岐阜県高山市

*参考資料  「岐阜県中世城館跡総合調査報告書」 「日本城郭体系」

*05年、11月3日〜4日にかけて、ヤブレンジャーと巡城組の合同合宿ということで、高山周辺の城をいくつも回ったのであった。

高山城(高山市城山)

 高山城は廃城時に徹底して破壊されてしまった。その工事は石垣の撤去にまで及んでいたので、現状では、どのような構造であったのかを知ることも難しくなってしまっている。しかし、現地の案内板や実際に歩いた感じから、このようであったのかなという想像復元図を描いてみた。しかし想像がかなり入っているので、本当にこの通りであったかどうかは分からない。現在、庭樹院屋形部分が二の丸公園となっており、そこに駐車場があるので、車の場合はそこまで上がっていくのがよいであろう。

 城山の山頂地区に天守を中心とした建造物が建ち並んでいた。この本丸は、二層三重の天守、櫓、御殿などが一体化し、石垣上に立ち並んでいたらしく、これが残っていたならばさぞかし壮観な城であったろう。天守に御殿を複合させていたところを見ると、高山城は普段から山上で生活することもある程度考えて築かれていたのかもしれない。発掘では瓦は出土しておらず、天守を始とする建造物の屋根は瓦葺きではなく柿(こけら)葺きであったと考えられている。

 現在、本丸の周囲の石垣もほとんど取り払われてしまっている。しかし、残存している部分を見ると、石はそれほど大きなものではなく、それほどの高石が気ではなかったのかもしれない。高さはせいぜい5,6m程度のものだったのではないだろうか。

 城山の背後(南側)には金尾が丘、臥牛が丘、こぶしが丘などといった削平地がいくつもある。これらも城域内と見てよいかと思われるが、絵図では城域外となっているようだから、近世時代にはそれほど重要視されてはいなかったのであろう。

 城の中心部分は山麓にあったようである。山の中腹には庭樹院屋形、二の丸屋形と呼ばれる2つの郭があった。現地案内板ではこうなっているが、現状では庭樹院屋形が二の丸公園となっており、ここに金森長近の銅像が建っている。現在の照蓮寺が二の丸屋形にあたる。御殿や役所などはこの2つの郭に置かれていたのではないかと思われる。

 山麓の平地部分には三の丸があった。現在の護国神社の境内であるが、ここには水堀や石垣などが半分程度残っている。護国神社の背後には段差があり、そこにも石垣が一部残存していることから、三の丸は2段に分かれていたのではないかと思われる。

 高山城は、かなり見事な城郭であったということであるが、破壊の限りを尽くされてしまっているのが残念である。

庭樹院屋形(現地表示では二の丸)に建つ金森長近像。 搦め手から上がってみる。この辺りの城塁も本来は石垣造りであったのだろうか。
本丸下の城塁。石垣の修復作業が行われるようだ。 端の方に残っている本来の石垣。しかし粒が小さいなあ。
本丸に復元された石垣。 南側の大手口の門跡らしき部分の石垣。
本丸城塁の石垣の残欠。ほんの少ししか残っていない。 大手口の櫓台のようなもの。
三の丸の堀と石垣。現在は護国神社となっている。 護国神社社殿背後辺りに残っている石垣。
 天正13年(1585)に飛騨地方の支配者となった金森長近が、その拠点として取り立てた城が高山城である。もっとも城山自体は、市街地を見下ろすいい場所にあるので、もともとそれ以前から簡素な砦程度のものは存在していたのかもしれない。

 金森長近は当初、同じ市内にある鍋山を居城とすべく工事を始めたというが、城内があまりに手狭であったので、工事を中断して高山城に変更したという。しかし、このことも本当なのかどうか分からない。鍋山城は完全な山城であり、城内手狭なことは工事を始める前から分かりそうなものである。それに拠点とするには市街地からちょっと離れすぎているようにも思う。高山城が近世城郭として成立しているのは、別に山上のスペースがそれほど広いというわけではなく、山麓部に居館や役所を置いているからである。鍋山城も同様の築き方をすれば、そこそこ広い城郭となったはずである。したがって、「手狭なので工事途中で高山城に変更した」という部分については、再興する必要があると思う。何かもっと別の理由があったのかもしれない。

 その後高山城は金森氏の高山藩として、近世まで存続していくが、元禄年間、金森氏が出羽上山に転封になると、高山は天領となり、高山城も廃城となった。当初、高山城は金沢藩によって管理されていたが、後に幕府の命令によって破却せられることとなる。本丸の石垣をほとんど取り払ってしまうほどの徹底的な破却であったという。




