静岡県浜松市(旧水窪町)

高根城(久頭合城・浜松市天竜区水窪町地頭方字久頭郷)

 浜松から北上すること1時間半。長野との県境も近い旧水窪町(現在は浜松市、ちなみに「みずくぼ」ではなく「みさくぼ」である)に高根城はある。ここは信州から遠江に抜ける重要なルートの1つであり、この街道(現在の国道152号線)を掌握するための城として、高根城は機能していたものだというように言われている。「向市場」の地名からも分かるように、山間部のこの地にもかつては宿場町が栄えていたのであろう。現在でも、山深い里なのにもかかわらず、けっこうな数の家が立ち並んでいるのが意外でもある。

 高根城はJR飯田線「向市場駅」の南方にそびえている比高150mほどの山上にあった。登り口はちょっと分かりにくいが、向市場駅の東側辺りから、一度川の方に降ってから登るような道が付いている。注意していれば、あちこちに案内が出ているので、それにしたがって進んでいけば、この道を見つけることは難しくないと思う。

 城山の中腹には数軒のお宅があり、その途中に駐車場が設置されている。ここから比高100mほど歩いて登れば、城内に到達できる。駐車場からは10分くらいの登山である。
 (この時はここから登ったが、もっと奥の方から尾根基部の方に行く道もあることを再訪した際に知った。そこからだと、遊具のある場所の下の道を通って、ほとんど平行移動で城址に到達することもできる。)

 高根城は、発掘成果に基づいて中世の忠実に再現した城郭である。近世城郭の復興というのは各地に見られるが、中世城郭を再現した城は、最近でこそ各地に見られるようになってきたとはいえ、まだまだ希少である。そういう意味では高根城は、はるばる訪れてみるだけの価値のある城であるといってもいいだろう。

 登城道を登っていくと、いくつかの小郭の脇を通って、いきなり1郭の下に出る。先端に主郭を置いているのはセオリー通りといっていい。1郭の規模は20m×30mほど。急峻な山上であるがゆえに、たいして広いスペースが確保できないのは仕方のない所だが、発掘成果に基づいて、ここに倉庫や櫓が復元されている。土塁によって通路を狭められた登城道から城門を通って@郭内部に入っていく。

 主殿とおぼしき建物は、実際には稲荷神社である。おそらくは、この神社の建つ場所に主殿が存在していたと推定されるのだが、その部分の柱穴は失われてしまったもののようで発見されていない。したがって、この主殿については想像復元ということになる。また、1郭下の腰曲輪には物見櫓らしき柱穴が発見されているが、そちらも復元はされていない。

 といったわけで、1郭内部には主殿、倉庫、高櫓が復元されている。主殿に倉庫、といっても、これだけでは多くの兵を駐屯させるには足りない。少人数で効率的に守れる城、といった種類の城といったところである。

 郭の周囲には土塀が建てられている。土塀には漆喰を用いず粗い土壁のままになっているのがリアルな感じである。また、土塀には鉄砲狭間が開けられている。

 1郭の面積はそれほどでもないが、周囲の城塁は非常に急峻である。築城当時そうであったかのように、木がきれいに伐採されているので、掴まるものが少なく、とてもではないが城塁の直登は難しいであろう。建物の復元みならず、こういう点にも手を抜いていないことこそが中世山城のリアルさの再現となっている。

 1郭の南側には大堀切を隔てて2郭がある。しかし、この2つの郭の間は直線的に連結されてはいない。2郭に上がる通路は設けられておらず、東側下の梯子を通って上がるようになっている。1郭に向うルートは、この東側側面の通路からAの部分を経由して、1郭の城塁を登っていくようになっているのだが、このルートがちょっと複雑である。Aの部分の手前には堀切があり、そこに木橋が架かっている。それを抜けると進行方向に向って横に城門が据えられており、これをなんとか突破しても、1郭に向うにはさらに向きを180度変えなければならない。このように考えてみると、Aは馬出しのような機能を持った郭であったということが分かる。山上は狭くて、本格的な馬出しなど造る余裕もなかったのだろうが、それゆえにAのような小郭を活かして、1郭に向う関門を堅固にしようと工夫しているのである。

 2郭と3郭との間にも堀切がある。ただ、3郭の地勢が2郭に比べてそれほど高くないので、2郭北側の堀切に比べると、深さ、幅ともに規模はそれほど大きくはない。また、3郭の地勢が高くないため、3郭から2郭に向うルートは、ここでは城塁斜面上ではなく、郭内部を通すようになっている。

 そして3郭の南側には二重堀切が存在している。これがこの城で最も大規模な遺構といっていい。堀の深さは8mほど、天幅も10mを越える。間に土塁を置くことによってこれだけの堀が二重になっているのだから、これをよじ登って越えることはかなりの困難事である。

