長野県筑北村

*参考サイト  埋もれた古城  北緯36度付近の中世城郭

青柳城(筑北村青柳)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板の図を参考にした。

 青柳城は、長野自動車道の「筑北PA」のすぐ東南に見える城山に築かれている。この城山、比高でも250m、標高はなんと905mもある、まことに近づきがたいほどの山であるが、幸いなことに現在では城址まで車で上がることのできる道が付いているので、城まで到達するのは比較的容易である。もし下から歩いて上がったなら、それだけでもう半日は終わってしまいそうな城である。

 登り口はちょいと分かりにくいが、城山の南西側下にあるJR坂北駅の辺りから、磧水寺を経て東山地区の方へどんどん上がっていけばよい。山に続く道なのに、ちゃんとした立派な道であるのが不思議であるが、東山地区まで登ってみてびっくり! このような山中に集落があるのである。しかも山上がかなり広大な畑地になっている。山の上であるにもかかわらず、集落が営めそうな広大な平場が存在しているのだ。まさに隠れ里のような所である。この東山の集落と言うのは昔から存在していたのであろうか。だとすると、青柳城はこの集落に付設した城郭ということになるのではないだろうか。

 その集落を突き抜けてさらに進んでいくと、道の脇「青柳城址」の看板が出ているのに気が付く。逆に言うと、この案内がないとどちらに向かっていけばよいのか分からなくなってしまうので、見落とさないように注意した方がよい。案内の矢印表示に従って進んでいけば、やがて城址公園の入り口に到達することができる。道路のすぐ脇に模擬の櫓門や塀が建てられており、城址公園に到達したことがすぐ分かるようになっている。そのちょっと上に駐車場も配置されている。

 入り口の城門や櫓がある所は本来このような建造物がある場所ではないが、これがいかにも城址公園らしい雰囲気をかもし出している。この程度の模擬建造物なら、考証にうるさい人でもとりあえず許せるのではないだろうか。実際にはここから尾根を降っていった辺りから城域内となる。

 斜面を降りていくとまず目に入ってくるのが、大規模な二重堀である。いきなり強烈パンチをお見舞いされたと思うほどの見事な堀切である。これが城内でも最大の遺構となろう。堀切の深いところは10m近くもあるのではないかと思われ、これによって城域外との間を完全に分断することを図っている。

 この二重堀切をすぎて城塁を登ったところが7の郭となる。7は細尾根そのままといった感じの郭で、削平も十分にされていない。自然地形の部分がほとんどである。ただし途中に、浅い堀切のようなものが2ヶ所ほどに見られる。この城の遺構は大規模なものと、遺構だかなんだか分からないような小規模なものとが並存しているのが特徴である。この小さいやつは、堀切というより、あるいは天然の窪みに過ぎないのだろうか?

 さらに進んでいくと、6の郭との間の堀切が見えてくる。6の城塁にはもともと岩場があったようで、この堀切は岩盤むき出しのようなものである。その側面には崩落の跡が見られ、また脇の腰曲輪には崩落したと思われる石が相当数転がっている。あるいは、一部には石垣として積まれていたものなのかもしれない。

 6の郭も半分自然地形のようなもので、やはり途中に小規模な堀切状のものがあったりする。5の手前の大堀切に接続する6郭側にはささやかな堀切が掘られており、大きさがアンバランスながら、見ようによってはここも二重堀切である、ということもできそうだ。

 この小さな堀切を越えていくと、5の郭との間の堀切部分に出る。現地の案内板によると、この5郭からが城の中心部分となる、ということであるらしい。5郭の城塁には土塁が盛られ、また堀切に面した斜面には一部石垣も積まれている。また、これまでの郭とは異なり、5郭はきちんと削平が成されている。ただし、もともとが細尾根であるから、それほど広い空間を生み出すことはできなかったようだ。