高山陣屋(高山市八軒町)

*鳥瞰図作成に際しては現地案内板を参照した。

 高山陣屋は、高山駅からほど近いところにあるので、電車で訪れるのは楽であると思う。しかし、車の場合はちょっと大変である。高山の町は狭くてごちゃごちゃしているために、道が混む上に駐車場を探すのも一苦労なのである。また、観光地としても有名なために、遠方から車で訪れる人も多い。私たちが訪れた日は、祭日だったが、10時という比較的早い時間だったので、道路もまだすいていて、近くの有料駐車場に留めることもできたが(1回10000円という高さである)、その後松倉城へ行って市内に戻ってきた時には、道は大渋滞、駐車場も満杯になってしまっているようであった。時間に余裕があれば、ちょっと中心部から離れた所に車を置き、町並みなども含めてゆっくりと散策するのがよいかもしれない。

 東側の玄関に回り込むと、手前の広場で朝市をやっていた。そういえば高山の朝市というのも有名である。フリマの先駆けのようなものであったろう。

 陣屋は方100mくらいの規模である。周囲には板塀が巡らされているが、防御用の堀のようなものはない。あくまでも役所であったのだろう。高山陣屋の建造物は良く残されており、陣屋建造物の唯一と言っていい完存に近い状態のものを見ることができる。廃藩置県後も、役所として使用されている時期が長かったために、自然と保存されてきたのである。

 玄関を入ったところが役所部分に当たる。役人達の執務室のような所であるが、ここで当時の役人達が事務仕事をしていたのであろう。その西側の奥の部分が、居住用スペースとなっている。目を引くのは京都の飛雲閣を思わせるような三階建ての建造物があることである。この2階以上の部分には立ち入ることができないが、陣屋とはいえ、このような象徴的な建造物があるというのが印象的であった。この脇には庭園がある。

 役所の南側の方には白州もある。ここで裁きが行われていたのであろうが、ここには拷問道具も展示されていた。このような狭い敷地内で拷問まで行われていたと言うことになると、奥の役宅で休息している場所にも、悲鳴が聞こえてきたことであろう。

 南西側には倉庫が復元されている。この内部は1番倉から始まり、米や武器など各種の備蓄物が置かれていたようである。ここには陣屋関係の史料が各種展示されていた。目を引いたのは高山城の本丸建造物の復元模型であったが、こちらは撮影禁止になっていたので、残念ながら紹介することができない。

陣屋の前では朝市が開かれていた。 陣屋の正面玄関。
陣屋内部。なるほど、役所みたいな感じである。 御三階といった建物もある。
いくつかある窪みは貯水池であろうか。 庭園と建物。
白州には、拷問道具も置かれていた。 倉庫。中には資料が展示されている。
 元禄年間、金森氏が出羽上山に転封となり、高山藩がなくなると、高山城は廃されて、天領支配のための陣屋が置かれることとなった。それが高山陣屋である。この陣屋は明治維新まで続き、その後も建物は、役所として利用され続けた。陣屋建造物がこれほどまでに保存されているのはそうした経緯があったからである。




松倉城(高山市上岡本町松倉山)

*鳥瞰図作成に際しては「岐阜県中世城館跡総合調査報告書」の図を参照した。

 松倉城は、飛騨民俗村の背後の比高150mほどの松倉山に築かれている。民俗村を通り抜けて林道に進むと「松倉城」の案内が各所に見えてくるので、それに従っていけばよい。やがてみちは峠になるのでそこに車を留める。左手の上の方に比高で20mほど登っていけば、もう石垣が見えてくる。(図の左側の辺り)

 その手前の尾根筋に、堀切が二本ある。両側に竪堀を掘っているのは分かるが、堀切自体はごく浅いものである。あるいは登山道を付ける際に改変してしまったのかとも思われるが、6の部分の堀もやはり浅いので、要するにこの城の堀はこんな程度であったと見た方が良さそうだ。この点は飛騨国の多の城郭と明らかに違う点である。

 松倉城の最大の特徴はその石垣造りである。現在、高山城の石垣は取り払われてしまっているので、この地方随一といっていい石垣構造ということになる。石垣の下を回り込んで5の郭に上がってくると、すぐにまた2の郭の石垣が見えてくる。このように石垣は攻め寄せる敵を心理に与える影響も大きい。特に5の郭の下側の石垣は、長さ2mほどもあるような大石を所々に使用しており、「見せるため」という意欲を強く感じる。5の郭を進んでいくと、下に4の部分があるのが目に付く。4の脇には虎口であったかと思われる切り通しがあり、枡形のような構造であった可能性がある。

