長野県千曲市

*参考サイト  埋もれた古城  北緯36度付近の中世城郭

荒砥城(千曲市上山田温泉)

*鳥瞰図の作成に際してはウモ殿の図と、現地パンフレットの図を参考にした。

 荒砥城は、上山田温泉を臨む比高100mほどの山稜上にあり、城山史跡公園として整備されている。山麓の温泉街には「城山通り」などといった道路もあり、さらにはあちこちに城山入り口を示す案内板などもあるので、場所はすぐに分かる。山頂近くまで車であがることも可能なため、訪れやすいといえる。

 今年(07年)は、大河ドラマ「風林火山」のロケ地としてこの城が使用されたこともあってか、それなりに多くの人が見学に訪れていた。ドラマでは晴信の初陣となった海ノ口城攻防戦で、山本勘助も籠城した海ノ口城という設定になっていた。

 もっとも、実際の海ノ口城はこのような石垣で構成された城ではなかったようであるが。訪れた人の会話を聞いていると、「そうそう、この場所が映っていたのを覚えている」といった感じで、やはり「風林火山」のロケ地を見よう、という目的で見学に来ている人が多いようだ。

 城は尾根の先端近くのピークに1郭を置き、段々に4郭ほどを配置するといった構造で、1郭、2郭には往時の状況を復元考証した建造物が建っている。それはいいのだが、石垣も見事に構築され、これによって特徴的な枡形が2ヶ所にわたって建造されている。1郭の枡形も2郭の枡形も同じ構造なので、デジャブーを感じるほどである。

 しかし、この石垣、いかにも新しすぎる。確かに信州にはこのような平石を積み重ねた石垣を持つ城があちこちにあるとはいえ、これほど大規模に積んでいるのは見たことがない。しかもこのように見事な枡形を石垣によって形成していた中世城郭が実際に存在していたのであろうか。というか、この城に、そのようなものが本当にあったのだろうか。これが村上氏系の城郭の特徴なのだろうか。

 石垣のほとんどが、明らかに近年積み上げられたもののように見えたので(つまり本来の遺構と思われるような部分は皆無に近い)、案内所のおじさんに、「この石垣はどこまで本物なのでしょうか」ということを質問してみた。しかし、おじさんもよく分からないようで「さて?」と首をかしげるばかり。それでもさらに突っ込んで話を伺うと、「こんなに石垣はなかったようだが、このような平石はこの地域ではよく採取できる」、「もともと少しは石垣が実際にあったようだ」といった話を聞きだすことができた。

 つまり、もともと石垣が存在していたことは間違いないが、それは本当に一部だけのものであったということである。翻って考えてみるならば、現在、見事に積まれている石垣のほとんどの部分は城址公園の整備に伴ってでっちあげたニセモノであるということになる。もちろん、枡形を形成している石垣にしても同様であろう。つまりこの城址公園、「中世の城を考証して復元した」と銘打ってはいるものの、実際のところは、「本来あった遺構を考証して復元した」といったものではなく、「中世城郭はこんな感じだったということを想像した上で創造してみた」といった手合いであり、要するに模擬で考証者の理想形を造り上げてしまったのが大部分、というのが実態のようである。やっちまったね、という感じである。

 こういうのをどう考えてみたらよいのだろうか、と思う。中世の城址にありもしない模擬天守が建っているのをみて「一般の人が誤解を起こす」といって憤慨する人というのは多い。しかし、模擬天守の場合は、それが明らかに嘘っぽいことが分かるものであり、ある意味開き直った存在であると言える。「勢いででっちあげちまったんだ」ということをそのもの自体が主張しているようなものである。それに対して、「いかにも実際にあったかのようなそれっぽいものを、そこに真実あったかのようにして創造してしまう」ということについてどう見るべきなのであろうか。「本当にこのような遺構が存在していた」という誤解をリアルに生じさせると言う点では、その紛らわしさは模擬天守の比ではなく、より非難されるべきものなのではないだろうか。

 たとえて言うならば、いかにもお水っぽく人を騙しそうな女に、ていよく騙されることには、「あんな女だからしょうがないか」って納得できるのに、素直で純情を装った女を本気で信じていたところ、後で見かけの純情さに騙されていたに過ぎなかったということに気づいた時には、度し難いほどの怒りを覚える、っていうのに似ている。(って、何を言ってるのやら・・・・)

 そういうことを考えてみると、確かに城址公園としては面白い試みであるが、こんな復元でいいのだろうか、ということをついつい考えさせられてしまう公園なのである。こんなことを思うのは俺だけ?

 しかし、まあ城址公園としてはよく整備されているので、訪れても損はないだろう、と言っておく。「風林火山」が話題になっていることでもあるし、それなりに面白い城址公園ではある。

 さて、城は、かなり比高差のある山上に築かれており、これだけではたいした居住スペースもない。といったようなこともあり、実際に城主が平素住んでいたのは、山麓の居館であったらしい。城の南側山麓一帯に、根小屋のような遺構があったことが確認されているらしい。

南側の山麓から見た荒砥城。こうしてみると、かなり高いところにあるが、車で上がれるのがありがたい。 途中の道路から見た葛尾城跡。本当はあちらも登ってみたいのだが、今回は時間がなかった。
駐車場に車を置いて歩き出すとすぐに石垣が見えてくる。確かに石の積み方は信州の城によく見られるものだが、あまりにも新しすぎる。上の案内所のところで入園料300円を払って中に入る。 4の郭。案内所の背後にある。
綴れ折りの道を進んでいくと、次に3の郭が目に入ってくる。この辺りから柵が植えられている。 2の郭入り口の城門と石垣。これくらいならまあリアルな感じがしないでもないのだが・・・・・。
内部に進入するとこんな枡形が・・・・。いかにも後からもっともらしく造ったという代物である。 2の郭櫓の上から郭内を見たところ。右側の兵舎では、ビデオの上演などがされている。
1郭の枡形。2郭のそれとまったく同じ構造で、強烈なデジャブー感に襲われる。見事な枡形である・・・・あまりに見事すぎて、嘘っぽいとしか言いようがない。 1郭から2郭を見たところ。
1郭にある主殿。といっても六畳一間程度の質素なものである。 再び2郭方向を見たところ。
 荒砥城から千曲川をはさんですぐ対岸には、村上義清の本拠地であった葛尾城が見えている。またそれ以外にも、川沿いの両岸の山稜の多くには支城・出城が数多く築かれていたようである。

 荒砥城も葛尾城の支城の1つであり、村上一族であった山田氏の居城であったと言われる。しかし、村上氏が武田信玄に敗れ、信濃を追われて越後に脱出するようになると、荒砥城も没落したものと思われる。その後しばらくの間は、武田方の支城として使用されていたのかもしれない。川中島の合戦が行われていた時期には、上杉謙信がこの地域まで侵入してきたこともあり、その際には上杉勢の攻撃を受けて落城したこともあるという。『高白斎記』天文22年9月1日に「越後衆八幡へ働き、新砥自落」とあるのは、この荒砥城のことであろう。

 天正10年(1582)、武田が滅んだのに続けて信長も殺害されると、信濃は、徳川、北条、上杉らの草刈場状態となる。越後の上杉景勝はこの時とばかり、北信濃になだれ込み、いくつもの城を攻撃する。天正12年(1584)、荒砥城は、上杉勢に攻撃されて落城したという。その上杉勢がこの城をさらに使用し続けたのかどうかは明らかではないが、遠からず、廃城となったものと思われる。





























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