長野県栄村

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仙当(せんとう)城(栄村堺)

 06.11.3(金)ヤブレンジャー仙当城ツアーで、かねて来てみたかったこの城に訪れることができた。

 仙当城の読み方について、「せつと城」としているものも見かけるが、地元の人が「せんとう城」と呼んでいること、仙当を「せつと」と読むのは無理があると思われること(「せつと」に仙当の文字を当てるのもちょっと無理であろう)から、ここでは素直に「せんとう城」としておく。

 さて、この仙当城であるが、実にすばらしい遺構を残している。訪問して後悔しない城であることは間違いない。しかし、その場所は極度に分かりにくい所にある。そこで、訪れるための道順を以下に記しておく。(ところで、この山の入口には「入山禁止」の看板がある。心ない人が山菜を無断で採っていくと、地元の人にとっては死活問題になるらしい。この城を訪れる人は、間違っても山菜など採らないようにしていただきたい。)

 JR飯山線の横倉駅の西400mほどの所に、信濃川に架かる百合居橋があるが、そこを渡ると、城址のある比高160mほどの山が見えてくる(下の写真参照)。月岡の集落を南側の山岳地帯方向に抜けようとすると、この山の西側の谷間を通る林道を進んでいくことになる。この道は、林道とは言っても、きちんと舗装された道である(ただし幅は車がすれ違えないほどの狭さである)。山の奥の方には意外にも畑や水田がけっこうあるので、農作業の車はけっこう通っており、それゆえ舗装もされているのであろう。この道をとにかく奥に進んでいくと、やがて下の写真にある畑のところに出る。見ると、ここから左側の奥に回りこむような未舗装の道が見えている。ここに車を停めて、この先の尾根を1kmほど歩いていくと城址に到達することができる。オフロード四駆であれば、城址の目前まで行くこともできそうだが、今回は素直にここに車を停めて歩いていくことにした。

 この尾根道を進んで行く際に気をつけなければいけないことは、途中の2ヶ所の分岐点を間違えないということである。しかし基本的には道なりにまっすぐ進んでいくことになる。迷ってしまうのは、道が途中、けっこう降って行くことになるということであるが、その辺りから城址まではけっこう尾根を降って行った先なのである。城に行くのに道が降っていると「本当にこれでいいのか」と不安になってしまうが、この城はどんどん降っていった先にあるので、心配せずにどんどん進んで行くしかない。

 もう1つ、注意してほしいことがある。仙当城に限ったことではないが、この辺りの山は熊の生息地でもある。熊に対する防備を完全にしてから訪れるべきであると思う。何かあっても自己責任ということになるので、備えには十分、注意していただきたい。

 さて、そうやって、さんざん尾根道を進んでいって、遺構が見つからずにあきらめそうになった時、突如として目の前に2郭の堀切が現われてくる。藪もなく、塁線がきれいに延びた薬研堀である。その右端に土橋があり、左に曲がりながら虎口に入ろうとした時、右手の下にはこれまたきれいなラインがそのまま見える竪堀が延びている。これだけでも実にすばらしいと感じてしまうのであるが、実はこれでもまだまだ序の口であるにすぎない。2郭の西側には横堀が掘られているが、この堀は2ヶ所で竪堀となって下に落ちていく。その北側にEの畝状の部分がある。この畝状の部分が、どういう防御効果を発揮していたのか不明であるが、畝状の部分は、この城のほかの箇所にも見ることができる。この城の特徴の1つである。

 さらに2郭を進んでいくと、目の前に展開する光景にあっと驚くことになる。1郭の手前にはなんと長さ20mもの土橋があり、その左下が横堀、右側が堀切となっているのだが、圧倒されるのはこの堀切の巨大さである。このような山中に、深さ10m以上、幅20m以上なんていう堀切が横たわっているさまをちょっと想像できるであろうか。とても人間業とはおもえないほどであり、バカバカしいくらい圧倒的な大きさの堀切なのである。どうしてここまで堀切を巨大にしたのだろうか。これには何か恐ろしい執念のようなものを感じてしまうのであった。なお、この堀切の底の中央部には高さ1mほどの1本の畝があり、これによって、堀底が2つに区画されているのも特徴の1つである。