 1は天守台といってもいいような方20mはあるスペースになっている。しかし、この部分いっぱいに建てると、かなりの大天守ということになってしまうので、実際には小規模な本丸というように解釈するのが良さそうである。ここに上がるためには3の郭から石段を登り。2郭から虎口を通って入るようになっている。このように導入路が右に左に折れて何度も方向を変えているのも、この地域の城とはやや違った様相を見せている部分であり、織豊式の城郭かな、と思わせる一員となっている。ちょっと不思議なのは、1郭の北側の石垣がやや不整型で、下の6方向にすぐに降りられるようになってしまっていることだ。これでは6の尾根から接近した敵はたいして苦労もせずに1郭に取り付けてしまう。この辺り、後世の改変があるのか、あるいは未完成ということなのかもしれない。

 3の郭から尾根沿いに細い郭が延びている。9の部分には石積みが残っており、ここが城内に入るための木戸が置かれていたところではないかと思われる。その先にも小規模な堀切があるが、実際には9の虎口が城外との実質的な境界であったと見てよいだろう。

 6の先の尾根にも堀切を始として段々の削平地が続いている。しかし7の辺りは微妙な段差で凸凹しており、なんのためにこのような形状にしたのかよく分からない。敵の導入を阻止するための仕掛けだったのだろうと想定はできるが、よく分からない構造である。その先は傾斜が強まり、8に小規模な横堀があって、城域は終わる。

 このように松倉城には立派な石垣があるのだが、面積的に見ると、たいして広くもない城である。総石垣造りとはいえ、拠点的な城郭というよりは、砦として築かれた城であるかのような印象を受ける。

城址に向かう途中にある堀切であるが、実際はほとんど堀切状にはなっていない。 5の郭の石垣。なかなか見事である。
4の出枡形から5の南側の石垣を見たところ。 2郭南側の石垣。
1郭入口の石垣。 1郭は眺望が良さそうだ。でも雨なので雲しか見えない。
9の所にある虎口の石垣。 8の所には横堀が残っている。
松倉城は、天正7(1578)年頃、三木氏がこの地域への侵出拠点として築いた城郭であるという。その後、天正13年に金森長近の飛騨侵攻が起こると、飛騨地域は金森氏によって制圧された。松倉城も金森氏の城となった。松倉城の構造が、この地域の山城と異なった様相を見せていることと石垣の多様から、この城はむしろ金森氏に依って築かれたと見るべきではないかというむきもある。確かに石垣はしっかりと積まれているが、金森氏の居城とするには城の規模があまりにも小さいと言うべきであろう。どちらかといえば、高山城の西を守る出城として整備されたのではないかという気がする。




尾崎城(高山市山口)

*鳥瞰図作成に際しては「岐阜県中世城館跡総合調査報告書」の図を参照した。

 尾崎城は丹生川中学校、旧丹生川村役場の上にある。地図を見てみると、この城のすぐ脇をかすめるようにして高速道路が建設予定であるようだが(2005年)、城本体はこの工事からは免れているようである。

 下からの比高は50mほどであろうか。現在城址は尾崎城址公園となっており、山上に上がるための車道までできているのだが、この車道の登り口がさっぱり分からない。麓には何カ所か「尾崎城登り口」を示す案内が立っているのだが、いずれも、歩いて登るためのルートであり、車ではどう行けばいいのかさっぱり分からない。麓で地元の方(旧役場の職員)に登り口を尋ねてみたのであるが、「城があることは知っているが、どこから上がるのかは知らない」という返答であった。せっかく城址公園として整備しても、これほど認知されていないのでは、あまり意味がない気がする。仕方がないので、丹生川中学校の裏から小道を登っていったのだが、比高差の割に険しくて付かれる道であった。