 そこから5郭、4郭と続いて、やや降った3郭に冠木門が復元されていた。門の位置がこれでよいのかどうか疑問を感じないでもないが、このような中世の城にあった門としては、かなりリアルな印象を受ける門である。城の門といっても、実際にもこの程度の簡素なものだったのだろうと思う。

 その先に2郭、1郭と続いているが、2郭と1郭との入り口はそれぞれ、小規模ながら枡形状になっている。また、1郭の西側には一部だけ、石垣がしっかりと積まれている。石材の量の関係で一部にしか積めなかったのだと思うが、人の身長ほどの高さがあり、なかなか立派なものである。急斜面にある上に、ちょっと膨らんでいるので、大雨か地震が来たら崩壊しそうに見えなくもないのが気になる。

 さて、セオリー通り先端が主郭である。ここも30m×10mほどと、たいして広い空間ではないが、何しろ標高が高く、先端にあるため眺望はすこぶるよい。すぐ真下には長野自動車道が通っているのが見えている。この景色を見るだけでも、この城に来る価値があると言ってもいいだろう。思わずヤッホーと叫びたくなってしまう。もちろんすぐに木霊が返ってくる。

 さて、これ以外にも山麓までの間の斜面に腰曲輪などがあるらしいが、今回はそちらまで確認してはいない。図面を見た限りは帯曲輪に近いもののようであり、要するに兵力を駐屯させるスペースではなく、切岸加工によって生じたものであろう。城の主体はあくまでも尾根上にあったとみてよさそうである。

 このように、尾根上に非常に充実した遺構を見せている青柳城ではあるが、尾根上に築かれた郭はどれもこれもそれほど広いものではなく、たくさんの人員を籠めるには不十分である。遺構の見事さとは対照的に、多くの兵を籠城させえない城でもある。非常に高い山に築かれていると言うこともあり、つまりは、いざと言うときの詰めの城であった、ということになるだろう。青柳氏の平素の居館は、山麓にある清長寺にあったという。

北西側の国道403号線から見た青柳城。下からの比高は250mほどもある。 青柳地区から登っていき、案内板に従って進んでいくと、城址公園入り口の城門が見えてくる。なかなかいい雰囲気だ。しかし、これのあるところは、正確にはまだ城域内ではない。ここから斜面を降っていったところが城址である。
まず目に入ってくるのは巨大な二重堀である。中央に移っているのが、間の土塁で、その手前とあちら側が堀切なのであるが、規模が大きいのでうまく撮影できない。 1重目の堀切を撮るとこんな感じ。深さ10m近くある。
堀切の端は竪堀となって谷底に落ちていっている。 尾根状の7の郭を進んでいくと、やがて6郭との間の堀切が見えてくる。岩盤むき出しの堀切である。
さらに進むと、5郭との間の堀切が目に入ってくる。城塁の上の方には石垣も積まれている。 5郭に残る土塁。
さらに進んでいくと3郭に冠木門が復元されていた。門の位置がここでいいのかどうか疑問はあるが、この頃の城の門って、実際このようなものだったのではないだろうか。 1郭の東側の角にはこのように見事な石垣が積まれている。それにしてもなぜここだけ・・・・?
1郭に進入する部分の枡形構造。といっても、規模は小さなものである。 1郭内部。先端がやや土塁状になっている。
先端から下の高速道路などを眺めたところ。いやあ〜景色がいいなあ。山頂は標高905mの三角点となっている。標高1000m近いのだ。景色がいいはずだ。 山麓にある磧水寺の山門。これもまるで城郭造りだったので、ついでに紹介しておく。
 青柳城の城主青柳氏は、もともとは伊勢神宮の麻績御厨(おみみくりや)の管理者として当地の支配を任されていた人物だという。もともとの居館は山麓にあり、戦国期には小笠原氏に属していたらしい。

 林城のところで述べている通り、天文19年(1550)、武田信玄の侵攻によって小笠原氏は没落、小笠原領は、武田の支配下となる。『高白斎記』天文22年4月11日、葛尾城自落の後、苅屋原の城を出た武田典厩信繁は、「青柳へ御着陣、泊まる」とある。さらに17日には「典厩、青柳の城の御鍬立て」とあり、武田氏によってこの時期に、青柳城はかなり手を加えられているようである。

