岐阜県郡上市

*参考資料 『岐阜の山城ベスト50を歩く』 『日本城郭体系』

*参考サイト 城と古戦場  ちえぞー!城行こまい  城跡巡り備忘録  城郭放浪記

篠脇城(郡上市大和町牧)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板の図と『岐阜の山城ベスト50を歩く』とを参考にした。

 篠脇城は、東氏庭園の南側にそびえる比高200mほどの山上にあった。東氏庭園は地図などにも掲載されているので、まずはこれを探していくのがよいであろう。城への登り道は館跡の背後にある。館跡には駐車場もあるので、ここに車を置いてのんびり散策することができる。

 館の手前には栗巣川が流れている。この川に面する部分は高さ10mほどの土手になっており、これが東氏館の天然の堀と城塁とになっていた。

 川には橋が架けられており、それを渡った所が館跡ということになる。館跡の周囲には、腰曲輪のような地形や堀跡とも思われるような地形なども見られるが、どこまで館の旧状を示しているのかはっきりしない。しかし、おそらく方100mほどの区画内部に居館が営まれていたものと想像される。館跡には庭園があり、そこに水が流れ込んでいる。この山は水量が豊富なようなあちこちに水路が見られる。

 館跡の背後に篠脇城への登り口があり、そこから山頂をめざすことになる。比高は200mほどもあるが、ジグザグの山道が付けられているので、散策気分で登っていくことができる。それにジグザグになっているので傾斜度はそれほどきつくはない。森林浴気分で歩いていけばよいのだが、その分距離は長くなっている。
 また、遊歩道の途中には、観音像がいくつも置かれている。これがまた、可愛い顔立ちをしているので、山登りの辛さをやわらげてくれたりするのであった。20分ほどの時間をかけて、ちょうど20曲がりほどの坂道を上がっていくとやがて大きな竪堀のところに出るようになっている。

 竪堀に出た所に「大手道」の案内がある。そこで道は2つに分かれる。とりあえず、畝状竪堀群を見たかったので、そこから左手に進んだのだが、現地での順路は右手に曲がるのが正しかったらしいことが後で分かった。といっても、どちらから回っても城内を一周できるので、特に問題はない。

 左手に曲がっていくと、竪堀の下の部分を通って進んでいくことになる。斜面には何本もの竪堀が掘られているのがはっきり分かるのだが、写真に取ってしまうと、ヤブが映りこんではっきりしたものにならない。竪堀群を、明瞭に撮影するためには冬場でないときついようだ。

 竪堀群を進んでいくと途中でより大きな竪堀のところに到達し、そこから上方に上がっていくようになっている。そこから3郭に登っていく虎口もあるようだが、ここから竪堀の上部分を通って城の基部部分を目指していってみた。

 ここからは畝状竪堀jの上の部分である畝状阻塁を見ながら進んでいくことになる。進んでいくとコブ状の土壇が連続している様子がよく分かる。この畝状竪堀の特徴は、曲輪面から切岸の下に当たる部分に犬走り状の通路を設け、その通路の脇に連続竪堀を置いているという点にある。同県では明智城などにも同様のものが見られるが、これほど数多く連続してはいない。むしろ広瀬城小鷹利城など飛騨の城郭に見られるものに近いといっていいと思う。畝状竪堀の数としては、大葉沢城に匹敵するほどの数であるが、こちらは放射状に全方位的に掘られているのが特徴である。

 コブ状の塁の間を歩いていくと、やがて南側の先端部に到達する。ここから尾根続きの南側には三重堀切といってもよさそうな構造がある。そのうち一番城内寄りのものは、深さ8mほどもある鋭いものである。これを登ると、その先にも深さ6mほどの堀切がある。堀切の間にそびえる土塁の間には虎口状の切れがあり、ここに平素は木橋でも架かっていたのかもしれない。

