長野県小諸市

*参考・関連サイト  埋もれた古城  北緯36度付近の中世城郭   ちえぞー!城行こまい

小諸城(長野県小諸市小諸丁)

       古諸なる古城のほとり
       雲白く遊子悲しむ
       緑なす繁縷(はこべ)は萌えず
       若草も藉(し)くによしなし
       しろがねの衾(ふすま)の岡辺
       日に溶けて淡雪流る

       あたたかき光はあれど
       野に満つる香も知らず
       浅くのみ春は霞みて
       麦の色はつかに青し
       旅人の群はいくつか
       畠中の道を急ぎぬ

       暮れ行けば浅間も見えず
       歌哀し佐久の草笛
       千曲川いざよう波の
       岸近き宿にのぼりつ
       濁り酒濁れる飲みて
       草枕しばし慰む
               (島崎藤村)

 非常に著名な詩であるが、今となっては、島崎藤村の小説や詩を読む若者なんていないだろうなあ。国語の時間にもこんな古い詩を読むことなんて、今ではほとんどないだろう。それでもやはり、ここは「小諸なる古城」なのである。

 浅間山の広大な裾野が、千曲川に至って河岸段丘を形成している部分に城は築かれている。両脇はまさに天然の堀切である。粘土質の土壌なのであろうか。斜面は垂直切岸のそのままの急斜面で、どうがんばっても登攀不可能である。城を築くのには絶好のロケーションとなっている。

 先端部はかなり広くなっており、そこに石垣を築いて本丸を形成している。堀切を隔てて、北の丸、南の丸、二の丸があるが、これだけでは近世城郭としては手狭だったのであろう。そのさらに東側に広大な三の丸が築かれていた。この三の丸は現在は駅などとなっており、ほぼ隠滅状態にあるが、大手門が「大手門公園」内に残されている。

 ところで、この辺の地勢は、本丸のある西側に向かって傾斜しているので、三の丸が城内最高所という位置関係になる。つまり城内に進入するほどに地勢は降っていくわけで、そういうことから、この手の城を「穴城」と呼ぶのだという。といっても、小諸城以外にその例を知らないのだが・・・。






小諸城で有名なのは、この三の門であろう。懐古園の入り口ともなっている。このすぐ東側の三の丸跡は小諸駅となって変貌している。 二の丸石垣下には「山本勘助ゆかりの地」の大きな看板と顔出しがある。今年(07年)はどこに行っても風林火山ブームのようだ。
入園料300円を払って、二の丸石垣脇を通って、城内に入る。 二の丸下に出る部分の枡形門跡。
本丸との間の黒門橋手前から、二の丸方向を振り返ってみたところ。 黒門橋から、下の堀切を見たところ。一部に石垣が積まれている。
まずは、本丸&天守台の方へ。 本丸跡には、このような模擬櫓風の建物もあった。本丸にある懐古神社の社務所である。ちなみに本丸には旅館も建っている。
天守台石垣。角度が緩く、隙間もあるので、よじ登ることもできそうだ。(昔来た時には、実際によじ登ってしまったような記憶があるが・・・・。)三層の天守があったという。 天守台と本丸西側の石垣。
本丸の北側の谷。地獄谷と呼ばれている方面である。ほとんど天然の侵食谷であるが、ものすごい天然垂直切岸である。とてもよじ登ることはできないであろう。 先端の水の手展望台から、北谷にかかる水月端方向を見たところ。
水の手展望台から千曲川を遠望する。なるほど、これが「千曲川いざよう波」ね・・・・。 西谷。といっても、これは天然ものではなく、人工的に掘った横堀であろう。それにしてもここも削り方が半端じゃない。これぞまさに掛け値なしの垂直切岸である。
南谷。こちらもものすごい谷である。どうやってもよじ登ることはできないであろう。城塁法面工事の真っ最中であった。ちなみに白鶴橋を渡った先の籾蔵台は動物園となっている。 本丸の南西側虎口。
南郭下の石垣には「鶯石」というのがある。春先になると、音を発していたというが・・・・。 駅の東側の本丸公園には大手門が現存している。ところが、修復工事中で覆いがかぶさっており、写真撮影はできなかった。今年いっぱいはかかるらいい。
 小諸城の起源は古く、『平家物語』などに登場する小室太郎光兼が居館を築いたのに始まるという。小室光兼は、木曽義仲の武将の一人であり、「兼」の字は今井四郎兼平ら、木曽方の武将に共通する通し字である。

