長野県伊那市

*参考資料 『日本城郭体系』

*参考サイト 信玄を捜す旅  城跡巡り備忘録  ちえぞー!城行こまい

一夜城(伊那市富県)

 伊那市富県の県道209号線沿いに宮花八幡宮があるが、その東100mほどの所に、一夜城がある。県道から道を南側に進んでいくと、やがて西側に土塁が見えてくる。

 一辺が60mほどの単郭の城である。南側半分ほどの土塁はよく残っているが、北側半分ほどは、だいぶ失われてしまっている。
 堀はもともとなかったのではないかと思われる。

 『信長公記』によると、天正10年2月の高遠城攻撃の前夜、織田信忠は「かいぬま原」に陣取ったとある。その陣の跡がこの場所であったといわれる。つまり急造された陣城というわけである。
 













一夜城の西側土塁。正面奥に虎口が見える。 南側の土塁を見たところ。東南の角は櫓台状になっている。




春日城(伊那市伊那春日公園)

*鳥瞰図の作成に際しては『城郭体系』の図を参考にした。

 春日城は、伊那市街を東方に見下ろす比高30mほどの台地先端部にあった。高遠城や飯田市の鈴岡城とよく似た構造で、1郭を囲むようにして2郭が配置されている。

 台地基部の方にはさらに3画があったと言われているが、3郭の土塁と堀切は、NHKのラジオ中継基地が建設される際に埋められてしまったといわれている。

 したがって、現在見られるのは1郭と2郭だけということになるが、これらの郭の周囲に掘られた堀の巨大さには圧倒される。何はなくともこの堀を見ているだけで満足できるほどのものである。

 また、先端の1郭から見る伊那市街の眺望もなかなかよい。のんびりと過ごしてみたくなる公園である。


 春日城は、伊那部大和守重慶が築城したといわれている。伊那部氏は後に春日氏を名乗るようになった。
 天正10年、織田氏の信濃侵攻の際に、春日城主であった春日昌吉は、高遠城の仁科盛信に従い、高遠城に籠城し、戦死した。その後、春日城も廃城となったものと思われる。









2郭と3郭との間の堀。 2郭内部と土塁。
2郭と1郭との間の堀。とにかくでかい。 1郭先端部から伊那市街を見下ろした所。
1郭北側の堀。 1郭にかかる橋。




殿島城(伊那市殿島 殿島城跡公園)

*鳥瞰図の作成に際しては、『図説中世城郭事典』を参考にした。

 殿島城は1郭を中心として、かなり多くの堀をめぐらせていた城郭であったが、周囲の宅地化のために、その大部分が失われてしまっている。右の図で、色をつけている部分が現存部分である。

 県道488号線と209号線とが交わる交差点の東南にある比高20mほどの台地が殿島城の跡である。城址の中心部は殿島城跡公園となり、地図などにも掲載されている。

 伊那地域の城は、大規模な堀をどでんと巡らせたものが多いが(高遠城、春日城、福与城など)、殿島城の周囲を巡る堀は、何重にもなっているとはいえ、それらと比べると比較的小規模なものである。堀は二重堀になっているが、内側の堀底の方が高くなっており、どちらかというと、二段堀という名称の方がふさわしいものである。
 また主郭も台地縁部ではなく、中央部に位置している。そういう意味でも、少し異色な城郭である。
 同じ伊那部一族の城であったとは実に意外な気がする。

 殿島城は、春日城主伊那部重慶の次子新左衛門重国が分家して築いたのに始まるという。以後重国は殿島氏を名乗り、この島城を居城とした。

 天文14年の武田信玄の侵攻の際に、殿島氏も一度は信玄に従ったが、心から服していたわけではなかったようで、後に兄の伊那部重親と友に武田信玄に対して謀反を起こして、狐島区の蓮台場で兄ともどもに処刑されたという。
 その後の殿島城は、武田氏に属していたと思われるが、詳しいことは分からない。
 天正10年の織田氏による高遠城攻撃の際に、殿島城も落城、以後は廃城となったものと思われる。















殿島城に復元された櫓門。 1郭東側の堀。二重堀というよりは二段堀といった構造である。
1郭南側の堀。やはり二段堀のようになっている。 1郭北側の堀。




小出城(花田城、城田城・伊那市小出三区)

 小出城は、西春近北小学校の西300mほどの所にある。東側に突き出した比高20mほどの台地の先端近くを利用した城郭である。

 南側の川を渡って、左側の道を通って台地に上がる所が切り通しの通路となっている。これが1郭北西側の堀切の名残であるらしい。

 その辺りから東南の台地に上がって行くと、小出城の城址碑と案内板とが設置されている。しかし、真夏ということもあってか、郭内部をちゃんと歩くことができないほどにヤブが生い茂っている。
 案内板によると1郭の内部には鉤型の土塁が存在しているとのことであったが、夏場ではきちんと確認することもおぼつかない。

