岐阜県中津川市

*参考資料 『信濃をめぐる境目の山城と館』(宮坂信男)

阿寺城(中津川城・ヨキト城・斧戸城・明寺城・中津川市手賀野斧戸蘭丸山)

*鳥瞰図の作成に際しては、『信濃をめぐる境目の山城と館』を参考にした。

 2016年12月23日の山城の日のターゲットは東美濃の山城であったのだが、途中、遠江であちこち寄り道してしまったために、中津川に到着したのはすでに午後3時になっていた。しかし日没までに山城2つくらいは攻め落とせるであろう。ここで横尾さんと合流して、いざ出陣だ!

 向かったのは阿寺城である。阿寺城は、中津川の市街地から南にくだって行った斧都(よき)地区から正面に見える比高160mの山稜中腹地点に築かれている。側面部が削り落としたような斜面になっており、見るからに険しそうな山である。

 この山には御岳神社が祭られているので、その参道や案内表示もあるのだが、これがけっこう分かりにくい。集落の上にある配水場の辺りからアクセスすれば、砂防ダムの脇を通って、御岳神社の案内にしたがって、城の側面部に登っていく道があるらしい。

 もしくは、上の砂防ダムから川を渡って城のある山稜部に取り付けば、比高50mほどで主郭部に到達できそうである。

 ところが、この日、きちんとした下調べをしていかなかったために、登り口がわからず、下の砂防ダムの手前から川に降りていく道を進んでから、川を渡って山稜に取り付いた。このルートは右の図の、右下の平場に出るルートで、ここからでも城域に到達できるのではあるが、上記に示したルート比較すると、一番疲れそうなルートである。素直に本来の参道を進んでいった方がよいと思う。山城の登城方法はできるだけ事前に調べておくべきものである。とほほ・・・・。それでも斜面をよじ登っていくうちに何とか城域内に到達する。

 城は細長い尾根にしたがって、段々の郭を造成したものであり、長野県の山城によく見られるパターンのものである。城域内のピークが1郭であり、その背後には三重の堀切を置いて守りを固めている。

 1郭には御岳神社が祭られているので、この郭にある石段や、この郭周囲の加工には神社の造成に伴うものもあると思われる。

 北側の下に2郭がある。2郭の前面には堀切があるのだが、この堀切は尾根全部を断ち切ったものではなく、東側の部分を土橋状に掘り残したものである。これと同じものは3郭前面にも見られる。この城の特徴の1つである。

 2郭の東側の側面部には犬走りが付けられている。ここを通る敵を2郭塁上から攻撃することを考えていたのであろうか。

 3郭の虎口は側面部から回りこむようになっており、虎口の両側に櫓台状のものが配置されている。実際に両側面に櫓を建てたくなるような場所である。また、虎口内部には細長い岩が2つ並べられていたのだが、これは城門の礎石の名残か何かであろうか。

 その下が広い4郭になっているのだが傾斜した地形である。しかし、南側からアクセスする敵は、ここで3郭塁上からの射撃にさらされることになるであろう。

 ここから比高30mはある斜面を降っていくことになる。この斜面、天然地形のままなのであろうが、急峻なうえに高さがあるので、天然の防壁として、防御効果の高い箇所である。アイガーの絶壁のような地形で、敵を迎え撃つには絶好の場所である。

 その下にもわりあい広い平場があるが、天然地形のようで、郭とまでは言えないようである。


 このように阿寺城は、天然の地形を利用した要害で、そこそこの兵員が籠城することのできる規模の山城である。それにしても「阿寺」という地名は変わっている。この地域には他にも「阿寺」の別称を持つ城がある。「阿寺」には何らかの城郭的な意味合いがあるのであろうか。



















斧戸地区の入口から遠望する阿寺城。この先の砂防ダムの手前に川に降りていく道を通って入っていった。 3郭の城塁。虎口は側面部から回り込むようになっている。
3郭の虎口。岩が2つ転がっている。両側は櫓台である。 2郭の城塁。岩がゴロゴロ転がっている。
その手前脇にある、片側に土橋を残した堀切。 2郭内部。2段構造になっている。
1郭手前の堀切。 1郭にある御岳神社。明治年間に建立されたものであるという。
1郭背後の大堀切。三重になっている。 二重目の堀切から1郭方向を見たところ。
1郭北側下の土橋を残した堀切。 4郭下の天然切岸。高さは30mほどもあり、登るのは容易ではない。
 阿寺城は、岩村城主遠山氏の支城の1つであったと思われる。『寛政重修諸家譜』には飯羽間城主遠山友忠が居城したとあるという。友忠の父は苗木城主であり、父の死後は苗木城に移っていったとも。