 この信じられないくらいの長い土橋を渡って行くと、そこが1郭ということになる。といっても、1郭の規模はそれほど大きくない。長軸30mほどの三角形状の郭であるにすぎない。堀の巨大さから見ると、居住空間はきわめてささやかな城だということになる。

 1郭の周囲には3,4の郭があり、その間も、竪堀によって区画されている。この竪堀もまた非常にきれいに保存されていて印象的なものなのだが、これを降った先には畝上阻塁が存在している。これを用いた、どのような防御システムが想定されていたのであろうか。畝状阻塁のある城は各地に存在しているが、その意図については、よく分かっていない。

 4郭は1mほどの微妙な段差で2段に分かれており、その先端部は二股に分かれている。しかし、この辺りの部分は非常にちまちまとしており、後世の改変なのかもしれない。しかし、その先のAの堀切はすごい。この城は、城塁や切岸が往時のままなのではないかというくらいに鋭さを保っており、また木もあまり生えていないために、昇り降りには非常に苦労することとなる。実際、今回はスケッチブックと竹槍を両手に持っていたので、切岸を降る際に何度も転んでしまう羽目になった。普段のヤブ城では昇り降りにこれほど苦労することはない。ヤブがないということは、切岸を登りくい、ということでもあるということを痛感することになったのであった。

 1郭の西側の城塁の途中には、細い道が付いている。そのさらに西側下には堀切があり、その間を2本の竪堀が区画している。この2本の竪堀は高さ1mほどの畝によって区画されているが、これは1郭と2郭との間の巨大堀切にも見られるものであり、これもこの城の大きな特徴の1つである。

 この堀切の西側にCの尾根があるが、ここもまた畝状に掘られている。これによって尾根上を通りにくくしようと意図したものか、あるいはこの部分に何か特徴的な建物でも建っていたのかもしれない。Cの部分をさらに西側に進んでいくと、しだいに自然地形になっていく。その先に切り通しの道が続いているのだが、これが本来の登城路であったろうか。この先がどこにつながっているのか確認していないが、おそらく月岡の集落の方に行けるのではないかと思われる。

 さて、仙当城をざっと見てきた。どう見ようとこの城は「すばらしい」のひと言に尽きるのであるが、それは「堀と切岸」の大きさと鋭さ、きれいな塁線などによるものである。郭そのものはとても小さく、この城で多くの兵を篭城させることは難しいであろう。大雑把に見て2郭構造の城であるともいえるが、2郭の東側は緩斜面になっており、削平がきちんとなされているとはいい難い面もある。見方によっては、2郭は大きな馬出しであるというようにも見える。

 この城は、少数の兵をもって堅固に守ることを意識した砦のようなものだったのではないだろうか。拠点的な城郭と言えるような居住スペースはないが、重要な城であったらしい堅固さを有している。この城の脇の街道を押さえるための番城であったのだろうか。

