長野県長野市

*参考サイト  埋もれた古城  北緯36度付近の中世城郭  城と古戦場  信玄を捜す旅

大峰城(長野市長野市箱清水大峰)

*鳥瞰図の作成に際してはウモ殿の図を参考にした。

 大峰城は善光寺の北西にそびえている大峰山に築かれていた。大峰山は標高828m、比高でも370mほどもある。よくぞこのような高い山に城を築いたものであると、見上げただけであきれてしまう。

 善光寺の北西から戸隠方面に抜ける道にしたがって山を登っていくと、七曲の難所に到達する。急峻で、車の息も上がってしまいそうな道である。そこを過ぎるとやがて「大峰城」の案内が右手に出ている。それに従って進んでいけば、そのうち2郭の駐車場に到達する。

 駐車場に着くとすぐに、石垣や模擬天守が目に入ってくる。しかし、この石垣はすべて模擬天守の建造に際して築かれたものであろう。天守などももちろんあろうはずもなく、これは昭和38年に観光用に造られたもので、内部は「チョウと自然の博物館」となっている。というわけでチョウの展示はあるが、城の歴史に関する展示は無い。

 初めてここに訪れたのは1985年暮れの寒い頃のことであった。その時は古い観光ガイドブックに「長野駅からバスが出ている」とあったのを信用してバスで行くことにした。長野で電車を降りてからバス乗り場をさがしたのだが、どのバスに乗ればいいのかさっぱり分からない。そこでバス乗り場の人に聞いてみると、「バスはとっくに廃線になっており、登るのならタクシーか、歩いていくしかない」といわれてしまった。

 当時は金銭に余裕が無かったので、仕方が無いから歩こうかとも思って、山を見上げてみた。目立つ山なので山麓からでもなにやら建っているのが見えるのである。しかし、あまりにも高い。歩いていたら半日がかりになってしまいそうだ。

 そこで仕方なくタクシーを使って行ったのだが、往復何千円もかかったような気がする。今思うと、このような模擬天守を見るのに何千円もかける価値があったのだろうかと思ってしまうのであった。

 その時は、模擬天守くらいしか印象に残っていなかったのだが、最近、ウモ殿のページを見ていて、実はしっかりとした遺構があるのを知って、改めて訪れてみることにしたというわけである。

 城は直線連郭式のもので、数本の堀切によって区画されている。この堀切、こんな高い山の上に築かれた城のものにしては、意外なほど大きいので驚いてしまう。

 模擬天守のある1が主郭であると思われるが、周囲下の石垣を含め、けっこう改変されてしまっているようである。下の駐車場を2郭としたが、どこまで旧状通りであるのかよく分からない。だが、1郭の北側の土塁やその先の堀切はほぼ旧状通りなのではないかと思う。

 1郭北側の堀切はとにかくでかい。深さ8m、幅15mほどもある巨大なものであり、主郭方面からはとても降りることはできない。しかし、城に来る車道と接しているので、こちら側からなら堀底にアクセスするのも容易である。しかし、今回は夏場であったので、ヤブがひどくて内部に入るのは困難であった。堀切の両端は竪堀となって深く谷底に落ちていく。

 3郭は一応削平はされているが、やはりかなりヤブであった。ここと4郭との間にもやはり堀切がある。しかし、規模は1郭北側のものに比べると、かなり小規模で、一番中央部では2mほどの深さでしかなかった。しかし、竪堀はやはり深く谷底に落ちている。

 その北側が4郭である。この郭は両端に土塁が盛られているが、肝心の郭内はたいして削平されていない。居住性は考慮していないようで、とりあえず堀切を入れて分断を図っているだけの施設のようにも見える。

 4郭の北側にやはり堀切があるが、これは3郭北側のものとほぼ同規模のものである。この北側が5郭となっているが、これもやはり、削平はきちんとされていない。そのさらに北側に6郭があって、城域は終わる。城の構造そのものはこのように単純なもので、虎口の工夫なども特に見られないが、堀切は実に見ごたえがある。模擬天守だけではなく、十分に遺構も残している城であった。・・・・なんともはや、このような高い山上でよくぞここまでの工事を行ったものである・・・・・。まったくご苦労さまです、というほかない。