 その後、長享元年(1487)、大井氏が小室氏を追放し、乙女坂城(白鶴城)を現在の二の丸の辺りに築きなおしたという。

 戦国期には例によって、武田信玄の侵攻にさらされることとなる。『妙法寺記』天文23年、には武田軍の佐久侵攻の記事が見え、「小室自ら落ち申し候とて、内山の人数を押し受けに乗り候て、三百計討ち取る」とある小室城というのが、この城のことであったと思われる。

 この城を奪い取った信玄は、山本勘助と馬場信房に縄張りを命じた。この時の築城によって、現在の小諸城の原型が完成したものと考えられている。当時は「酔月城」とも呼ばれていたという。ただし山本勘助が築いたというのはあくまでも伝承上のことであり、確たる証拠があるわけではない。

 武田家が滅びると、城は滝川一益に属するようになるが、本能寺の変で滝川氏が撤収すると、代わって徳川家康の家臣・松平康国が城主となった。小田原の役後、徳川家が関八州に転封になると、豊臣方の武将千石秀久が入部する。城が近世城郭として完成を見るのは、この千石氏の時代によるものであろう。

 関ヶ原合戦後、城主は徳川氏、松平氏、牧野氏らと続いて、明治維新を迎えることになる。 




富士見城(小諸市諸字飯縄山)

*鳥瞰図の作成に際しては現地パンフレットを参考にした。

 小諸高原美術館の北西側にある比高110nの飯縄山の上にあった。城址のちょうど真下を上信越自動車道のトンネルが通っている。天気がよいと富士山が見えるということであり、城名はそのことにちなんだものである。城址のすぐ北側には浅間山が見えており、景色がたいへんよい場所である。

 富士見城址は現在、歴史の広場となって整備されている。台地の中央部の1が主郭で、北西側に堀切跡を隔てて2郭、3郭、さらにたくさんの帯曲輪が続いている。2郭との間の堀切4は、半分埋められてしまったようで、幅はあるが深さは浅い。そこにV字型の道が付けられているので、三角形の堀であったのかと錯覚しそうである。展望施設のある2郭の先端部には土塁の代わりに石を積んだ城壁が見られる。ただし、だいぶ崩れているのか、かなり貧弱に見えてしまうものである。

 1郭の東南側には櫓台かと思われる高台があり、その先が堀切3となっている。深さ5m、幅10mほどもある大きな堀切である。

 その先にも4,5といった郭があり、堀切によって隔てられていたらしいのだが、堀切は埋められてしまっている。地形からするとその先の小諸高原美術館のある場所も城域内のように思われるが、こちらは地形が改変されていて、よく分からなくなってしまっている

 この城の最大の特徴は、段々に続いている帯曲輪の多さということになろう。図ではざっと見た範囲しか描いていないが、実際には山麓部分までかなりたくさんの数の帯曲輪が連続配置されている。しかも、それらの周囲には石垣が積まれている。これをすべて城郭遺構と見てよいのであろうか。

 実際問題として、これらのすべてを石垣と見ることはできないであろう。この地域では畑の裾に石垣を積んでいるケースが多く、石垣の大部分は後世の畑地造成に伴うものではないかと見られる。しかし、城址主要部近辺の石垣は一応、遺構であると見てよいのではないかと思う。とはいえ、それぞれの石垣がせいぜい高さ2m程度しかないということがどうも引っかかってしまう。防御遺構としての石垣ならば、もう少し高いものにするべきではないだろうか。この程度の高さでは、あっという間によじ登れてしまうのである。たくさん帯曲輪を重ねることにそれほどの意味があったのであろうか。石垣そのものも、けっこう新しく積んだもののように見えてしまう。

 図のAの部分もよくわからない構造である。斜面上に石垣があちこちに積まれているのだが、きちんと高石垣を築こうとしたものではなく、段々の帯曲輪に石垣を築いたものでもない。ただ斜面の部分部分に石垣を乱雑に積んだといった具合で、どういうつもりでどんな石垣を築こうとしたのかなんとも理解しがたい構造となっている。

