長野県千曲市

*参考資料 『日本城郭体系』 『信濃の山城と館』(宮坂武男)

屋代城(一重山城・千曲市屋代一重山)

*鳥瞰図の作成に際しては『信濃の山城と館』を参考にした。

 屋代城は、しなの鉄道屋代駅のすぐ東側にそびえる比高90mの一重山に築かれていた。駅からも近く、城内はハイキングコースのようになっている。遺構も充実しており、お勧めの城郭である。

 山稜は南北に長く延びており、城域は1km近くもある。しかし、遺構は山稜に沿って段々に展開していくので、北側の山稜下から歩いていけば、ほとんどの遺構を順番に見ていくことが可能である。

 ただ、かつて城山では土取りが行われていたようで、山の中央付近はかなり低い鞍部となっている。そのため、現在城域は北側部分と南側部分の2つに大きく分断されている。

 また、1郭から南側も本来は、さらに南側の山稜と尾根続きになっていたというが、こちらも土取りによって完全に分断されている。そのため高さ90mの切岸面が見られるのであるが、これは近代の工事によるものであり、本来は、南側の山稜との間に何本もの堀切を入れていたのだという。

 山稜北端部には不動尊が祭られており、その下に車数台が停められる駐車スペースがある。そこに車を置いて、山稜を登り始める。

 北端近くは不動尊や御嶽神社となっているためにある程度は改変されていると思われるが、もともとあった段々の郭を利用したものであり、基本構造は城郭の頃とさほど変わっていないものと思われる。左右両端は鋭い斜面となっているので、比高20mほどのこの辺りでも、かなりの防御力があったに違いない。御嶽社の背後には堀切と竪堀があり、これが最初に見られる本格的な遺構である。

 御嶽社を過ぎると墓地があり、そこは三段構造となっていた。その先は傾斜斜面となっており、それを登って行くと矢代神社のあるスペースがある。ここは城内でも最も広いスペースであり。北側部分の中心を成す郭である。人員を集結させるための大広間のようなものが置かれていた可能性のある場所である。

 矢代神社の背後の一段高いところに忠霊塔が祭られており、その後ろにも堀切がある。これを抜けると、緩やかな斜面となっているが、これが8郭である。8郭の先端部は登城道が3方向に分かれているが、これは城郭構造によるものというよりは、後世のものだと思われる。

 8郭の背後にも堀切があり、一段高く7郭がある。7郭の先端部は切り通し状になっており、これが虎口であった。7郭の中央部には西側だけに巨大な竪堀がある。あるいはここにもう1本の堀切があったのかもしれない。

 7郭の先が急に降っており、6郭との間には長さ100m、幅40mほどの広いスペースがある。これだけでもかなりの規模であるが、ここは郭ではなく、土取りが行われた跡の痕跡である。本来城のあった空間はもっと高くい尾根で、間に堀切が1本あったという。また、ここにかつて御嶽社が祭られていた。とはいえ、もともと鞍部地形であったようで、かつてこの場所は「馬の背」と呼ばれていた。この部分を境に城域が南側と北側に分かれるという構造は、もともとのものであったとも言える。

 急斜面を登って6郭に行くと、ここからさらに遺構規模は大きくなっていく。6郭の先には5郭があり間には深い堀切がある。5郭内部は段々の構造となっており、さらに堀切があって、その先に一段高く4郭がある。

 4郭は南北にかなり長く、南側は段々の構造となっている。この先の堀切を越えていった所が3郭である。

 3郭に入ると、2郭の城塁が目に入ってくる。要害的な雰囲気が最も感じられる場所である。2郭の手前にはテラス状の小郭があり、その手前に城内最大の堀切がある。さらに堀切の遮蔽効果を高めるために、その前面には土塁が盛られている。なかなかの見どころとなっている。

 2郭の城塁上から見ると、3郭や下の堀切を通ってくる敵が丸見えであり、城塁上から攻撃するのは容易であったろう。

 それを抜けるといよいよ主郭である。主郭部は1m程度の低い段差によって2段構造となっており、これを1郭・2郭とした。1郭には案内板が立てられている。

 もう1つ、1郭に特徴的なのが、縁部に石積みが見られるということである。高さは2m未満であり、防御構造物というよりは、土留の意味合いが強いものである。石積みは西側のものの方が規模が大きく、あるいは西側の山麓に向けて「見せる」ことを意図したものであるかもしれない。

