岐阜県白川村

*参考資料 『岐阜の山城ベスト50を歩く』 『日本城郭体系』

*参考サイト ひぐらしのなく頃に聖地巡礼

荻町城(白川村荻町)

 荻町城は、世界遺産で有名な荻町合掌集落の北側に位置しており、町の全貌を見晴るかすことが出来る位置にある。比高は40mほど。町を掌握し、その象徴となる城を築くには最高の場所である。よくぞこのようにうまい具合に集落に突き出した台地があったものだと思うほどだ。

 城は現在、城としてよりも、合掌集落を見下ろすことのできる展望台として多くの観光客が訪れる名所になっている。南側の合掌集落の間から登っていく道が付けられているし、また、車の場合は北側に回り込んで登ることができるようになっており、あちこちからアクセス可能である。

 城址は台地の先端部を利用した単郭のもので、基部の部分に土塁と堀切とが見られる。郭内部は方50mほどの規模で、それほど大きなものではない。先端南側には神社の祭られている櫓台状の部分がある。

 しかし、これだけではいかにも城としては小さすぎる。台地が西側に細長く延びていることからすると、1郭の東側にももう1つくらい郭が存在していたとしてもおかしくない雰囲気がある。

 また、山麓には「御所跡」「馬場跡」「坪ノ内」「侍屋敷跡」といった地名が残されているということで、山麓に城主の居館があり、侍屋敷なども展開していたと考えられる。

 ところで。白川郷は世界遺産になっている。生活文化財が世界遺産として登録されている例は世界的にみても珍しいということで、かなり山奥の地でありながら、この日(2011年9月23日)も非常に多くの観光客がここを訪れていた。

 実はこの集落には、以前からずっと来てみたいと思っていた。その理由は城をみるためでも合掌集落の雰囲気を味わうためでもなく、この集落を舞台としたあるアニメを見たことがきっかけである。

 そのアニメとは「ひぐらしのなく頃に」である。もともとはゲームであり、そこからアニメ、漫画、小説、映画などと様々なメディア展開を果たし、数多くのスピンオフ作品も出されている人気作品である。といっても城マニアで知っている人はほとんどいないであろうが。

 このアニメを私はふとしたきっかけから見ることになった。自分の仕事に関するある理由から「見ておいたほうが良い」と思ったのがそもそもの始まりであった。最初はグロい、ホラーアニメとしか思われなかった。しかし、ストーリーが進んでいくにつれ、「これは実はものすごく奥の深い作品なのではないか」と思うようになった。そして最終的に全話見終えた後、「10年に一度出るかどうかといったレベルの傑作アニメだ」と感じるに至ったのである。

 その要因の1つはこの作品の伏線の張り方の巧妙さにある。あまり書くとネタばれになってしまうので、詳しくは書かないようにしたいのだが、あちこちの場面場面が輻輳的に交錯し、その中に張り巡らされた複雑な伏線によって、登場人物の心情とストーリー展開とが小さな軸となり、最後にそれらが体系的にまとまって大きな音色を奏でてみせる、といったようなイメージの作品である。特に、最初に見たあの場面が実は違う意味を持ったこういう内容だったのか、と途中で気付かせてくれるあたり、心憎いばかりの演出が見られる。

 そんなわけもあり、これまで何人かの友人に無理やり勧めてアニメを見せてみた。みな最初は「う〜む・・・」といった反応だったのだが(私も最初のうちはそうであった)、しかし、後半部分になると、どんどん先が気になってきて、「最後の方はもう一気に見てしまった。すごい話だった!」と一様に感動してくれたものであった。

 もし、関心を持った人がいたら見てみる(あるいは読んでみる)といいと思う。ただし、ネットで情報を検索する際には注意した方が良い。ネット上ではネタばれ情報が満載である。余計な予備知識を持たずストーリーを追っていけば、最後には深い感動が待ち受けていることは間違いないのだが、途中で秘密事項を知ってしまったら、感動はかなり薄れてしまうであろう。

