長野県高遠町

*参考資料  「日本城郭体系」

高遠城(高遠町高遠)

 高遠城は、高遠の町を見下ろす台地の上に築かれている。三峯川に臨む南西の先端部が本丸となり、川面からの比高は30mほどある。
 高遠城には以前から一度来てみたかったのだが、なかなかその機会がなかった。05年11月の飛騨ツアーの最終日にオカちゃんに無理を言って高遠城に寄ってもらうことにした。しかしなんとか城に着いたのが5時すぎ。それから急いで回ったのだが、すぐに周囲は暗くなり、5時半にはすっかり闇が落ちてきてしまった。下の写真が全体にぶれているのはそのためで、デジカメなのでかろうじて撮影できているが、普通のフィルムカメラではまったく映らなかったところであろう。それゆえ、城も細かいところはよく見ることができず、全体像の把握もいまいちとなってしまった。それでも念願の高遠城に来ることができたのは満足である!
 台地下から上がっていくと、グランドとなっている三の丸に到達する。そこから藩校の前を通って歩いていくと二の丸の入口の橋があるが、ここから内部が城址公園となっている。高遠閣の脇に、公園入口のゲートがある。桜の季節などいい時期には、城内を閉め切って入城するのに400円を徴収するらしい。確かに高遠の桜はとても有名なのだが、このような城郭で入場料を取るのはどうかなあという気がする。
 二の丸をさらに歩いていくと、本丸の橋と門が見えてくる。この門は、いかにも中世城郭にふさわしいような門で場所に合っているのだが、これは城門ではなく、もともとは城下町にあった町屋の問屋門であったということである。門を入ると、両側に低い石垣があるのが見られるが、これは遺構なのだろうか。
 堀は深さ10m近くある大きなものである。高遠城は近世も使用されているので、あるいは近世城郭となる際に堀広げられている面もあるのかもしれないが、この堀の大きさにはなかなか感動できる。底には池も設けられていて、堀底に降りることもできるようになっている。
 本丸の東南の先端あたりに櫓が建っている。しかしこれも模擬であるようで、結局、きちんとした復元建造物はなさそうだ。本丸の下には小郭があってそこは「笹郭」と呼ばれている。主要な郭の下に笹郭と呼ばれる小郭を置くのは、武田氏関連の城郭に時折見られることである。
 本丸の南側には南郭があるが、その間の堀もとても大きい。谷底に降りていく部分は天然の沢を利用しているのであろうか。そうでないとしたら、ものすごい土木量である。
 城そのものは、これ以外の周辺部にもさらに郭を持っていたようであるが、宅地化などが進んでいて、跡の部分はだいぶ改変されている模様である。法憧院郭の外側の堀も道路になってしまっている。この郭の東側に高遠美術館があり、そこにはリアルさに欠けるのっぽな三層天守が建っている。
 現在見られる高遠城はこのような感じであるが、近世城郭としても使用されていただけあって、石垣のない城とはいっても、それなりに重厚で見応えのある城であるといえるだろう。

西側下の城下町から見た高遠城。比高20mほどの台地上にある。 高遠城の楼門。ここにかつて高遠城があったときに、高校の正門として使われていたという。
高遠の藩校。数少ない現存建造物の1つである。もう5時を過ぎているので閉館していたが、電気だけは皓々として輝いていた。 2の丸への入口。入ったところに入場料を取る関門がある。デジカメなのでなんとか撮影できているが、実際はすでに闇が降りてきている。
本丸の橋と門。門は城のものではなく、もとは民家にあったものだという。 本丸の先端にある模擬櫓。
資料館に建つ模擬天守。しかしまあ、どうしてこんなに細いのだろう。ダイエットしすぎである。日本一細長い天守と言えよう。 駐車場になっている三の丸。辺りはすっかり闇の中である。三日月と一番星、そしてその下に仁科五郎の墓がある五郎山がある。
 高遠城はもともと武田氏に属する城であった。
 天正10年2月の、織田信長による信濃侵攻で、高遠城は攻め落とされ、城主、仁科盛信は切腹して果てた。その様子は「信長公記」によるとこんな感じ。
 天正10年(1582)2月1日、木曽義昌が寝返るという知らせを受けた信長は、出陣の決意をする。
 2月2日、武田勝頼も、木曽義昌謀反の知らせを受け、1万5千の兵を諏訪まで出す。
 2月3日、信長、出陣の触れを出す。駿河口から家康、関東口から北条氏政、飛騨口から金森長近を大将とし、信長・信忠父子は伊奈口より出勢を決める。
 2月9日、信長、信州に至って触書を出す。
 2月14日、信忠、岩村に着陣。同日、信濃松尾の城主小笠原掃部大輔が味方になるという申し入れをしてきたことを受け、妻子口から、団平八、森勝蔵が先陣として、晴南口から働き、木曽峠を打ち越えて、なしの峠へ乱入、飯田城を攻める。
 2月15日、森勝蔵、市田まで進出。
 2月16日、鳥居峠にて、敵今福筑前守の軍勢を打ち破る。その後、織田信忠は、日向玄徳齋の籠もる大島城を攻撃、落城させる。信忠はそのまま大島城に在城。その後、大島城に川尻秀高、毛利秀頼を入れて、信忠はさらに前進。
 2月25日、穴山信君、寝返り。
 2月28日、武田勝頼は諏訪の上原城を引き払い、新府城に籠もる。
 3月1日、信忠はさらに前進、高遠城攻撃のため、川を挟んだ高山に着陣、高遠城の様子を伺う。
 3月1日、高遠城攻撃を開始。信忠は、尾根続きの搦め手口から寄せる。大手口には森勝蔵、団平八、毛利秀頼、川尻秀高、小笠原掃部らが寄せる。敵が城内に引き上げる際には、信忠自身が追尾し、城の塀に乗り「一時に攻め込め!」と指示を出す。これによって、大手口、搦め手口から、織田勢はどんどん乱入、城内の兵は奮戦したがかなわず、城内の女、子供を一人一人引き寄せて、殺害した。結局、城主、仁科五郎盛信を始めとして、討ち取られた首の数は400にも及んだ。難城である高遠城を攻め落としたこの度の信忠の功績は偉大であり、信長の後継者の面目躍如たるものがあった。
 3月3日、信忠は諏訪に至り、あちこちに放火した。

 とまあ、こんな具合である。こうして、結局、武田氏は滅亡していくことになる。
 その後高遠城は織田支配下となるが、わずか半年後には本能寺の変が起こり、信長の勢力は信濃から胡散霧消してしまう。替わって信濃の支配者となったのは徳川氏で、家康は保科氏を高遠城に入れた。しかし、小田原の役の後、徳川氏は関八州に転封されることとなった。保科氏も下総多古に移され、高遠城には毛利秀頼、京極高知らが在城した。
 関が原の役が起こると、再び保科氏が2万5千石で高遠城主となった。この保科氏が、徳川秀忠の子、正之を養育した話は有名である。保科氏の後は鳥居氏、内藤氏らが城主となり明治維新にいたる。
 正徳4年(1714)1月には起きた、大奥女中江島と歌舞伎役者生島新五郎とのスキャダルが起こり、江島はこの高遠に流されている。 







大竹屋旅館