 一方、この城は、かなりの作事動員数がなければ築けない城でもある。ある時期に、なんらかの巨大勢力が、一気に築き、短期間だけ使用された城だったのかもしれない。

信濃川に架かる百合居橋から遠望する仙当城。この集落の奥を抜けていくと、山の右手を縫うようにして車道が走っている。細いながらも舗装された道で、そこをどんどん進んでいくと、登城口に出ることができる。 林道を進んでいった所にこのような畑がある。ここから尾根の方に戻るように進んで行けば城址である。ただし、ここからおよそ1km近く歩かなければならない。
熊に襲われた時の予行演習をするレンジャー隊。今回は本当に危険と隣り合わせである。 ウモ殿が熊スプレーを試し撃ちした瞬間。カメラで捉えるよりも先に、発射した瞬間にウモ殿がのけぞってしまったので、右端に手しか映っていない。ほんの少し発射しただけだったのだが、この強烈な刺激はどうしたことだろう。唖然とするほどの強烈さである。まともに顔に当たったら、即刻病院行きになることは間違いない。
「本当にこの道でいいのか」などと思いながら進んでいくと、2郭の手前の堀切に到達した。いきなり美しいラインの堀が見えてきて感動ものである。深さ6m、幅9mほどの規模である。 土橋を回りこむようにして2郭の虎口に達すると、右側にはこのような竪堀がある。このラインもまた美しい。ため息が出そうになる。
2郭と1郭との間の堀切。う〜む、すごい、すごすぎる。これが本当に人間業なのだろうか。深さ10数m、幅20数mほどもある超ど級の堀切である。山城でこんなにすごい堀切、見たことがない。写真だとこじんまりしてしまうが、ファンタスティックの一語に尽きる。 1郭から2郭との間の土橋を歩いてくる隊員たち。こんな長いのが土橋なのである! 山城で、長さも20mほどもある土橋を想像できるであろうか。右側下が横堀、左側下が巨大堀切であり、想わずため息が出てくる光景だ。
3郭と4郭との間を区画する竪堀。ヤブもなく、その形態は築城当時と変わっていないのではないかとさえ思われる。この竪堀の先に、畝状阻塁がある。 4郭から見た1郭の城塁。これまた、築城当時そのまんまなのではないだろうか。とにかく鋭い切岸状態となっており、藪や木が少ないために、取り付くものさえなく、よじ登ることは非常に難しい。高さ6mほどである。
その先にあったAの堀切。深さ8mほど。中央に土橋状の部分が残されている。左手にスケッチブックを持ち、右手に竹槍を抱えたままここをよじ登るのはとにかく大変であった。 Aの堀切の先にあったブナの木には熊の爪跡が何ヶ所にもくっきりと付いている。最近のものではなさそうであるが、どうやら確実に熊の来る城址であるようだ。
3郭と4郭との間の竪堀の先にある畝状阻塁。3つほどのコブがあって、まるで砲台のような形状をしているのだが、これがどういう意味を持っていたのかよく分からない。 1郭西側下の細い通路から、その下の竪堀に降りた所。この城はとにかく、堀の底に降りるだけでも、大仕事である。
Cの部分の間にある竪堀。先端中央部分に、土の塊のようなものがあるが、これは遺構ではなく、土砂が崩落したものであろう。 Cの尾根の南側下の横堀。見事なラインを描いている。
1郭と2郭の間の長大土橋から、下の横堀を見たところ。堀底でカキカキをしているウモ殿の大きさと比べてみれば、その雄大さがよく分かることであろう。 1郭と2郭との間の堀切に降りてみた。堀底から長大土橋上にいるレンジャー隊員たちを見上げた所。隊員たちが立っている所は、台地ではなく、あくまでも土橋なのである・・・・。
さらに堀底を進んだ後に振り返って隊員たちを見たところ。遠くにかすかに人影が映っているのが分かるであろうか。人の小ささと比べると、この堀切がいかに馬鹿でかいかということが分かる。ナンセンスなほどの巨大さである。 2郭の方によじ登って、巨大堀切を見たところ。堀底には畝があり、底が2つに区画されている。
2郭から、西側のEの部分を見たところ。この部分も畝状になっているのだが、一体どのような意味があったものか。 2郭から南西側の横堀を見たところ。どこから見てもこの城の遺構はカッコイイのである。
上の横堀が竪堀と接続する部分。こういったラインがまた美しいのである。 城攻めが終わってゴローラモ号に向かう隊員たち。なんとか無事に帰れました。お疲れさま!熊に遭わなくてよかったよなあ・・・・。
 仙当城の歴史について、詳しいことはまったく分かっていない。この麓の月岡の集落がかつて地元豪族の市河氏の支配領域であったことから、市河氏の城であったのではないかとも言われている。しかし、市河氏はこの土地を支配していたというだけであり、この城の創築と本当に関連があったのかどうかについて、確固とした証拠はない。上でも述べている通り、この城の工事は一豪族にとっては、あまりにも負担の大きすぎる土木量を誇っている。やはり一豪族の手によるものではなく、この城を築いたのは、かなりの大勢力であったと見るべきではないかと思われる。