 この城の石垣や帯曲輪のうち、どこまでが城郭遺構なのか、現状からではどうにも把握できない。したがって、どの部分までを遺構としてみるべきなのかも明確ではない。しかし、城としての基本的な構造はこの図の通りであった、と一応は考えておくしかない。

上信越自動車道の西側から見た富士見城。下からの比高は110mほどある。 小諸高原美術館のすぐ背後が歴史の広場となっている。これが富士見城址である。
旗塚の辺りから見た浅間山。手前の棚田の風景と合わせて、じつに風光明媚な情景である。 堀切3に架かる橋。堀切は深さ5m、幅10mほどもある大きなものである。
1郭東側の櫓台。 堀切3の辺りにある石垣。
2郭西側の石垣はこのように土塁状になっている。 3郭から見た2郭の石垣。
3郭の周囲には何段もの帯曲輪が配置されており、それらは皆石垣で加工されている。 Aの部分の石垣。帯曲輪でもなんでもなく、ただ随所に石垣を積んだだけの構造である。こりゃいったい何のお遊びか?
3郭から数段西側の帯曲輪から3郭方向を眺めたところ。このような帯曲輪を何段にもするよりも、もっと高い石垣を一段置いた方が、防御力に勝ると思うのだが・・・・。 3郭北側の石垣。
 富士見城の歴史はほとんど分からない。一説によると、武田氏が佐久地域を支配化に収めた時に、小諸城(鍋蓋城の支城として築いたものではないかという。
 天正10年(1582)、武田氏が滅亡した後、この地域は真田氏と徳川氏の争う地点となった。徳川氏はこの地域を制圧するために上田城まで攻め込んでいくのだが、そうした際に徳川方の柴田康忠がこの城に在陣していたという。その在陣期間がどの程度のものであったのかはっきりしないが、城郭に多くの石垣が築かれて整備されたのは、こうした対峙関係があった天正年間のことではなかったかと推測される。




枡形城(小諸市大久保)

 07年5月25,26日のヤブレンジャー&巡城組合同ツアーで、ちえぞー殿が宿泊所として予約してくれたのが、「年金保健センターこもろ」であったのだが、なんと、この入り口には「枡形城址」という城址碑が。たまたま予約した場所も城址であったのである。なんという偶然であろうか。

 枡形城は平地に突き出した比高20mほどの台地の先端部を利用したものである。現在は年金保健センターが建設されているために、遺構は壊滅状態にある。一回り回ってみたが、堀切はおろか、腰曲輪さえも見つからなかった。人工構造物の少ない単純な城であったのだろう。

 『中部地方の中世城館』(東洋書林)の図によると、堀を入れて方形の区画を造りだしただけの単純な構造のものであったらしい。地形から見て、テニスコート北側の台地のくびれ部分に堀切が存在していたのではないかと思われる。

 城の名前になっている「枡形」とは、いわゆる虎口技巧としての枡形構造が存在していたからではなく、単純に方形の枡のような形態をしていたために付けられた名前だったのではないかと思われる。

 城址碑の解説によると、ここにはかつて寺院が存在していたということであり、寺院の周囲を堀で囲み、防御構造を成す、といった形態のものであったようだ。いわゆる武装寺院ってやつである。






富士見城から見た枡形城(年金保養センターこもろ)。北側に突き出した比高20mほどの台地上にあり、確かにちょっとした城館を置くのには適当な場所であるかもしれない。 その年金保養センターこもろから遠望した富士見城(中段)。一番奥は浅間山である。
センターの入り口にある枡形城址碑。 西側の角から下に降りていく道。唯一、旧状を残しているかもしれない部分である。
 この地にはかつて神與寺という寺院があったらしい。それが戦国期に近辺の楽巖寺氏、布引氏らと呼応して、神與寺を城塞化した。これが枡形城であったという。

 天文17年(1548)、武田氏が侵攻してきた。『釈尊寺寺記』によれば、8月8日、この際の戦いで、釈尊寺は炎上したというが、枡形城にあった神與寺もこの時に落城したのではないかと考えられている。































大竹屋旅館