長野県長野市

*参考資料 『日本城郭体系』 『信濃の山城と館』(宮坂武男)

旭城(大黒山城・長野市平柴)

*鳥瞰図の作成に際しては『信濃の山城と館』を参考にした。

 旭城は、裾花川に臨む比高130mの台地先端部に築かれている。大黒山公園の北東側で、主郭に左近稲荷神社が祭られている。この神社は地図にも掲載されているので、これを目印にしていくとよいと思う。旭山城の東南中腹の位置である。

 ところが、神社があるとはいえ、その場所はかなり分かりにくく、実際我々が訪れた際にも、一度場所を間違えて混乱してしまった。城を訪れるための分岐点はこの辺りにある。

 この分岐から進んでいくと、道が途中で2つに分かれ、いずれにしても細い道になってしまう。軽自動車ならば無理をすれば通れなくもないのだが、ここは素直に、途中の空き地に車を置いて歩いていった方が無難である。左手の上の方の道を進んでいくと、やがて後世の石垣が見えてきて、そこに数頭の羊が飼われていた。羊を放牧するために積んだ石垣のようで、アンデス風の雰囲気を醸した放牧場にしようとしたもののようである。

 その辺りに鳥居が建てられており、そこから参道に従って進んでいくと、1郭の下の腰曲輪の所に出る。

 石段をあがったところが左近稲荷神社の境内であり、これが1郭である。東側下には腰曲輪があり、そこに東屋が設置されている。公園と言っても、特に何もなく、要するにただの神社の境内であり、あまり城という感じはしない。

 しかし、1郭背後には大きな堀切がある。これが最大の見どころである。堀切は東西両端に竪堀となって大きく落ち込んでいく。明らかに城郭遺構であることが分かる。

 ところが、明らかではないのが、その先である。堀切の北側には2郭というべきスペースがあり、そこに石室らしきものがむき出しになっている。また、その先が円形の高まりになっており、どうやらここは古墳であったらしい。古墳を利用して郭としているのである。その側面部にはやはり腰曲輪があり、城郭的な雰囲気がある。

 だが、そこから先は微妙な段差の連続する空間となり、削平もきちんとされてはおらず、だらだらとした地形になっている。いったいどこまでが城郭遺構なのか、よく分からない状況である。

 とはいえ、先端部分は、裾花川に臨む台地の先端部となっているため、要害性は十分である。セオリー通りならば、この先端部分にこそ主郭を置くべきなのであるが、先端部分が低くなっているためにそうすることができなかったのだと考えられる。要するに、先端近くの部分は城域内ではあるが、そこまできちんと加工するだけの手間をかけなかった場所のようである。この辺りは放っておいてもそこそこ要害の地形なので、手間をかける必要性を感じなかったのであろう。であるから、先端周辺の部分は、城域内であるにもかかわらず、ほとんど未加工の場所、といった位置づけになるのだと思う。とはいえ面積だけはけっこうあるので、そこそこ多数の人数を籠めることも可能である。

 城の主要部は、1と古墳のある2との2郭構造であったと思われる。登城口に一番近いところにあるのが1郭というのは、防御思想の上から不自然なように思われてしまうのだが、地形なりに加工したら、こうなってしまった、というところであろう。

城内にある左近稲荷参道脇の城塁。 1郭内部。左近稲荷が祭られている。
1郭背後の堀切。 2郭の古墳の手前には石室がむき出しとなっていた。
北端部から2郭方向を見上げてみた。何段にもなっているが、城塁は緩く、削平も不十分であり、未加工の部分が多い。 城のすぐ隣の斜面では羊が飼われていた。もの珍しそうにこっちを見ている。
 『信濃の山城と館』によれば、南北朝時代に平芝に守護所が置かれていたが、その要害として機能していたのが旭城であったという。

 戦国期には旭山城の出城の1つとして機能していたのではないかと考えられる。




小柴見(こしばみ)城(長野市平柴小柴見)

*鳥瞰図の作成に際しては『信濃の山城と館』を参考にした。

 小柴見城は、夏目ヶ原浄水場から南側に延びる台地の先端部に主郭を配置している。『信濃の山城と館』の図を見ると、現在の浄水場の所にも、連郭式に複数の郭があったように描かれているが、こちらは遺構湮滅状態であり、なんとか残存しているのは先端の主郭部周辺に限られる。

