飛騨市神岡地区

*参考資料  「岐阜県中世城館跡総合調査報告書」 「日本城郭体系」

神岡城(東町城・飛騨市神岡町東町) 

 神通川の支流である高原川と神岡の市街を見下ろす段丘の縁に位置した城である。この城に関しては、あちこちに案内板などが出ているので、場所はすぐに分かるであろう。

 05,11,3、巡城組との合同合宿のためにヤブレンジャー隊で飛騨にやってきた。夜、千葉県を出て中央自動車道を通り、松本で降りて、後は下道におりて夜中に走り続け、安房トンネルを越えて到着した。飛騨はずいぶん遠いのではないかと思っていたものであったが、松本からだと意外と近いので驚いた。暗いうちに回ってもしょうがないので、しばらく休息して、夜が明け始める頃に、神岡城を回り始めた。

 城は環郭式のもので、方60mほどの主郭を、100m×120mほどの2郭が囲んでいたものと思われる。しかし東側については、住宅地の造成に伴って一部破壊されてしまっている。

 現在遺構が見られるのは、この2つの郭なのであるが、これだけではたいした広さがない。あるいは南側の神岡中学校の敷地辺りまで外郭部が存在していたのであろうか。

 城址でよく目立っているのが模擬天守である。この天守はあくまでも模擬であるので、実際にはこのような天守などは存在していなかったと見るべきであろう。神岡城にはこの地域の城には珍しく石垣が多用されているが、これは昭和42年に模擬天守を建造する際にかなり積み直したものだという。したがって、現在の石垣をそのまま遺構としてみるのには問題があるかもしれない。ただし、積み直される前も石垣の配置は現在と変わらなかったと言うことなので、基本的には旧状を維持していると思われる。となると、この天守、段丘側に張りだした出枡形にうまく載せられて造られていて、いかにも本物らしく見える。あるいは実際にこのような高櫓が存在していたのであろうか。

 天守があるので、いかにも城らしく見えるのであるが、規模からすると居館といった程度のものであり、江馬氏の館という呼称の方があるいは、ふさわしいと言える。



2郭の堀。石垣も見られるが一応、本物とみてよいのだろう。幅は10m以上あるが、深さは2mもない。 1郭周囲の堀。塀や城門も復元されている。それにしても堀が浅すぎるような・・・。
模擬天守。張りだした石垣上にぴったりと造られていることからすると、あながち模擬でもないのだろうか。 1郭東側の堀。やはり浅い・・・。
東側方向から崖に面した部分の石垣を見たところ。天守部分が外側に張りだしているのがよく分かる。 北の高原川越しに城址を遠望してみた。
 神岡城は東町城とも呼ばれ、江馬氏の居城であったという。江馬氏の居館としては、600mほど南西に江馬氏下館というのが存在していたが、発掘の結果、この館は16世紀初め頃には廃館となったようであり、その後江馬氏が居城として移ってきたのがこの城であったと考えられる。ただし「江馬家後鑑録」には江馬氏の家臣の川上中務丞の居城であったとしており、その成立については、はっきりしない面も多い。むしろ石垣の多用から、天正13年以降、金森氏の手によって現在のような形状になったのではないかという見方もある。いずれにせよ、城の歴史については分からないことが多い。




江馬氏館(飛騨市神岡町殿)

 江馬氏館は瑞岸寺の南西側の低い河岸段丘上にあった。05年現在、復元のための工事が行われている最中であったが、数年後には中世領主の居館として、発掘に基づいた建造物や庭園が、往時の通りに立ち並ぶ姿を目にすることができそうである。

 中心となる館部分は、方80mほどの区画である。この周囲には薬研堀が掘られていたようだが、廃城時にかなり埋められてしまったようである。これらも現在復元のため掘り戻されている。館内部には主殿と門、塀が復元されるようで、現在その工事が行われていた。庭石もかなり残存していたらしく、これに基づいて庭園も復元される。

 城域は実際には中心部の館周辺にも広がっており。西側の台地先端部には極めて低い土塁を巡らせた城塁が折れを伴って存在している。周辺部には、通路、馬場、工房などが設置され、更にその周囲に町場が形成されていたものと思われる。

 とにかく工事中だったため、復元された姿を目にすることができなかったのが残念であるが、逆に言うと、復元前の状態を少しでもかいま見ることができたのは、それなりに意味があるのかもしれない(と思っておこう。)














南西側の郭と土塁。といっても高さは30cmほどである。 復元工事中の庭石。
現地にあった整備計画図。 復元された館の門。
 江馬氏の出自はよく分からない。鎌倉時代に伊豆国江馬郷を領していた武士の末裔ではないかと推測されているが、確たる根拠には欠けているようである。江馬氏はやがてこの地方の豪族として、その勢力を次第に成長させていくこととなる。15世紀になると古川地区まで勢力を延ばし、また戦国期に入り永禄年間には越中方面にまで版図を広げていった。

