岐阜県岐阜市

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい

岐阜城(岐阜市金華山)

 岐阜城については説明するまでもない。かつては斉藤道三の稲葉山城であり、信長侵攻後は、周の武王の岐山にちなんで「岐阜城」と命名された城である。そう、ここは信長が「天下布武」の意欲を実現させていく礎となった場所である。もっとも山上は比高320mという高所であり、信長の時代以降はほとんど使用されてはいなかっただろうと思われる。信長は平素は山麓の居館に住み、そこには天守閣状の建造物も建てられていたという。

 この信長の居館は発掘調査も行われており、岐阜公園の入り口には信長の居館関係の資料館もあった。ところが、この資料館、日曜祭日は休みであった・・・・。案内をするのが公務員ということもあるのだろうが、日曜祭日に見ることができないのでは多くの人は発掘の成果を見られないということになってしまう。せめて展示だけでもある程度自由に見られるようにしてほしいものである。

 駐車場は岐阜公園から道路を挟んで北側にある。今時、岐阜城なんてたいして見に来る人はいないだろうと多寡をくくっていたのだが、それは大間違いであった。駐車場からして、すぐには入れず、待機しなければならないほどいっぱいになっていた。その理由は後で分かることになるのだが、それがなくとも、岐阜公園にはかなりの数の人が訪れる人気スポットであるらしい。

 駐車場に車を置き、歩道橋を渡って岐阜公園に。ここはすっかり公園化されてしまっているが、本来は山麓の広大な居館があった部分であった。しかし、公園化されている部分では、その名残はほとんど見られない。なにはともあれロープウェイで金華山山頂まで行くことにした。

 金華山には登山道も何ルートかあるようだが、今日は時間もないので、ロープウェイで一気に上がっていく。このロープウェイもけっこう込んでいた。山城でこんなに人が訪れる城というのもめずらしいであろう。(ロープウェイがある山城ということ自体がかなり珍しいというべきであるかもしれないが)

 実は岐阜城に訪れたのは32年ぶりであった。はるか昔、夏休みに母親が常滑の知人のところに行くというので、それに便乗し、名古屋城、犬山城と訪れたことがあった。本当はそこでおしまいの予定だったのだが、「岐阜城にも行きたいなあ」とつぶやいたところ、たまたま犬山城まで乗せてもらったタクシーの運転手が「岐阜ならけっこう近いよ。すぐにいけますよ」といったので、すかさず「岐阜城に行こうよ行こうよ」とごねて、そのままタクシーで乗せていってもらったのであった。今となっては懐かしい思い出である。大河ドラマの「国盗り物語」が放映されてまだそんなに経っていないころのことで、あちこちに「国盗り物語」の写真やら幟やらが翻っていた。天守下にある櫓形状の資料館も、大河ドラマを記念して建てられたものであった。

 さすがに32年も前のことであるので、城内の詳細についてはほとんど記憶がなくなっていたが、それでも山頂駅から天守までの道のりについては、なんとなく記憶に残っており、なんとも懐かしくもせつないような感傷に浸ることもできた。

 その当時は城の縄張りはあまり意識していなかったのだが、今改めてみてみると、山頂部には平場が非常に少ないというのが印象的である。確かに険しい山なので難攻不落には違いないが、これでは多くの兵を籠めることもできないであろうし、第一、山上で生活するのは相当きびしいであろう。やはり山頂部は、本当に緊急時だけに使用する避難所程度のものだったのではないかと思われる。

 とはいえ、平場の少なさに反して、石垣の造成に積極的なのには驚かされる。全山岩山なので、石材は豊富に産出できたであろうとはいえ、この程度の規模の山城で、これほどの石垣を構築するのはかなり思い切ったことだったであろう。しかもそれには相当の財力と人力が必要だったはずである。斉藤道三の時代にそこまでの工事が行われるとは思われず、これらの石垣は、信長か、あるいはさらに後代になってから築かれたものなのではないだろうか。天守についても同様である。普段使用しないとはいえ、ここに天守を建てておくのは非常に象徴的であり、城下から見たらいいデモンストレーションになったことであろう。

 山上の天守がどのような形状のものであったのかは不明である。一説によると、山上の天守は解体されて運ばれ、加納城の天守となったといわれているが、こんなに高い山から、解体した天守を運び出すというのはなんとも労力がかかりすぎる。そんなことをするくらいなら、新しい資材を調達して天守を造り上げる方がよほど楽である。「岐阜城の天守を解体して運んだ」というのが真実だったとしても、それは山上の天守ではなく、山麓の居館部にあった天守の方であろう。