 夏目ヶ原浄水場との間が切り通しの道路となっており、その辺りには路肩に余裕があるので、車を寄せて停めて置くことができる。この切り通しの道路そのものがかつての堀切と一致しているようだが、かなり大きく削られてしまっているので、旧来の堀切の面影はもはや残されていない、と言っていい。この部分は宮坂氏の図では二重堀切に描かれている。

 切り通し道路から上がって行ったところがテラス状の小空間となっている。その前面には1郭の土塁があり、その両端は竪堀となって落ちている。という計上からすると、この空間そのものが堀切だったのではないかと思われるのだが、堀切部分はある程度埋められてしまっているようである。

 土塁の側面部を通り抜けた先が1郭である。内部は畑となっており、長軸30mほどはある。先端部にも土塁が残されているのが見えている。土塁のうちの1本は先端の城塁に沿うように置かれているが、残りの1本は、城塁ラインと垂直に交わるように置かれていた。土塁としては不自然な配置というべきだが、先端に虎口を置いたがゆえにこのようになっているのであろう。

 先端部分から下には数段の小郭が配置されている。切岸加工の際に生じたものであるが、こちらからの登城道は、これらの小郭を1つずつ経由するようになっている。また、1郭の東側には腰曲輪が配置されている。

 現状で認められるのはこれだけである。しかし、上記の通り、城域は北側に長く展開していたようで、宮坂氏は1郭の北側に3本の堀切を想定している。もしその通りであったとするならば、4郭が連郭式に並んでいたということになる。

 とはいえ、現状では1郭周辺にしか遺構を見ることができない。道路の拡張工事によって1郭の二重堀切が破壊されてしまったのが何とも残念である。

 

北側の切り通し道路から見た城址。1郭の土塁が見えている。 1郭手前の堀切から落ちていく竪堀。
1郭内部。先端に土塁がある。。 1郭内部から北側の土塁を見たところ。
 『信濃の山城と館』によれば、小柴見城は、旭城と共に、守護所の要害城であったという。城主は小柴見氏であったと考えられる。

 小柴見氏は、戦国期には武田氏に属し、小柴見城も旭山城の出城の1つとして機能していたが、後に上杉氏に寝返ったために、永禄5年5月に成敗されたという。




枡形城(長野市植松城山)

*鳥瞰図の作成に際しては『信濃の山城と館』を参考にした。

 枡形城は、地附山公園背後の比高300mの山上に築かれている。公園からの比高は100mほどである。城址のすぐ南側をバードラインが通っており、これを利用することができたら非常に便利であり、「車を降りたら1分で城址」というくらいアクセスが良いのだが、バードラインは1985年の地滑り災害によって分断された後は閉鎖されたままである。したがって、城址に行くためには地附山公園経由で歩いていくことになる。だから、城を訪れるためには、まずこの公園を目指していくことになる。

 地附山公園の案内図を見ると、枡形城址も描かれており、ハイキングコースの一角となっているようだ。公園の角から緩い坂道をずっと登って行けばやがて城址に到達する。しかし、けっこうコースは複雑である。登って行く途中にバードラインと接続する個所があるのだが、そこからバードラインを徒歩で通って行くのが、一番簡単なアクセス方法ではないかと思う。現地の案内板に沿って従っていった場合は、前方後円墳の下を通って、バードラインの脇に出るようになっている。いずれにせよ、バードラインは通ることになるのである。

 バードラインの北側の山林を進んでいくと、すぐに城塁と堀が見えてくる。2郭の城塁と堀である。2郭は土塁と堀を廻らせた長軸50mほどの郭であるが、図を見ていただければわかる通り、その機能はずばり馬出である。大きな馬出曲輪とするのが、その実態をよく表していると思う。

 2郭の背後には1郭城塁がそびえて見えている。そしてその間には自然地形の鞍部がある。その鞍部を加工することで、1郭側には横堀が掘られ、鞍部そのものも整形されて、大きな堀となっている。この堀は大きいため、この堀底そのものを郭とする見方もある。この堀の中央部に土橋と虎口がある。

 2郭前面の堀は東側では折れを見せ、その部分に大きな枡形の空間を生み出している。これがさらに東側に延びていき、竪堀となって側面部に落ちていく。

 2郭から1郭への導入路には何ヵ所も折れを入れている。2郭から西側の竪堀の上を通り、その先で東側の切り通しを登って行く。この辺りには城門が設置されていたであろう。切り通しを登ると、1郭下の横堀の所に出る。この横堀は北側に続いていき、やがて竪堀となって下に落ちていく。この横堀の底から斜面を折れながら登って行った先が1郭である。