 1郭から先にはさらに遺構が存在していたようであるが、土取りによって消滅して、深い谷間となっている。これはこれで、より要害性が高まったと言えるような状況であるが、これはあくまでも後世の改変である。

 その他に、この城の側面部の斜面には多数の腰曲輪が設けられ、その様子は宮坂氏の図面にも描かれている。しかし、今回は時間の関係もあり、これらの腰曲輪を探索し図化するまでは至っていない。かなり下部の方にまで分散しながら腰曲輪が及んでいる状況を見た感じでは、居住のための郭というよりは、切岸加工を各所に施したがゆえに生じたもの、と見るべきものではないかと考えられる。

 それにしても、これだけの遺構が見られる山城が都市部にあり、お手軽に訪問できるとはなかなか素晴らしいことである。山城初心者にもお勧めのお城である。

 ところで、この城を訪れたのは3月の3連休中の早朝であったのだが、1郭で、城を訪れている若いカップルと遭遇した。こんな時間に城を訪れるのはよほどのマニアに違いないと思って、「余湖くんのホームページって知っていますか」と話しかけたら、よく見てくれているようであった。さらに「私が余湖です」といったら、喜んでくれた。こういうちょっとした出会いというのも、うれしいものである。

この日宿泊したホテルの駐車場から見た屋代城主郭部。堀切が見えている。 北端下の不動尊の所から取り付いた。車数台が停められる駐車場がある。
不動尊を登り御嶽社の所に向かう。 さらに進むと矢代神社の所に出る。まだまだ先は長い。ここが9郭である。
8郭手前の堀切。 7郭手前の堀切。
6郭と7郭との間の「馬の背」と呼ばれる鞍部。土取りが行われているため平坦になっているが、本来は尾根続きであったらしい。 4郭手前の堀切。
同じ堀切と土橋を上から見たところ。 3郭手前の堀切と土橋。
2郭城塁。堀切の手前に土塁が盛られている。 2郭下の堀切。右側が手前の土塁。
2郭下の腰曲輪から下の堀切を見降ろしたところ。 1郭内部。けっこう広々としている。
1郭西側の石垣。 同じく南西端の石垣。
1郭の南端部。現在は完全に独立した山となっているが、土取りが行われる以前は、背後の山稜と尾根続きであったという。 1郭西側の堀切を別角度から。土留めのためのものであろう。
 屋代城は、村上一族の屋代氏の居城である。屋代氏は村上氏の重臣であり、室町時代中期の永享の乱の頃から、村上氏に従って各地に転戦している。

 天文年間に武田氏の信濃侵攻が始まると、村上氏は激しく抵抗し、戸石城や上田原では、武田晴信に苦杯を飲ませることになるが、真田幸綱の戸石城攻略が成功した後、屋代氏は塩崎氏と供に、武田氏への内応を約束するに至る。村上氏が没落した後は武田氏に属することになったであろう。

 天正10年、武田氏が滅亡すると屋代秀正の動きは活発化する。直後は織田方の森氏に属していた屋代氏であるが、本能寺の変以後は上杉方に属して安泰を図ろうとした。

 しかし、徳川方からの誘いがあったのであろうか。その後、屋代秀正は徳川方に転身する。そのため上杉氏と敵対関係に陥り、当時居城としていた荒砥城を攻め落とされることとなる。

 ところで、荒砥城は屋代城に比べると、かなり規模が小さく、あまり多数の兵を配置できる城郭ではない。どうして、屋代城を捨てて、荒砥城に居城を映したのであろうか。一説には、屋代城では上杉氏が拠点としていた松代城に近すぎるため防御的な理由からであるという。

 確かに屋代城の方が松代城に近い。しかし、街道を降って行けば、荒砥城にだってすぐに到達できてしまう。たいした距離の差ではないように思える。

 思うに、屋代城は確かに大きな城であるが、大きいがゆえに城全体を守備するためにはかなりの人数が必要となる。それに比べると荒砥城は比較的少数でも守り切れる城である。天正壬午の乱の頃の屋代氏は、屋代城を守備するだけの十分な人数を有しておらず、やむを得ず屋代城を捨てて、荒砥城に拠ることになったのではなかろうか。

 その後は節をたがえることなく徳川氏に仕え、近世初期には1万石の大名となったという。その後屋代氏は改易の憂き目を見るが、旗本となって幕末まで続いていくことになる。









































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