 2つ目の堀切のさらに南側部分は、ちゃんとした堀切状にはなっていないが、その先に土塁があり、その縁辺部がくぼんでいるため、堀切といってもよさそうな地形になっている。というわけで、上記の通り、尾根続きは三重堀切構造というに差し支えないと思う。

 その先は自然地形の傾斜面になっている。しかもかなりのヤブである。その先にも堀切状の地形があるらしいが、実際には天然の沢のようにしか見えなかった。しかもヤブがひどくてちゃんと確認できない。そこまでの地形が傾斜面であることなどからして、上記の三重堀切が実質的な城域区画物といってもよいのではないだろうか。

 山頂部の郭は合わせると長軸100m近くもあり、高い山上にしては、かなりのスペースがある。内部は平坦ではなかったようで、削平により、1,2,3と3段に分かれている。虎口状の部分も見られるが、全体として、先進的な構造は見受けられない。

 3の郭を西側に降りていったところには井戸がある。実際には井戸というより「山の湧き水」そのものであるが、現在でもきれいな水が流れており、飲料に耐えるようになっている。山城の水がそのまま飲めるのも珍しく、他には八王子城くらいではないだろうか。山登りをして喉が渇いていたので、さっそく飲んでみる。山の清水は冷たくてとてもおいしい。

 このように篠脇城は、曲輪面や虎口にはそれほど技巧的な特徴は見られないが、背後の三重堀切や周囲をめぐる畝状竪堀にその特徴がある。これほどの畝状竪堀にはなかなかお目にかかれない。城ファンにとっては非常に見所のある城であるといっていいだろう。

 ところで、篠脇城の最大の特徴であるこの畝状竪堀はいつの時代に築かれたものと見るべきであろうか。一般的には、連続竪堀などというと、戦国時代後期の遺構と考えられている。『岐阜の山城ベスト50を歩く』でも「現在の遺構は東氏が去って後、何者かによって改修を受けていると考えられる」といったように記述されている。畝状竪堀は戦国期に東氏以外の者によって築かれたのではないかと想定しているわけである。

 しかし、私はこれにはちょっと疑問を感じている。というのも、この城の後に二日町城を訪れてその遺構を見たことが、そのきっかけとなっている。

 二日町城は篠脇城と比べるとかなり小規模な砦程度の城郭にしかすぎないが、この城にも、規模こそ違え、篠脇城と同様の構造の連続竪堀が存在しているのである。遺構の類似性から見て、明らかに二日町城の築城者は篠脇城築城者と同じか、少なくとも同じコンセプトを持っていた人物であると見るべきであろう。

 二日町城は東氏の北方を守るための砦として築かれ、東氏以後廃城となったと考えられているのだから、二日町城の畝状竪堀は東氏によって築かれたものということになる。であれば、同じ構造を持つ畝状竪堀を、東氏が本城である篠脇城に築いていたとしても何の不思議もないのではないと考える。「畝状竪堀であるから戦国後期」といった観念型の解釈よりも、その方が現実に即した想定になるのではないかと思われるのである。

 すでに東氏の時代にこのような畝状竪堀を築くという発想が生まれていた、そう考える方が築城の歴史の世界が視界広く開けてくるようで、楽しい想像となると思うのだが、いかがなものであろうか。



栗巣川越しに見た篠脇城。川向こうの台地が東氏居館跡である。ここから山頂までの比高は200mほどある。 栗巣川沿いの土手。川が天然の堀となっていたようである。
東氏館に残る庭園の跡。 城址までは20曲がりほどの山道を通っていく。傾斜はそれほど急ではないが、歩く距離はけっこうあり、20分はかかる。途中のカーブの部分には写真のようなかわいい顔の石仏がいくつも祭られている。
最初に見える竪堀。けっこう規模は大きい。 西側斜面の畝状阻塁。コブ状のものがいくつも連なっているのが分かるだろうか。
1郭南側の大堀切。深さは8mほどもあり、壁面も非常に急峻である。 その先にある二番目の堀切。深さは6mほどと、やや小振りになる。この南側にも小規模な堀切状の窪みがあり、結局、南側の尾根続きは三重堀切によって分断されるような構造になっていた。
1郭内部。奥に神社があり、その脇から土塁が延びている。 1郭の城塁。山頂部分は三段構造になっている。
東側に降った所にある井戸。といっても、現在でも湧き水が豊富に出る清水で、しかも飲料可能である。山登りをした後のこの水はけっこうおいしい! これなら多人数の籠城も十分可能であろう。 3郭から北側下に落ちていく竪堀。
 篠脇城を築いたのは東氏である。東氏はもともと千葉一族であり、東庄(千葉県東庄町)に入部して東氏を名乗るようになったものである。この東氏が美濃に所領を得て、最初に築いたのが、阿千葉城。そして後に篠脇城を築いてこちらに移ってきたのだという。