 本来ここに建っていたはずの天守については、その形状が分からないのだから、どのような天守を山上に復興しても、模擬天守としかならないのはいたし方がない。しかし、ここの模擬天守は日本でも最も古いものであった。

 岐阜城に最初の模擬天守が建てられたのはなんと明治42年。現在のようなロープウェイもなかったであろうし、よくもまあその当時、このような山上に観光用の天守を建てようなどという気持ちになったものである。建造するのも大変な苦労であったろうが、その模擬天守に登城するために、山麓から歩いて登るというのもとても大変だったことであろう。

 その当時の天守が現在でも残っていれば、明治の木造建造物であり、ある意味文化財のようになっていたのではないかとも思うのだが、残念ながらその天守は戦時中に空襲で焼けてしまった。

 現在の天守は昭和31年に復興された2代目の模擬天守である。それでももう30年以上経っている。岐阜市外のあちこちから眺望することができ、現在ではすっかり風景になじんでしまっており、旧状もかくやあらんと、つい錯覚してしまいそうになるくらいである。

駐車場から岐阜公園に接続する歩道橋から見た山頂の天守。ここからの比高は320mほどある。しかしロープウェイで行けてしまうので楽チンである。 ロープウェイに乗るとすぐに瀟洒な三重の塔が見えてきた。といってもそんなに歴史のあるものではなく、大正天皇の行幸を記念して大正5年に建てられたものだという。
ロープウェイを降りて歩き出すと、道が二手に分かれていた。右側が登城道、左側の尾根道が帰りのルートとなっている。本来のルートは左手の尾根道であったのではないかと思う。 登城道を進んでいくと、堀切1が見えてきた。深さ2mほどの堀切である。法面をコンクリート加工しているが、これはもともとあった堀切であろう。
さらに進むと、白壁に囲まれた小郭に到達した。石垣やら石段などがあるが、どの部分が遺構なのか、さっぱり分からない。 左の小郭から見た天守。ここから右手に降りていくと、赤い橋を渡って本丸井戸のところに出る。左手に上がっていくと、天守方向である。
西側下にある金銘水の井戸。井戸といってもこんな岩山に水が湧いているわけではなく、雨水などを溜めておいたものらしい。 復興模擬天守。昭和31年に建てられたもので、2代目の模擬天守である。初代模擬天守は明治年間に建てられたが、空襲で焼失してしまったという。
天守石垣下に続く尾根道。すぐ正面に天守台が迫ってくる。 この山は岩が多く、天守台の下の一部は天然岩になっている。天守台の石垣は明治年間の模擬天守建造時にも積みなおされているらしく、どこまでが旧状通りなのかは不明である。
模擬天守の入り口。よく見ると、天守台の石垣はコンクリートで固められている。かなり後世の手が入っているようだ。 天守から見た資料館。
天守から見た岐阜市外。夏場は夜もロープウェイが営業しており、夜景を楽しむこともできるという。絶好のデートスポットかもしれない。 北側の風景。鷺山城が見えている。そのさらに先の方に黒野城があるはずだが、よく分からない。
これが明治年間に建造された模擬天守。実際の天守もこんなようなものだったかもしれないなあ。ちなみに日本で最初にできた模擬天守である。よくもまあ明治時代にこんなところに観光用の天守を建てようと思ったものである。 資料館に降るところにある小郭の石垣。こうした部分の石垣は旧状通りと見てよいのであろうか。
下の郭にある資料館。大河ドラマ「国盗り物語」を記念して建てられたものである。以前来た時は、放映後すぐの頃であり、「国盗り物語」の写真がたくさん展示してあった。まだあるかと期待していたのだが、さすがにもう一枚も展示されていなかった。 資料館の脇から井戸の方に降りていく。よく見るとあちこちに石垣が積んである。この山は岩が多いので、石材の調達にはそれほど苦労しなかったであろう。
本丸下の井戸。といっても、掘り抜きのものではなく、雨水や谷水を集めるというシステムになっていたようである。 その先を進んでいくとこのような赤い橋がある。橋の下は竪堀となっている。
刀利天狗社の先あたりにも石垣が残っていた。 展望レストランの屋上。この建物によって改変されてしまっているが、もともとはそこそこの広さの郭であったろう。山頂部は平場が少ないので、ここは比較的大きな郭ということになる。
降りのロープウェイに乗っているといきなり「バン!」という音が聞こえてびっくりした。下を見ると火縄銃の試射が行われていた。人もいっぱいである。駐車場が込んでいたのはこれのせいであるらしい。さっそく行ってみることに。 試射を行っている部分は信長の居館跡らしく、あちこちに石垣が残っている。ただしm石はみんな小粒のものばかりである。かわらから拾ってきた石をテキトーに積み上げたっていう感じ。
試射は何度も繰り返されていた。近くで見るとかなり迫力がある。もちろん空砲を撃っているのだが、正面にいたら、火薬の粉がぱらぱらと落ちてきた。音もすごい! 今度はすぐ脇から見てみた。一番手前の方は女性の鉄砲足軽である。カッコイイじゃん!
三段撃ちさながらに、何度も続けざまに試射が行われていた。 信長居館入り口の枡形であろうか。
これは井戸の跡のようにも見えるが・・・・・。 信長居館下の登り口にある冠木門。もちろん模擬であろう。
(以前の記述)岐阜城については、山麓の居館に信長によって建てられた天守の形態の復原が近年、盛んに行われておりその実体が解明されつつある。