 こうして青柳氏は武田氏に降伏したため、青柳城と周辺の所領を維持することはできたという。しかし、後にの地域には越後の上杉謙信が何度か侵攻してくるので、青柳城は何度も戦乱に巻き込まれることとなる。

 『高白斎記』天文22年9月3日には「青柳を敵放火」とあり、荒砥城を落とした上杉勢がその余波を駆って、青柳城にも攻撃を加えてきた。しかし、武田方もすぐに反撃を開始し、上杉勢力を追い払うことに成功する。

 しかし、その武田氏は天正10年(1582)、織田信長によって滅ぼされてしまう。しかし、変わり身が早いというかなんというか、青柳氏は織田氏に属し、またまた所領を維持することができた。

 青柳氏の変転はその後もめまぐるしい。武田を滅ぼした信長は、そのわずか3ヶ月後には本能寺において暗殺されてしまう。それと同時に信濃の織田勢力も撤退を余儀なくされた。すると、それにつけこんでこの地域に侵入してきたのは越後の上杉景勝であった。青柳氏はこの時上杉氏に属し、またまた所領を維持した。

 ところが、その後、南信濃から徳川氏の勢力が伸張して来て、かつて属していた小笠原氏が松本に復活を遂げる。すると今度は小笠原氏に属して、またもやピンチを潜り抜ける。

 このように不安定な時代を何度もたくみに乗り越えてきた青柳氏であった。このまま最後までうまくいけば近世大名として存続することも可能だったのではないかと思われるが、人生、そううまくはいかないものである。

 天正15年(1587)、小笠原氏の呼び出しを受けて松本城に赴いた青柳氏は、そこで小笠原氏の手のものにかかり、落命してしまう。いったいどうしたことか、小笠原氏は、青柳氏が上杉氏と密命を結んでいるとでも思ったのであろうか。このような境目の領主と言うのは青柳氏に限らず、その時その時に強い方にしたがって所領の維持に努めるというのはごくごく当たり前のことであり、かつて上杉氏に属していたことがあったからといって、それほど目くじらを立てるほどのことではない。あるいは、それ以外に何か、疎まれるよな理由があったのであろうか。今となっては知る由もない。

 城主の急死によって、さしもの青柳城も接収されてしまうのである。戦乱の時代をさんざんうまく生き抜いてきた青柳氏だというのに、最後の最後でこけてしまったのであった。合掌!




青柳氏館(筑北村青柳)

 青柳氏の居館は、青柳城の西側山麓にある清永寺のあるところにあったという。現在、明確な遺構は見られないが、寺院の周囲には石垣が巡らされ、内部には池の跡もある。この場所には明治年間に青柳学校が置かれていたこともあり、現在見られる石垣は、その当時に築かれたものであるのかもしれない。

 寺院の背後に青柳一族の墓所があるが、ここには大量の墓石が並んでいる。本家やら分家やら、かなりの氏族がいたようで、往時の青柳氏は、かなり反映していたものと想像される。

 寺院の前面にはゲートボール場があるが、その下には「侍屋敷跡」といった石碑が建てられている。周辺の畑地には、かつて武家屋敷が立ち並んでいたのであろうか。

 館跡の南西側にかつての青柳集落の跡がある。立ち並ぶ民家の土手には石垣が築かれ、東西に通る街道は、いかにも昔の宿場町を思わせるないい雰囲気である。ゆっくりと散策してみても面白いかもしれない。


















青柳城の西側山麓にある清長寺。ここがかつては青柳氏の居館であった。 小学校が建っていたこともあるらしい。「青柳学校跡」の標柱も立っている。石垣は学校に伴うものか。
寺院の入口。この石垣はあるいは遺構であるのかもしれない。 寺院内部にある池の跡。




竹場城(鍋山城・筑北村竹場鍋山)