 この土地にこのような城を築けるほどの大勢力を動員することができたのは誰か・・・・というように考えてくると、戦国期の上杉氏などくらいしか想定できない、というような消去法が駆使されることになろう。が、これとてもあくまでも想像にしか過ぎず、明確に裏付ける証拠があるわけでもない。

 戦国期の上杉氏は、信濃川沿いに展開している国道117号線を何度も往復していたであろうし、その先は武田氏の支配する信濃国である。この街道沿いの防御線、あるいは番城として、このような城を想定することは不可能ではないし、それはそれでいかにもありそうなことである。しかし、それならば、もっと国道117号線に近い位置に城を築くべきではないか、という見方もできよう。信濃川沿いにも城を築けそうな山はいくらでもあるのである。ひるがえって仙当城を見ると、この位置は、あまりにも山奥に引っ込みすぎているといえる。

 城の存在する位置からすると、月岡の集落の人民たちが非難するための逃げ込み城と想定するのか自然なようにも思われる。だが、この城は「村の城」とするにはあまりにも無理がありすぎる。結局、上で述べているとおり、ある時期、上杉軍が一気に築いて、短期間だけ使用された城、というのが、もっともありそうなラインということになろうか。





城坂城(栄村堺)

 城坂城は仙当城からは近く、仙当城の北西2kmほどの所にある。千曲川に小箕作川が注ぐ地点に面した比高100mほどの山上が城址である。千曲川を挟んでJR平滝駅のすぐ南西側に見える山で、いかにも城山といった風貌をした尾根が見えている。国道117号線から百合居温泉方面に渡る百合居橋を渡って右に曲がり(左へ曲がると上で紹介している仙当城方向であった)、その突き当たりまでいくと「この先通り抜けできません」という看板が見える。その正面に見えるのが城坂城の先端部ということになる。

 その辺りに車を停めて、山の左側に回り込んで歩いていく。すると、山麓に石垣のようなものが見えている。「これが山麓の居館跡だろうか」と思いながらそこに上がってみたのだが、そこには居館を営むほどのスペースはなかった。その先の水田にも土手に石垣を積んでいる部分が多いことから、これは居館に伴うものと見るよりも、水田地の造営時に築いたものと見た方がよさそうである。水田の造成に石垣を用いるのはこの地域の特徴なのであろうか。

 小箕作川と水田との間のこの道をどんどん進んでいくと、その途中に山に登っていくための行く道がある。といっても、この道、上がり口の部分が少し削られてしまっているようで、非常に分かりにくくなっている。少しヤブにもなっていて、この登り道を見つけるのはかなり難しくなってしまっている。しかし、うまくこの道から登ることができれば、わりといい山道を進んでいけることになる。そうでなくとも、どこからか斜面に取り付いていけば、どこかでこの登城道と合流することとなる。この道は尾根の基部の方に続いており、かつては、野沢温泉方面に続く街道であったのかもしれない。

 この山道を通って尾根基部に向かう間には、いくつかの小規模な削平地が見られる。また、右手脇には大きな堀切を下から見ることもできる。しかし、とりあえずは最奥部までいって、尾根上を歩く方が、城の全体像をつかみやすいのではないかと思われる。

 城は直線連郭式に尾根上を掘り切った構造のものだが、それぞれの堀切の規模が大きいのが特徴といえるだろう。尾根部分からアクセスすると最初に目に入るのが堀切1である。この堀切は深さ6mほどのものであるが、塁壁面は現在でもかなり急斜面になっており、昇り降りするのがかなり大変である。ここを登って少し行くと、すぐに堀切2が見えてくる。堀切2は深さ2mほどのかなり浅い堀切である。両端を竪堀のように掘り切ってもいない。短い距離で2本の堀切を配置していることから、この部分は二重堀というようにいっていいだろう。ところで、この堀切2だが、その中には3本ほどの畝状の部分があり、その中央の窪みの周囲には石積みが見られる。中央の方形の窪みはどうやら、かつて周囲を石積みで囲んでいたようである。この部分はあるいは井戸であったのかもしれない。とすると、堀切底の畝内部に水を溜めるようにしていたということになる。堀底を井戸に兼用するというのは、この地域の城によく見られることなのであろうか。山麓の水田に石積みが用いられていることなどから、石積み技術も古くからこの地域に伝えられており、この井戸はそうした技術によって構築されたものであるのかもしれない。

