長野県上田市

*参考・関連サイト  埋もれた古城  北緯36度付近の中世城郭  ちえぞー!城いこまい

上田城(上田市上田)

*鳥瞰図の作成に際しては「正保城絵図」を参考にした。

 上田城は真田の城として著名である。真田昌幸が三度にわたって、徳川の大軍を苦しめたという歴史を持っているのだから、そのように印象つけられるのもむべなるかな、といったところなのであるが、関ヶ原合戦後すぐに、真田本家は高野山へ追放、徳川に加勢した真田信幸も松代に転封となっているので、実は上田城が真田の城であったのは、ほんの20年ほどのことであるに過ぎない。しかし、それ以降の平和な2百数十年に比べて、真田氏のいた20年ほどのいかに劇的な時代であったことか。

 城は尼ヶ淵に臨む河岸段丘を利用して築かれたものであり、本丸を中心として、コの字型に堀を巡らせて、その外側が二の丸。さらにそれを取り囲むように外堀が巡っている。

 北側のため池、百間濠などといった部分は、もともと天然の池があったところなのであろう。つまり、尼ヶ淵の崖と、天然の池に囲まれた要害地形に、堀切を入れることによって独立させて城郭を形成したということなのであろう。

 近世城郭らしく堀は深いし、枡形もある。しかし、これといって、技巧的な感じもしないし、「真田の城」という特殊な構造をしているわけでもない。いわば、普通の城である。本当にこんな城で、三度に渡って徳川の大軍を翻弄したのだろうかと疑問に思ってしまうところであるが、要するに、籠城の成否というのは、城がいかに頑健であるかどうかということよりも、どのような戦略をもって攻城軍と対峙するかということにかかっているのではないかと思う。戦略さえ優れていれば、城の構造に拘わらずに、勝利をもぎ取ることもできるのではないだろうか。いや、むしろ、城がそれほどのものでないからこそ、敵も侮り、守城側は、城に頼らず、戦略を磨こうとするのかもしれない。

 城の東側には2つの屋敷があったようである。北側が古屋敷、南側のものが御屋敷と古図に書かれている。御屋敷の方は、現在は上田高校の敷地内となり、現在も堀の一部を見ることができる。こうした屋敷を城内に取り込む頃なく、場外に放置しているというのも不思議な構造である。敵が攻めてきたら、真っ先に攻め落とされてしまうことであろう。というか、もともと放置してもよい程度のものであったのだろうか。あるいは真田らしく、何らかの囮にしようとしていたのかもしれない。

 ところで、城内には3基の現存櫓がある。このうちの2つは、かつては城下に移築され、遊郭として使用されていたものだという。「かつて遊郭であった」などというと、かなりつやっぽい印象を感じそうなものであるが、しかし、現実の櫓は、遊郭などという想像を追放してしまいそうなくらいに無骨な構造物であるに過ぎない。「これが遊郭かい」ってな感じである。しかし、知人にそれを言ったら、「確かに遊郭のような建物だ」といって妙に感心していた。「遊郭ってこんな建物でしょ?」というのだが、本当にそんなものだろうか・・・。よく分からなくなってしまった。

小泉曲輪の南側の城塁。削られた崖になっている。この下の駐車場辺りに尼ヶ淵があったのだろうが、現在ではすっかり埋められてしまっている。 小泉曲輪と二の丸との間の堀。奥の方で城塁が折れているのがよく分かる。
本丸の西側の虎口。ここには現存櫓が1基。 本丸の堀。石垣は虎口付近にしか築かれていないが、それでもやはり水堀の方が、いかにも堀らしくていい雰囲気だ。
西側の枡形門の石垣。 本丸東側の門と、その西側の二重櫓。
そして右側の二重櫓。櫓は現存だが、門の方は近年復元されたものらしい。以前来た時にはまだなかったような気がする。 二の丸東側の堀。現在は散策路となっているようだが、古図を見るとここも水堀であったようだ。
本丸北東側の城塁。鬼門除けであろう。角が欠けている。欠けた部分をはさんで両端にそれぞれ二重櫓が建っていた。 二の丸北側の枡形門跡。
北側の百間濠の跡はそのまんま陸上競技場となっている。もともとそんなに深い堀ではなかったのであろう。 二の丸に一本だけ桜が咲いていた。この地域での開花時期にはかなり早すぎるが、早咲きの種類なのであろうか。
西側の二重櫓を、かつての尼ヶ淵付近から撮影してみた。石垣は三段構造に積まれている。 同じく東側の二重櫓付近。
 もともとこの地には小泉氏の居城があったという。古図にもある小泉曲輪というのが、それを指しているのだろうか。

