長野県東御(とうみ)市

*参考・関連サイト  埋もれた古城  北緯36度付近の中世城郭  ちえぞー!城行こまい

祢津下の城(東御市祢津字城山)

*鳥瞰図の作成に際しては『図解 山城探訪』(宮坂武男)を参考にした。

 上信越自動車道の東部湯の丸SAから目の前に見えるいかにも城山といった感じの比高130mほどの山が祢津下の城である。山麓からでも山上の郭が見え、城址であることが分かる。一応、城址公園というべきであろう。途中までの道は分かりにくく細いが、城山の方に向かってとにかく進んでいけばやがて駐車スペースのあるところに到達する。そこから先にも未舗装の道が山上に向かって続いているのだが、途中が結構荒れているので、オフロード車以外はやめて置いた方が無難である。実際、この日ヤブレンジャーが乗っていたミラージュ号は、底をこすってあえなく撤退することになってしまった。駐車スペースのあるところからの比高差は70mほどあるが、それほど道もきつくなく、10分ほどで主要部に到達することができる。

 登城道を登っていくと、途中ところどころに細い帯曲輪のようなものがある。といってもそれらの幅はほんの数m程度であり、これは果樹か何かを栽培していた時の名残であろうか。実際に遺構らしきものが始まるのはBの虎口状の部分からである。Bを抜けると、その内部は横堀状の空間になっている。そこから数段の腰曲輪を経由して1郭下の腰曲輪に出ることとなる。

 先端の1郭は長軸30mほどの楕円形をしている。先端に突き出た地形であるために、ここからの眺望は非常によい。なるほど、ここに城を持つということは象徴的な意味合いもあったのだろうなと感じた次第。1郭の周囲には土塁が盛られている。

 1郭の北側には堀切を隔てて2郭がある。この城の堀切の特徴であるが、主要な郭がいきなり堀切に面するのではなくて、その間に一段の腰曲輪を置いている。2郭の堀切も同様である。

 もっとも注目すべきなのは、2郭からさらに北側の構造である。まず2郭北側の堀切は、直線的でなく2ヶ所で折れを見せている。これは設計思想が新しいものというべきであろうか。堀切は途中から竪堀となり、他の竪堀と合流することになる。また3郭側の城塁には巨大な岩があって、これがまた堀底を威嚇しているように見える。

 また、この先の3郭には先端に窪んだ地形の郭4がある。参考にした図面ではこれを「池」としている。この日は雨の翌日であったこともあり、確かに4には水が溜まっていたが、これを池とするのはいかがなものであろうか。4は城外の尾根と接する部分であり、虎口に関連した遺構と見るのが自然ではなかろうか。たとえば変形した馬出しであるといった具合に。とはいえ、山中に池を造って水の手として、さらに水堀としての機能をも合わせ持たせたという発想もあながち無理ではないという気もする。といった具合に判断が迷ってしまうのであるが、どちらかといえば、馬出し説の方が可能性が高いような気がする。

 上で述べたとおり、3郭周辺から落ちている3本の竪堀は途中で合流していく。といっても一本になるわけではなく、二重竪堀となって長く延びている。二重竪堀のうち北側の部分の上の方には幽邃点があるらしく、堀底をささやかな小川が流れている。

 山上の畑に通じる未舗装の車道は、この二重竪堀を2回横断して山上に向かっている。このため竪堀は2度にわたって分断されているが、それでも二重竪堀の構造は明瞭である。南側の竪堀の南の城塁の縁部分には石列が認められる。

 この竪堀はどのような機能を持たせたものだったであろうか。通常竪堀は、横移動を防止するためのものであるといわれる。しかし、この城の斜面はそれほど急峻なものではなく、横移動を防止するだけの分断効果があったとは思われない。むしろこの竪堀は通路として用いられたものであったかもしれない。敵兵の進軍路を限定することによって、攻撃目標を絞りやすくするという効果を狙っていたのではないだろうか。こうして進んでいった先が3郭と4郭の周辺であったことからも、4郭が池などではなく、防御のための空間であったと思われる。

