長野県佐久市

*参考・関連サイト 埋もれた古城  北緯36度付近の中世城郭  ちえぞー!城行こまい

*参考資料  『日本城郭体系』

内山城(佐久市内山字城下)

*鳥瞰図の作成に際しては『図解 山城探訪』(宮坂武男)を参考にした。

 円城寺の背後の比高150mほどの岩山が内山城の跡である。主要部の周辺は岩盤むき出しの岩山であり、草木を切りはなってしまえば、ミニ丸岩城のような峨峨たる山である。なぜ内山城などという地味な名前になっているのだろう。城の名称があまりにも地味だったのでぜんぜん期待していなかったのだが、実際の遺構には驚いた。山の険しさにも、である。円城寺の脇から衣笠神社を経由して登っていく登城道があるのだが、傾斜が急でけっこうしんどい山道であった。

 岩山に乗っかった部分が城の主要部である。3段ほどに分かれており、そこに本丸、三の丸といった案内板がある。1と4は若干の段差が設けられているが、一体のものであったと見てもよい。その先には5の郭がある。

 石垣もところどころに見られる。もともと岩山であるのだから石材を集めるのには苦労しなかったであろう。

 3郭から下には天然の切岸が続いているが、その下に2段の腰曲輪がありその先に堀切1がある。堀切1の側からアクセスするには、何段もの切岸をよじ登っていかなければならないという構造である

 この堀切1から北側に落ちる竪堀を100mほど下って、西側に移動したところに水の手がある。堀切1の辺りを西に平行移動し、そこにある竪堀を降っていっても水の手に出るのだが、こちらは急な斜面である。その辺を降っていく最中に私は転倒してしまい、スケッチブックに付けた磁石を折ってしまった。

 とりあえずその先に水の手があったわけだが、この水の手を見てびっくり! 普通、中世山城の水の手といえば、湧き水を利用した要するに「泉」であるものがほとんどだが、この城の井戸は石組みをした本当の井戸なのである。このような山城でこれだけしっかりした井戸が残っているのは実に珍しく、貴重なものである。『高白斎記』にある、武田軍に制圧された水の手とはこれのことであろうか。さらにこの井戸周辺の斜面には張り出し石垣のような構造物もある。これらはいったい何なのであろう。どうもよく分からない構造物である。

 堀切1から南側の斜面を降りていくと、数段の帯曲輪状の地形があり、それらの縁に沿ってやはり数段の石垣が見られる。高さ2m程度の低いものであるが、これが段々になっている。これも遺構であろうか? 石の積み方はそれらしく見えるものの、どうもこれは後世のものではないかという気がする。この辺り植林された跡があり、その際に積まれたものではないだろうか。

 主要部から南側の尾根に進むと「馬場の平」と呼ばれる平場がある。しかし、そちらの方は今回は訪れていないので、どのような構造であるのか実際に確認しているわけではない。

 西側の尾根は岩場が続いているが、防御遺構はいくつか見られる。岩場を降りていくと、やがて堀切2が見えた。岩の間を掘り切った構造のものであるが、それほど大規模なものではない。しかしそこからさらに進んだところにある堀切3は大規模なものであった。堀切3の辺りで尾根幅は広く15mほどになっており、そこを掘り切って一部に土橋を築いている。この堀切が実質的に城域の区画を示すものであるかもしれない。

 さらに西側に進むとBのピークがあり、ここにも平場のようなものがあるが、基本的には自然地形であり、物見施設があったとしても非常に簡素なものであったろう。その先を進んでいくと山下に続く切通しの道があり、そこから円城寺の墓地に向かって降りていくことにした。降りずにさらに進んでいくと、ぽんぽこ岩と呼ばれる岩があるらしい。

 内山城は天然の要害地形を利用した堅固な山城である。郭の数もけっこう多いのでそれなりの数の城兵を籠めることも可能であろう。この地域の拠点城郭たるにふさわしい堂々たる山城であるといっていい。
 なお、山麓には「古屋敷」といった地名が残っている。円城寺周辺には根古屋があったものであろう。さらにその下の集落内には「大名小路」「じゃんぼん小路」「中小路」「文明小路」などといった名称の小道がある。この辺りに城下集落も営まれていたことの名残であろう。
 

