長野県飯山市

*参考資料 「日本城郭体系」

飯山城(飯山市)

 飯山城は中世所郭として築かれ、近世まで用いられた城である。比高20mほどの飯山と呼ばれる独立台地を利用して築かれた城郭であった。飯山市の市街地の北方にあり、現在は城山公園として開放されている。そのため、だいたいの地形などは残されていると考えられるが、城内にある神社の参道、市民会館などの建設によって旧状が改変されてしまっている面もあるようだ。

 飯山城のすぐ東側には国道117号線が通り、その脇には千曲川が流れている。越後から信濃に向かう街道を押さえる枢要な位置にある。、

 鳥瞰図は「正保城絵図」を基にして描き起こしてみたものであるが、どうも絵図と実際の地形のイメージとが合わない面がある。実際の地形が改変されているのか、絵図が正確でないのか、たぶんその両方であろう。絵図には3基の2層櫓と5基の櫓門が描かれているが、土塀なども少なく、城塁の上に置かれていたのは主に木柵であった。近世城郭で木柵ではあまりにも貧相に過ぎないかと思ってしまう部分だが、絵図にはそう描かれているのだが、実際、土塀ではなく木柵を多く配置した城郭であったのだろう。

 絵図によると、本丸には2基の二層櫓がある。これが城の象徴的な存在であったろう。北側の枡形には櫓門が描かれている。とはいえ、枡形そのものの上には塀も多聞櫓もないことになっている。この辺りも実際とは異なっているのではないかと思う。なお、現在は本丸の西側に神社に上がる石段が付けられているが、これは後世のものであり、本来こちら側には石垣が続いていた。

 本丸の北側下には二の丸がある。二の丸には何の建物も描かれておらず、ただ北端に櫓門があるのみである。

 二の丸の北側下には三の丸があった。ここには西側に門、北端に二層櫓が存在していたらしい。

 二の丸の西側下が西郭である。西曲輪の北端辺りには桜井戸と呼ばれる井戸があり、その手前に南中門があった。現在、弓道場の建つ辺りであるが、そこには南中門の位置を示す礎石が保存されている。この南中門であるが、実際には、その南側の公園入口に現存している。かなり大きな櫓門で、近世城郭にふさわしい重厚な造りのものである。

 現在、城址に向かうメインのルートは西側から西曲輪に入っていくコースとなっている。しかし、絵図にはその導入路は描かれていない。城の南側の、飯山小学校の脇辺りから入っていくルートが大手門であったようで、かつては水堀に大手橋が架けられていた。ここには両脇を木柵で囲んだ枡形があり、その中央奥に櫓門があった。また、三の丸の北側の調練場の先に搦め手門が存在していたようで、本来の登城ルートは、その二ヶ所であった。

 城のある飯山の周囲にはかつては水堀が巡らされていた。かつてこの部分は水田となって、その地形をよく残していたらしいが、現在では宅地化が進んでおり、水堀らしい地形も、今となってはほとんど失われてしまっている。

 このように中世から近世まで用いられた飯山城ではあるが、後世の改変などがあってか、現在ではあまりぱっとしない城址になってしまっている。とはいえ、本丸に残る石垣による枡形門の跡や周囲の石垣などをみると、やはり近世城郭であったのだという気分にはなる。

国道バイパスから見た飯山城。比高20mほどの独立台地にある。 本丸の石垣。すでに暗くなりつつある時刻で、月が昇っている。
本丸の枡形を内部から見たところ。 本丸石垣。この上が神社になっている。
本丸の櫓台。 現存する櫓門。現存・・・と書いたが、正確には「城下に移されていた単層の長屋門のごく一部だけを用いて、南中門の形を基にして復元したもの」だということを備前守殿から伺った。これって、現存といえるのか、復元門なのか、それとも模擬門なのか・・・・どうにもどの範疇にも入らないような珍しい状態の門であるということになる。
 飯山城の歴史はとにかく古い。かつては地元豪族の泉氏の居城であったという。建保元年(1213)、鎌倉幕府執権として権威を誇っていた北条氏に対して反発を抱いた泉親衡は、源頼家の子であった千寿丸を立てて源氏再興を図ったがかなわず、鎌倉からこの地に逃亡してきたという。これが飯山泉氏の祖先である。