 武田信玄が村上義清に手痛くやられてしまった「砥石崩れ」の後、真田幸隆は、わずかな兵と諜略とをもって、砥石城を落城させた。その後、砥石城は真田氏の居城となる。天正年間、さすがに砥石城のような山城では不便だと思うようになったのだろうか、真田昌幸は、小泉城のあった地に新たに居城を築いた。それが上田城である。

 天正10年(1582)、織田勢力が信州から駆逐されると、信州は徳川氏、上杉氏、北条氏らの草刈場のようになってしまった。どの勢力も、どさくさにまぎれて、所領を増やしてやろうという魂胆であったのである。

 各所で小競り合いを続けてきた徳川氏と北条氏とは、和睦をして休戦することとなった。徳川氏は甲斐・佐久・諏訪を、北条氏は上野を手中にするということで、手を打つことになったのである。

 そのため家康は真田昌幸に対して、「替地を用意するから、沼田を北条氏に渡せ」と要求した。しかし、それを小勢力に過ぎなかった昌幸はきっぱりと断ってしまうのである。その勇気は見上げたものだが、北条氏との約束もあり、「替地を用意する」とまでいっているのに、面子をつぶされた家康の憤りは納まらない。

 天正13年(1585)、ついに徳川勢は1万近い大軍を率いて上田城に攻め寄せてきた。それを迎え撃つ真田勢の作戦だが、実はこれについては、昔、『真田太平記』を読んだだけで、史料では確認していない。しかし、小説では、この上もないほどの快勝をあげている。実際の真田勢が小説のような作戦を取ったのかどうかは分からないが、そうとう巧みな作戦を用いたのであろう。ここで勝利を挙げたことは間違いないからである。その後、結局、真田氏は再度の要求を受けて沼田領を北条氏に明け渡すことになるのだが、楔にうちこんでおいた名胡桃城を北条氏が攻めたことが、秀吉の小田原攻めのきっかけとなるのだから、転んでもただでは起きないとはこのことである。小田原の役が終了すると、真田氏は沼田領の回復にも成功する。

 次に上田城が脚光を浴びるのは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際である。この時、機内に向かう徳川家康は、自らが1万の軍勢を率いて豊臣系大名らとともに東海道を西上し、子息の秀忠に徳川の本隊3万を率いさせ、中仙道から機内に向かわせていた。その途中、秀忠の徳川軍は、途中の道中で真田氏が唯一、反旗を翻しているのを知ることとなる。

 ここで無視しとけばよいものを、「生意気な真田め、今回こそは許さん!」と思ってしまった。真田にはかつて痛い目に遭わされており、この機会につぶしておきたいと思ったのであろうが、今回は前回を上回る大軍でもあり、行きがけの駄賃にちょいと攻め落として成敗することもできると思ったのであろう。そこには当然、油断があり、それにつけ込むのが上手なのが真田なのである。結局、今回も徳川軍は真田勢に翻弄されるばかりであり、対真田戦でこれといった成果を上げることもできなかった。これではいかんと慌てて機内にきびすを返した秀忠は結局、関ヶ原での決戦に間に合わず、家康から大目玉を食らってしまうことになる。徳川軍の主勢力を率いていながら、天下分け目の合戦に参加することすらなかったのである。俺が家康でも、こんな秀忠、勘当してしまいたくなる。

 地方の小さな勢力でありながら、2度にわたって徳川の大軍を手玉に取る。そのような勢力は後にも先にも真田勢くらいなものである。真田昌幸の名が天下にとどろいたのも当然のことである。

 しかし、結局、西軍は敗北、いつまでも籠城しているわけにもいかず、真田昌幸は子息の信繁(幸村の名で有名)とともに高野山に追放されることとなる。

 後、大阪の陣の際には、昌幸は病死しており、信繁が一方の大将として大阪城に参陣する。そこでの真田の奮戦ぶりは、物語などでよく知られているところである。しかし、残念なことに、真田氏の軍略は、大坂勢全体としては、あまり重く用いられることはなかった。病死した昌幸とは違い、信繁の名前は天下に知れ渡っておらず(大坂の陣で知れ渡ることになるのではなるが)、彼の言がそれほど重視されていなかったのだと思われる。

