長野県飯田市

西平城(飯田市山本字西平)

 西平城は、国道153号線の西側にある浄玄寺という寺院から北西に延びる比高140mほどの山稜上にある。この西平城については、ネットを探してみても詳細情報はまったくなかった。おそらくこの城をネットで紹介するのは私が最初なのではないだろうか。そんなわけで、ほとんど予備知識もなく、城址の現状も分かっていなかったため、麓の浄玄寺に立ち寄って住職に城について伺ってみた。しかし、城のことはまったくご存じないようであり、「上の山には何にもないよ」といったことしか言われなかった。本当にまともな遺構があるのかどうかもはっきりしない。それでも真夏にこの山に登ってしまおうというのだから、ヤブレンジャーツアーに付き合うのは本当に大変である。

 実際にはここはきちんとした遺構を有するなかなかいい山城であったのだが、気温が35度もある日の登山というのはなかなかきつかった(xx)。

 登城口として明確なものはない。しかし、浄玄寺の背後の墓地の辺りから山稜に入り込んでいけば、やがて切り通しの通路のようなものに出る。後はひたすらこの切通し沿いに尾根上を目指していけばよいのである。

 この長く続く切通しの通路が城郭遺構かどうか迷ってしまう所であるが、ただの通路であるならば、これほど念入りに掘り込む必要がないこと、切通しの途中には何箇所も折れが入れられており、一直線に進めないように意図的にしていることなどを考えると、ひとまず城に関連するものと見てよさそうに思われる。

 尾根上に到達すると、尾根は北東側に延びている。ここを進んでいくと、8の堀切のところに出る。ここで初めて城域内に入ったことが理解できて一安心だ。ここから尾根は上がっていくが、明確な遺構は見られず、やはりやや切通し状の通路がクランクしながら続いている。

 さらに進むと7の堀切がある。ここから先も地勢は上がっていくが、切岸状の段差が少しずつ見られるようになっていく。さらに進んで主要部に近づくと、帯曲輪が何段にもなって、その上に2郭がある。2郭と堀切を隔てた北側にあるのが1郭であるが、2郭はその形状からして馬出しのようにも見られなくはない郭である。

 1郭はそこそこ広い郭であり、20m×80mほどと、長方形の構造となっている。目を惹くのは、中央寄り東側に開けられた枡形である。方6mほどとわりと小規模であるが、実にしっかりとした枡形形状になっており、出口付近には石積みも見られる。3郭からここに至る斜面はかなりの急斜面になっていて、石段でもつけるとよさそうな土盛りがなされている。もしかすると、これって神社の跡?!

 1郭の北西側は尾根続きになっているため、こちらには二段の堀切を入れて、念入りに分断している。また4の郭の先にも堀切を入れている。この4の郭が城域の境界を示すものであろう。

 1郭からは北東側に尾根が長く延びており、この方向には10段以上の帯曲輪が造成されている。1つ1つの帯曲輪は人が駐留できるようなものではなく、あくまでも防衛のための無人の段差といった体の狭いものである。図が細かくなってしまったので描ききれていないのだが、それぞれの帯曲輪の脇には接続のための通路も見られる。これらの小規模な段差を脇を通って登ってくる敵を上の5の郭辺りから遠隔狙撃することを意識していたのかもしれない。だとすると、これらの帯曲輪群は戦闘空間を想定したものであり、さらには鉄砲を武器とする発想のものであるといえるかもしれない。
 この帯曲輪群の先には二重の堀切があり、城域の境界を示している。

 3の郭の東側には比較的広い帯曲輪が何段にもなっている。枡形がこちらの方向に向いていることからすると、こちらの帯曲輪群を経由するのが大手道であった可能性もなきにしもあらずである。下の横堀から3の郭に上がってくるためには急峻な切岸に守られた何段もの帯曲輪を経由しなければならず、攻めてきた敵はうんざりとしてしまいそうである。

 この東側の帯曲輪群の脇に竪堀が掘られ、ここからの横移動を阻害していることも、東側の帯曲輪群が大手道であることに関連するもののように思われる。

 今回、丹念に歩いていないので、きちんとした登城ルートを確定できていないのだが、帯曲輪群を縦に移動したり、横に移動したりしながら、かなり複雑なルートをたどって主郭部に侵入するようになっていたのではないかと思われる。

 大規模な堀切があったり、枡形、馬出しなどの意匠、さらには段々の帯曲輪や横堀を経由させる手法などからして、西平城は、かなり技巧的に計算された城であったと言っていいと思われる。城の歴史についてはよく分からないようであるが、伝承等も地元に残されていないことからしても、ある時期に軍事的な用途をもって、一時的に取り立てられた城、といったものであった可能性が高いと思われる。

 この城の構造上の特徴でもある、何段にも重ねられた帯曲輪群は、比較的近場にある武田氏の駒場城にも見られた。このような構造上の類似性が、築城者を特定するヒントになるのかもしれない。

浄玄寺の南側から遠望した西平城。比高140mほどある。 浄玄寺裏手の墓地から尾根を上がって行くと、切り通しの通路がずっと続いている。通路の途中には折れが何箇所にも見られ、城の導入路らしく見える。
尾根上に出て東側に向かうと、8、7と二箇所に、中央に土橋を残した堀切がある。 そこから主要部へ向かう途中にある堀切。
1郭内部。 1郭内部にある桝形。方6mほどで、はっきりとした方形になっている。
桝形の入口にある石積み。 1郭北側の堀切。
1郭北側の二段堀切を下から見上げたところ。 1郭東下の腰曲輪3にある食い違いの土塁。
5の郭から下には多数の帯曲輪が連続しているが、その最先端にある二重の堀切。 1郭東側の帯曲輪群の下にある横堀。
横堀は長く南側に続いている。 1郭から見下ろした3の郭。
 上で述べている通り、歴史や来歴の不明な城である。とはいえ、城の構造は純軍事的な要素が強いものであり、なんらかの軍事的緊張状態の下で築かれたものであると思われる。





































大竹屋旅館