 この東氏の中で著名なのは、歌人としても知られている東常縁(とうのつねより)である。彼は千葉一族の内紛騒ぎを鎮めるため、幕府の命を受けて下総に赴き、馬加康胤討伐の功績を挙げた。

 ところがその留守を狙われ、彼の居城は美濃守護代であった斉藤妙椿(顔戸城主)に奪われてしまう。常縁は嘆き悲しんだが、居城を取り戻したい気持ちを詠んだ歌を斉藤妙椿に送った所、歌を見て感じ入った妙椿は城を返却してくれたという。歌一首で城を取り返したというわけである。

 かつてその時の城というのは郡上八幡城のことであるといわれてきた。しかし、現在では郡上八幡城は東氏の城ではなく、当時の東氏の居城は篠脇城であるといわれるようになっている。したがって、歌によって取り返した城とは篠脇城のことであると考えられている。もっとも「歌によって城を取り返した」というエピソードが真実であるという保証はないのであるが。




阿千葉城(郡上市大和町剣)

*鳥瞰図の作成に際しては現地案内板の図を参考にした。

 阿千葉城は、篠脇城の北西8km、国道156号線に向かって南側に突き出した比高60mほどの山上に築かれている。国道156号線を走っていると、道路のすぐ脇に城址標柱と案内板が建っているので、注意して見て見れば見逃すことはないと思う。車も付近のスペースに停めておくことが可能である。

 城は主に3つの嶺から成っている。先端部が本丸と二ノ丸であり、その北側に三ノ丸のある嶺がある。さらにその奥の一段高い所が北出丸であったという。
 このうち、時間の関係で、三ノ丸と北出城は内部探索をすることができなかった。したがって、これらは現地案内板の図だけに頼ったものであり、実際にこの通りになっているかどうかを確認してはいない。しかし、本丸周辺の地形が現地案内板に正確に描かれていることからして、三ノ丸、北出城の構造も、だいたいこの通りで合っているのではないかと思われる。

 案内板の所からつづれ折れの坂道を登っていく。斜面を長くなぞるようにして道が付けられているので傾斜度はそれほどきつくはなく、あまり疲れない道である。その代わりに歩く距離が長くなってしまうので、比高60mにしては、けっこう登らされたような気分になる山道である。この途中の斜面には、石積みのようなものが何箇所にも見られる。石積みなのか、たまたま自然に岩が割れてこのようになっているのか判別しにくいものである。ただ、案内板の図によると、本来の大手道は二ノ丸と三ノ丸との間の鞍部に出るようになっていたようであるから、となると、現在の道は本来の登城道とは異なるということになり、石積みが遺構である可能性は少なくなってしまうであろう。

 本丸は長軸30mほどの郭であり、北東側に縦長の土壇が置かれている。その上に城址碑が建てられているのであるが、これは本来は神社でも祭っていた土壇であったものだろうか。また、本丸に上がる坂の脇には石垣が積まれている。しかし、これが往時のものであるかどうかは保証の範囲外である。

