されたが、2001年11月現在まだ実施されていない。

この飛び地は戦前から存在していた。かつて湖はドイツ領で、町に面した湖岸だけは住民が魚を捕るためにリトアニアの水域とされた。しかし国境線を一直線に引いたので、岬の先端がドイツ領になってしまった。湖と町の帰属は移り変わったが、国境線はそのまま残ったという次第。

第一次世界大戦前 湖と飛び地:ドイツ領(東プロイセン)、町:ロシア領(リトアニア)
第二次世界大戦前 湖と飛び地:ドイツ領(東プロイセン)、町:リトアニア領
第二次世界大戦後 湖と飛び地:ソ連領(ロシア)、町:ソ連領(リトアニア)
現在         湖と飛び地:ロシア領(カリーニングラード)、町:リトアニア領
国境線が入り組んだビスティティスは密輸の拠点として賑わい、戦前はユダヤ人が多く住んでいたが、ナチスによって大部分が殺された。現在はロシアからリトアニアへ、安いガソリンやタバコの密輸が横行しているとか。

 
租借前(左)と租借後(右)のビスティティズの湖岸。ただし現実に実施されているかどうかは不詳

Jan S. Krogh's GeoSite - Vistytis  現地ルポが載っています(英語)
Vistytis  先祖がVistytisから移民してきたというユダヤ系カナダ人による現地ルポや歴史的背景の解説など(英語)
Vistytis  さっぱり読めないけど、いろいろ詳しそうなサイトです(リトアニア語)




Dubki エストニアに囲まれたロシア領 

Dubkiの衛星写真 国境線は少しイイカゲンに描かれています(google Earth)

ロシアとエストニアの国境線は、北側はペイプス湖の中央に引かれているが、南側はプスコブ湖(エストニア名はピヒクヴァ湖)の西岸に食い込んでいて、Dubkiと呼ばれる一角がロシア領の飛び地になっている。

もともと1920年にエストニアがロシアから独立した際には、プスコブ湖でも国境線は中央に引かれていた。しかし40年にソ連がエストニアを併合した後、四五年にロシアとの境界線を決め直し、現在のラインに修正されたもの。

プスコブ湖の南側にはペチョリ(Pechory=エストニア名はPetseri)という町があり、当初はエストニア領になっていた。しかしここには14世紀末からロシアの修道院があり、歴代のロシア皇帝がこの修道院の保護に力を入れるなど、ロシアとの文化や歴史上のつながりが深かった。そこでエストニア併合を機にペチョリをロシア領に戻し、ペチョリの町の一部だったドゥブキもロシア領に移された。スターリンの時代に修道院や皇帝云々を尊重するのは妙な気がするが、ロシアが広がるぶんには良かったのかも。

もっとも当時はロシアもエストニアもソ連の一部だったから問題はなかったが、91年にソ連が解体すると、国同士の飛び地になってしまった。両国は2005年に国境画定の条約を結んだが、エストニアでは「ペチョリ返還」を求める声が強かったため、ドゥブキを渡せばペチョリも渡すことになるとロシアは反発。結局、ドゥブキの国境線は現状維持と決まり、住民はすぐ近くのエストニア領の町へ買い物にも行けず、不便な暮らしを続けているという。

Dubki  現地の詳しい地図があります(独語)
The border at Dubki 現地の国境線の写真があります(英語)




ベンデル モルドバに囲まれた「沿ドニエストル」領 

沿ドニエストル共和国の地図 

領土を確保して60万人以上の住民を抱え、行政機構も備えて通貨も発行しているのに、世界どこの国からも認めてもらえない「国家」が沿ドニエストル共和国。「今でもソ連のつもり」という国家理念がヒンシュクものなんですかね・・・。

沿ドニエストル共和国についてはこちらを参照なわけですが、ドニエストル川の東岸を領土にしているなかで、「首都」ティラスポリの周辺では川の対岸(ベンデル一帯など)も沿ドニエストル共和国が確保しています。

(旧)ユーゴ便り ベンデルを通って沿ドニエステル共和国へ入ったルポが載っています




エディルネ ギリシャに囲まれたトルコ領

エディルネの衛星写真 (google map)