 山上は大きく分けて2つの郭から成っている。その間には二重堀切があって区画されている。二重堀切の間の部分は、幅7mほどあるので、これは馬出として意識された部分であったのだろう。これをはさんで、どちら側を主郭とみるべきかということなのだが、1郭の方に段差があって高くなっていることを考えれば、1郭を主郭と見るのがよいと思われる。とすると、主郭が尾根続きに近い方に位置していると言うことになるが、こちら側に何重もの堀切を配置し、そう簡単にはアクセスできないようになっている。本来は、1郭の南側下の枡形状の部分を通って内部に入るようになっていたようだが、車道を建設したことにより、この周囲の遺構はかなり破壊されてしまっているようである。城址公園と銘打っていながら、このように遺構を破壊してしまっているのは残念なことである。1郭の西側下は忠魂碑が建っている土壇があるが、これは後世のものであろうか。

 3郭は先端にあり、長軸150ほどはあり広い郭である。その周囲を土塁が巡っているが、飛騨の城で低いながらも、このように土塁がきちんと巡らされている例はかなり少ないように思う。郭の周囲には横堀が巡らされている。横堀と言うよりも「帯曲輪」といった方が良いかもしれないくらい小規模なものであるが、それなりにきちんと整形されている。また、尾根が延びている部分には、小郭を置き、その先に竪堀を穿つなどして、防御に意を用いている。

 この城で最も特徴的なのは、ほとんど全周といっていいくらいに巡らされた畝状竪堀群であろう。ただし、これらはみな規模の小さなものばかりで、実際の防御効果がどれほどあったのかについては、かなり疑問も残る。

 尾崎城は、三木氏系の城郭であったと想定されているが、公園化によって、逆にかなり改変を受けてしまっているのが残念である。

丹生川中学校から上がってくると、腰曲輪が見えてくる。 3の郭下の腰曲輪。
馬出と二重堀切越しに1郭方向を見たところ。 馬出部分。
城址公園の車道入口。堀切がだいぶ壊されてしまった。 1郭北側から下の腰曲輪に抜ける虎口。
 城主は塩谷秋貞であったという。塩谷といえば下野の豪族であるが、何らかの関係があるのだろうか。近くの畑館の城主の畑氏が新田義貞系であるらしいので、塩谷氏も南北朝あたりの頃に、この地域に来て根付いたのかもしれない。

 塩谷氏は後に塩を商売として富を得ることとなる。しかし後に武田信玄が来襲してくると、塩谷氏は城を落ちて逃れた。後に塩谷氏は上杉謙信の配下となって、飛騨を一時期は統一するほどの機運を見せたが、後には三木氏に滅ぼされることとなる。その後尾崎城は三木氏の城となった。




広瀬城(高山市国府町名張)

*鳥瞰図作成に際しては「岐阜県中世城館跡総合調査報告書」の図を参照した。

 名張の橋を国道から南側に渡って浄覚寺の南側辺りである。城址入口の道は細くてわかりにくいが案内板があるので、それにしたがって進めばよい。山裾に至った所に文化財センターがあるのでその辺りに車を留めよう。あとは文化財センターとその駐車場との間の道を左手に向かって進んでいけば、道はやがて登りになって水の手に続く段々の削平地に至る。後は登っていけばよいだけである。登っていく途中に田中筑後守の墓がある。田中筑後守は広瀬氏の家臣で、広瀬城の城代となっていた人物であったという。

 そこからさらに登っていくと山頂部に至る。全体の構造は、飛騨市辺りの他の城郭と同じで、多岐に分かれる尾根を削平して郭を造りだし、所々にポイント的にピークとなる郭を配置するという形態である。郭間の移動を分断するために、尾根の要所には堀切を入れている。しかし、ピークがそれぞれ独立しているので、一見して、全体的に連携が悪い城のように見えてしまう。この城の場合は、1,2,3の部分がそれぞれ、独立した出丸のようになっている。そのため一見して、どこが主郭になっているのか分かりにくい感じがする。だが、見方を変えて言えば、敵が主郭の位置を把握しにくいと言うことが、逆に防御の点からは有利になることもあるのかもしれない。

 飛騨市辺りの山城は大方、これと同様の形状をしているが、広瀬城の特徴は、全体に規模が大きく、主要な郭に付属する段々の削平地も数多く形成されているところである。広瀬城にはかなり多くの兵を籠めることができるであろう。

 もう1つ、この城の最大の特徴は、各所の城塁に設けられた畝状竪堀と畝状阻塁とである。そうした構造物は飛騨の城に数多く見受けられるものではあるが、広瀬城のそれは規模も大きくなっている。このような意味で、広瀬城は、この地域に置ける拠点的な城郭であったと言えるだろう。