 下の駐車場の脇のAの部分には高さ1mあまりの石垣が長く続いている。塁線は途中で折れを伴ってもいるのだが、これは遺構であるのだろうか。畑の跡と見る方が自然であろうか。

 長野の城をそれほどたくさん見ているわけではないが、この城の構造は全体的にこの地域では比較的珍しいもののように思われる。これを祢津氏の独創性によるものであると見てよいのであろうか。だとすると祢津氏は独特の築城思想を持っていたということになるだろう。

 4郭の先から尾根道がずっと続いていて、そのはるか先に上の城がある。上の城に至るまでの尾根はかなり幅広であり、途中には果樹園の跡と思われる広い空間もある。下の城と上の城とを一体化した城郭としてみた場合、この間の広大なスペースも、兵力の駐屯地として有効に機能していたと考えられる。

上信越自動車道の東部湯の丸SAから見た祢津城。山麓からの比高は130mほどある。いかにも城のありそうな象徴的な形態の山である。 細い道を上がっていくと、やがて駐車場があり、その付近から登り口がある。さらに舗装のない道が山上近くまで続いているが、軽トラでもなければ厳しい道である。素直に駐車場に置いて歩いた方が無難だ。ここからの比高は70mほど。
Bの虎口状の部分。この両脇の内部は横堀状になっていた。 腰曲輪から見た1郭城塁。下にいるウモ殿の大きさと比べてみれば、かなり高さがある城塁であることが分かるであろう。
1郭内部。周囲は土塁で囲まれている。こんな所まで遊びに来ている子供たちがいるのには驚いた。 1郭から見た上信越道。はるか下に見えるSAから撮影したのが一番最初の写真である。
1郭背後の堀切。深さは5mほど。 左の堀切の底から1郭方向を見たところ。1郭との間には腰曲輪が一段ある。
2郭の下にも腰曲輪があり、その先には堀切がある。この堀切は堀底がジグザグに折れており、さらにその東側先端が竪堀となって下に落ちている。 4の部分。確かに水が溜まっており、池の跡のようでもあるが、これを池と言ってしまっていいものかどうか。どちらかというと馬出しの一種のような気がする。
3郭周辺から延びた3つの竪堀は合流して二重竪堀となり下に延びている。その脇には石列が続いているのだが、これは崩落防止のためのものだろうか。 Aの辺りには高さ1mあまりの石垣がずっと延びている。しかも折れまである。これは遺構なのか、それとも単なる畑の跡が。
 祢津城の城主であった祢津氏は古い士族であり、保元の乱で源義朝に従った武将の中にはすでに祢津神平の名が見えるという。信濃の古い豪族だったのであろう。木曽義仲の挙兵、源頼朝の上洛の際の隋兵、承久の乱の時の幕府方武将などにも祢津氏の名が見られ、その時代時代を巧みに泳ぎきっていた一族であったようである。

 天文10年代に入り、武田氏の侵攻が佐久地域に及んでくると、祢津氏は武田氏に属するようになる。さらに武田氏の滅亡後は北条氏に仕え、その後は真田氏に属したという。まったくめまぐるしい転変だが、最終的に氏族として生き残っているのだから、方向は誤っていなかったということであろう。 




祢津上の城(東御市祢津)

祢津下の城から尾根道を歩いていった先に上の城がある。ここからの比高はさらに100mほどである。




矢立城(東御市和字城山)

*鳥瞰図の作成に際しては『図解 山城探訪』(宮坂武男)を参考にした。

 矢立城は、祢津城のすぐ北西側の比高180mほどの城山の先端部にあった。姫子沢の集落のすぐ北西に当たり、この集落と何らかの関係があったのであろう。この姫子沢集落から上がってくる道もあったと思われるが、一番アクセスしやすいのは、尾根の基部近くにあるヴィラデストワイナリーの脇辺りから山稜に取り付き、後はひたすら先端部を目指すことである。もしこのワイナリーの敷地を通らせてもらったら、帰りにはワインの1本も買ってあげよう。