エディルネと言っても知っている人はあんまりいないと思いますが、アドリアノープルなら世界史の授業で習いましたね。14世紀に小アジアで勃興したオスマン・トルコは黒海をわたってバルカン半島にも領土を広げ、1362年にアドリアノープルへ首都を移転。ビサンティン帝国(東ローマ帝国)を両側から挟み込んで、ついに1453年にはコンスタンチノープルを陥落させた・・・というわけで、コンスタンチノープルは現在のイスタンブールですが、かつてのアドリアノープルが現在のエディルネ。

イスタンブールは首都じゃなくなってもトルコを代表する都市だが、エディルネはといえばどうにか今もトルコ領といった感じだ。「どうにか」というのは、トルコの中ですっかり辺境の町になってしまったから。エディルネから北へ20km行けばブルガリア領だし、西はすぐギリシャ領。トルコ本土とはメリチ川を挟んで隔てられ、町の周囲はギリシャ領で囲われてしまっている。

二〇世紀に入りバルカン諸国が独立すると、エディルネ一帯のトルコ領は各国の争奪戦となり、一時はロシアやブルガリアに占領され、ギリシャも領土を広げた。現在の国境線は一九二三年のローザンヌ条約で決められたもの(※)。ギリシャとトルコの国境はメリチ川と決められたが、エディルネの旧宮殿やモスクはギリシャ側(西岸)にあったので、対岸もトルコ領になった。帝国時代のエディルネの住民は、イスラム教徒とキリスト教徒が半々で、ユダヤ人も多かったが、ギリシャと住民交換が行われて現在はすべてトルコ人だ。

※第一次世界大戦でトルコが敗れた際、エディルネを中心としたトラキア地方は国連保護下のコンスタンティノーブル自由国として独立させることも検討されたが、1920年に結ばれたセーブル条約ではギリシャへ割譲された。しかし1920年から22年にかけてギリシャ軍はイズミールでトルコ軍に破れ、トルコ軍はトラキア地方も奪還しようとボスボラス海峡を占領していたイギリス軍と対峙した。結局ムダニヤ休戦協定が結ばれ、トラキア地方のうちメリチ川東岸の東トラキアとエディルネ市内はトルコへ引き渡され、翌年のローザンヌ条約で改めて確認された。エディルネはブルガリア人とギリシャ人、トルコ人が混住していたが、ブルガリア人は去りギリシャ人は「住民交換条約」によって追放され、トルコ人だけが住む町になった。
メリチ川には橋が架かっているからトルコ本土とのの行き来には支障はなかったが、ややこしいことになったのが鉄道だ。エディルネを走る鉄道は、ヨーロッパ各都市とイスタンブールを結ぶオリエント急行が走っていた主要幹線だが、エディルネ駅は西岸にあり、前後の線路はギリシャ領。つまりヨーロッパからイスタンブールへ向かう列車は、ブルガリア→ギリシャ→トルコ(エディルネ駅)→ギリシャ→トルコと国境を何度も越えねばならなかった(※)。もっともこれらの列車は回廊列車という扱いで、ギリシャ領内は通過するかわりに、ギリシャの出入国手続きは不要だった。
※パリ、ロンドン、ミュンヘン〜イスタンブールのオリエント急行のほか、ドルトムント(西ドイツ)〜イスタンブールのイスタンブール急行、モスクワ〜キエフ〜ブカレスト〜イスタンブールのダヌビウス急行(ソフィアからはイスタンブール急行と併結)が運行されていた。
ギリシャとトルコは犬猿の仲だったからなおさら都合が悪かったのだが、トルコがメリチ川東岸に新しい路線を建設して、ギリシャ領を通らずに直接ブルガリアと結ぶようになったのは、ようやく1971年になってから。一方で、ギリシャもエディルネ駅を通らずにブルガリアと結ぶ迂回線を建設。西岸のエディルナ駅は現在では廃駅となっています。

エディルネ:国境と線路  エディルネ一帯の鉄道の変遷について。旧エディルネ駅の写真もあります
ヨーロッパ横断・オリエント急行の旅その1  その2 写真 1970年の旅行記です。ギリシャの出入国手続きはなかった模様




コンスタンツ スイスに囲まれたドイツ領

コンスタンツの衛星写真 (google map)

「コンスタンツ公会議」って、世界史で習いましたよね?果たしてどんな会議だったのかは忘れちゃいましたが、その舞台となったコンスタンツとは、ドイツの西南にあるボーデン湖に面した人口8万人ほどの町です。