 広瀬氏は、もともとは広瀬城よりもかなり奥に入ったところにある高堂城を居城としていた。しかし高堂城はそれほど技巧的でもない山城なので、むしろ、後には広瀬城が本城となっていたと考える方が自然ではないかというように思われる。その後、広瀬氏が三木氏によって滅ぼされてしまうと、城は三木氏の手によってさに整備されていったと考えられる。「岐阜県の報告書」でも、金森氏の来襲に備えて、三木氏が広瀬城を整備したのではないかという説を挙げている。

登城道の途中から見た城址。 城内にある田中筑前守の墓地。
堀切越しに1郭城塁を見たところ。 堀越に2郭を見たところ。
2郭にあった城址碑。 2郭下の腰曲輪から、南西側尾根の堀切や連続畝堀を見たところ。
1郭の堀切。 3郭北側下の連続畝堀。この辺りの畝堀が一番見応えがある。
3郭西側の堀切方向にある連続畝堀。 4郭下の腰曲輪にある畝状阻塁。
広瀬城がいつ築かれたのかはよく分からないが、広瀬氏の居城として築城されたのが最初であったのではないかと思われる。その後、広瀬氏は三木氏によって滅ぼされることとなり、三木氏の重要拠点として、次第に整備されていったのであろう。だが、天正13年の金森長近の飛騨侵攻によって、広瀬城も攻略され、その後は廃城となっていったのではないかと思われる。




畑館(高山市江名子)

 畑館は、病院の東南300mほどの所にある。比高5mほどの微高地上に築かれた居館であったが、現在は一面の畑となっており、城塁にそれらしい雰囲気が残る他は、ほぼ湮滅してしまっている。





























 

ほぼ
北側の腰曲輪のような所にある畑六郎左衛門休高の碑。 畑館内部。比高6mほどの高台の上にある。
 畑館は、畑六郎左衛門休高の居館であったという。




鍋山城(高山市松之木町)

*鳥瞰図作成に際しては『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』の図を参照した。

 鍋山城は松之木町の四天王神社の西側にそびえる比高140mの山上に築かれている。したがって、城址を訪れるためにはこの四天王神社を探すことになる。

 神社までの道は細いが、神社下に到達するとなんとか車2台ほど停められるだけのスペースがある。ここに車を置くと、神社の石垣下に「鍋山城←」といった標柱が建っているのが目に入ってくる。この指示に従って、獣よけの柵を開けて山道を進んでいけばよい。

 山道を進んでいくと、途中で道は林道と合流する(当初、地形図を見て、ここまで車で来られるかと思っていたのだが、林道は神社の脇から柵で閉鎖されているので、神社から歩いていくしかない)。
 この辺りには「大手道」の標柱がいくつも建てられている。奥の方に「屋敷跡」の標柱も見えている。ここから上がっていった所にある2段ほどの平場が屋敷跡ということらしい。それほど広くもない柵平地である。

 それを越えてさらに進んでいくと、北側の本丸部分と南側の出丸との間の鞍部のところに出る。この辺りにも平場があるので、この部分も大手道を押さえるための郭があったものであろう。鞍部の脇には「←出丸 →本丸」といった標柱がある。というわけで、まずは本丸へ行ってみることにしよう。この辺から斜面は急峻になってくるが、5分ほども登ると、Aの石が転がっている部分に出る。現状でははっきりしないが、この石は城門を形成していた石垣の名残ではないかと想像される。

 さらに上がっていくと左側に石垣があるのが目に入ってくる。本丸の石垣である。高さは1mちょっとにしか過ぎないが、本丸の東側と北側にはこのように石垣がめぐらされている。またこの方向には土塁も積まれていた。城内ではもっともしっかりと造られている部分である。

 この石垣を乗り越えるようにして現在の遊歩道は付けられているのだが、これが本来の虎口であったとは思われない。本来のものは本丸南側の枡形状のくぼみのいずれかに出るようになっていたものと推測される。

 本丸は東西に長い。削平も十分ではない。一応削平の跡も見られるものの、なだらかな斜面になっているところもあり、これでは多くの建造物を建てることはかなわないであろう。入口の石垣構造とは裏腹に、なんか期待を裏切られたような気持ちになってしまう。どうも臨時的築城の色合いの強い城である。
 本丸の南側は一段低くなっていて、枡形状のくぼみが見られるものもあるが、これをそのまま枡形と理解していいのかどうか判断に迷うところである。いずれにしても意図の明瞭な遺構ではなく、そういう意味でもはなはだ不完全な印象を受ける城である。