 飯山は街道沿いにある独立台地だったので、城館を営むのには最適の場所であった。親衡がこの飯山に休息していた時、喉の渇きを覚えたのだが、近くに泉や井戸がなかった。そこで八幡神社の札を目の前にあった桜の木に懸けて、「水を与えたまえ」と祈った所、あ〜ら不思議、目の前の桜の木の根元から滾滾と水が沸いてきたという。まあ、実際にはありえない話であるが、桜の木の下に湧き水があったというのは本当だったのだろう。この井戸は桜井戸と呼ばれ、現在も、その跡にはそれを示す碑が建っている。

 その後、泉氏の支配は数百年続いていくことになる。永禄年間の上杉謙信の書状には「弥七郎(泉重歳)は城主であるから、実城をもとのごとく守りたまえ」と記されているということで、この時期にも泉氏が城主であったことが確認できる。

 その頃になると、南方から来た武田信玄の攻勢がしだいに強まってくる。現在の中野市にいた高梨政頼は、武田勢の攻撃によって居館を守りきれなくなり、飯山城に避難してきた。そのため、高梨氏や泉氏は上杉謙信に救援を求めたものと思われる。
 こうして飯山城は、武田勢と上杉勢との境目の城として、その重要な拠点となった。そこで謙信は、飯山城の普請を命じ、これを守り抜くように指示をしていた。

 永禄7年(1564)の上杉謙信書状案(岩船文書)には「飯山普請悉く成就候間、昨日、馬を納め候。これに就いて敵陣の様体心元なく候間、早々目付を差し越し、しかと付け置き、陣々の様子、見届け注進すべく候、敵退くの様候か、また越河にて中野筋へ押し下り候か、その模様、よくよく見届け、細々注進肝要に候」などとある。

 これによれば、武田勢は中野辺りまで進出してきており、砦をあちこちに築いて籠もっており、その動向に関して謙信はかなり注意を払っていた様子が伺える。じわじわと進出してくる武田勢に向かってしっかりと対峙し、敵を撃退することを謙信は求めているのである。

 そうした情勢の下、飯山城周辺では武田勢と上杉勢との攻防戦が何度か行われ、上蔵城が武田勢に落とされ、武田氏の拠点として用いられるようになったが、飯山城はかろうじて死守されていたものと想像される。(しかし、この上蔵城というのが、どの城のことかは分かっていない。)

 天正6年(1578)3月、上杉謙信が死亡した後、その跡目をめぐって、坂戸長尾氏から養子に入った景勝と、北条氏から養子に入った景虎とが抗争した。いわゆる御館の乱と呼ばれている抗争劇であるが、景勝は武田勝頼に援軍を求め、それに応じた勝頼はこの地まで進出してきて、景勝をバックアップした。そうしたことがあってか、御館の乱の後、飯山城は武田勝頼に所属するようになる。こうして武田氏は信玄の代からの念願であった飯山城を手に入れるのである。こうしてみると、勝頼が、同盟関係にあった北条氏の血縁の景虎を支援せず、景勝を支援したのには「飯山周辺の土地を差し上げる」という密約があったからではないだろうか。これによって北条氏に愛想をつかされた勝頼は、後に織田氏が侵攻してくるとあっという間に滅ぼされてしまうのだから、そう考えてみると、飯山城の存在は、甲信越の戦国史にとって、かなり重要な意味があったということもできそうである。