 それにしてもこの城からの眺望はすばらしい! 長野盆地が手のひらのうちに一望できる。もしも夜だったらかなりきれいな夜景を見ることができるのではないかと思われる。しかし、残念ながら夜はここまでの道路が閉鎖されてしまうので、歩いてくるしかなさそうだ。それもちょっと怖い気がする・・・・。

 大峰城の城主として大峰蔵人という人物の名が伝えられているが、この人物についての詳細は不明で、城がいつ築城されたものなのかも不明である。しかし、この位置と遺構の規模から考えて、川中島合戦に際して、上杉方が築いた城であるという解釈で間違いないものと思われる。川中島では10年近くにもわたって数度の合戦(対峙)が行われているために、上杉・武田双方によって相当数の城郭が築かれている。大峰城もそうしたうちの上杉防衛ラインの一角を担っていたものと思われる。
                                      在りし日の大峰城模擬天守の内部→


                            

2郭の駐車場から1郭に上がる部分に城門も復元されている。しかし、やはり下見板張りの部分が白いままである・・・。この先の石段などもすっかり改変されていて、本来の道がどうであったのかさっぱり分からない。 2郭から見おろす長野盆地まさしく絶景というべきで、とにかく見ていて飽きないほどの素晴らしい眺望である。夜だったら100万ドルの夜景を見ることができるかもしれない。(ただしかなり手前から歩いてくるしかないようだが・・・・)
模擬天守の入口。今回は登城しなかったが、以前の記憶ではチョウの標本がたくさん展示してあった記憶がある。 西側から見た模擬天守。こうしてみるとなかなか風情のある天守なのだが、下見板張りが白いってことにどうしても違和感を感じてしまう。
1郭背後の土塁。位置と規模から考えて、一応遺構であるとみてよさそうだ。 1郭北側の堀切。ヤブのためになんだか分からないが、とにかく圧倒的に規模の大きな堀切で上り下りはほとんど不可能である。
2郭北側の堀切。下の道路から堀底を歩いていける。やはり両端が竪堀となって落ちていく。 3郭北側の堀切。規模は2郭北側のものと同程度である。
(以前の記述)大峰城は長野市を見下ろす小高い山の山頂に建っている。川中島の合戦に際し、上杉方の城の一つであったようだが、天守の存在は確認されてはいない。

 ここまでの交通は不便で、車でないとちょっと厳しい。中はなぜか、蝶の博物館となっているのだが、この周辺にはスズメバチの巣があるらしいので注意しよう。数年前に、遠足の小学生たちがここでスズメバチの被害にあったというニュースをやっていた。

 それにしてもこの天守の一番の疑問は、下見板張を黒く塗っていないということだ。鉄筋コンクリート造りなのはわかるが、せっかく壁に下見板張のデザインを施しているのだから、最後の仕上げもちゃんとやってほしいものだ。予算が足りなくなったのか、それとも手抜き工事か。長野市にはオリンピック予算の残りで何とかしてほしいものだ。




旭山城(長野市)

*鳥瞰図の作成に際しては、宮坂武男氏の図を参考にした。

 旭山城は、長野市街の西方にそびえる標高783mの旭山に築かれている。長野市街からの比高は360mほどあり、市街のどこからも高くそびえている山容が目に入ってくる。

 旭山の北側1.8kmほどの所には葛山がある。川中島合戦の過程において、両者は対峙しあった山城であった。ちなみに葛山城の北東には大峰城、枡形城と、山城が連なっている。

 旭山城を目指すには、城の南側の中腹にある旭山観音堂を目指すと良い。観音堂からさらに300mほど進んだ所を右側に入り込むと、突き当たった所に旭山城遊歩道の案内がある。ここから比高110mほどを歩けば10分足らずで城内に到達できる。登山道はそれほど急峻ではないので、ハイキングコースとしてはもってこいである。城内からの眺めはすこぶるよい。

 旭山城はそれほど大規模な城ではない。中心となる1郭は方形で一辺が30mほどの規模でしかない。その両端は堀切によって分断されており、南側には数段の腰曲輪がある。

 尾根は東南方向に延びており、そこに2郭がある。

 その先には二本の堀切があり、それを進んだところが3郭である。3郭には物見岩などの岩がある。山城にでかい岩があると、必ずといっていいほど「物見岩」と呼ばれている。この岩にも「謙信物見岩」という別名があるようだが、実際に謙信がここに登って物見をしたものかどうか。旭山城は比高の高い山上にあるので、別段、岩になど登らずとも、遥か先まで長野平野を見渡すことができるのである。

