岐阜県瑞浪市

*参考資料 『岐阜の山城ベスト50を歩く』 『日本城郭体系』

*参考サイト 城と古戦場  ちえぞー!城行こまい  城跡巡り備忘録  城郭放浪記

小里(おり)城(瑞浪市稲津町小里字城山)

*鳥瞰図の作成に際しては『岐阜の山城ベスト50を歩く』を参考にした。

 小里城は県道20号線と33号線とが交わる地点の真南にある。比高180mほどの急峻な山上であり、この山容は遠目にも険しそうに見える。しかし、実際はちゃんとした道が付けられており、尾根沿いに進む道は、思ったほど厳しいものでもない。

 県道沿いには小里城の登り口を示す幟がたくさん立てられており、まず見落とすことはないだろう。道路の反対側には広い駐車場もある。そこに車を停めて、後は登っていくだけである。

 比高20mほど登った所に御殿場がある。山上には狭隘なスペースしかなく、この城の実質的な中心部分は、この山麓の御殿場であったであろう。山麓居館とはいえ、周囲を切岸で囲まれており、要所要所には石垣も積まれている。石垣で組まれた虎口には、かつては櫓門が建てられていたのではないかと思われる。

 御殿場にはかなり広いスペースがあり、ここに城の主要な施設は揃えられていたのだと思う。ただ、気になるのは、この城には「マムシ注意」の看板が立っていることだ。マムシなんて、もともと日本全国、どの山にだっている可能性がある生き物なのだが、こうして看板に書かれていると、なんだか気が引けてしまうのである・・・・。

 さて、御殿場の奥から城山に登っていく。御殿場から山頂までの比高は150mほどである。尾根沿いに進む切り通しの道が長く続いているのだが、尾根がそれほど急傾斜でないせいか、わりと歩きやすい。約20分ほどで山上に到達することができた。

 山上にはたいした広さはないが、目立つのは中央に鎮座している天守台である。このような城に天守が挙げられていたというのはちょっと意外な気がしないでもないが、城を象徴する建物を置いておけば、かなり遠目にもその威容を見ることができるであろう。

 残念ながらこの天守の形状は明らかではない。しかし、その広さからして、2層か3層程度の比較的小規模なものであったと思われる。

 かつて注目されていたのは、この天守台が7角形をしており、大きさこそ違え、安土城のそれとかなり近似した形状を示しているということであった。このことから、信長が安土城を築く前に、実験的にそのミニチュアの天守をここに建てさせたのではないか、というのである。

 しかし、実際にはそんなこともなかっただろうと思う。実験で造るにしては高い山にありすぎる。城を象徴する建造物を建てることが目的であり、方形になっていないのは、地形や当時の技術的な問題に絡んでいるのではないだろうか。特に山上は岩がごろごろと転がっており、天守台の北東の角部分は岩そのものを石垣の中に組み込んでいる。一見すると天守台から岩がはみ出しているようで、ちょっと異様である。こんな感じで、方形に造りづらい要素があったのではないだろうか。

 ただ、石材そのものは山中から多数掘り出せるので、集めるのにそれほどの苦労は必要なかったようである。

 上記のように山上には岩がゴロゴロしており、とても建物を建てられるようなスペースはない。山上は本当に、天守曲輪といった程度のものだったのではないかと思われる。

 天守台の周囲をざっと歩いて御殿まで降りた後、「東砦堀切」という案内に惹かれ、東砦の方まで行ってみることにした。

 御殿場から東側に降りると沢部は以外に広い平場になっている。この辺りにも建造物が建てられていたのかもしれない。そこから東側の尾根に登っていく。尾根上の砦の堀切だから、尾根をかなり上がった所にあるのだろうという目星をつけて、ほとんど自然地形の尾根を上がっていく。比高30mほど上がって行くと、そこに「堀切」の案内があった。といっても、深さ2m未満ほどの実に小さなものであるにすぎなかった。よほどの物好きでもなければ、わざわざ見に来るほどのものではない。東砦は本当に臨時に急造した程度のものであった。

 堀切から北側に降りていく地勢も切岸ではなく、自然の斜面である。途中にいくつか平場があるが、建物が建つほどのものはない。その下に4の平場があり、こちらはけっこう広い。砦の実質的なスペースは、この部分であったかもしれない。