 尾根を進んでいくとまずEの切り通し道に出る。一見堀切かと思われるのであるが、尾根の途中までしか掘られておらず、後代の切り通し通路であろう。切り通しがくの字に折れているのも、通路であったゆえんであろう。さらに進むとDの切り通しがある。これも途中までしか掘られておらず、通路であったと思われる。

 さらに進んでいくとCの堀切がある。この堀切はかなり埋まっているようだが、両端は竪堀となり、郭内側に土塁も認められる。ここからが城内ということになろう。

 その先にはBの堀切、Aの堀切と続く。このうちAとBの間の部分が切り通しとなっているのだが、削り方が新しく、Bの土橋も不自然に幅広となっている。どうやら近年の工事によって改変されてしまっているようである。Aの堀底が不自然に窪んだり削られたりしているのもその影響であろう。どうしてこんな山中で工事が行われたのかは不明だが、ワイナリーの建設の際に余った土砂や岩石をここに運んできて捨てたのではないかと想像する者もいた。

 Aの堀切は北側は大きな竪堀となり、やがて岩盤によって造られた段差を境にして二本に分岐していく。途中の堀底にある岩盤は見ようによっては畝状に見られなくもない。

 一方南側は竪堀となっておらず岩盤によって分断されている。こちら側の斜面には石積みと思われる部分もあちこちにあるのだが、天然の岩盤が割れただけなのか、本当に石積みなのか判別しがたい。その下にFの石垣がある。この石垣は明らかに後世のものであるが、このような山中にこうして石垣を積む必然性があったとも思われず、やはり謎の遺構である。

 Aの竪堀の先は高さ10m近い城塁となって立ちはだかり、そこが1郭である。1郭は長軸30mほどの細長い郭で、A側には高さ4mほどもある高い土塁を配置している。A側の城塁の高さは10mほどであるから、そのうちの4mほどは積み上げた土塁の高さということになる
 土塁は他方向では低くめぐらされ、その下に小規模な石積みがある。その下に2、3といった腰曲輪が続いているが、天然の岩盤を利用した部分が多くどこまでが確実に郭といえるのか、明確でない部分もある。3には低いながらも土塁があり、天然岩を利用したと思われる虎口もあることから、ここまでは確実に城内であるが、その先はよく分からない。この先も尾根道が付いているようなので、山麓部分までこれが続いていると思われる。

 1郭を中心に若干の腰曲輪によって構成された城であるが、きちんとした郭は1郭だけであり、全体としては小規模な砦であったと見るべきであろう。山麓の集落の緊急時の逃げ込み場所であったろうか。




北側のヴィラデストワイナリー付近から見た矢立城。先端まではけっこう尾根が長い。下からの比高は180mほどある。 Cの堀切。といってもだいぶ埋まっているようで、写真では判別しづらい。城内側には低い土塁が盛られている。
Bの土橋から、切り通し部分を見たところ。この先にAの堀切があり、その正面が1郭の城塁である。 Aの堀切。1郭側の城塁は高さ10m近くある。
1郭の城塁に築かれた石垣。かなり部分的にしか存在していない。 Aの堀切の南側斜面にはこのように石垣だか自然地形だか分からないようなものが所々に見られる。
さらに降りていくとこのような近代的な石垣Fがあった。城の遺構ではないと思うが、このような山中にどうしてこんな石垣を築いたのであろうか。 1郭先端下の石垣。
2や3の郭は削平も不十分で、どこまで郭なのかはっきりしない。3郭には低い土塁と、天然の岩を利用したような虎口がある。 Aの竪堀は北側斜面に向かって長く延びて行き、先端の方で2つに分岐している。
 矢立城の歴史は不明である。すぐ東南側に祢津城があるので、これとなんらかの関係があったものかもしれない。あるいは北側の真田氏と関連しているか。構造的には天白城、松尾古城などと似ているような気がするが、構造面だけで歴史を云々することはできないであろう。





























大竹屋旅館