 一方で、山上の天守台の上に建てられた建築については、その存在は謎のままで、はっきりしないが、斎藤道三の時代に総石垣造りの天守台があったとは思われないから、かなり時代が下ってからのものであろう。したがって現在の天守は模擬天守と言うことになるのだが、初期望楼式の形態になっており、実際にあった建物もこんな感じだっただろうなと思われる。ところでこの模擬天守は、実は二代目のものである。

 明治42年に一度木造で白亜の三層天守が建てられたが(ちょうど羽衣石城の模擬天守のような形)戦時中、空襲によって焼失してしまった。現在の天守は昭和31年に建造されたもので、内部はかつては「国盗り物語」資料を多く展示していたが(実はここを訪れたのは昭和50年のことなので)今どうなっているのかは知らない。 

 写真は昭和50年の最初の訪問時に撮ったもの。近年になって天守の改修が行われているので、若干、違っている部分もある。




加納城(岐阜市加納町)

*鳥瞰図の作成に際しては現地パンフレットを参考にした。

 JR岐阜駅の南1.2kmほど、新荒田川の西岸に、加納公園があるが、これが加納城の本丸跡である。本丸南側の堀が埋め立てられており、ここが駐車場になっていて車を停めるのには困らないのだが、気をつけなければならないのは、この公園、夜間は封鎖されてしまうということである。夜間といっても、10月〜3月までは5時になったらゲートが閉まってしまう。堀底の駐車場の入り口まで封鎖されてしまうので、早めに訪れるように心がけたほうがよい。

 とはいえ10月の5時はまだまだ日が高い。なんでそんなに早く閉めてしまうの?って思うくらいに明るい。

 実は、この日(10月7日)、この城に到着したのは5時10分前であった。駐車場についたとたん、係員のおじいさんに、「中を見学するの?」って聞かれた。最初はただ公園に来ているひまなおじいさんに声をかけられただけなのかと思ったのだが、「5時には閉めるからさっさと見ておいで」といわれてしまう。それで公園管理のおじいさん(たぶん嘱託員であろう)だということが分かったというわけ。

 そこでさっそく車を止めて中に入る。「ほ〜う、千葉県から来たんだねえ。それはご苦労さま。でも5時には閉めるからね。まあ、中にはな〜んにもないから、5時までには見終わると思うよ」などといわれながら内部に入っていく。

 本丸は100m×150mほどの長方形で、東側が出っ張っているといった構造であった。これだけ見たらたいした規模ではないが、周囲を取り巻く土塁は高く、4mほどもある。さすが近世城郭といった趣である。城内にはかつて櫓が立ち並んでおり、岐阜城から移築されたという天守もあった。しかし、今回は時間がなく、どこが天守台なのかも確認できなかった。「なんにもない」と言われたが、どうしてどうして、立派な城址公園である。

 まずは土塁を見ながら北側の虎口まで歩く。虎口の両脇にも石垣が積まれていて、いかにもそこに門があったという形跡を伺うことができる。北側部分も掘りはすっかり埋め立てられてしまっていた。ここまできて時計を見ると、もう4時55分になってしまっている。