 また3郭の南側中央付近は削られたような窪みになっている。参考にした図によると、ここは天水溜であったという。しかし、本当にそうなのかどうか、よく分からなかった。

 さて、1郭に戻ってみるが、1郭の周囲には低い土塁が盛られている。そして土塁には石積みが施されてあったような跡が見える。それにしてもこの土塁は低い。幅がある割には現状ではあまりにも土塁が低いのである。これは何ゆえであろうか。

 実は、この城では破城が行われたことが史料からうかがい知ることができる。つまり旭山城は破城された典型的な城なのである。この低い土塁は、本来あったものが崩された結果によるものと見るべきなのではなかろうか。

 そして、周囲の石積みも、本来あったはずの、もっときちんとした石垣が崩された名残なのではないだろうか。実際、この城のあちこちには不自然なほど、石垣を積むのに程よい大きさの石材がごろごろと転がっている。初めからこのような形態で石が転がっていたと見るよりも、本来あったはずの石垣が崩されて現状のようになってしまったと見るほうが正しいのではないだろうか。
 殊に4の腰曲輪や、1郭西側下の竪堀内部などには石がやたらと多く点在している。1郭城塁にあった石垣を崩して、石材を堀底に放り投げたためにこのようになったのではないだろうか。そうでもないと、これほど石が多数転がっているといったことは起こらないであろう。
 
 このように旭山城はそれほど大規模な城ではない。それに市街地からの比高が高すぎて、攻めるのも困難な代わりに、いざと言うときに、川中島まで降りていくことも容易ではない。こんな所に城を築くことに果たして意味があったのだろうかと、一瞬思ってしまう。

 しかし、城などというのは象徴的なものなのである。川中島を見下ろす旭山に城を築いて押さえてしまう、という行為そのものに心理的な意味合いがあったのである。ここから頭を抑えられていると、平地にいるのも気が気ではなくなってしまう。高い山を押さえた方がその地域を制圧したような気分になれるのである。そのためにこのような山上に城を築いたのだろう。まったくもって因果な話である。

北側の裾花川の断崖越しに見た旭山。標高783m、川からの比高は400mほどもある。川沿いは目もくらむような断崖である。 旭山観音堂からさらに先に進んだところに遊歩道入口がある。ここから山頂までの比高は110mほど。10分余りで主郭まで到達できる。
登り始めるとまず到着する9の平場。「馬場」であるともいう。 登山道を登っていくと、このように石垣で加工した部分もあった。遺構のように見えるが、登山道整備で築かれたものなのかもしれない。
1郭東側下の堀切。ここから斜面を登るように遊歩道が付けられているが、これは後世の改変であろう。 1郭内部。周囲には低い土塁と石垣の残欠のようなものが広がっている。もともとあった土塁と石垣を破城によって破壊したもののように見える。
1郭西側の城塁。石がごろごろしているのは石垣の名残であろうか。 ところどころ、石垣がかろうじて残されている。
西側の城塁にある石段。これは遺構なのだろうか、それとも後世の改編・・・・? 1郭西側にある大きな竪堀。堀内部にはこのように石垣を積むのに手頃な石がごろごろと転がっている。これも破城の跡なのであろうか。
倉屋敷下の腰曲輪にはこのように石垣がわりとよく残っている部分もある。 4の腰曲輪から見た1郭城塁。不自然な石の多さはやはり石垣を崩した跡であろう。
部分的にはこのように石積みが残っているところもある。 2の郭東側の堀切。深さ5mほどである。
3郭入口には天然岩を用いた虎口跡のようなものがある。 物見岩。高さ4mほどもある天然岩である。
3郭の先端から見た長野市街。標高が高いだけあって、とにかく眺望が利いている。 だいぶ下にある8の郭の脇にはわりと良好に石垣が残っている。
 「善光寺の堂主栗田殿は旭城に御座候」(『妙法寺記』)、「善光寺領朝日山、先代より如来の御山に御座候」(『善光寺文書』)とあるように、本来旭山は善光寺の所有であり、善光寺の詰めの城でもあった。

 天文24年(1555)、第2次川中島合戦で、長尾景虎は、善光寺平に進出。そしてさらに進んで、葛山城に布陣した。それに対抗して武田晴信は、対岸の旭山城に兵を入れた。