円城寺の南方から見た内山城。比高150mほどもある。草木が茂っていなければ、主郭周辺が岩盤に囲まれているのが見えることであろう。かなり登るのにきつい山である。 衣笠神社の脇から急峻な山道を登っていくと、このような段々の削平地が現れてくる。
削平地の上に見える岩盤。かなり迫力がある。主要部はさらにこの上の岩盤上にある。 主要部下の岩盤に取り付くoranjar。頑張れば上まで登れないこともなさそうだ。
1郭虎口脇の石垣。わずかだが、このような石積みが各所に見られる。 1郭内部で一休み。いかにも古城といった雰囲気で、なかなかいい感じである。
主郭の周囲はみな岩盤である。 1郭から3郭に向かって降りていく。
3郭から下はさらにこのような岩場を降りていくことになる。この下に2段の腰曲輪があり、堀切1に接続している。 堀切1。この堀切そのものの規模はそれほどでもないが、3郭に上がるためにはさらに2段の切岸と岩場を越えなければならない。
堀切1のところから東側に進み、さらにこの竪堀を降りていった先に井戸がある。急斜面なので歩くには注意が必要だ。私は調子に乗りすぎて転んでしまった・・・・。 これがその井戸。驚いた! 中世の山城でこのようなきちんとした石の枠積の井戸は初めて見た。「湧き水」の井戸ではなく、まさに文字通りの井戸である。
井戸の付近にはこのような石垣の出張り構造物が何ヶ所かにある。これっていったい何だろうか? さらにこのような石積みも各所にある。土止めの一種であろうか。
堀切1から南側に下りていくと、石垣が段々の構造になっている部分Aがある。これも遺構であろうか。 かなり大きな石も積んでいる。どちらかというと、植林作業の際に積まれたもののようにも思われる。
3郭から西側の尾根を目指す。3郭下はこのような岩となっている。 途中にはこんなものもあったが、これは自然のもののようだ。
堀切2。岩盤の隙間を利用したもので、それほど大きくはない。 堀切3。こちらはかなりの規模である。幅も10mほどもある。南側には土橋も設けられている。
B地区の平場。この辺りは基本的には自然地形のままで城外であったと思われるが、あるいは簡易な物見程度のものは置かれていたかもしれない。 B地区の西側から山下に降りる切通しの道が付いていた。
円城寺西側上の墓地から主郭部を見たところ。どこから見ても威容を誇っている山である。内山城なんて地味な名前に似合わない。左側の岩盤もすごい。 円城寺の下にあった愛犬クロの岩。なんでもクロは円城寺に昔いた栄照という偉い坊さんの飼い犬であったそうだ。ある日、栄照が草取りをしているとそこにマムシが現れた。あわやかみ疲れそうになった瞬間、クロが飛び掛っていった。その時クロは鼻先を噛まれて死んでしまったのだという。それからしばらくして、この岩をふと見ると、なんと、クロの顔が浮かんでいるではないか。クロは今でも岩となって円城寺を守っているのだという。なんともいい話じゃありませんか・・・・。
 この地域はもともとは平賀氏の勢力圏であったというが、平賀氏は文安3年(1446)頃に滅びてしまい、後には大井氏の支配下に落ちたという。武田氏が佐久地域に侵攻すると、内山城には上原伊賀守を配したといわれる。

 『高白斎記』によると、天文15年(1547)5月3日、武田晴信は内山城に向かって出陣、6日に前山に着城(佐久市の前山城のことであろう)。8日から城攻めが始まり、10日に雷雨の中、水の手を攻め取った。14日には城兵を打ち破り、「内山本城ばかり残りて」といった状況になり、小笠原と金吾の両人が降参(この二人のことはよく分からないが、おそらく内山城の重臣であったのだろう)。20日には、城主大井左衛門尉貞清も城を開城し、野沢に下っていったという。

 雷雨の中、先方部隊が城によじ登り、水の手を巡って攻防を繰り広げるなど、映像にしたくなるようなドラマチックな場面である。それにしても城主大井貞清は、水の手を奪われ家臣に寝返られながらも、なお6日間も抵抗を続けたのである。なかなか頑強な人物だったようである。

 こうして内山城は武田方の城となったわけだが、以後は佐久地方以北進出のための橋頭堡としてその重要性を増していくこととなる。

 天文17年2月25日には敵が内山城を攻撃、「内山宿城、過半放火」とある。根古屋部分が放火されたということなのであろうか。城そのものは持ちこたえたようで、武田軍はさらに進んで5月17日に布引城の築城を行っている。この時の敵とは村上氏、あるいは小笠原氏(それともその連合軍)であったろう。

 その後天文20年には以前の城主大井貞清が復し、永禄7年(1564)には小山田玄怡が城主となったという。

 天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、佐久地域は新たに侵攻してきた徳川氏の手に落ち、内山城も依田信蕃らによって攻撃され、城主小山田六左衛門は徳川氏に降ったという。




平賀城(佐久市平賀字城平)