 歴史上に「もし」を言い出したらきりはないが、もし2度にわたって徳川氏を翻弄した真田昌幸が大坂の陣の時点でも健在であり、大坂方の参謀長の位置にいたならば、かなり面白い展開が見られたのではないだろうか。場合によっては歴史が一変した可能性もあると思う。

「わしには東軍に勝つ秘策がある。しかし、それは天下に名が知られているわしであればこそできる方法であり、お前(信繁)には無理だ」と言っていたそのままが現実となってしまうのである。




上田原古戦場

*参考  「上田原合戦」「戸石崩れ」に見る『甲陽軍鑑』のリアリティ

上田城の南側には武田信玄と村上義清の決戦が行われた上田原がある。

 この合戦のことを記した史料はいくつかある。
 『妙法寺記』には「(天文17年)2月14日、信州村上殿近所塩田原と申す所にて甲州晴信様と村上殿合戦成され候。去る程に互ひに見合わせて川を小楯に取り候ひて、軍を入れつ乱れつめされ候。去る程に甲州人数、打ち劣け、板垣駿河守殿、甘利備前守殿、才間河内守殿、初鹿伝右衛門殿、此の旁打ち死に成され候て、御方は力を落としめされ候。」とある。場所は塩田原となっているが、川を楯に取ったとあるので、場所はやはりこの辺りでよいのだろうか。戦いの詳細は不明だが、これだけの面々が討ち死にしているのだから、武田方がぼろ負けであったことは間違いないであろう。ただし、晴信はその場に踏みとどまり、小山田出羽守は比類ない働きをしたとある。また、晴信自身も「手を負いめされ」ともある。

 『高白斎記』には「(天文17年2月14日)板駿・甘備其の外討ち死に」とあり、やはり軍の詳しい経緯は不明ながら日付が2月14日であったこと、板垣駿河守・甘利備前守が討ち死にしたことは一致している。なお。『高白斎記』の前年の記事には上田原合戦の記述が見られるが、こちらは後世の竄入によるもののようで、実際は2月14日であったのだろう。

 『王代記』にも「(天文17年)信州村上一戦、板垣駿河・甘利備前討ち死に、2月」とある。このように2月の合戦であったことは間違いない。

 『甲陽軍鑑』では、上田原合戦の日時は天文16年の8月ということになっている。これは明らかに年号が間違っている。しかも真冬2月の戦いであったはずの上田原合戦が真夏の合戦となっている。しかも、そ天文19年に行われた戸石城合戦が、『甲陽軍鑑』では、上田原合戦よりも以前の天文15年のことというようになってしまっている。このことをどうみたらよいのであろうか。

 『甲陽軍鑑』には誤りが多いとはいえ、武田信玄のことをしる史料としてはかなり有効に使えるものと以前は思っていたのであるが、最近は読めば読むほど「こりゃ、歴史家が使えないはずだ」と感じるようになった。年号の誤り程度なら、上質の史料にもないわけではないが、真冬にあった合戦を真冬のことにしたり、大きな合戦の順序を間違えているようでは、「それなりに当時のことをよく知っている人が残した記録を基にしている」とはとうてい言えないであろう。人は「それがいつあったか」について記憶違いをすることはあるが「話の大きな流れを間違え」たり「事件の起こった季節をまったく反対の時期に勘違い」したりはしないものである。これでは『甲陽軍鑑』はやはりいい加減な書物である、といわれても仕方がないところである。『軍鑑』をどう扱うかって、考えれば考えるほど難しい問題のような気がする。とはいえ、合戦の詳細については『軍鑑』以外に細かく書かれているものはないので、とりあえず、参考にしてみるしかない。

 『甲陽軍鑑』によれば、この戦い、最後まで戦場に踏みとどまった武田信玄が勝利を宣言したとあるが、実際には重臣の板垣信方やら甘利虎泰やらが討ち死にしているほどなのであるから、武田方の手痛い敗戦であたっといって間違いないであろう。緒戦で勝利した板垣軍は、悠々と首実検を行っているうちに、敵の遊撃部隊に攻め込まれて、討ち取られてしまったということで、板垣らしくない不覚な死であった。