 「人数三千、さげ鉢を射る程の弓を八百張、鉄砲を三百挺から御入れ候」(『妙法寺記』)とあり、その当時、武田軍が300挺もの鉄砲を配備するほどの入れ込みようだったことがわかる。もっとも当時の鉄砲では、旭山から葛山まで玉を飛ばすことは不可能だったであろうが。

 しかし、この時の合戦は決定的な戦いが行われないまま、半年以上に渡って対峙が続いていくこととなる。結局、今川義元の仲介によって和議が成立し、甲越ともに兵を引き上げることとなる。その和議の際に、旭山城の破却が条件とされ、旭山城は破城された。

 弘治3年(1557)、再び北進してきた武田勢は、北上して葛山城を攻め落とした。その情報を得た長尾景虎は、葛山城を越えて旭山に向かい、旭山城を再興してそこに陣取った。「芳賀文書」には「旭要害を再興し陣を居え候」とある。旭山を拠点とした越後勢は、香坂領内を放火して周り、麓をさんざん荒らしまわった。そこで武田勢も再び、葛山城から退却せざるを得なくなってしまう。

 永禄4年の第4次川中島合戦の後、川中島一帯は、武田勢に制圧されることとなる。それに伴って旭山城も再び武田勢の城となったと思われるが、この地域から越後勢が撤退してしまうと、両者対峙の際に比べて、旭山城の戦略的な要素も減退していったものと思われる。 





葛山城(長野市)

*鳥瞰図の作成に際しては、宮坂武男氏の図を参考にした。

 葛山城は、裾花川を挟ん旭山城と向かい合う北側にある。標高は813mと、旭山よりも30mほど高い。比高もその分だけ高いわけである。

 葛山城の登り口は何箇所かあるが、中腹の静松寺から登る道と、北側の葛山神社から登る道などが代表的なものであろう。今回は、北側の葛山神社から登ってみた。

 神社下に車を置いて歩き始めると、すぐに「葛山城跡→」の案内が見えてくる。後は山道を歩いていくだけだが、ここからの比高は180mほどある。けっこう急峻なのでなかなかきつい山道である。

 やがて、この図の右端辺りの平場に出る。縁部が切岸加工されておらず、城域内であるのかどうかよく分からない。
 この平場の付け根の部分に堀切1がある。ここからが本格的な城域ということになろう。堀切1の深さは4mほど。堀の外側にも土塁を盛って深さを稼いでいる。

 ここから5の郭に至るまで、尾根上を削平して築かれた腰曲輪が何段も連なっている。それぞれの郭の面積はそれほど大きくはないが、なにしろ数が多いので、かなりの兵を駐屯させることもできそうである。

 途中には堀切2、堀切3などがある。堀切2は、尾根上の大きな区画になっている場所であり、西側には食い違いに竪堀が掘られている。この竪堀は右手に竪土塁を伴い、北側に折れながら山麓に向って落ちていく。

 5の郭まで来ると、すぐ正面に1郭城塁が立ちはだかって見えてくる。1郭は城内の最高所であり、南北を深い堀切で断ち切った郭である。

 1郭の広さは20m×40mほど。草も刈られ、木も切り払われているので、築城当時なさがらの眺望のよさである。ここからすぐ南側には旭山城が見えている。まさに指呼の内といった近さであり、往時も旭山城の城内や内部の人の動きなどが手に取るように見えたことであろう。鬨の声を挙げれば、あちら側までゆうに届きそうである。

 1郭の西側には深さ10mはある大堀切がある。この堀切は二重構造となっており、そこから落ちる竪堀は、5の郭から落ちる竪堀と途中で合流している。

 二重堀切の西側には中央を土橋状に削り残した小規模な堀切があり、その先に2の郭がある。2の郭の角が少し方形に欠けているのは、小規模な桝形であったものだろうか。さらに先には、3,4と平場が続いており、この方向にもかなりの数の平場を造成している。

 1郭の東側にはやはり深い二重堀切がある。そしてその東側に、この城で最も特徴的な遺構が展開している。

 いわゆる畝状岨塁というやつである。1郭の東側下は、削平すれば、2の郭となってもよさそうなスペースがある。ところがそこを郭にしないで、連続堀切のように堀を並べることによって、山上のスペースをつぶしてそのまま防塁と成しているのである。畝状岨塁と書いたが、形態的には連続堀切、といった方がより正確かもしれない。実に7本もの堀切が連続しているという形態である。かまぼこ状の地形に、弓なりに堀を掘り込んだものがいくつも連なっているという構図になっている。