 その下が二ノ丸である。その脇には池跡のような窪みがあり、その壁面には石が積まれていた跡も見える。どうも、この辺、神社の遺構のように見えてしまう。二の丸には郡上一揆の際の記念碑が祭られているのだが、ここにはそれに関連した神社施設のようなものがかつてあったのではなかろうか。この想像の通りなら、二ノ丸周辺に見られる石垣や途中の道の脇に見えた石積みなどは、神社の建設に伴うものということになる。

 二ノ丸から北側に向かって尾根が降っていく。その脇には竪堀状の窪みがあり、これが通路になっていたのであろう。その先に堀切があるが、深さ2m未満のごくごく小さなもので、それほど見所のある遺構は少ない。

 こんな風に見てくると、本来の城の遺構というべきものはほんのわずかであり、それほど人工的加工が多く施された城ではなかったようである。もっとも、室町時代も初期の城郭であるのだから、それも仕方のないところであろうか。





国道156号沿いから見た阿千葉城。3つの峰から成る山で、主郭部の比高は60mほどある。 登城道の途中にはこのような石積みにも見えるものが何箇所にも見られた。
本丸内部。奥に城址碑のある土壇が見える。 本丸入口の脇の石垣だが、後世のものの可能性もある。
二ノ丸脇の桝形状の窪み。あるいは池の跡か何かだろうか。 三ノ丸との間の鞍部にある堀切。、きわめて小規模なものである。
 阿千葉城は下総から赴任してきた東氏の最初の居城である。それにしても「阿千葉」という地名はどういう由来のものなのであろうか。東氏の千葉氏への思いがこもった名称のように思われてならない。

 もっとも城としてはたいした規模のものでもないので、東氏は後に篠脇城を築いて、そちらに移っていくことになるのであった。




二日町城(郡上市白鳥町二日町)

 二日町城は大西建設の北方600mほどの山稜上に築かれている。山麓からの比高は60mほどといった所であろうか。この城は入り口まで林道が付けられており、車で近くまで訪れることもできるのであるが、その林道の入り口が非常に分かりにくい。地元の人に尋ねても分からず(ご老人も二日町城のことを知っていなかった)、かなり迷ってしまった。しかし、ネットでの情報が役に立ち、なんとか城を訪れることができた。
 ポイントは、国道156号線を北上しながら「二日町下田」のバス停を探すことである。これが唯一最大のポイントといっていい。

 このバス停のところから西側の道に入っていく。途中十字路もあるが、まっすぐ進んで山道に入っていく。山林に入っていく辺りで道が2つに分かれるが、城は南方に当たるので、ここで左側(南方)の方に進む。林道は狭くて長いのだが、舗装されているので、普通乗用車でも何とか通れそうな道ではある。ただし、運転には十分注意した方がよい。

 600mほど進んでいくと林道が2つに分かれるのであるが、その脇に石碑が建っているのが見える。城址碑であり、ここが城の入り口となる。車も何とか脇に止めておけるスペースがある。ここに車を置いて後は歩いていく。あまり訪れる人がいないらしく、最初、道はけっこうヤブっぽい。それでも進んでいくと、やがて、正面に城塁と、土塁のある虎口、その前後の堀切などが見えてくる。

 城塁を登るといきなり城内である。といっても、もともと狭い尾根であったようで、たいして広いスペースはない。削平もほとんど行われていないようで、自然地形とほとんど変わらない。あまり城という感じはしない。

 しかし、ここにも立派な城址碑が建てられている。そんなにメジャーそうな城ではないのに、意外なほどのものである。こんな碑が建っているほどなのに、地元の古老もご存じないというのが不思議である。

 主郭の先端にヒノキの木が2本生えており、そこに「人柱のヒノキ」の案内板が立てられている。案内板によると、城を築く際に北方に何度石垣を築いても崩れてしまう。そこで意を決して、人柱を埋めた所、石垣を築くことができるようになった。そこに植えた松をやがて「人柱の松」と呼ぶようになったという。