 それでも北側の縁を通って東南部に行くと、そちらには土塁が盛られていた。そして、下を覗き込んで見てびっくり! こちらには非常に大規模な二重堀切が存在しているではないか。大きな堀と堀の間に高さ4mほどの畝状の土塁を配置して、分断を図るといった構造のものである。城の他の部分にはたいした遺構は見られないというのに、この二重堀切はとにかくすごいとしかいいようがない。一点豪華主義とでもいいたくなるような構造である。

 北東側の堀切をはさんで、北側にも数段の段差が見られる平場が展開している。そのさらに北側が自然の谷津となっていることからすると、3の部分あたりまでが実際の城域であった可能性があると考えられる。

 付近には「屋敷添え」「トノオカ」「中城」「西城」「南城」「城」などといった地名が残っているという。これらの地名からしても複数の郭を配備した城館であったことが分かる。

 また、この周囲には「小出あら城」「小出内城」などといった城館などもあり、 鎌倉時代から戦国期にかけて、城域の拡大が行われ城郭ネットワークが形成されていた状況が想像できる。




1郭内部にある城址標柱と案内板。1郭内部はヤブ化がかなり進んでしまっている。 1郭東南端の堀切。左側の土塁が中央部のもので、そのさらに左側にも堀切がある。右手の1郭は高さ7mほどの切岸となっている。
二重堀切の中央部にある土塁。かなり重厚なものである。 中央の土塁から1郭城塁方向を見たところ。
 小出城の歴史は古く、鎌倉時代に、工藤氏一族の小出氏によって築かれたのに始まるという。




小黒城(伊那市伊那字小黒)

 小黒城は春日城の南900mほどの所にある。城南端団地の東南の角部分に当たる。

 春日城から近接した位置にあることからすると、春日城と関連した城郭であった可能性が高いといえる。

 主郭は台地の東南の角に営まれており、ここには堀によって区画された方60mほどの郭が残っている。郭内部には土塁もしっかり積まれている。

 現状できちんと残っているのはこの主郭だけであるが、主郭はほとんど旧状のまま、よく残されている。
 
 今回は確認してはいないが、2の北側辺りにも堀の名残が見受けられるという。となると、本来は単郭ではなく、北側に複郭を侍らせた連郭式の城館であったということになる。















城の西側の、城南団地との間の堀跡。 1郭北側の堀切。非常に幅が広く、天然の谷戸を利用したものであると思われる。
1郭周囲には、高さ1,5〜3mほどの土塁が廻らされている。 1郭内部。正面奥に見えるのは、西側の土塁。中央に虎口状の切れがある。
 小黒城について、歴史等、詳細は未詳である。




城ヶ平(じょうがぴら)城(伊那市西春近字城ヶ平

 城ヶ平城は、西春近の白山神社から東南に延びる細長い台地上に築かれていた。台地の比高は30mほどである。それにしても「じょうがぴら」とは、なんとも変わった名前の城館である。

 とりあえず、神社からアクセスしようとしたのだが、この城や神社の周囲には鉄線が張り巡らされていて、簡単に入れないようになっている。神社にお参りに行くにも、いったん、この柵の針金をはずさないと、城に近づくことすらできないようになっている。この針金はイノシシか猿除けのものなのであろうか。ちょっと物騒なものである。

 この柵を越えて、とりあえず白山神社からアクセスしようと石段を登り始めると、すぐに左手の尾根に堀切があるのが見えてくる。そこで白山神社に着くのはやめて、途中から方向を変えて、いきなり1郭の堀切のところまで直登することにした。といっても、ここからなら比高20m程度しかないので、すぐに堀切の所に到達することができたのであった。

 1郭北側の堀切が城内最大のものであり、深さ6mほどある。この北側すぐの所にも深さ2mほどの堀切があって、二重構造のようになっている。

 郭内部に入り込んでみると、1郭の北側にはわりとしっかりとした土塁が盛られている。土塁はコの字型に1の周囲に廻らされている。

 尾根上は比較的平坦であったようだが、それでも郭内部を平坦にするために、1,2,3と段差によって3つの段に分かれている。といっても、それほど厳重な区画ではないので、基本的にはこの3つを合わせて、単郭の城郭といっていいかもしれない。

 3郭の先端部は地勢がかなり低くなっており、そこに堀切が掘られている。この堀切はそのまま両端に竪堀となって落ちて行き、南側は下の道まで続いている。

 3の下の4の部分はかなり広大なスペースがある。しかし、ここは地勢がまったく平坦ではなく、だいぶ傾斜した地形になっている。この部分は郭ではなく、城外というように見た方がよさそうである。

 このように見てくると、城ヶ平城は、尾根に堀切を入れて内部を削平した小規模な城館であったことがよく分かる。戦時の砦のようなものだったのであろうか。







1郭北側の堀切。1郭側の城塁の高さは6mほどもある。 その尾根続きにも小規模な堀切があり、二重構造となっている。
1郭内部。内部は段差によって3段に分かれている。 3の郭下の堀切は竪堀となって西側下に落ちていっている。
 城ヶ平城の歴史等については未詳である。城ヶ平(じょうがぴら)という地名がそのまま城名になっていることからしても、もともと特定の名称を持たない程度の城であったのかもしれない。

























大竹屋旅館