 何のためにこれほど堀切を連続させたものであろうか。一般的に考えれば、東側からの敵の接近を用心した結果ということになろうが、東側も急峻な斜面であり、しかも山麓までは比高300mほどもある。この方向にこれだけ防御の意図を払わなければならない理由がいまいち分からない。あるいはこのような構造物を造る事によって、その勢力の城であることを知らしめるといった象徴的な意味合いがあったのかもしれない。確かに上杉氏の城郭には畝状岨塁が時々見受けられるというが、これがそれと類似したものなのであるのかどうか、私にはよく分からない。

 この連続堀切の先には尾根が延々と続き、往生寺方面へと尾根道が続いているが、その途中にも堀切がかなりの数あるらしい。また、その途中には「頼朝山砦」といった出城などもあるらしいのだが、今回はそちらまで行っていない。

 1郭の東側下からは、もう一本、南側の静松寺に向う山道もある。急峻な斜面に付けられた山道である。ただでさえ急峻であるのに、それにさらに切岸加工が施されているとみえ、この方向には途中に何段もの腰曲輪が造成されている。これらの腰曲輪は、人が籠もるためのものではなく、切岸造成によって生じたものであり、そこに来た敵を狙い撃つための迎撃空間でもある。

 さらに山道沿いに、連続竪堀が何本も掘られている。斜面が急なのだから、竪堀など掘らなくとも横移動は難しいのではないかと思われるが、それでも竪堀を入れることによって、敵の登ってくるルートを限定している。後はそれを塁上から狙い撃つだけである。

 このように葛山城はかなり規模の大きな山城である。尾根のかなりの先まで曲輪造成が行われており、かなりの時間をかけて丁寧に築城された城であるという印象を受ける。曲輪の数もかなりの数に登っており、そうとうの大人数も収容できるスペースがある。まさに拠点的な城郭というにふさわしい城である。

北西の葛山神社。この脇から葛山城への登山道が付いている。ここからの比高は180mほど。けっこうきつい。 最初に見えてくる堀切1。深さ4mほどである。
堀切1からは腰曲輪が段々に形成されている。 ところどころに堀切も掘られている。これは堀切2。深さ5mほどである。
5の腰曲輪から見た1郭城塁。やっと山頂だ! 1郭から南側の旭山城を見たところ。こちらの方が比高が30mほど高く、往時は城内の様子もよく見えたことであろう。大声を出せば、向こうの城まで聞こえるのではないだろうか。
1郭西側の二重堀切。深さ10mほどもある深い堀切である。 左の堀底から1郭を見たところ。こうしてみると堀切の深さがよく分かる。
往生寺へ向かう尾根。途中に堀切が何本もあるらしいが、それほど大規模なものではない。 1郭東側下に展開している畝状阻塁。というよりも連続堀切といった方が合っているかもしれない。普通なら2郭を形成すべき場所であるが、郭スペースをつぶしてまでこのような連続堀切を掘らなければならない必然性があったのであろうか。
これも畝状阻塁の一部。 南側斜面にある竪堀と腰曲輪群・・・なのだが、写真だとさっぱり分からない。
南側の腰曲輪群から1郭に戻る途中。1郭の堀切がはっきりと分かる。 1郭から見た大峰城。こちらも高い山上にある。
 旭山城の項目で述べている通り、南方の旭山城に対して、越後勢が陣所として用いた城である。

 葛山城は、もともとは葛山七郷を支配した落合氏の城であった。もっともその頃は、それほど大きな城ではなかったであろう。天文24年の第2次川中j間合戦で、善光寺脇の横山城に茶区陣した長尾景虎は、その後、旭山城に対抗すべく、葛山城を築きなおしてそこに陣取った。『歴代古案』には「旭之要害に向ひ新地を取り立て、擒(とりこ)を致すの上、晴信に対し興亡の一戦を遂ぐべくの外、拠なく候」とある。