 けっこう山を登らされる小里城であるが、山上の天守台は一見の価値があるし、御殿場の石垣などもなかなか見ごたえがある。城ファンが満足する城址であると思う。

西側から見た小里城。山麓からの比高は200mほど。ものすごく急峻に見える山だ。 県道沿いにある小里城の登り口。たくさんの幟があり、いやでも目に付く場所である。駐車場は県道を挟んで反対側に用意されている。
登り始めてすぐに見えてくる御殿場の石垣。 その先の方にも石垣が見えてくる。
御殿場の虎口の石垣。 御殿場1の段。「まむし注意」の看板が目立っている・・・・。
御殿場から延々と尾根沿いに道を上がっていく。意外と歩きやすく、疲れない道であった。途中、このように天然の虎口のようなものも見られた。 20分ほどの登山で山頂に到着する。本丸下の石垣。
天守台。 天守台の入口部分。
天守台の角には天然の大岩がそのまま用いられている。 天守台内部。
天守台の東南の角。 1郭内部。平坦ではなく、石がごろごろしている。
南側から見た天守台。 山麓に降りて東砦に行ってみた。写真は堀切だが、とても小規模なものであった。
 小里城は天文3年(1534)、小里光忠によって築かれたといわれているが、その辺は定かではない。

 『信長公記』には、天正2年(1574)、武田軍が南下して明智城を囲んだ際に、信長が池田恒興に命じて、鶴ヶ城と共に整備させたといった記述が見られるという。となれば、実質的に現在の遺構を築いたのは池田氏ということになるであろうか。

 天正10年(1582)、小里光明は、森長可に逆らい、徳川家康を頼って当地を離れたが、後に関ヶ原合戦の戦功によって当地の領主として返り咲き、小里城をその居城とした。しかし、元和9年(1623)、当主の小里光重が没し、嫡子がなかったことで改易に処せられてしまうと、小里城も廃城となったと思われる。




鶴ヶ城(瑞浪市土岐町鶴城)

*鳥瞰図の作成に際しては『岐阜の山城ベスト50を歩く』を参考にした。

 鶴ヶ城は中央自動車道の屏風山PAの南西1kmほどの所にある。比高60mほどの山稜である。

 中央自動車道の南側には秋葉組集会所がある。城址周辺の道は狭いので、車はこの集会所に停めて、後は歩いていくのがよいかと思う。5分もかからずに、城の登り口に到達する。

 登り口に行ってみると、巨大な石碑があるのにびっくり。このような中世城郭でこれほどの石碑を置いている城というのはそう多くない。それほど地元の人には愛されている城であるということなのだろう。

 城の中心部へは、二つの尾根の間の谷戸部を通るようにして上がっていく。両側の尾根は非常に急峻に迫って見え、そのため、谷戸内部は暗く、なんとなく圧迫感を感じる登城道である。

 この城は主郭から2つの尾根が延びており、そのそれぞれに出丸と呼ばれる大きな郭が存在していた。これが鶴が羽を広げた形状に似ているということで鶴ヶ城と呼ばれるようになったものだという。
 ただし、その両翼部分は中央自動車道の建設によって削られてしまっており、本来の規模からはだいぶ縮小された形状になってしまっている。
 
 七曲の道を上がって行くと、西出丸と接続する尾根に出る。そこから北側に進んでいくと、1郭の城塁下の部分に出る。ここには井戸が存在していた。現在でも水を湛えている井戸である。ここに幽邃点があるのであろう。

 そこから斜面を東側に登っていく。途中の尾根を進んでいった先に東出丸があった。

 そこを上がると1郭である。ここには神社が祭られていた。土岐氏らしく稲荷社なのであろうか。1郭は山稜先端部だけあって、かなり眺望が利いている。また、周囲はきちんと切岸加工されている。ここへ登城道以外から攻め上がるのは、かなり困難であるに違いない。

 全体的な印象としては、尾根沿いに削平地を重ねただけの城であるが、切岸や城塁は非常に急峻で、かなり防御力を発揮することができる城であると思う。現在でも鋭さを残している城である。