*鳥瞰図の作成に際しては『信濃の山城と館』を参考にした。

 竹場城は岩殿寺の東1kmほどの所にある。岩殿寺からの比高は170mほどである。今回は岩殿寺の背後の山稜をたどって城址を訪れたのだが、このルートは必ずしもお勧めであるとは言えない。というのも、山稜沿いにかなり歩くことになるということと、途中にキノコ山があって、シーズン中には立ち入りができなくなってしまうであろうことからである。もちろん、山菜を取るなど、誤解を受けるようなことは厳に慎まなければならないが、そうでなくとも、立ち入るのがはばかれるような雰囲気である。

 城の5郭には携帯のアンテナが建てられており、東側山麓からここに登ってくるルートがありそうである。『信濃の山城と館』の解説でも、このルートが最も手っ取り早く登れるとある。また、3郭から南側の尾根に向かっても山道が付けられており、南西麓辺りから登るルートもあったと思われる。ただし、いずれのルートも、今回は登り口を確認していないので、どこから登ればよいのかは、把握できていない。

 城はきわめて簡素なものである。西側の尾根から向かうと、深さ5mほどのわりあい立派な堀切があるが、それを越えたらすぐに1郭となっている。こちら側から攻撃されたら、いきなり主郭が陥落してしまいそうで、やや心もとない構造である。

 1郭は長軸10mほどの小規模な郭であり、多くの建造物を建てることはとてもできない。意外なことに、ここには新しい城址標柱が立てられていた。平成23年とあるから、比較的最近のものである。

 1郭から北東側には尾根が延び、その間にも堀切がある。堀切の先が4郭である。4郭の先にもごく小規模な堀切があり、その先のピークが5郭である。上記の通り、ここには携帯のアンテナが建てられ、ここへの山道が付けられている。

 5郭から先はほとんど自然地形のままであるが、先端の方に5mほどの地形差を利用した堀切が掘られている。これが城の北端を示すものである。

 1郭から南側下にはやや幅広の尾根があり、ここが2郭である。2郭が城内で最も広い郭であるのだが、それにしても、多くの兵員を籠めるほどのスペースはない。

 2郭の先端に堀切があり、その先が3郭である。3郭までが城域内であると想定されるが、ただ、3郭の先は自然地形のままの斜面となっており、人工的な防御遺構が認められない。あるいは3郭はすでに城域外と見る方があっているのかもしれない。

 3郭の先には細尾根が南側に延びており、この上が山道となっている。南西側からこの部分へと続く登り口があるはずである。あるいはこちらが本来の登城道であったか。

 このように竹場城は、それほど加工度が高くない山城であり、多くの兵員が籠れるような拠点的な城郭ではない。青柳城の主要な支城の1つと言われているが、それにしては、あまりぱっとしない城郭である。青柳城の支城というよりも、臨時の逃げ込み場、あるいは物見の砦、といった方がふさわしい程度の城郭である。とはいえ、かなり奥深い山上に位置していることからすれば、地形的な側面だけでも、かなりの要害の地にある山城であるということもできる。


岩殿寺から竹場城方面を見上げたところ。実際の城址は中央の峰のさらに奥の方にあって見えていない。ここからかなり尾根を歩くことになる。 1郭西側の堀切。この城では最大の堀切である。
意外なことに主郭には標柱が立てられていた。それもけっこう新しく、平成23年とある。 4の郭から1郭城塁を見上げたところ。
5の郭には携帯のアンテナが建っている。 2郭と3郭間の堀切から落ちていく竪堀。
2郭の城塁。 5郭よりも先にある最北端の堀切。
 竹場城は、青柳城の主要な支城の1つであったと言われている。『信濃の山城と館』によれば、城主は竹場源之丞定友であったという。

 竹場城は、天正15年に、小笠原貞慶によって松本城内で青柳頼長が謀殺された際に、小笠原勢によって青柳城と共に攻撃されて落城したと言われる。

























大竹屋旅館