 両勢力の対峙は半年以上に渡って続き、今川義元の斡旋によって、和議が結ばれ、両者はいったんは兵を退くこととなる。

 しかし、弘治3年2月15日、雪で越後勢が出てこられないのを見はかり、目の上のたんこぶとも言うべき葛山城を攻略すべく、武田勢が葛山城を急襲してきた。武田勢は雪の中攻め込んで、ついに葛山衆ともいうべき落合氏、小田切氏らは大蔵城まで退却した。その後は、武田勢の前線基地として機能していくことになる。




大倉城(大蔵城・長野市豊野町大倉字城山)

*鳥瞰図の作成に際しては、宮坂武男氏の図を参考にした。

 大倉城は、旧豊野町の大倉地区にある。豊野東小学校の北西1.5kmほどの所にある比高90mほどの東側に向って突き出した尾根の先端近くが城山である。山麓には旧北国東街道(国道18号)が走り、その南側には鳥居川が流れている。

 国道18号線の「大倉」の交差点から北上すると、すぐの所に「城址入口」の案内表示がある。ここに車を停めて、土手下の道を山裾に沿って西側に歩いていくと、やがて城の案内板と登山道が見えてくる。

 これを20mほど登って見ると、山の中腹を今井用水が流れているのに驚く。山麓に用水が流れているのはよく見る光景だが、山の中腹にあるのは珍しい。

 ここからさらに遊歩道を登っていくと、Eの堀切の所に出る。深さ7mほどの大きな堀切である。この城はとにかく大胆に大きな堀切が連続しているのが目を引く。

 見ると、堀切から北側に延びている竪堀には石積みが見られる。所どころに石垣を伴っているのもこの城の特徴である。

 この堀切の東側には5の小郭があり、その先にはもう一本の堀切がある。さらにその先は土取りが行われてだいぶ削られてしまっているが、もともと遺構はこの部分まであったのであろう。

 Eの堀切を上がっていった所が4の郭である。おりしも、カタクリの紫色の小さな花が咲き乱れており、なかなか可憐な様子であった。(しかしデジカメではきれいに撮影できなかった。)

 4郭の先には3、2といった小郭が段々に接続している。これらの小郭上には石がごろごろと転がっているのだが、これもかつて石積みに使用されていたものなのであろうか。この城には、塁の部分の各所に石積みが見られるのである。

 その先にはDの堀切があり、それを越えたところが1郭となる。1郭は50m×20mほどの規模で、ここには「落城400年」を示す、まだ真新しい慰霊碑が建てられていた。

 大倉城が落城したのが天正10年(1582)であるから、落城400年は1982年のことである。すでに慰霊碑が建てられてから26年が経過しているが、慰霊碑はまだまだ真新しく見えた。落城で死亡した民衆の魂が今なお息づいているかのようである。

 1郭の北西側下に井戸曲輪がある。この郭の中央部には円形の石積みがあり、それが井戸と想定されるので井戸曲輪と呼ばれているのである。しかし、石積みの内部はすっかり埋まってしまっており、本当に井戸であるのかどうか、確認することはできなかった。 

 井戸曲輪の西側には堀切が連続しているが、これがなんとも圧倒的に巨大な堀切なのであった。両端に深さ10mはあろうかという大規模な堀切を入れ、その間の部分に小規模な堀切を4本も入れているといった構造で、いわば五重の堀切である。殊に一番西側の堀切の規模はやたらと大きく、深さ10数m、上端幅は40mほどもある。堀底から見上げると、壁面はもはや山にしか見えない。このような連続堀切は、昇り降りするだけでもかなり大変である。 

 五重堀切の先は自然地形のような尾根が続いており、その先にAの堀切がある。これが城域を区画する最後の堀切である。Aの堀切の周囲は特に北側の斜面が比較的緩やかだったようで、北側に向って長大な竪堀が掘られている。傾斜がやや緩やかなために、この竪堀は一見、横堀のようにも見えなくもない。

 このように大倉城は、それほど技巧的な城でもないが、堀切を大規模に入れて郭の間を分断した、実に豪快な山城である。堀切の規模の大きさは、見ていて唖然とするほどである。先に述べたように昇り降りするだけでも大変だが、こうした堀切を昇り降りするのはけっこう楽しい。疲れはするが、とても楽しめる城であるともいえる。

 しかし、ここではかつて女子供1000人もが虐殺されるという悲惨な出来事があった。城内には1000人もの人数が籠城できるほどのスペースはないから、攻城とともに、城下の民衆たちの多くが森氏の軍勢によって虐殺されてしまったのであろう。抵抗する一揆勢に対する一種の見せしめであった。今はのどかで楽しめる城址であるが、この周辺でそのような悲惨な出来事が行われたと思うと、なんとも切ない気持ちになってしまう。