ボーデン湖はドイツとスイスの国境になっているが、コンスタンツのうち2km四方の一角だけはボーデン湖の南岸にあり、スイス領に囲まれたドイツの飛び地のようになっている。新興住宅地や工業地帯は北岸にあるが、旧市街があるのは南岸だ。

コンスタンツに町が出来たのは1世紀末頃で、最初はローマ人の植民都市だった。当時ドイツからスイスにかけてはゴート族の一派であるアレマンニ族が勢力を広げていたが、4世紀にアレマンニ族を撃退し、町に安定をもたらしたローマ皇帝コンスタンティヌス2世を讃えてコンスタンシア、後にコンスタンツと呼ばれるようになった。コンスタンツには585年から司教が置かれ、地域の中心都市として発展した。

コンスタンツがスイス領に囲まれることになったのは15世紀後半のこと。ハプスブルグ家の圧力に対抗して、1291年に3つの州の代表が自治独立を守るための誓約を結んだのがスイス連邦の始まりだが、周辺の各州も次第に誓約同盟に加わり、スイス農民軍も各地を「解放」して領域を広げていった。1460年にスイス軍はコンスタンツを除くボーデン湖南岸を占領したが、コンスタンツもこの時に誓約を結んでスイスに加わろうとした。

ところがコンスタンツはスイスに同盟への加入を断られてしまう。当時のスイスには農民軍主体の6つの森林州と7つの都市州が加盟していたが、これ以上都市州が増えたらバランスが崩れると、森林州が加入に反対したためだった(※)。

※1291年の3州はいずれも森林州で、スイスは農民たちの自治同盟としてスタートしたが、人口が少なく経済力に乏しい農村だけでは強大なハプスブルグ家と戦えないため、後に都市州も加えるようになった。森林州は直接民主主義だったのに対して、都市州は富裕層による寡頭政治で体質が異なり、主導権争いが続いていた。
スイスに入れてもらえなかったコンスタンツは、仕方なく湖の向こうのシュヴァーベン同盟に入ったが、スイス農民軍の「解放戦争」が自分たちのお膝元で農民一揆につながることを恐れた南ドイツの諸侯たちは、1499年にスイス農民軍を潰すべくシュヴァーベン同盟軍をスイスへ侵攻させた(シュヴァーベン戦争)。

結果は諸侯側の惨敗で、コンスタンツは郊外地域をスイスに奪われ、南岸に丸裸で取り残される姿になったという次第。しかし、スイス領がギリギリまで迫っているのはいいこともあって、第二次世界大戦では連合軍がスイス領への誤爆を恐れて、コンスタンツの町は大半が爆撃されずに済んだという。

コンスタンツの駅にはスイス国鉄も乗り入れ、ドイツ国鉄のホームとの間は金網で仕切られている。コンスタンツはスイス領の町・クロイツリンゲンと市街地がつながっていて、簡単な検査で行き来できるようになっている。スイスはヨーロッパで一番物価が高い国なので、週末ともなればクロイツリンゲンや周辺のスイス領から買い物客がわんさとコンスタンツへやって来るとか。

最近ではクロイツリンゲンと市内バスの相互乗り入れや、スポーツ施設の共同建設も行われ、国境を越えた都市の一体化が進んでいるようだ。


国境線(紫)の上がドイツ領で下はスイス領




コパカバーナ ペルーに囲まれたボリビア領 
右上がボリビア領、左下はペルー領
アンデス山脈にお標高3800メートルにあるチチカカ湖は、ボリビアとペルーの国境の湖だが、ペルー側から突き出した半島の先端がボリビア領になっている。中心地のコパカバーナは人口6000人ほどの町。

コパカバーナ一帯はもともとインディオの聖地で、沖合にはインカ帝国発祥の地と伝えられる太陽の島(Isla del Sol)や月の島(Isla de la luna)がある。16世紀にこの地を征服したスペインも、コパカバーナにカテドラル(大聖堂)を築き、ボリビア随一の巡礼の地になっている。

ボリビアはスペイン植民地時代は「高地ペルー」と呼ばれ、ペルー副王領の一部だったが、1776年からはラ・プラタ副王領(アルゼンチン)の一部に移された。1825年にスペイン軍を駆逐した際、ペルーの一部として独立するか、単独国家として独立するかで論争となり、結局は独立の英雄・ボリバルにちなんで「ボリビア」として単独独立を選ぶことになった(※)。こうしてチチカカ湖の上に国境線が引かれることになった次第。