 しかし、こんな伝説は嘘っぱちであろう。だいたい各地の城に残る人柱伝説そのものが、ほとんど根拠のないものだと思っている。それにしても石垣すら残っていないのに、「石垣を築くための人柱」とは笑止千万である。崩壊しそうな斜面に人をわざわざ埋めるなど、まったく意味のない話である。どうしてこのような伝承が生じてしまったものか不思議だ。むしろ斜面の崩落を防ぐために木を植えたという方がいかにも現実的である。

 さて、この城の最大の見所は、南側斜面に見られる畝状竪堀である。この方面には合計20本ほどの畝状竪堀が見られる。これらは城塁の下に犬走りを作り、そこから竪堀を掘り込んだもので、犬走りから見ると、コブ状の畝状阻塁が連続しているのがよく分かる。本城である篠脇城にも見られる特徴的な遺構である。こうした遺構の類似性から、篠脇城と同時期に築かれた城であったことが想像される。

林道を上がって行くと、この石碑と案内板とがある。これが城址入口の目印である。しかし、だいぶヤブに覆われつつある・・・・。 1郭に向かう道。改変されているが、脇に土塁のある虎口であり、堀切も二本あったようだ。
1郭内部。きちんと削平されておらず、自然の尾根とたいして変わらない。 しかし、1郭にはこのような立派な城址碑が置かれていたりする。
東側先端の尾根との間に掘られた堀切。 1郭城塁と、人柱の檜。
南側斜面にある竪堀。 畝状阻塁であるが、コブ状になっているのが分かるであろうか。
 二日町城は、北方の鷲見氏の振興に備えて東氏が築いた城であったという。東益之は次男であった安東遠江守氏世にこの城を築かせ、居城とさせたという。氏世は東常縁の兄に当たる人物であった。

 永禄2年(1559)、東氏が遠藤氏に滅ぼされてしまうと、二日町城も廃城となったと思われる。

大西城(郡上市白鳥町二日町)

 二日町城の南方、二日町の市街を見下ろす比高40mほどの台地先端部に大西城と呼ばれる模擬天守がそびえている。かつてここには金剛寺と呼ばれる寺院があったということで、城とはまったく関係がないのであるが、山麓からもよく見える場所にあり、明らかに城の形状をしているので、地元の方に二日町城のことを伺うと、みな大西城のことを教えてくださるほどである。(そのおかげで実際の二日町城の情報を得るのには苦労してしまう)

 二日町城の案内板にあった説明によると、大西城は地元の偉大な篤志家大西明守氏によって築かれたものだという。

















鷲見(すみ)城(郡上市郡上市高鷲町大鷲字向鷲見城)

*鳥瞰図の作成に際しては現地案内板を参考にした。

 郡上市役所高鷲振興事務所の南方にそびえる比高110mの山稜全体が鷲見城の跡である。

 ここは2つの河川が合流する地点にあり、そこに鷲見氏の居館が築かれていた。現在も庭園の跡や的石、石垣なども残るが、どこまでが本当の遺構であるのかどうかはっきりしない。要害性の高い地形であることは分かるが、本来の館の形状は不明である。

 案内板によると、居館の規模は南北35間、東西50間とあるから、それほど大規模なものではなかったらしい。

 鷲見氏の詰めの城というべき鷲見城は、その南方にそびえている。山の麓まで接近すると案内板があり、「古城山花咲きの里遊歩道」として整備されていることが記されている。案内板のある辺りに「三ノ木戸」の案内板が立っている。

 ここを進んでいくと、遊歩道は右側の山稜に沿って上がっていくが、左手にも上がっていく道が見えている。とりあえず遊歩道に従って右側に進んでいったのであるが、本来の大手道は左側に上がっていく方であったということが後で分かった。そちらの方を通ると、二ノ木戸、一ノ木戸、卯の井戸を経由して東丸に出るようになっている。

 一方、遊歩道にしたがって進んでいくと、北側の山稜の裾を回って東丸のところに出た。東丸は長軸10mほどの小さな削平地であり、土塁も虎口もなく、城塁も切岸加工されているようには見えない。ほとんど自然の山である。ここには東屋があったようであるが、倒壊してしまっており、屋根だけが残されていた。