 このようにこの時は村上勢が優勢だったのだが、『妙法寺記』天文22年8月には「信州村上殿、八月塩田の要害を引きのけ、行くえ知れずなり候。一日の内に要害十六落ち申し候」とあり、領国を支えきれずに落ちていった様子が伺える。

上田原古戦場公園。といってもただの野球場であり、遺構らしきものは何もない。 板垣信方の墓がある、板垣神社。けっこう分かりにくいところにある。千曲川南岸の下之条地区に「葦原浦神社」というのがあるが、とりあえずこれを目指すとよい。板垣神社はこの神社のすぐ西側の畑の中である。葦原浦神社の前には板垣神社の場所を示す案内が出ているので、後はそれにしたがっていけばよい。葦原浦神社の場所も分かりにくいが、地図に「若宮八幡神社」と出ているのが、これであろうか。
北の千曲川公園から見た上田原一帯の遠望。




戸石城(上田市住吉)

*参考  「上田原合戦」「戸石崩れ」に見る『甲陽軍鑑』のリアリティ

 戸石城、この城にはずいぶん前から一度来てみたかった! 昔々、戦国時代の資料を少し読み始めたころ、古本屋を回って戦国史料叢書を全巻買い集めたことがあった。その中には『甲陽軍鑑』全三冊もあり、それを通勤の電車でちまちま読んでいたりしたのである。その中で、「戸石崩れ」の話は特に印象に残っている。常勝の名将信玄が、こっぴどく敗戦をして撤退せざるを得ないなど、当時の私には実に意外な話であったし、悔しそうに城を振り返りながら馬上、引き上げていく信玄の姿が脳裏に浮かんできたものである。

 さて、戸石城は上信越自動車道の菅平ICの北東1kmほどのところにある。近くまで来ると、案内板が出ているので、それにしたがって進んでいくと、米山城と砥石城との間にある尾根下に出ることができる。図の一番下の辺りである。つい2週間ほど前、左衛門尉殿が訪れた際には、登城道の入り口が工事中であり、雪も残っていたということであるが、この日(07.3.25)にはすでに工事も終わっており、雪もまったくなかった。登城道も非常に歩きやすい道であった。実際、米山城には子供連れも訪れており、手軽なハイキングコースとしても親しまれているようである。

 現地の案内板によると、戸石城は、本城、枡形城、砥石城、米山城の4つの城から構成されているという。とはいえ、これを4つの独立した城というように意識する必要はない。当時は、近世で言うところの本丸、二の丸、三の丸、というのを御城、中城、外城などと呼んでいたりしたのだから、「城」が付いているからといって別にそれらが独立した城というわけではなく、要するに城の郭の1つであるに過ぎない。本城を中心にして北側と南側の尾根の先端に置いた物見がそれぞれ枡形城、砥石城と呼ばれている部分であり、この2つは明らかに本城の一部である。

 ただし、米山城の方はちょっと離れて独立した山上にあるので、こちらは文字通り独立した出城というように見た方がよいかもしれない。ちなみに、先の登城道を登っていき尾根に到達すると、「左 米山城10分 右 戸石城15分」という看板があるが、実際にはこの尾根から米山城までは比高30mほどであるのに、戸石城までは比高80mほどはある。実際には米山城までは5分、砥石城までは20分近く、といったところではないだろうか。先に内小屋地区から本城に登ってしまうと、米山城を訪れるためにはいったん砥石城を降りて米山城に登り、またそこを降りて砥石城に登るという繰り返し
にならざるを得ず、これはかなり疲れそうである。そういう意味でも、先に述べた登り口が比較的楽そうな気がする。

 さて、まず米山城であるが、ここは三段に削平された平場と腰曲輪によって構成されている。たいして大きな郭はないし、めだって技巧的な部分もない。ただし、1郭の東側斜面の一部に石垣が積まれていたのが印象的ではあった。

 簡素な出城として利用されたといった程度のものであろう。ここからの眺めはとてもよいが、戸石城の本体からは離れすぎていて、敵に囲まれたら、あっという間に攻め落とされそうな場所である。もっともここを攻め取られたとしても、城の本体はそれほど打撃を受けることはなさそうではあるが。

 なお、1郭には「村上義清公」をたたえる石碑が建っており、この城が村上氏の城であったことを主張している。確かに真田に乗っ取られる以前は村上氏関連の城郭だったのであろう。