 さて、上記の通り、この4年後には、織田信長によって武田氏は滅ぼされてしまうので、飯山城一帯は織田家臣の森長可によって支配されるようになる。といっても織田氏の支配も長くは続かなかった。武田勝頼が滅亡したわずか3ヵ月後、織田信長は本能寺において自害し、その後の混乱で、織田氏は信濃を維持することはできなくなってしまう。結局、その混乱に乗じて飯山城を手中にしたのは上杉景勝であった。いろいろあったが、もとの鞘に戻った形である。

 景勝は、腹心の岩井信能に飯山城を与え、城主とした。その後、景勝が信能に飯山城の修理を命じた文書が残っていることから、この時にも飯山城の改修が行われているらしい。城下町の整備事業などがこの時に行われ、飯山の町の基本はこの時に出来上がったものといわれている。

 慶長3年(1598)、上杉景勝は会津に転封となった。その後、関一政(松平忠輝の城代)(4万石・1601〜1603)、皆川広照(松平忠輝の城代)(4万石・1603〜1609)、堀直寄(4万石・1610〜1616)、佐久間氏三代(3万石・1616〜1638 、松平(桜井)氏2代(4万石・1639〜1706、永井直敬(3万3千石・1706〜1711)、青山幸秀(4万8千石・1711〜1717)などと実にめまぐるしく変わっていった。しかし、享保元年(1717)に本多氏が2万石で入部すると、その後は本多氏の支配が代々続いて明治維新を迎えることとなる。

 このうち、皆川広照っていうのは下野皆川城にいたあの皆川広照のことである。皆川広照といえばウモ殿の「境目哀歌」のモデルとなった人物である。諸勢力に翻弄された挙げ句に、結局こんなところの城主に落ち着いていたというのはなんだか不思議な気がする。とはいえ、近世大名として存続しているのだから、皆川氏は十分に「勝ち組」を名乗る資格があるといえよう。




大倉崎館(上野館・飯山市大倉)

 *鳥瞰図の作成に際しては現地案内板を参照した。

 国道117号線を飯山から野沢温泉方向に北上して行くと、やがて道はカーブを描き、千曲川を渡る常盤大橋に差し掛かる。この手前の断崖縁に築かれたのが大倉崎の館である。国道を走る途中に案内板が道路脇に見えるので、その位置はすぐに知ることができる。

 06.11.3(金)の仙当城ツアーで、夕方に飯山城を訪れ、その後津南町の宿に向かう途中にちょっと立ち寄っただけなので、すでにあたりは真っ暗であった。しかし、それでも案内板や土塁、空堀などを見ることはできた。(ただし、写真は真っ暗状態になってしまっていて、何がなんだか分からなくなってしまった。)

 昭和63年の常盤大橋の建設によって、館跡は中央から分離された。かつての規模は70m×100mほどで、南北に細長い形状となっているが、これは断崖部分がある程度削られてしまっているためであり、本来はもう少し、方形に近い形状であった可能性がある。館は千曲川の断崖に面しており、それ以外の三方向には土塁と堀とがめぐらされている。深さ3m、幅5mほどの堀である。

 千曲川の断崖に接していることから、この館は、水運の監視をする機能を有していたのではないかと推測される。といったこともあり、ワカ殿、オカ殿は船着場の跡を求めて、川まで降りてみたそうだが、それらしきものは見つからなかったという。

 常盤大橋建設の際に行われた発掘の時には、中国輸入の青磁・白磁、能登産の珠洲焼、越前焼、美濃・瀬戸焼などの各地の焼き物、中国の銭、鎧の金具、茶臼や硯など、多種多様な遺物が発見されているという。こうしたことからして、少なくとも中世中期頃には、かなりの勢力のあった豪族が居館としていたのではないかと考えられる。


国道脇に残る土塁の前面に立つ案内板。 土塁。この左側が空堀になっている。
 大倉崎館の館主に関しては、確かなことは分からない。現地の伝承では、竹内源内という者の名が伝えられているが、この人物についても詳しいことは不明である。



























大竹屋旅館