 また、 『丹波氏聞書』という史料には、久須見村の戸田甚左衛門、佐々良村の渡辺新右衛門が、木曽勢に対する番衆として在城していたとあるという。となると、阿寺城は、武田氏に備えた番城であったということになる。

 その後、天正2年には、岩村城同様、武田氏の手に落ちることになる。地元の伝承では、木曽勢に攻められた際、西の尾根にあった掛樋を破壊され、これによって水の手を絶たれて落城が早まったと伝わっているという。

 その後は武田氏によって使用されていたと思われる。




阿木城(城ヶ峰・中津川市阿木宮の前)

*鳥瞰図の作成に際しては、『信濃をめぐる境目の山城と館』を参考にした。

 2016年12月23日(金)の山城の日の初日で、最後に訪れたのがこの城であった。阿寺城を見終わって車に戻ってきた時点ですでに4時を回っていたが、なんとか阿木城も見てしまいたい。ってことで、急いで南下して阿木城のある場所に向かう。

 阿木城は明知鉄道阿木駅の北東400mほどのところに位置する比高60mほどの山稜に築かれている。阿木駅前を南下していくと、道路脇に「←阿木城」という案内が出ており、それにしたがって山に入り込んでいくと、登城口に案内板が立っているのが目に入ってくる。けっこう道が入り組んでいるので、こういう案内があるのはとてもありがたい。

 地元では阿木城整備に力を入れているようで、登城口の脇には駐車場が用意され、阿木城のパンフレットも置いてある。城内にも案内板が充実しており、実に親切な城である。おそらく地元の方に愛されているのであろう。整備してくださったみなさんには感謝である。

 ところが、阿木城に到着した時にはすでに5時近くなっていた。辺りはかなり薄暗くなってしまっており、デジカメでかろうじて撮影できるかどうかぎりぎりの明るさであった。おまけに午前中に降った雨によって足元がかなり濡れている。それにもかかわらずヤブレンジャー隊は、暗い濡れた路面を、足を滑らせながら進んでいく。

 城は基本的に直径80mほどの主郭を中心としたものであり、その周囲に段々の腰曲輪を配置するといった構造である。それだけ聞くと、実に単純な構造の城かと思われてしまいそうであるが、実際には、虎口を何重にも折り曲げるなど、かなり技巧的な要素を持つ。すでに暗くなってしまったので、あまり細かい部分まで見ることができなかったのであるが、なかなかいい城郭であったと思う。

 圧巻なのは、主郭背後の尾根を分断する大堀切である。堀底から主郭まで20m近い深さがあるのではないだろうか。豪快な力技である。これだけの堀切を造成するのにいったいどれだけの労働力を要したことであろう。重機などない時代である。大人数で何日も何日もかけて掘り崩したのであろう。まったくもってお疲れさまでしたとしか、いいようがない。


 阿木城はそれほど大規模な城郭ではないが、きちんと工夫され、何度も折れ曲がる登城路を計算して築かれた城郭であり、堀切も非常に大規模である。それなりに見どころのある城郭であるといっていい。

 城から駐車場に戻ってきたときには、すでに辺りは真っ暗になってきた。この後、中津川のホテルに宿泊して、明日に備えたのであった。


















城址への登り口。パンフレットが置かれている。 登ってすぐのところにある堀切。
5郭下の虎口。 さらにその上にある虎口。登城路は折れながら虎口を通るようになっている。
4の腰曲輪に付けられた竪堀。 4郭から見た腰曲輪の城塁。
1郭下の腰曲輪への虎口。 1郭の虎口を入ったところ。緩やかな枡形らしきものが形成されている。
2郭と1郭城塁。 1郭背後の大堀切。超ド級の大きさである。
 阿木城の歴史について詳しいことはよく分からないのだが、『恵那郡史』には、信長が岩村城の押さえとして築いた18砦のうちの1つだったとあるとして記載されているという。

 城主としては、戸田甚左衛門説や、大藤権允、堀田某説もあるが、正確なところはよく分からない。戸田甚左衛門については、上記の阿寺城の城代としても名前が出てきており、両者の混同の可能性もある。

 岩村城が武田氏の手に落ちた後は、武田氏によって使用されていたのではないだろうか。 




































大竹屋旅館