 それから、砥石城と米山城との間の尾根には「馬場」という看板があったが、これはどうも怪しいと思う。こんな上に馬屋を置くこともできなさそうだし、第一こんな狭い尾根で馬を乗り回す必要性があるのだろうか。乗り回すなら山麓で十分だと思う。
 
 米山城から岩場のある斜面を登っていったところが砥石城である。尾根の南端のピーク部を削平して、物見の郭を造成しており、要するにそれだけのものである。ただし、本城地区の方面に対して腰曲輪、堀切を設けていることから、やや独立性が高く、本城とは別個の城のように解説されているのにはそういう理由もあるのかもしれない。本城側の切岸加工もかなり鋭いものとなっている。

 そこから緩やかな幅広の尾根を下がっていったところが本城となる。ここにはまとまった広さのある郭が展開しており、なるほど、本城部分であるということがよく分かる。
 期待していたほど技巧的な、あるいは先進的な構造は見られないが、山上にしてはかなり広い郭が展開しているというのが印象的であった。それぞれの郭は高さ2〜3mほどの切岸によって区画されている。造成もきちんとされているといったように感じた。山城であるとはいえ、これならば、ある程度のまとまった数の兵力を籠めておくことも可能であろう。

 なお、1郭南側虎口の脇にはやはり一部だけだが石垣が残っている。また、1郭の背後には明確な堀切が見られる。ところで、下の内小屋地区から登ってくる道は、本城の脇に続いているらしく、こちら側の斜面にはたくさんの数の腰曲輪がありそうであるが、今回はそこまできちんと確認してはいない。

 本城から尾根を登って北に行った先のピークが枡形城である。城といっても、やはり小さな物見の広場といった程度のものである。1郭には小さいながらも枡形のようなものがあり、北側下には小規模な堀切、南側には2段の切岸のようなものが配置され防御を固めている。

 ところで、案内板によると、この城を枡形城と呼ぶのは城内に「枡形」があるからだという。確かに枡形らしいものがあることはあるのだが、これを城の名前の由来だというのはどうかなあっていう気がしないでもない。「枡形城」というのは、「米山城」「砥石城」と同様に、山の形態からそのまま付けられたと見る方が自然なように思われるのである。枡形城は独立して高い位置にあり、しかも上部が平坦になっていることから、遠くから見ると枡のような形に見えたはずで、それゆえ枡形城と呼ばれた、という方がありそうな気がする。

 さて、山頂部分の遺構はここまでであるが、実は城の遺構と思われるものは山麓の内小屋地区にも展開している。内小屋はその名の示す通り、城に関連した施設が展開していたところであったろう。これがある部分は、戸石城の山稜と、そこから派生した尾根が東側をめぐるようにして延びている部分との谷津部に当たるのである。この東側の尾根のさらに東側の斜面は岩盤むき出しの要害地形となっている。つまり、入り口を締め切ってしまえば、内小屋地区そのものがかなり攻めにくい場所となるのである。

 今回、内小屋地区をじっくり見て回る時間はなかったのであるが、そこには段々の地形があり、石垣の残欠のようなものもあちこちに見られた。さらには堀のようなものもあり、やはりここも城郭の一部であった。戸石城の山麓の城郭部分がこれであり、城主の平素の居館もこの辺りに営まれていたに違いない。

 さて、戸石城の構造をざっと見てきた。確かにそれなりに整った城郭ではあるが、それほどすごい城であるとも思われない。この城を攻めるにあたって信玄が苦戦したというのには、やはり信玄の戦略のまずさ、焦りなどがあったからではないだろうか。城はやはり力攻めにするものではなく、謀略によって落とすものである。実際、その後、真田幸隆は、わずかな手勢をもって、この城を落城させているのである。