大倉城登城口には山裾を歩いて行く。途中には山桜がきれいに咲いていた。 山の中腹を流れる今井用水。山中にこのような用水路が流れているというのも珍しい。
Eの堀切から4郭の城塁を見たところ。深さ7mほどもある。堀切斜面に遊歩道がつけられている。 Eの堀切脇の竪堀には石垣を積んだ跡がある。この竪堀は石垣によって形成されていたようだ。
4郭内部。尾根を削平した郭であるから、それほど広いスペースはない。 2,3の郭には石がごろごろしている。かつての石垣の名残であろうか。
堀切越しに1郭を見たところ。 1郭塁上から2郭を見たところ。
1郭内部にある墓碑。落城400年の慰霊碑が建っていた。 1郭脇に残る石垣の名残。
1郭からは長野方面がよく見える。 1郭下にある井戸曲輪。丸い石組みが残っているが、本当に井戸の跡なのであろうか。
井戸曲輪からCの堀切に降りて行くところ。実に急峻である。 Bの堀切の底。あまりにも巨大な堀切なので全貌を撮影することはできない。
Bの堀切を城外側から見たところ。高さ10m以上である。城塁に立っている人物と比べると、その高さが分かるであろう。 Aの堀切から延びる竪堀。この辺りの斜面は比較的緩やかなので、やや横堀のような形状となっている。
4郭には一面、カタクリの紫色の花が咲いていた。しかし、私のカメラではうまく色が反映されていない。 南側の山麓から見た大倉城。よく見ると堀切がはっきりと分かる。
 大倉城が記録に現われるのは弘治3年(1557)の第3次川中島合戦のことであり、葛山上が武田勢によって落城させられた際、「島津方も大蔵之地へ先づもつて相移られ候」(「色部文書」)とある。これによると、当時、大蔵城(大倉城)は島津氏によって支配されていたようである。葛山城から脱出した島津貞忠はこの城に引き上げてきた。島津氏は長尾為景の時代から長尾氏に従っていた武将であった。

 永禄年間、武田氏の攻勢が激しくなると、島津氏は本城の長沼城も支えきれなくなり、上杉謙信を頼って越後に身を寄せるようになる。

 その後、一時期、城は放棄されていたものと思われるが、天正10年にいたって、再び歴史上にその名を示すことになる。

 天正10年(1582)、織田信長の侵攻によって、武田氏は滅び、川中島4郡は織田家臣の森長可によって支配されるようになる。しかし若宮城の芋川氏はこれに激しく抵抗する。芋川親正は善光寺一揆の大将として抵抗し、織田方の飯山城を攻撃して落城させ、さらに長沼城を攻撃した。さらに大倉城(『信長公記』には「大蔵の古城」とある)を再興し、ここに籠城して、森勢に抵抗した。しかし衆寡敵せず、やがて大倉城に追い詰められ、城から脱出する。この間のことは『信長公記』の巻15「信州川中島表、森勝蔵働きのこと」の項目に描かれており、「御敵、山中に引き籠り、大蔵の古城拵え、いも川と云ふもの一揆致し、大将楯籠もる」とある。4月8日には、森長可は8000の人数で攻撃をかけ、「大蔵の古城にて女童千余、切り捨つる」とある。森長可は、女子供まで容赦なく切り捨てたのである。戦国の世とはいえ、いかにも残酷な仕打ちである。女子供を捨てて脱出した芋川氏は、どのような心持ちであったろうか。

 その後の芋川氏は上杉景勝を頼り、上杉氏の家臣となった。




横山城(長野市城山公園)

 横山城は善光寺のすぐ東側にある。現在ここには、その名も城山公園があり、周辺には「城山」の名称を冠した施設がいくつもある。北側の城山動物園との間の橋は「堀切橋」と呼ばれていて、ここにはかつて堀切が存在していたらしい。

 川中島合戦の初期に、長尾景虎が進出してきた善光寺平というのがここのことであろう。つまり川中島合戦に際して長尾景虎が陣所として取り立てた場所である。

 しかし、これだけ「城山」の名称があちこちに残っているというのに、市街地化が進んでしまったため、現在では遺構らしきものはまったく見られなくなってしまっている。

 城域内の最高所には彦根別神社が祭られているが、ここが主郭ということになろうか。地勢は西に向って段々に低くなっているので、3段構成くらいの段郭の城であったのかもしれない。