 ただし、ストーリーは長く、最初のうちはかなりの忍耐力が必要かもしれない。それにホラーが嫌いな人は問題編にあたる「鬼隠し編」「綿流し編」「祟り殺し編」などは見るだけでかなり辛いであろう。
 
 舞台となっているのは岐阜県鹿骨市雛見沢村(架空の村であるが、実際のアニメの場面をみれば分かる通り、白川郷がその舞台である)。時は昭和58年の6月の第3週目。昭和という年代設定もあって、携帯電話やパソコンのような現代的なものは出てこないのだが、それがかえって新鮮に感じたりする。登場する人物はみな普通の人間たちであり、特殊な超能力などは出てこない。普通の人間たちが織り成していくドラマである。しかし、ちゃんと見終えたなら、必ずこの作品が好きになり、そして雛見沢に行ってみたくなること間違いなし!

 上記の通り、この作品は、ゲーム、アニメ、コミック、小説、実写映画とさまざまなメディアに展開されている。私はアニメで見たということもあるが、アニメがお勧めである。それは声優たちのうまさにある。見ている方の深層心理にまで食い入ってきそうな、声優たちの迫真の演技には脱帽するばかりである。特に竜宮レナ。彼女のセリフのうまさには背筋が寒くなってしまうほどである。最初に見た時は、本当にレナが怖いと思ったものだ。でも・・・レナは本当にいい子なんだよなあ。ああ、こんなこと書いているうちに何だかまた見たくなってしまった。後でまたDVDでも見ることにしようっと。

合掌集落から見上げた荻町城。確かに町を掌握するのによい地形の所にある。 荻町城から見下ろした合掌集落。世界遺産であり、大勢の人が訪れている。しかし、私にとってはこれはまさに「雛見沢の風景」である。来てみたかったんだ、ここ! 感動である! 写真を撮影している場所は「梨花ちゃんのお気に入りの場所」だ。「赤坂、おまえは東京に帰れ〜」とつぶやいてしまいたくなる。
荻町城の堀切。だいぶ緩やかになってしまっているが、幅は7mほどもある。もともとはかなり鋭いものであったのだろう。 南西角にある櫓台。
さて、ここからは合掌造りの里白川郷めぐりである。といっても私にとっては「雛見沢めぐり」である。以前から雛見沢には来てみたかったんだよなあ!  さっそく見えてくる園崎家(実際は重要文化財の和田家)。 荻町城への遊歩道の途中にあるのは、梨花ちゃんの家ではないか! 実際はただの物置小屋のようで、所有者のおじさんが出入りしている。それにしても、脇にちゃんと梯子があるという演出(?)が心憎い!
レナが圭一に「嘘だあ!」と叫んだのはこの辺りじゃないかなあ。 300円払って合掌造りの民家に入ってみた。これは神田家から見た荻町城。
神田家の内部。4階建てである。 5階建ての建物もあった。けっこうでかいものである。
ついに来た! 古手神社である。(実際には白川八幡神社) 梨花ちゃん殺害現場・・・・。脇の絵馬には、「ひぐらし」関係のものがたくさんある。
荻町集落と合掌造り民家園とを結ぶ「であい橋」 民家園内部にあった水車。レナたちが待ち合わせをする場所はここであろうか。
夜の白川郷もちょっとお散歩。夕暮れ時の障子明かりがなんとも暖かい気分にさせてくれる。 荻町城手前のレストラン天守閣からの夜景。肉眼では、障子明かりの合掌造りがよく見えたのだが、写真では真っ暗になってしまった。
おまけ。荘川村にあった赤い吊り橋。圭一が沙都子に突き落とされたのは、ちょうどこの辺りである。この近くには雛見沢分校もあったらしいのだが、2008年に解体されてしまったようである。残念! 雛見沢分校の屋根に登ってみたかった(^^)/ 荘川村にあった日本最大の水車。ものすごい迫力で、近寄ると水しぶきがかかってくる。
 荻町城は内ヶ島氏の帰雲城の支城であったという。城主は内ヶ島氏の家臣の山下氏であった。 




帰雲城(白川村保木脇)