※ボリバルは南米諸国をスペイン支配から解放した人物で、ベネズエラも1999年に国名を「ベネズエラ・ボリバル共和国」に改称した。



リコマ島&チスムル島 モザンビークの水域に囲まれたマラウイ領 

マラウイの詳細図  
リコマ島とチスムル島の衛星写真 (google map)

アフリカ南部の内陸にあるマラウイは、かつて英国植民地だった頃はニアサランドと呼ばれていたが、その名の通りニアサ湖にべったり張り付いたような形の国。ニアサ湖の大部分はマラウイの水域だが、一部はモザンビークの水域になっていて、その中にリコマ島とチスムル島というマラウイ領の島が2つある。一体なぜこんなヤヤコシイことになったのでしょう?

モザンビークは元ポルトガルの植民地で、15世紀末にヴァスコ・ダ・ガマがインドへ向かう途中に寄港して以来、ポルトガルが進出していた。もっともこの時代の植民地経営とは、古代フェニキア人の地中海進出と同じで、砦を築いて拠点となる港を確保し、商館を建てて貿易を独占し、利益を上げることだった。国境線というものはあいまいで、住民の管理は支配下に置いた現地人の土候に任せ、反乱が起きた場合にだけ介入した。しかし産業革命で工業生産が飛躍的に増大すると、植民地は天然資源やプランテーション作物の供給源となり、本国の工業製品を輸出する市場ともなった。また住民は労働力という「資源」となり、植民地の生産性を高めるべく計画的なインフラ整備を行うための財源として徴税体制の整備が必要になった。つまり近代的な植民地経営のためには、国境線と領域を明確に定めて帰属する土地と住民をはっきりさせることが不可欠となったのだ。

こうして19世紀後半にはアフリカ分割に関するヨーロッパ列強の会議が行われた。ポルトガルなど伝統的な海洋植民地帝国は「(ヨーロッパ人で)最初に発見し上陸したのは誰か」という歴史的権利を尊重するよう主張したが、強大な軍事力を背景にした新興植民地帝国のイギリス、フランス、ドイツが主張した「現在誰が占領しているか」という実効支配が基準とされることになった。このため、沿岸部に砦や商館を築くだけだったポルトガルには不利となり、アフリカ南部東岸のモザンビークと西岸のアンゴラを結ぶ広大な領土を主張したものの、カイロからケープタウンにいたるアフリカ大陸の南北を貫こうとするイギリスと真っ向から対立した。

ニアサ湖一帯では、スコットランド人の宣教師が1886年にリコマ島に教会を建てて布教していたことから、イギリスは「現地に住み着いて布教活動を行っている」という実効支配を盾にニアサランドの領有権を主張。ポルトガルは1890年と91年の条約でアフリカ内陸部の主権を放棄することになり、こうしてニアサランドはイギリスの植民地となった。

また北側のタンザニアはドイツの植民地になったが、この頃ポルトガルは内乱で財政破綻状態にあり、イギリスとドイツは1898年に秘密協定を結んで、もしポルトガルがこれ以上借款を申し込んで来た場合は、借金のカタとしてポルトガル植民地を両国で分割してしまう案を確認。アンゴラはイギリスが、モザンビークはドイツが優先権を持つことにした。万が一、モザンビークがドイツ領になった場合、2つの島はドイツを牽制する上でも大きな役割を果たすことが期待された。

現在のリコマ島は、17平方kmの狭い土地に6000人が住み、島民は主に漁業で暮らしているが、最近ではダイビングのリゾートにもなっているようだ。ただし、マラウイ本土との間を結ぶ船が3日に1便しかないので、必然的に狭い島に3日以上滞在しなくちゃならないらしい。チスムル島は電気も道もないような場所とか。

Malawi resort  リコマ島の観光案内。島の写真があります(英語)
みやぎ海外夢大使の活動報告  マラウィの観光産業やリコマ島へのフェリー運航の現状などの話があります




マーチン・ガルシア島 ウルグアイの水域に囲まれたアルゼンチン領 

マーチン・ガルシア島がまだ係争中だった頃の地図  
マーチン・ガルシア島の詳細地図

アルゼンチンとウルグアイの国境を流れるラプラタ川の河口にあるマーチン・ガルシア島は、ウルグアイ側の岸からは3・5kmなのに対して、アルゼンチン側の岸からは33・5km離れ、ウルグアイの水域に浮かんでいるにもかかわらず、アルゼンチンの領土になっている。