 1郭の入口はやや窪んだ地形になっており、小規模な枡形が形成されていたようだ。そこから進入すると、1郭は弾丸型の形状で長軸40mほど、やや傾斜した地形であったのか、2段に削平されている。1郭の先端から下を見降ろすと、そこに腰曲輪が1つ造成されているのが見える。

 簡単にまとめてしまうと、2郭構造のこれだけの城郭である。しかし、1郭の導入路の複雑さに加えて、2郭との間の構造が技巧的なものとなっており、工夫された築城思想が伺える城郭である。いかにも戦国期の城郭である。

 地附山公園からけっこう歩かなければならないが、城址は適度に整備されており、ヤブがなく遺構を見やすい城である。ハイキングがてらに訪れるとよいのではないだろうか。




城址の手前を通っているバードライン。現在でもきちんと通れる道である。これが使えれば、城址まで徒歩1分の所まで車で来られるというのに・・・・。 2郭は巨大馬出状の郭である。その手前の堀。
2郭内部。土塁が廻らされている。 2郭から1郭方向を見たところ。
1郭との間の鞍部。堀底も曲輪のような広さがある。 1郭南側下の横堀の土塁。
その西側端から落ちていく竪堀。 1郭に登る堀底状の通路。
1郭内部。 1郭に見られる段差。
再び、2郭との間の鞍部。 2郭東南の巨大な堀底状の部分。
2郭北側の城塁。土塁が下に出張っており、張り出し状に見えている。 これは城ではないが、すぐ近くにある前方後円墳の堀。横堀や竪堀まであって、一見すると城郭遺構のように見えてしまう。
地附山公園のローラー滑り台を滑るウモ殿。 地附山公園から遠望する長野市内。眺望は素晴らしく良い。
 城について明確な史料はないようであるが、葛山城大峰城と並ぶ善光寺北側の山稜沿いに築かれており、川中島合戦に伴う上杉氏の陣城の1つであったと考えられる。




杵淵館(殿屋敷・長野市篠ノ井杵淵)

*鳥瞰図の作成に際しては『信濃の山城と館』を参考にした。

 杵淵館は、典厩寺から南西に1kmほど降って行った所にある。川中島古戦場のすぐ近くにある館跡である。杵淵というのは千曲川が生み出している淵の1つであったものだろうか。集落そのものが千曲川のカーブする地点の上に置かれている。

 現状から想像するに、方60mほどの単郭の居館であったと思われるのであるが、現在では民家が建て込んでしまっているために、堀や土塁の大部分は失われてしまったようである。

 遺構が見られるのは北西側の角部分だけである。ここには一段高い土壇もあり、そこに稲荷神社が祭られていて、民家の氏神様となっている。また、その周囲は幅6mほどの窪んだ地形となっており、水堀の跡であることが一目瞭然である。

 郭内は民家の敷地となっているために、確認できていないが、2か所ほどに井戸の跡があるらしい。

 ワンポイントしか遺構を残さない館ではあるが、完全湮滅の多い平城城館の中では、これだけの遺構でも貴重なものである。


 『平家物語』や『源平盛衰記』には杵淵氏が登場してくるが、この杵淵氏の居館であったと想像される。


杵淵館北西端の土塁と堀跡。土塁上には稲荷社が祭られている。




広田砦(広田城・長野市稲里田牧)

*鳥瞰図の作成に際しては『信濃の山城と館』を参考にした。

 長野市稲里町田牧にある東昌寺が、広田砦の主郭の跡である。残されているのは背後の土塁1本であるが、それでも遺構が残っているだけいい方である。周囲の墓地は水堀の跡のように思われる。
 
 残存遺構はこれだけであり、砦や城というよりも「館」と称するべきものなのではないかという印象を受けるのだが、残されている古図を見ると、割合技巧的であり、武田氏の陣城であったという雰囲気が十分に感じられる。そういう意味ではやはり「館」ではなく「砦」もしくは「城」であったようである。

 広田砦の古図を現状の地形に重ね合わせてみた想像図が右のものである。もともとあった方形館に外郭部を加えたものであったようだ。外郭部は各所に折れを持っており、特に西側の虎口の部分は内側に窪んでいて、虎口前は両側の城塁からの攻撃にさらされるようになっている。虎口そのものも内枡形になっていたようだ。主郭の虎口も内枡形になっており、武田の陣城らしい技巧性が感じられる。