 東丸からいったん斜面を下ると、下の平場に冠木門が建てられていた。もちろん模擬であるが、ここからあがっていったところが本丸ということになる。

 登城道は本丸の手前の堀切の間を通るようになっている。ちなみにこの堀切の脇に説明版があり、ここから100mほど降っていった所に水の手があるということであった。この山はあちこちに清水が湧いており水に不自由することはなかったようである。やはり雪深い里であるから、山の内部の水量は豊富にあるのだろう。

 堀切をすぎて斜面を登ると本丸である。本丸には枡形があった。といっても、方3mほどの極小なものである。これが本当に枡形なのであろうか。だとしたら、日本でも最小の枡形というべきものである。そして本来の虎口はここを通ることになっていたはずである。とはいえ、私にはこれが本当に枡形であるとは思われなかった。

 その脇には土塁がある。本丸は長軸40mほどはある郭であり、西側にも土塁が盛られていた。この土塁の先の堀切を抜けたところが西ノ丸である。

 西ノ丸には神社jが祭られていた。鷲見氏を祭ったものである。ここから南側に延びる尾根には堀切が入れられ、また、現地案内板によると、北側の斜面を150m下っていったところには北出城があるという(今回は訪れていないが)。

 ここまでが主要部である。帰りは別ルートを通り、東丸から南側の尾根に進み、そこから東側に下りていく遊歩道を通っていくことにした。ここを降りていく途中には卯の井の案内板があったが、どこなのかはよく分からなかった。とはいえ、小川が沢沿いに流れているので、この幽邃点のことを井戸と呼んでいるのかもしれない。

 卯の井から進んでいくと、途中に2つのピークがある。いずれも今回は内部を確認していないが、案内板によると、これが中出丸、柳出丸ということになるらしい。その間の谷戸部を通るのが本来の登城道であったということである。出丸内部は確認していないので、郭の形状は不明である。

 鷲見城は、山稜全体を城域とした城であるが、きちんと城郭加工されている部分は、本丸と西ノ丸くらいで、全体としては自然地形に拠った城といった印象の城である。だが、城域そのものは広いので、かなりの人数を籠城させることも可能な城であるともいえる。

 それに先に延べたように、この山には幽邃点が多い。これだけ豊富な水があれば、籠城の最大の不安要素が払拭できる。籠城のための城としては必要条件を満たした城、といっていいだろう。








鷲見氏館跡の標柱。庭園跡らしきものがある。 脇にある石塁だが、これは後世のものだろう。
館跡から鷲見城を見たところ。ただし、この吊り橋を渡ると中州に入ってしまい城址へは行けなくなるので、川沿いに左手を進んでいくようにする。 館跡側面部の石垣。いかにもそれらしく見える石垣だが、これも後世のものだろう。
城内は遊歩道が整備されていて、のんびりと散策できるようになっている。この遊歩道は、最初の分岐点を右側に曲がって、東丸に出るようになっているものであるが、本来の登城道は、最初の分岐点を左に上がり、二ノ木戸、三ノ木戸を経由するものであったらしい。 東丸にあった東屋は倒壊してしまい、屋根だけの状態になってしまっている。
東丸と本丸との間にある模擬冠木門。 登城道は本丸下の堀切内部を経由するようになっている。
本丸の桝形ということだが、方3mほどしかない。日本一小さい桝形といった印象である。というか、これ、本当に桝形といっていいものなのであろうか。 西ノ丸との間の堀切の城塁。
西ノ丸に祭られている神社。 西ノ丸の西側下尾根にある堀切。
 鷲見(すみ)城は鷲見氏の居城である。その創建は古く平安時代末の文治元年(1185)であったという。その後、鷲見氏の居城として維持されてきた。

 鷲見氏は美濃守護斉藤氏に従っていたが、永禄11年(1568)、織田信長によって斉藤氏が滅ぼされてしまうと、鷲見氏も没落していったという。




























大竹屋旅館