長野県下条村

吉岡城(下条村吉岡)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板を参考にした。

 吉岡城は国道151号線の「ひさわ」の交差点のすぐ南側にある。北側と南側の両方が川(北ノ沢川、南ノ沢川)に削られた段丘となっており、なかなかの要害地形であるといっていい。川からの比高は20mほどはある。2つの河川に挟まれた段丘にはかなりの面積があり、これに南北に堀切を入れて、複数の郭を形成していたようである。

 1郭は吉岡城址公園となっていて、国道151号線沿いに城址を示す大きな案内板も設置されている。案内板の所から右手に回り込んで台地の左側に回りこむと、そこが城址公園であり、車を停めておくことも可能である。広大な台地を取り込んだ城郭であり、城主下条氏の勢力を大きさを感じさせる城でもあるともいえるだろう。

 といっても、現状では遺構の多くが破壊されているために、旧状をしのぶのは難しくなってしまっている。また、訪問時間が短時間であったということもあり、城域内のすべてを見切れてはいないので、鳥瞰図についても、非常におおざっぱなものであるにすぎない。見落としている遺構があちこちにあると思われる。

 国道の切り通しの西側で、現在吉岡公園となっている部分が本郭である。方100mほどもあり、本郭とするには十分な広さがある。ここに案内板や城址碑も設置されている。

 本郭の西側には深さ7m、幅15mほどの非常に大規模な堀切があり、その西側に神社が祭られている。ここは本郭の西側を守る要の郭であり、その先の下にはさらに堀切が存在している。おそらくかつては、その下の低地部分にも堀が存在していたのだと思われるが、現状ではよく分からなくなってしまっているようだ。

 本郭の東側の切り通し辺りには馬場があったらしい。そこから堀切を隔てて東側が二の郭ということになる。ここから東側は宅地や畑となっているために、堀などはかなり埋められてしまっているようで、明確な遺構はあまり見られなくなってしまっている。

 それでも城内には案内板が親切に設置されており、二の郭入り口の「二の門跡」やその東側の「枡形跡」といった案内が目を惹く。

 枡形部分には明確な堀の跡は残されていないが、道がややクランク状になっており、その周囲にはやはりクランクした土手が残されている。堀こそはないが、段差は今でも見られ、これらが枡形と周囲の堀の名残であるのかもしれない。

 城域はさらに広大で、3の郭の先には外堀もあり、城下町も形成されていたようである。しかし、その辺も改変が進んでしまっており、現在ではよく分からない。

 吉岡城は非常に広大な城であったが、遺構の多くが失われており、旧状をしのぶよすがが心もとなくなっているのが残念な城である。

1郭西側の堀切。深さ6m、幅が10m以上もある大規模なものである。 西側の郭に祭られている神社。
そのさらに西側下にも堀切が見えている。 1郭の東側は国道151号線が通り、城址の一部が削られてしまっている。
2郭との間の堀跡。 2郭東側の枡形跡。確かに方形の土手が残っているが、これが枡形の名残なのであろうか。
 吉岡氏は当地の豪族下條氏の居城である。下條氏はかつては南側の古城を居城としていたが、そちらが手狭になってしまったので、文明年間、6代康氏の時に吉岡城を築いて、こちらに移ってきた、下條氏は甲斐源氏の小笠原一族であったといわれる。

 9代信氏は武田信玄の妹を婿に迎え、武田氏の伊那侵攻に協力したために、武田氏の有力な家臣となっていたが、天正10年(1582)、織田信長による武田殲滅作戦の際に、弟氏長の裏切りに遭い、城を追われて三河に脱出し、その地で没してしまった。

 その後、11代頼安は、本能寺の変で織田勢力が衰退した隙を突き、また徳川家康の支援をも得て信州に侵攻、吉岡城の奪回に成功した。頼安は伊那郡において家康から多くの所領を得ることになる。ところが2年後、松尾城において謀殺されてしまう。

 頼安の死後、12代牛千代が下條家の家督を相続したが、家中の内紛が続いたために、家康から疎まれ、結局下条氏は改易されてしまうことになる。

 下条氏が去ってから吉岡城も廃城となった。その後、江戸時代に入って、城内には代官所が置かれていたりしたが、寛永年間、旗本の知久氏らによって破壊されてしまったという。





































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