 このように残存していればかなり見ごたえのある城館であったと思われるのだが、宅地化に伴って堀が埋められてしまったようで、現状ではかつての面影はほとんど見られない。唯一、南西の角部に、弧を描くようなラインが現在でも残されているのだが、これがあるいは、かつての城塁のラインの一部なのであろうか。


 室町時代中期の応永7年、広田氏がこの地を領し、ここに居館を築いたという。その後館主は藤牧氏となる。

 天文21年、武田晴信がこの地まで侵攻してきた際に、居館が拡張され、武田の陣城となったという。

 江戸時代になって、館跡に観音堂が営まれ、さらに宝暦9年には、真田昌幸の菩提を弔う東昌寺が営まれて現在に至るようになった。





わずかに残る土塁。1郭北側の部分である。寺院周囲の墓地は堀のラインを示しているように見える。 東昌寺。真田氏の菩提寺らしく、屋根には六文銭があしらわれている。




大堀館(町田氏館・長野市青木島大塚南)

*鳥瞰図の作成に際しては『信濃の山城と館』を参考にした。

 長野市立更北中学校のグランドが、大堀館のあった場所である。現在はグランドとなっているため、遺構は完全湮滅状態であるが、戦後直後の航空写真を見ると、その形状ははっきり分かる。内部は山林となっていてよく分からないが、右の図のような構造であったようだ。古図とも合わせてみると、南側に虎口を持った60m四方ほどの館であったと思われる。


 大堀館は、もともと町田氏の館であったという。弘治元年の第2回川中島合戦で、武田勢と上杉勢とは犀川を挟んで200日に渡って対峙することになるが、その際に武田晴信が本陣として使用していたのが、この館であったと言われている。












更北中学校前にある大堀館跡の碑。右手のグランドが館の跡である。




戸屋城(長野市七二会地蔵堂)

*鳥瞰図の作成に際しては『信濃の山城と館』を参考にした。

 戸屋城は七二会中学校の西側600mほどの所にある。中学校の方から見ると、鋭い切岸の上に平場があるのがはっきりと見えている。城址は公園となっているので、遠目にもそれと知られるのである。下を通る道からは比高70m、犀川からは比高300mほどもあり、かなり奥に入り込んだ位置にある。

 ともあれ、公園化されているので、訪れやすい城である。周囲の三方向は鋭い切岸状の土手によって守られているのだが、北東側は尾根続きとなって道が付けられており、小型車ならば城址まで入って行くことも可能である。城址手前に民家があるので、小型車でなくともこの辺りまでは入って行けるであろう。

 城は天然の要害地形を利用したもので、長野の城に見られるような大規模な堀切や土塁のような構造物は見られない。そういう意味では物足りない気分がするが、城址のある部分は段々に高くなる地形となっており、城外に向けて何段もの切岸を配置しているので、これだけでもそれなりの防御能力を発揮していたものと思われる。尾根続き以外の周囲は鋭い急斜面となっているので、北東側の尾根続き以外の場所から攻め上がるのは困難であったと思われる。

 城の中心部に向かっていくと、そこに城址碑と案内板が立てられている。また、公園らしく、一番高いところには東屋が置かれていた。城の斜面の木が切りはらわれているので、眺望が良いことはこの上もない。ただし、けっこうな山奥なので、見えるもののほとんどは山稜ばかりである。それでも、目を凝らせば犀川の向こうの地域も観察することができそうである。川中島方面もかろうじて見えるであろうか。

 山頂部は緩やかな土壇状になっており、ここが主郭であったと思われる。それ以外は地形なりに削平した段が展開している。城郭構造としてはさほど技巧的なものはなく、面白い遺構も見られないが、防御構造物としてはそれなりのものである。3段ほど下の段には民家があるが、これが土地の所有者のお宅であるようである。


 戸屋城は、古い時代からの春日氏の居城であった。春日氏は鎌倉時代から記録に登場してくる古い氏族で、代々この地域を支配していた。川中島合戦の頃は、武田氏に所属し、武田氏の番城のようになっていたという。

 春日氏は戦国末期に笹平城に移って行ったため、それに伴って戸屋城は廃城となったと思われる。





南側から遠望する戸屋城。鋭い城塁の上にあることが分かる。 城内から遠望する景色。かなり遠くまで眺望が利いている。
城址碑と東屋。 西側下の腰曲輪群。




































大竹屋旅館