 天正10年(1582)10月、江馬輝盛は、飛騨地域の覇権をめぐって、南飛騨地区を支配していた三木自綱と国府周辺で戦ったが敗れてしまった。その後、当地域の支配は三木氏へと移り、江馬氏館も廃城となったと思われる。




高原諏訪城(飛騨市神岡町殿和左保)

 高原諏訪城は、江馬氏館の詰めの城である。館は平地にあり、籠城には向いていないことから、いざというときにはこの城に立て籠もるというプランであったものだろう。城は江馬氏館の東南側の山塊の、東南の尾根に築かれている。この城山部分はちょうどネックがくびれているので、その部分に堀切を入れることで独立性が保てるようになっている。

 江馬氏館の上の道を南に300mほどすすんで行くと、左手に戻るようにして曲がる道が見えてくる。この林道をくねくねと2kmほど進んだところで、道が左側に大きくカーブしているが、その辺りに城址入口の標柱が建っている。車も一台くらいなら、その場所に留めることができるであろう。

 ここから城域に入り込んでいくとすぐに二重の堀切が目に入ってくる。そして正面には7の郭の城塁がそびえている。ここが城内に進入してくる敵を迎え撃つ最初のポイントとなる場所である。ところで、林道部分も切り通しになっていて堀切のようにも見える。よく見るとこの林道の脇にも竪堀が残存している。ということはつまり、現在の林道も元は堀切であり、堀切は三重構造になっていたと見るのがよさそうだ。林道を通す時に堀切を利用した方が便利なのでその部分を切り広げたのであろう。

 さて、7の部分は細長い郭で、城の本体とはかなり離れており、出丸というように見られる。ここから本城地区に向かうには一度尾根を降りて堀切4を経由しなければならない。堀切4から主郭部分に向かうためには城塁下に付けられた細い道をぐるりと東側に回り込んでいかなければならない。その間、城塁上からの攻撃にさらされるというようになっている。途中何カ所かに設けられている竪堀は、敵の移動を妨げるためのものであろう。

 東側に回り込んで上がるとそこは3の郭である。この上に腰曲輪が設けられ、更にその上が1郭である。1郭の規模は40m×20mほどはあるが、それだけでは十分な広さとは言えないだろう。要するにこの城はあくまでも籠城用の城であり、それほどの居住スペースを意識してはいなかったものと思われる。

 1郭の南側の2の部分は多少広くなっており、後は地形が降りながら堀切2に到達する。この堀切は深さ6mほどあり、けっこう堅固である。その先に5の郭から6の郭まで、段々の削平地が続く。少しでも郭のスペースを生み出すためにこのような小郭を段々にしたのであろうか。5の郭が城内では主郭に次ぐ広さを持っている。5の郭の西側下の通路には、土塁が一本横に置かれている。この土塁の周辺に石が散乱していることからすると、これは登城道に関門として設けられたものかもしれない。元は石垣造りであった可能性もあると思う。

 5の下の6の辺りも割合広くなっており、土塁のようになっている部分も認められる。こうしたことからして、城の搦め手道はこれらの部分を経由するようになっていたのではないだろうか。6の下は10mほどの深さのある堀切となっている。この下の堀切1は、竪堀を真横に掘るのではなく、先端方向にカーブするように掘られているのが特徴的である。今回飛騨の城をいくつか訪れてみて、このような形態の竪堀を何カ所かで見たので、飛騨国の城の特徴の1つであったのかもしれない。この堀切の南側は尾根が緩やかに傾斜しているが、実質的に堀切1から先は城外と見てよいだろう。

 一方3の郭の東側の下にも何段かの小郭がある。土塁を持った郭を置き、その下に外側にカーブする竪堀を伴った堀切を配置しているという点で、規模こそは小さいが堀切1の辺りの構造とよく似ているといえる。この堀切の脇にも道が付けられていたので、こちら側から登ってくる登城道も存在していたのかもしれない。

 このように高原諏訪城は、江馬氏の詰めの城として置かれた山城であった。上記の通り、この城に常時居住することは難しいであろう。いざというときの籠城用の城であるが、この程度の規模では、それほど多くの軍勢を駐屯させることは難しかったのではないだろうか。もっとも飛騨国内の豪族の争いにはこのくらいの要害があれば事足りたのかもしれないが。



江馬下館から高原諏訪城方向を見たところ。比高130mほどの山城である。 林道の切り通し。ここの標柱が建っている。
堀切5の二重堀。 7の出丸内部。
堀切4。 1郭にある城址碑。
堀切2。 通路上にある阻塁。石が転がっている。
堀切1。深さ10以上ある。 堀切3。
 高原諏訪城は、江馬氏の詰めの城であったと考えられる。江馬氏の平素の居館は、西側山麓にある江馬氏下館であるが、平地の城館ではいざという時の防御力にかけてしまうので、戦時にはここに立て籠もるという発想であったろう。天正10年、江馬輝盛は、三木自綱との抗争に破れてしまった。三木氏の軍勢は神岡地域にまで押し寄せ、輝盛を敗死させ、高原諏訪城にも迫った。高原諏訪城はこの時に落城して、以後は廃城となったといわれる。




























大竹屋旅館