*参考サイト  帰雲城と内ヶ島氏の謎      

 帰雲城埋没地の碑がある場所はこの辺り

 中学生の頃、南條範夫の『廃城奇譚』という本を読んだ。南條範夫の小説はなんとも後味悪く、いつまでも印象に残るものが多いのだが、この本の中で特に印象に残ったのが、「横尾城の白骨」と「帰雲城三代」であった。横尾城は後にまったく架空の話であったらしいことが分かったのだが、逆に帰雲城は、実際に存在していた城であることを知り、いつか行ってみたいと思っていた。しかし、白川郷はとても遠くて、なかなかそのきっかけが得られない。それでも数十年の時を経て、今回、やっとそれを果たすことができたというわけである。

 ところで。帰雲城の位置ははっきりと分かってはいない。天正13年(1585)11月29日の大地震で城も城下町も山津波のために一瞬のうちに埋没してしまい、それっきりになってしまったからである。現在、埋没地となっているところも単なる想定地であるに過ぎず、実際にどこに埋まっているのかは、諸説あり、現在に至るも謎のままであるらしい。諸説あるまま、ということは、未だに明らかな証拠となるものが発見されていないということである。

 しかし、私はそんなに難しく考えるべきものなのだろうかと以前から思っていた。そして現地を訪れてみて、だいたい予想していた通りであると思い、帰雲城の想像図を描いてみることにした。私の想像する帰雲城は、庄川の西岸上にあり、背後に急峻な山稜が迫っている部分に築かれていた城といったものである。その下に城下集落があり、そこを向牧戸から荻町へと抜ける街道が通っており、この街道を押さえるための城でもあったと思う。城の位置と形状のイメージは、この城の支城でもあった荻町城に近いものだったと想定して差し支えないと思う。

 城が庄川の西側にあると想像する根拠は、数種存在する古地図の書き込みからである。参考にしたのは上記のページの文献などから推理して見るというコーナー。天保年間や明治の絵図では、城の位置を庄川の西岸に描いている。古くから伝承地とされている場所を最有力候補とするのは基本的な考え方であろう。地形的に見ても、2つの川に挟まれている辺りで、城を築くのにいかにもありそうな場所である。下に城か集落があったとしたら、この2本の川を街道が渡る部分で、関所のような木戸を置くことで城の機能が強化されうる。この鳥瞰図のように、帰雲城は、西岸の街道沿いの城下集落を見下ろすちょっとした高台にあったのではないかと考える。

 そして、山津波で壊滅したというのだから、背後には急峻な山壁が迫っているという地取りであったはずである。背後から攻め込まれないような万全の地形が、逆に城を攻めつぶしてしまったというわけだ。

 これまで帰雲城の位置について混乱が生じていた最大の理由は、帰雲城は帰雲山の支峰に築かれていたのではないかという先入観にとらわれていたからではないかと思う。確かに帰雲山には大規模な山津波の跡を現在でもはっきり見ることができる。それに「帰雲城」というのだから、帰雲山のどこかに築かれていたはずだ、と思い込んでしまうのも無理はない。現在見られる大崩落と城の壊滅を直接的に結びつけると、崩落の跡のどこかに城があったと想定するしかなくなってしまう。

 また、古地図も示している現在の伝承地に帰雲城があったとすると、帰雲山の崩れた土砂が川を越えて、対岸の台地上にあった城までも押しつぶしてしまったことになり、自然現象としてありえないことを想定せざるを得なくなってしまう。帰雲山の土砂が物理的法則から見ても起こりえないことを起こしてしまったということになるわけだ。

 帰雲城という名称だからといって、必ずしも帰雲城の支峰に築かれていたと決め付ける必要はないと思う。庄川の対岸であっても、間近に帰雲城を望むことのできる位置にあるのだから、その城を帰雲城と呼んでいたとしても、特に差し支えはないと思う。それに帰雲山の崩落跡はかなりの高所である。土砂が崩れた落ちている部分にしても里からの比高は非常に高く、領主の居城を築くような場所ではない。確かに天正の大地震で帰雲山は崩落したのであろうが、城を押しつぶした土砂が、この部分から来たものだと限定する必要はないと思う。