 閉鎖5分前を知らせるためであろうか。「チリンチリン」という鐘の音が聞こえてきた。係のおじいさんが鳴らしているらしい。あわてて戻りながら、今度は東側の出っ張りの先の方の部分を確認しに行った。土塁の幅は広く、かつて櫓が立ち並んでいたであろう様子を想像するのには十分なくらいである。それから南側の虎口に戻ろうとすると、もう1分前である。おじいさんはゲートの半分をすでに閉めてしまい、残りの半分を閉めようとしている最中であった。ぎりぎりセーフで、閉門前に外に出ることができた。

 しかし、周囲の石垣など、一番おいしい部分をまだよく見ていない。車を駐車場に置いたまま、石垣の写真を撮りに歩こうとしたら、係のおじいさんに「車もさっさとどかしてよ」と言われてしまう。駐車場の入り口も5時で閉鎖してしまうようだ。「ちょっとだけ、その辺の写真を撮らせてください」と頼んだのだが、「だめだめ、もう時間だから」と取り付く島もない。さっきは「千葉県からご苦労さま」と言ってくれたというのに、まったくパンクチュアルである。

 仕方がないので、とりあえず車に乗りながら周囲を回って、要所要所の写真を撮ってみることにした。

 周囲はほぼ総石垣造りといってもよいような様子であった。といっても平城なので、それほど高いものではなく、せいぜい5mほどの高さである。それでもきちんと石垣で囲まれている城というのは、なかなかカッコイイもので、このような城郭は千葉や茨城には1つもない。やはり城といったら石垣だよなあ、などと思ってしまう。

 このように、堀が埋められてしまっているとはいえ本丸は非常によく残っている加納城ではあるが、それ以外の郭はすべて、宅地化に押されて消滅してしまったようである。本来は上の図のように、周囲に郭を複雑に配置した構造になっていたらしいが、現在ではその全体像をしのぶことはできない。北側の大手道から進入すると、郭は折れるようにして配置されており、本丸に到達するにはかなりの数の馬出し状部分を通り抜けなければならない。本来はそこそこ壮大な城だったのであろう。

 ふと気がつくと、5時10分を回っていたが、相変わらずおじいさんの「ちりんちりん」という鐘の音が城内から聞こえていた。まだ残っている人でもいるのだろうか。結局、この城にいられたのは20分間にすぎなかった。

 それにしても、城内にはそれほど貴重なものがあるわけでもなく、どうして5時で閉鎖してしまわなければならないのかがよく分からない。普通の公園同様、夜も開放していて何も問題はなさそうなのだが・・・・。夜中にここで大騒ぎをするような連中がいて、それで夜は閉鎖されるようになってしまったものだろうか。とにかく早めの時間に来て、ゆっくりと城内を散策するのがよいであろう。

本丸南側の虎口脇の石垣。手前の堀はすっかり埋め立てられてしまったようだ。 本丸南側の石垣。かつては水堀であり、近世城郭らしく幅も30mほどあったようだが、すっかり埋められて駐車場となってしまった。かなり広い駐車場である。
本丸内部。土塁は内部からでも結構高く、4mほどもある。 北側の虎口脇の石垣。櫓門でもあったのだろう。
南側の、城塁が折れている部分の石垣。 その右側。
 加納城はもともと美濃守護土岐氏によって築かれたのに始まるというが、その当時は現在の本丸部分程度の簡素なものであったろうと思われる。

 現在見られるような加納城が築かれたのは、慶長6年(1601)のことである。関が原役の後、奥平信昌は上州小幡3万石から、岐阜10万石に栄転した。その際、家康の命によって岐阜城は廃城とされた。岐阜城のような峻険な山城は、平和な時代には目障りだと思ったのかもしれない。そこで本多忠勝らに命じ、新たに築かせたのがこの加納城であったというわけである。したがって、江戸時代の岐阜の中心は、金華山ではなく、加納城であった。岐阜は加納10万石の土地となったのである。

 奥平氏は3代で嗣子なく断絶。その後は、大久保氏、戸田氏、安藤氏、永井氏と続いて明治維新にいたる。最後の永井氏の頃は3万2千石の規模であり、次第に身上が小さくなってしまっていた。




黒野城(岐阜市黒野)

 岐阜城の北西5kmほど、黒野の地に黒野城址公園がある。現在本丸部分が公園化されているが、土塁と堀がよく残っている。

 内部に入る土橋は南西端辺りに2箇所あり、西側の方から車でも進入することができるようになっているが、こちらの土橋はかなり改変されているようで、旧状通りなのかどうかよく分からない。こんな近接した位置に2つも虎口があるとも思われないので、車も通れる西側の土橋は近代のものなのかもしれない。