中央自動車道の南側の集会所から遠望した鶴ヶ城。車はこの集会所に停めて置くのが良い。 鶴ヶ城の入口。巨大な石碑が見えてくる。
矢との間の薄暗い道を上がっていく。 西出丸へ続く尾根道。
本丸下の部分には井戸跡があり、現在も水を湛えている。 東出丸に続く尾根道。けっこうヤブだ。
本丸内部。稲荷社らしきものがある。 本丸にあった石列。
 鶴ヶ城は土岐氏の古い時代の居城の1つであったという。歴史の古い城である。

 天正年間になると、この地域は武田氏との攻防戦にさらされる事になり、明智城が包囲されるという事態に立ち至った。そこで信長は、鶴ヶ城と小里城とを整備して、鶴ヶ城には川尻秀隆を置いたという。

 その後の歴史についてははっきりしない。関ヶ原役の頃、鶴ヶ城は西軍に属していたため、小里氏や遠山氏らに攻められて落城したという。おそらくその後は廃城となったのではないだろうか。 




戸狩城(瑞浪市明世町戸狩)

*鳥瞰図の作成に際しては『岐阜の山城ベスト50を歩く』を参考にした。

 戸狩城は、戸狩の一乗院という寺院のすぐ西側に位置している。比高70mほどの山稜である。

 「一乗院の裏山」という知識だけをもってこの城に訪れようとした。ところが一乗院に入る山麓の門がものすごく立派で、そこに「当山に用のある者以外の立入を禁ず」と書いてある。

 なんだかものすごく立派な寺院なのに閉鎖的な印象がしてしまい、どうにも気が引けてしまった。それでも途中まで登っていったのだが、寺院に行って起こられるのもいやだなあ、と思って途中から引き返してしまった。

 そんなわけで戸狩城の城域内までは到達していない。ただ、帰宅してからネットでの情報を探してみると、一乗院から上るということで特に問題はなかったようであった。残念! ただ、ヤブがひどく遺構もそれほどのものではないようで、すっぱい葡萄の方程式ではないが、「だったら行かなくて正解だったじゃん」などと思ってみたりする。

 それでも城内がどんな様子になっているのか気になったので、『岐阜の山城ベスト50を歩く』を基にした鳥瞰j図を参考までに描いてみた。確かに、わりと古風な感じの構造である。










山麓から見上げた戸狩城。中腹に一乗院があり、これを目印にすると良い。 
 戸狩城の歴史はよく分からない。『岩屋不動由来記』という記録には、永禄の始め頃、岩村城主で武田氏の家臣であった秋山信友に属していた武将仁木藤九郎が、土岐郡に攻め込んできたとき、民家から戸を狩り集めて、砦を急造したのだという、それまでこの村は山中村と呼ばれていたのだが、それ以来戸狩村と呼ばれるようになったのだという。

 いかにも取ってつけたような話で、真実であったとは思いがたいのであるが、とりあえずは武田方の仁木氏の居城ということに成るのであろうか。いずれにせよ、急造した砦、といった形状は、城の遺構とマッチするもののようである。




一日市場土岐氏館(瑞浪市明世町一日市場)

 県道352号線が北側にカーブし、剣道20号線と交差する地点に一日市場の交差点がある。この北側の八幡神社が土岐氏の館跡であるという。

 車で行く場合、停める場所を探すのにちょっと苦労する。県道の西側から神社方向に進む道が付いており、この道のどこか停められそうなところにでも停めておくしかない。

 土岐氏は清和源氏の一族であり、それで八幡神社が祭られているということなのだろう。境内に入ってみると、土岐氏の館跡を示す大きな石碑が建てられていた。なんでも、この館は美濃に来た土岐氏の最初の館であったという。いわば土岐氏発祥の地である。それでこのような立派な碑が建てられているというわけだ。

 とはいえ、古い館であるせいか、きちんとした遺構というものはない。神社の背後には土塁とも思われるものが見られるのだが、神社の建設に伴うものである可能性もあり、はっきりしない。第一、堀らしきものもみられない。そんなわけで、遺構面ではほとんどみるべきもののない館である。。









神社脇にある、土岐氏館を示す大きな城址碑。 神社背後に見られる土塁状のもの。




























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