 本丸の西端に「←二ノ丸」の案内標柱が建っている。というわけで、それにしたがって、今度は、西側の尾根を目指す。しかし二ノ丸への通路にはまったく加工の跡は見られず、岩場をただ降っていくだけの自然地形である。この先に本当に二ノ丸があるのかどうか心もとなくもなってくる。

 やがて細尾根を進んだ先に、若干の平場が見えてきた。これが二ノ丸であるらしい。しかし、二ノ丸といっても実質的にはまったくの自然地形である。ほとんど削平もされていない。この場所を「二ノ丸」と呼ぶことにすら抵抗を感じるほどのものでしかない。

 このように鍋山城の主要部は、本丸東側の石垣を除けば、なんとも未成熟なものばかりである。土塁も堀切もほとんど見られず、削平すら十分に行われていない。全体としての印象は、城郭として完成された雰囲気のない城にすぎない、といったことになる。

 再び本丸に戻り斜面を降って、鞍部まで戻ってくる。今度は出丸の方を見てみよう。鞍部の尾根を進んでいくと、出丸のある峰が見えてくる。出丸は山麓からの比高110mほどの急斜面の上にある。

 出丸の手前には、この城で最大といってよい堀切が存在している。城内側は鋭く切岸加工されており、なかなか堅固である。また、両端は竪堀となって落ちて行き、しっかりとした分断機能を果たしている。ここから斜面を登っていくと、西側にも竪堀があった。こちらの方が城郭としては防御性がしっかりし他者のような印象を受ける。

 登城道なのかどうか分からない斜面を登っていくと、やがて帯曲輪のところに出た。幅4mほどであるが、それなりに加工されている。その上にもう1段の帯曲輪があり、その上のピークが出丸の主郭部であり、そこに「出丸跡」の標柱が建てられていた。しかし、この部分、非常に狭く、長軸10mもないjほどである。これではまともな建造物を建てるのもおぼつかない。全体としての曲輪面積も少なく、どちらかというと物見のための砦といった程度のものである。それでも出丸の方が、主要部の二ノ丸などと比べれば、城らしくよほどしっかりと造成されている、といっていい。

 これだけの城である。「なんとも未加工」というのがこの城の印象である。金森長近が一度は居城と定めた城ということでかなり期待をしていたのだが、それは見事に裏切られてしまった。山城部分はもともとほとんど城として活用されてはいなかったのではないだろうか。金森長近が飛騨の平定後にここを本拠地に定めようとした、と一般に言われているが、その話の根拠が何なのだろうか。どうも怪しいものだと思う。もしそうだったとしても、築城を始めてすぐに、放棄してしまったのではないだろうか。

南側から遠望した鍋山。鍋を伏せたような形をしているということで鍋山と呼ばれているらしい。ここから本丸への比高は140mほどである。 四天王神社登り口の脇にある城址への案内標柱。ここから柵を開けて山道を進んでいく。
最初に見えてくる遺構は屋敷跡である。2段ほどの削平されたスペースがある。 北側に急斜面を登っていくと本丸がある。東側の城塁は石垣で囲まれており、なかなかしっかりとしている。
本丸内部は一応は削平されているが、あちこちに段差があり、まとまって建物を建てられる雰囲気ではない。 本丸から西側に降っていったところにある二ノ丸。しかし実際はただの自然地形の尾根にしか過ぎない。本当にここが二ノ丸なのであろうか。
続いて南側の出丸へ。尾根筋を分断する堀切。この城ではめずらしく、まともな遺構である。 出丸内部。家一軒建てるのがやっとといった程度の広さしかない。
 『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』によると、 『瑞建書状写』に「去る七日、三仏寺近辺ナベ山と申す所まで、新九、同四郎次郎殿、御出張」とあるという。天文13年(1544)のことであり、三木新九郎頼一と三木四郎次郎良頼が鍋山に赴いたことが分かる。といっても鍋山城は上記の通り、未加工な城であるので、山麓の居館にでも赴いたのであろう。三木氏はその後代々鍋山城主であったという。

 天正13年(1585)、金森長近の飛騨平定戦によって、三木氏は滅ぼされ、当地域は金森氏によって、支配されるようになる。その際に長近は当初鍋山城を居城に定めようとしたというが、上でも述べているように、城の遺構からして、それは非常にあやしい話である。もしその通りだったとしても、長近がいたのは、山麓の居館であったことだろう。

 その後、長近は高山城を築いてそちらに移っていくので、ほどなく鍋山城も廃城となっていったものだろう。


































大竹屋旅館