 ここから北側の「堀切橋」まではかなりの距離があり、本来は、かなり広大な城であったと思われる。


















城山公園にある土塁。しかし、遺構なのかどうか。市街地化が進みすぎてなんだかよく分からない。 城山公園からは旭山城(左)と葛山城(右)がよく見える。lこうしてみると、両者が対峙していた様子がよく分かる。
城址内最高所にある彦神別神社。ここが主郭の跡であろうか。 善光寺との間を流れる小川とその土手。一見、土塁のようにも見える地形である。
 横山城は善光寺に隣接していることからも分かるように、善光寺に属した城郭であった。南北朝時代、信濃守護となった斯波義将・義種に反抗した国人衆(村上、高梨、島津ら)は、善光寺横山に集結して、守護勢と合戦に及んだ。この頃から城のようなものはこの地に置かれていたのではないかと思われる。

 弘治元年(1555)、旭山城を取り立てた武田勢に対して、長尾景虎は、善光寺平横山に陣取った。しかし、やがて葛山城を築いてそちらに移り、両者の対立が続くことになる。この時葛山城に移っていったことからも分かるように、すでに戦国の大軍勢の衝突にはふさわしい城郭ではなくなっていたのであろう。




上尾城(長野市信更町上尾)

*鳥瞰図の作成に際しては信玄を捜す旅を参考にした。

 上尾城は長野市と信州新町との境界近くにある。更府小学校のすぐ北東側の台地先端部が城址である。小学校からの比高は20mほどだが、下の犀川からだと比高100m近くある。

 更府小学校から東側に進んで坂を登っていくと、北側の台地先端部に上がっていく道が見えている。車では行けない道なので、付近に駐車してその道を歩いていくと、2軒の民家に入る道の脇を通って、やがて1郭手前の大堀切の所に到達する。ただし、この大堀切、入口に「倒木があって通れません 地主」という看板が立てられ、藪もかなりひどい状態であったので、ちゃんと確認できていない。

 堀切脇の道の外側には竪堀があり、かつては堀切と竪堀が接続していた可能性がある。この道が往時からのものだとすれば、本来は木橋によって接続し、北側に回りこんでから登城するのが本来のルートであったのではないかと思われる。
 この道の西側下には墓地になっている平場などがある。

 この道を進んでいくと切り通しになっている部分があり、その先に平坦地2がある。2郭というべき場所なのだろうが、けっこう凸凹しているようで、若干まとまりに欠ける地形である。中央近くには古墳のようなものが1基あり、その先端部には堀切が入れられている。

 2郭から微妙な段差を隔てて1郭と接続しているのだが、これらの段差は後世に改変されたものなのかもしれない。というのは1郭北側の堀切が、東側半分にしか見られないのである。本来は西側にまで続いていたのではないだろうか。

 その堀切から南側に進入したところが1郭である。長軸50mほどの区画で、わりと広い。郭内部がけっこう凸凹しているのは耕作化されたことでもあったのか、その名残によるものなのであろうか。さらに夏場で草が生い茂っており、ちょっと歩きにくくなっている。しかし、周囲にはきちんとした土塁がめぐらされている。
 1郭には小さな神社が祭られていた。

 基本的にはこれだけのようで、わりと小規模な城郭である。地元豪族の居館、といった趣の城であるといえる。

更府小学校の前から見た城址。ここから比高15mほどの台地先端部にある。 1郭北側の堀切。
1郭内部。小さな神社が祭られている。 1郭南側の堀切の間を通る土橋を北側から見たところ。左手の大堀切には進入禁止の看板が立てられていた。
 望月氏の一族であった布施氏がこの地に居住し、築いたのが上尾城であったという。応仁年間頃の話らしい。
 武田氏の北信濃侵攻が始まると、平林氏は武田氏に属し、牧野原城主の馬場氏に従い、牧野島城の副将となったといわれる。

 天正10年、武田氏の滅亡と共に、北信濃地域には上杉景勝の軍勢が侵攻してきた。その後の平林氏は上杉氏の家臣団に組み込まれ、後に会津に転封していったという。




























大竹屋旅館