マーチン・ガルシア島は密林に覆われた面積168ヘクタールの島。スペインがここを支配した後、植民地建設のための花崗岩の切り出し地として使われていたが、1870年から1970年までアルゼンチン海軍が占領し、島には主に政治犯を収監する刑務所が建てられていた。

1973年にアルゼンチンとウルグアイの間で、ラプラタ川の国境線が画定し、マーチン・ガルシア島は「ウルグアイの水域に浮かぶアルゼンチン領の島」として確定。現在では刑務所は閉鎖され、人口約200人。かつて軍が建設した空港を活かして、自然公園を中心としたリゾート地に生まれ変わっています。

 
マーチン・ガルシア島が水域ごとウルグアイ領になっている地図(左)と、アルゼンチン領になっている地図(右)。どちらも間違い

Aero Estancias  島の写真がたくさんあります(スペイン語)




【過去形】リオ・リコ メキシコに支配されていたアメリカ領

現在のリオ・リコの衛星写真(Google Map)

大西洋岸に近いアメリカ・テキサス州とメキシコとは、リオ・グランデ川が国境線になっているが、川の南側に位置していたヘチマのような形をしたアメリカ領の飛び地がリオ・リコ。しかしこの飛び地の存在は、なんと60年にわたって両国の政府から忘れられていたのだ。

アメリカとメキシコは1884年に結んだ協定で、リオ・グランデ川を国境線とするとともに、もし川の流れが自然に変わったらそれに基づいて国境線も移動させることを決めていた。当時、リオ・リコ付近では川は大きく蛇行していてリオ・リコは川の北岸、つまりアメリカ側にあった。しかし川の水をポンプで汲み上げて周辺一帯で農場経営をしていたリオ・グランデ土地灌漑社が、川の蛇行がひどすぎて取水口が土砂で埋まりかねないと、政府の許可を得ずに勝手に河川改修をして、川をまっすぐにしてしまった。

こうしてリオ・リコは川の南岸になったのだが、川の流れが自然に変わったわけではないので、本来ならばアメリカ領のはず。しかし当時のリオ・リコには住む人もいなかったのでうやむやとなり、リオ・リコはいつしかメキシコ領ということになってしまった。

リオ・リコに町ができたのは、メキシコ領と思われていたおかげだ。1920年にアメリカで禁酒法がスタートすると、国境に面した「メキシコの町」リオ・リコには、アル・カポネが糸を引いていたと言われるシカゴのシンジケートによって、酒と女とギャンブルを提供するリゾートが作られ、リオ・グランデ川には吊り橋が架けられた。

しかしリオ・リコの繁栄は永くは続かず、1933年に禁酒法が撤廃されるとたちまち町は寂れ、41年には洪水で橋が流されてしまい、リオ・リコは80世帯弱の小さな集落に落ちぶれてしまった。

そんなリオ・リコが再び脚光を浴びたのは1967年のこと。アリゾナ州立大学の地理学者が、古い地質図を研究していたところ、リオ・リコ付近の川は人工的に流れが変えられていたことを発見。驚いたアメリカ政府はさっそくメキシコ政府と協議して、いまさらアメリカ領に戻してもしょうがないと72年にリオ・リコをメキシコへ割譲してしまうことを決めたが、いままで「メキシコ人」として暮らしてきたリオ・リコの住民たちもビックリ。「アメリカに住んでいたのだからアメリカの国籍をよこせ!」と裁判に訴えた。

一審ではリオ・リコの住民が敗訴したものの、控訴審では住民の主張が認められ、アメリカの出生地主義の国籍法に基づいて、1906年から72年までの間にリオ・リコで生まれたことが証明できる者にはアメリカ国籍を与えることが決まった。しかしリオ・リコの町は全てがアメリカ領だったわけではなく、本来の川を埋め立てた土地の上に跨って作られていたため、果たして誰が「アメリカ生まれ」だったかは曖昧なうえ、メキシコ政府の職員がリオ・リコの出生証明書を秘かに販売していたこともあって、結局1000人あまりがアメリカの国籍を取得したようだ。

こうしてリオ・リコは1977年に正式にメキシコへ割譲され、飛び地ではなくなった。アメリカ国籍をもらった住民はほとんどがアメリカへ引っ越してしまい、入れ替わりにアメリカへ渡るチャンスをうかがうメキシコ人たちがリオ・リコに住み着いているという。
 
 

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