 平賀城は内山城の2km南西にある。正安寺の上の比高100mほどの山上である。正安寺の上の墓地に行く道が図の出丸の先まで付けられているので。かなり上の方まで車で行くことも可能である。

 墓地から南に進んでいくと、2本の堀切を隔てて出丸の部分に到達する。出丸は半独立した形状をしており、尾根側から接近する敵に向けて置かれたものである。郭は数段になっているが、それらにはそれぞれ石積みが見られる。その下の4の部分の下にも石積みが見られるが、これらのうちどこまでが遺構であったものか。後世の畑作に伴うものも多いのではないかと思われる。

 4から山道を登っていくとやがて主要部下の腰曲輪に出る。ここから城塁を巻くようにして登城道が付いており、やがて主要部に達する。

 主要部は段差で1,2,3と3つに分かれているが、これらの段差はみな微妙なもので、これら全部を合わせて主郭といってもいいだろう。北側の縁には崩落防止の石列が見られる。

 また、かつてこの主郭部には神社が祭られていたのであろう。2あたりにある石積みは城郭遺構ではなく神社遺構のように見える。3の西側下にも鳥居の礎石跡と思われるようなものがある。

 3から西側下には山道が続き、道に沿って腰曲輪が何段にもなっている。これらの腰曲輪郡にはところどころに石垣が見られる。

 さらに南側にも腰曲輪が何段も続いており、これらが山麓まで段々に続いている。ただし、後世の畑地造成によってだいぶ改変されているのではないかと思われる。

 Aの部分は石垣が方形に積まれており、枡形虎口を構成していたようである。その下にはBの平場がある。Bには石積みを伴った畝のような構造物が3本ほど延びている。これが何か示すものかも不明だが、なんらかの区画をなしていたものであろう。その脇には水の手の跡がある。

 平賀城はこのように多くの腰曲輪群によって構成された城である。これだけ多数の曲輪群からは、家臣団の多さを想像してみたくなる。城そのものはそれほど新しいものといった印象を受けないが、平賀氏の勢力の大きさを示すものであるということなのだろうか。





佐久平カントリークラブから見た平賀城。比高100mほどある。城の左側に正安寺の上の墓地があるので、尾根部まで車で行くことができる。 堀切1に面する出丸の切岸。高さ6mほどある。
出丸の城塁にはこのような石垣が見られるが、これは遺構なのであろうか。 主郭南側下の腰曲輪と城塁。城塁の高さは10mほどもある。ここから斜面を巻くようにして1郭に登っていく。
城塁にはこのような石垣が見られる。 1郭の縁にはこのように石垣で土止めが成されている。
1郭の東屋。隊員たちがなにやら話し合っているようだが、何の企みごとであろうか。 1郭と2郭との間の石垣。・・・・これは後世に神社建設か何かの際に積まれたものであろう。
3郭端にある城址碑と案内板。 3郭から西の腰曲輪群に降りていく途中にある石垣。
Aの部分の石垣。図ではよく分かりにくいが小規模な枡形を形成しており、虎口に関連するものである。 Bにある石積みを伴った畝。何のための区画であろうか。
水の手・・・・といても草がぼうぼうでよく分からない。 その後、「どこかで信州そばを食べよう」といって、たまたま目に付いた蕎麦屋に寄ってみたら、なんと、あやしい城のような蕎麦屋であった。う〜ん、運命の邂逅としか思えない。この前でレンジャー隊と巡城組の記念写真撮影! そばを食べた後巡城組とはお別れしました。お疲れさま!
 平賀城は、佐久地方の豪族であった平賀氏の城である。平賀氏は古い氏族であり、平安時代から室町時代にかけて、各種の史料にこの平賀氏の一族が登場してくる。

 その後平賀氏は大井氏らと抗争することになり、文安3年(1446)12月9日の『諏訪大社上社文書』に「この年丙寅、佐久平賀乱あり」とあり、その後は確実な史料から平賀氏の名前が見えなくなっているということで、その頃平賀氏は滅亡したのではないかと考えられている。大井氏の支配下に置かれたのであろう。

 その後武田晴信が侵攻してくると、佐久地域は武田氏の勢力下に置かれることとなる。これ以後、平賀城がどのように使用されていたのかはよく分からない。

 なお、武田晴信の初陣で攻め落とされた海ノ口城の城主が平賀源心という者であり、この平賀氏の一族であったということになっている。しかし、この話は『甲陽軍鑑』にしか現れないものであり、平賀源心が実在したかどうかを含めて、現在では怪しい話というように言われている。もし実際に平賀源心が海ノ口城の城主として存在していたとするなら、大井氏に破れ平賀地方から脱出した平賀氏の一族が、海ノ口城にかろうじて残っていたということになろうか。


































大竹屋旅館