 むしろ、山津波は周囲の山容の何箇所かで同時に発生したのではないだろうか。帰雲山と対峙する南西側には「三方崩山」という名称の山がある。この山も、同じ地震で崩れている可能性があるし、それに鳴動して、西側の山塊もあちこちで崩れてしまったと想定できる。帰雲城を押しつぶしたのは、帰雲山から崩れた土砂ではなく、西岸の城の背後にあった山であったとするのが自然な発想だと思う。背後の急進な山から崩れだした土砂は、先端にあった城を押しつぶし、そのまま城下集落をも埋めてしまったのではないかと想像する。

 文献によっては「帰雲山が崩れて城を押しつぶした」といった内容の記述をしているものもあるようだが、これは「帰雲山と周辺の山が崩れて城を押しつぶした」という現象が帰雲山に集約されて伝承された故のものなのではないかと思う。現在のような通信手段のない時代に、こうした大事件が伝承されていく際には、伝達の過程で誤謬が生じてしまうことはよくあることである。
(古図によっては、帰雲山を西岸に描いているものもある。となると、当時、帰雲山と呼ばれていた山は、西岸辺りにあった可能性もあるようだ。となれば、帰雲城が西岸であった可能性はさらに高まるといっていいであろう。)

 400年が過ぎた現在、崩れ落ちた土砂の上にも普通に木や草が生い茂り、崩落の跡は分からなくなってしまっている。しかし、現在埋没地の石碑が建っている周辺のどこかに、今も城が埋まっているのではないかと思うのである。

帰雲城埋没地にある城址碑。 埋没地から遠望する帰雲山の大崩落の跡。現在でも生々しい姿を見せている。
 内ヶ島氏は楠木氏の一族で、寛正年間に信州松代から当地にやってきたといわれている。これは『斐太後風土記』に掲載されている記事で、これまで通説とされてきた。

 しかし近年では、信州ではなく、武蔵の出身であるという説も用いられている。これは内ヶ島家臣で荻町城主であった山下氏(後に尾張徳川家に仕えた)の家系図によるものである。それによると、内ヶ島氏はもともと武蔵豪族で足利氏の系譜に属している一族であったが、兄弟家督のことで争いがあり、それに敗れて飛騨国に配され、帰雲に居住するようになったという。
 実際に内ヶ島氏の家臣であった家系に伝わる伝承であるから、それなりに信憑性はあると思われるのだが、のみならず、実際に、埼玉県深谷市には内ヶ島氏館跡というものが存在する。武蔵の豪族で内ヶ島氏というのは確かに存在していたのである。何でも猪俣党の一族であるらしい。この内ヶ島氏については『吾妻鑑』などにも記録が見えるという。

 また、この関東内ヶ島氏の一族に「悪五郎」を称する者がいるという。白川内ヶ島氏も初期には「悪五郎」を名乗っていたというから、この悪五郎が同一の人物である可能性もあるだろう。といったことからすると、内ヶ島氏は武蔵出身であったと見る解釈の方が根拠がありそうである。

 飛騨に入部した内ヶ島氏は、為氏、雅氏、氏理と代を重ねていった。

 このうち、雅氏のエピソードが『廃城奇譚』に描かれているのだが、南條範夫の小説の登場人物らしく、雅氏は心根の最低なやつとしてキャラクター設定されている・・・・。

 氏理の時、天正13年には、佐々成政に加担して、羽柴方の金森長近の討伐を受けることになるが、途中、降伏して、所領安堵を認められるに至った。無理な争いをして滅亡しなくともよくなったのである。これはめでたい、ということで帰雲城において祝宴が計画されることになった。そして明日が祝宴だという前夜の11月29日、夜間に突然発生した大地震のために、城も一族も、300戸ほどもあった城下集落もみな土砂に埋め尽くされてしまった。一瞬のうちに城もろとも町ひとつが消滅してしまったのである。日本版ポンペイの悲劇といってもいいだろう。そのため、内ヶ島氏の詳しい歴史については、未だによく分からないことが多いのである。   


































大竹屋旅館