南側から見た砥石城(右)と米山城(左)。米山城が比高110m、砥石城はそれより50mほど高く、比高160mほどである。 現地案内板にしたがって、両者の間の山道を登っていく。整備されていて歩きやすい道である。やがて、砥石城と米山城との間の分岐点の尾根に出るが、そこに「馬場跡」という案内がある。本当にこんな尾根を馬場として利用していたのであろうか。
まずは米山城へ。急な斜面をロープを伝って登っていく。1郭近くまで行くと、石垣が積まれているのが見えた。 1郭に建つ「村上義清公之碑」。
3郭下の切り通し状の虎口。下には腰曲輪がある。 3郭から1郭方向を見たところ。3段構造の単純な構えである。
2郭から砥石城を遠望してみた。 続いて砥石城へ。米山城よりも比高50mほど高いので、こちらに登るのはけっこう疲れる。こんな岩場もある。
砥石城山頂。城というよりも、物見台といった程度のものである。 北側の尾根から砥石城を見たところ。「物見台」という雰囲気がよく分かると思う。手前のくぼんだ部分は本来堀切だったのではないだろうか。
砥石城に上る途中で、岩をくりぬいたこのような石段があった。これも往時のものなのであろうか。 砥石城から本城地区にかけては、このような幅広の平坦な尾根が続いている。地勢がやや傾斜しているが、これも郭であったのだろう。案内板には「大手口」とある。
いよいよ本城地区へ。砥石城の他の部分と違って、さすがというか、本城地区にはまとまった広さの郭が連続配置されている。城塁もこのような切岸となっている。 4郭から、1郭方向を見たところ。
1郭の虎口脇には部分的にだが、石垣が残されていた。 1郭。長軸40mほどある。
1郭背後の堀切。 左の堀切から尾根を上がっていくと枡形城である。
枡形城への入り口。2段ほどの帯曲輪を通って上がる。 枡形城背後の堀切。深さは2m程度で、たしたものではない。
これが枡形城の名前の由来となったという「枡形」・・・・。う〜む、けっこうしょぼいなあ・・・。 山麓にある陽泰寺。ここにも居館的な施設が存在していたのかもしれない。背後が本城地区である。
陽泰寺から北上したところが尾根に囲まれた内小屋地区である。ここには段々の平地や石積みなどがあちこちに見られる。家臣団屋敷のようなものであったろうか。 堀のように見える部分もあった。
内小屋地区にある大きな堀切の跡。 水の手。現在でも水が滾滾(こんこん)と湧いている。
 上の解説でも述べている通り、もともとは村上義清に属する城であったらしい。海野地方への侵略の足がかりとして戸石城が取り立てられたのだと思われる。しかし南下する村上氏と北上する武田氏とは早晩、激突する運命にあった。

 『高白斎記』によると、「天文15年3月、晴信公、信州戸石に於いて村上義清と合戦御勝利」とあり、まず前哨戦においては、武田が勝利しているようである。

 天文19年(1550)、小笠原氏を攻略し勢いに乗った信玄は、上田原合戦での雪辱を期すために戸石城を攻撃したが、しかし、この城攻めにはうまくかみ合わないことが多く、結局信玄は城攻めをあきらめて退却することになった。

 『妙法寺記』天文19年9月1日には「信州戸石の雲戒(要害のことか?)を御のけ候とて、横田備中守を始めとし、随分衆千人計打ち死に成され候。されども御大将は能く引きめされ候。此のあたりでは小沢式部殿、渡辺雲州打ち死に致し候。遠くは国中皆捨て候。歎き言語道断限りなし、されども信州の取り合い止まず」とある。

 『高白斎記』も、天文19年9月のこととなっている。「(9月)3日、砥石の城ぎはえ、御陣寄せらる。9日、酉刻より砥石の城を攻めらる。」といった感じであるが、ぼろ負けしたとは書いていない。またこの城攻めには真田弾正(幸隆)も加わっていたという記事が見える。

 『甲陽軍鑑』には「晴信公、後一代になき、おくれたまふ程の儀なり」とまで言っている。『高白斎記』には「赤雲たちて」とかあるのだが、本当にそんなものが現れたのだろうか。

 そして、その退却のさなかに村上勢に襲撃されてしまうのである。これでは絵に描いたような敗北を喫するのも無理はないというところであったろう。横田備中といった、武田家中の武将がここで討ち死にしている。『甲陽軍鑑』を見ると、この時、山本勘助がわずかな兵を率いて、巧みに敵の攻撃を退けて被害を最小限に食い止めているのだが、その辺り実際はどうだったか、かなり眉唾物である。

 ところがその後、戸石城は、真田幸隆率いるわずかな兵によって攻略されているようで、『高白斎記』は翌年「(五月)二十六日節、砥石の城、真田、乗っ取る」とある。真田がどういう戦略を用いたのか詳しいことは書かれていないが、おそらく諜略を用いたのだと思われる。

 その後は、関ヶ原合戦後、真田氏が上田を去るまで、真田氏の本城として、上田城を築いた後には上田城の詰めの城として維持されたものと思われる。































大竹屋旅館