 南西端辺りは、土塁も取り払われており、城塁の高さがとても低くなっている。それともこの部分にはかつて枡形でもあったのであろうか。本来の構造が分かりにくい部分である。

 城内は野球場になっており、この日も子供たちが野球の練習をしていた。だから公園と言っても、内部を自由に散策することはちと難しい。とはいえ、周囲の土塁の上を一周することができるので、大体の形状を把握することは容易である。ただし、野球のボールが飛んでくるかもしれないので、ちょっと注意が必要である。

 本丸は一辺100mほどの方形に近い形状であるが、西側部分に折れが認められる。また土塁は北西部分と、東南部分とが幅広になっており、おそらくそこには多門櫓のような建造物が建っていたのではないかと思われる。

 といったわけで、土塁上を一周してみたわけなのだが、ふと気がつくと、ズボンや運動靴に草の実がたくさんくっついていた。それもなかなか取れないくらいにしつこくくっつくといった性質のやつである。いったいいつの間についてしまったのか分からないが、ちょっと草のあるところに入っていったら草の実だらけになってしまうのである。岐阜城の山麓でも同じ草の実がいっぱい付いてしまったのだが、この地域にはこの草の実が非常に多いのであろうか。これ、取るのがずいぶん大変だ。
 
 なお、黒野城には外郭遺構も残存しているらしく、北方の多賀神社のさらに北200mほどの所にある熊野神社付近には土塁や堀が残っているということが、ちえぞー城いこまい黒野城で紹介されている。見てみようと思って、多賀神社まで行ってみた。確かに神社の裏手には溝があったが、城郭遺構のようには思われない。しかし、後日、ちえぞー殿の指摘により、それが堀跡でよいことが分かった。もともとは堀であったものが、後年、溝に改変されてしまったらしい。この堀は東側に長く延びており、もっと東側の方に行ってみると、ちゃんとした土塁も残っているという話である。

 いずれにせよ、本来の黒野城は単郭の城ではなく、外郭をともなった複郭構造の城であったと思われる。もっとも小さいとはいえ織豊期城郭なのだから、それが当然と言えば当然である。

西側の堀。親水公園のように整備されつつある。 西側の城塁が折れている部分。
城内は野球場になっており、少年野球の練習が行われていた。監督の罵声が飛んでいる。けっこう厳しいなあ〜。 北側の土塁。北西部分は幅広になっており、かつて櫓が建っていたのではないかと思われる。
東側の土塁。きれいに延びているなあ。それに高い! 南側の堀の現状。こちらは水が干上がっている。幅もだいぶ狭くなっているようである。
南西端の部分は、土塁がなく堀の深さもあまりない。ここは本来、枡形でもあったものだろうか。 再び西側下の堀内の公園。
 豊臣秀吉の下で大名となった加藤光泰はもとは土岐氏に仕える豪族であり、この黒野の地を領していた。現在の黒野城の本丸は、ほぼ方100mほどの規模であり、これがそのまま加藤氏の居館の規模であったのではないかと思われる。

 秀吉の下で多くの戦功を挙げた光泰は、小田原の役の後には甲斐24万石の堂々たる大名となった。その後光泰は、文禄の役にも出陣し戦功を挙げたというが、帰国する際に急死してしまう。これには石田三成の謀略説などもあり興味深いが、いくら三成とはいえ、そこまで腹黒いことはしないであろう。これは関が原役後に出来上がった「三成悪者伝説」の1つに過ぎないのではないだろうか。

 跡継ぎであった貞泰は、まだ幼少の身にすぎなかった。そのため、それを理由に甲斐は没収され、黒野4万石に封ぜられることになる。城の周囲の土塁や堀が現在見られるような規模になったのは、その時期に城が改修されてからのことではないかと思われる。

 慶長5年の関が原役で、加藤貞泰は当初西軍に組していたが、すぐに東軍に付き、戦場では宇喜多軍と激しく戦った。そうしたこともあって改易は免れ、戦後は伯耆米子6万石に転進した。わずかではあるが、加増されたわけである。戦後、岐阜は奥平氏10万石の所領となったが、奥平氏は加納城を居城とした。それにともなって黒野城は廃城となった。































大竹屋旅館