 堀切2の先が1の郭で、ここはかなり広い平坦地になっている。城内最大の郭である。といっても削平は完全ではなく、あちこちに段差が見られる。1の郭をさらに進んでいくと、小規模な枡形状の窪みがあり、その先が堀切3になっている。この堀切3はとにかく巨大な堀切であり、見るだに圧巻である。深さは最大で10mほどはあり、幅も20m近くある。よくもまあ、これほど大規模に掘り切ったものだ。この堀切3は、1の郭を斜めに掘り切るような形状を成していて、堀底の最長部は、かなり北側に寄った所にあり、南側に関してはかなり大きな竪堀状となって緩やかに下の道に向かって降りている。また、堀切3で目に付くのは、最頂部に設けられた畝である。畝は中央部がさらに掘り切られており、ここに橋を架けていたのかもしれない。

 堀切3は、最頂部辺り、先端の側の郭との間の深さは2mほどとなっている部分もある。先端に主郭を置くという「常識」からすると、堀切3のさらに先が主要部ということになるのかと思っていたのだが、実際には先端側の深さの方がかなり浅いのである。さらにこの先の郭は削平がきちんとなされていない。つまり、1の郭の方がかなり優位な郭と思われるのである。こういうことからすると、1の郭が主郭であったとみることができよう。先端部はかなり地勢が下がってしまっているので、主郭は基部に近いとことに置いたということになる。

 その先をさらに進んでいくと、堀切4がある。その間の部分はかなり細長いが、ある程度の削平が見られ、この辺り一帯を2郭というべきであろう。もっとも数段に区画されているので、さらに分けて考えてもいいかもしれない。

 堀切4から先はもう、ほぼ自然地形と言っていいだろう。尾根は次第に先端に向かって降っていく。多少のスペースはあるが、郭といえるほどきちんとしたものではない。さて、堀切4だが、この堀切は南側に竪堀となって落ちていく。竪堀は上から見ると右にカーブしているが、途中でもう1本の竪堀と合流してさらに下に落ちていく。この竪堀は、先に上ってきた山道を越えてさらに下まで続いている。山麓まで続く長大なものである。

 城坂城の主な遺構は以上である。この他にも小規模な郭はあちこちにあると思うが、今回見た範囲は以上である。山上の部分の削平がそれほどきちんと成されていないことから、山麓に近い部分の削平地は、郭というよりも、後世の畑地の跡の可能性もある。

 この城の特徴をひと言で言うならば、堀切が非常に大規模に掘られているわりには、山上の郭のスペースはそれほどでもなく、削平も甘い、ということになろう。こうした特徴から見て、平素、人が居住するような城であったとは思われない。あくまでも詰めの城として築かれたものであろう。

東側から見た城坂山。比高100mほどである。この山の左側(南側)辺りから登る道がある。 山麓にはこのような石垣があって、一瞬、「居館跡か」と思ってしまうのだが、これは水田にともなうものである。
登城道の途中から見た堀切3。写真だとこじんまり見えてしまっているが、かなり巨大かつ長大な堀切なのである。 さらに進んでいくと、登城道の上の方に堀切1が見えてきた。
堀切1を降りる隊員たち。深さ6mほどだが、かなり急峻で、アップダウンが大変である。 堀切2の内部。深さ2mほどの浅い堀切である。中央部には石で囲んだ方形の区画がある。もしかしたら井戸の跡なのだろうか。
1郭内部。主郭とはいっても、あまり削平されておらず、居住性は高くない。 堀切4の所から、竪堀を降って帰路に着くことにした。
 城坂城の歴史もはっきりとしたことは不明である。しかし、上記の通り、詰めの城といった構造をしているということからして、市河氏の詰めの城であったと見るべきであるかもしれない。市河氏の居館は今回は訪問していないが、戦国末期に、非常時の籠城用の要害として取り立てられたものなのではないだろうか。戦国末期ということからすると、仙当城とも何らかの関係があった可能性があるが、それについては、現在のところ、よく分からない。


























大竹屋旅館