 また、この二重堀切は単純に二重にしただけのものではなく、3郭側の堀切は3郭の形状に沿って横堀のように巡らされている。側面からの侵入も阻止するといった構えである。いずれにせよ、南側の尾根伝いに接近しようとする敵は、この二重堀切によってまず阻まれてしまうことになる。

 このように、高根城は、かなり堅固に造られた城である。とはいえ、その規模は小さなもので、城というよりは砦と呼んだ方がイメージ的にはふさわしい程度のものである。この城には多くの兵が籠城することはできない。しかし、上にも述べているように、少い人数をもって効率的な防御を図るといった目途にはふさわしい構造の城である。

 今回は訪れなかったが、尾根の南側にも「南城」と呼ばれる部分があるらしい。しかし、それを入れたとしても、そう大きな規模の城であったとは思われない。

 高根城は、武田氏が街道を押さえるために築いた、あるいは改修した城である、と言われているが、このような規模からすると、武田のような大勢力が拠点とする城郭としてはふさわしくないレベルの城である。それに山上は比高も高く、こんな所に番所を置いたのでは、いざというとき、街道を抑えることはできないであろう。境目の城と呼ぶには小さすぎる。

 おそらく、山上はデモンストレーション的な施設であったのではないだろうか。高櫓などの施設は、下の街道からでも十分に目に入るし、武田の旗指物などを山上に立ち並べておけば、武田の城であることのアピールには十分である。

 街道を押さえる城館的な施設は、山麓、あるいは中腹部分であったのではなかったかと思われる。

JR向市場駅の辺りからみた高根城。下からの比高は150mほどある。 1郭北側下の腰曲輪から見た1郭城塁。鉄砲狭間の開けられた土塀が立ち並んでいる。
腰曲輪から北側の水窪市街地を見下ろしたところ。かなり眺望のよいところである。 1郭の城門。坂虎口だが、左側には土塁が続いている。
城門を入った所。右側は復元された倉庫。 主殿を模した建物。内部は稲荷神社である。1郭の規模は20m×30mほど。
神社背後に残る土塁。 1郭から2郭を見た所。
1郭の南側の城門。 1郭南側城門から1郭を見たところ。2郭には梯子を伝って登るようになっているが、本当にこんなアクセスをしていたのであろうか。
Aの部分の城門。Aは一種の馬出し曲輪のようなものであったろうか。 Aから1郭方向を見た所。
2郭から1郭の城塁を見た所。 2郭下の通路からAの馬出し曲輪を見た所。手前には木橋が復元されている。
2郭と3郭との間の堀切。斜度はかなり急であり、とてもよじ登れない。斜面保護のためか、表面がコンクリートのようなもので固められている。 3郭の北側の土塁。
3郭の南側は二重堀切になっているが、3郭寄りの堀は、横堀形状になっている。 3郭下から、1郭方向を見たところ。城塁が急で高いことがよく分かるであろう。
二重堀切の内部。深さは8mほどもある薬研堀である。 南側の尾根から二重堀切を見たところ。
 高根城が最初に築かれたのは、出土遺物から推定して15世紀前半のことであるという。その年代からして、当地の豪族であった奥山氏によるもjのであろう。奥山氏は今川氏親から安堵状を得ているので、その頃は今川氏に属していた城であった。

 『遠江国風土記伝』によると、永禄年間に、信州から来た遠山土佐守の軍勢によって、高根城は落城したという。これにより高根城は武田勢力に組み込まれることとなる。

 元亀3年(1582)の武田信玄28箇条の軍役条目から、その当時、武田軍が在番することが可能な城の1つになっていたことが知られる。発掘時の遺物には元亀から天正にかけてのものも見られるということで、その当時、武田氏によって改修されていることが分かる。先に述べた、Aの馬出し状の部分など、その頃に築造されたものではないだろうか。

 天正3年(1575)の長篠合戦で武田勝頼が敗れると、徳川氏によって、遠江から武田勢力は次第に追われていくこととなる。高根城もその頃には武田氏の手を離れることになったであろう。その後は徳川氏によって番城として使用されることもあったであろうが、やがてその重要性が失われ、廃城となったものと思われる。




若子城(浜松市天竜区佐久間町相月字向皆外)

 若子城は、高根城の南側2kmと近接した位置にあり、JR飯田線のその名も「城西駅」のすぐ東側にそびえている比高130mほどの山稜先端部を利用したものである。その尾根をさらに進んでいくと大洞山に続いていく。

 国道152号線を水窪方面に向かって北上して行き、城西駅を過ぎると、すぐに道路の右手に「若子城跡」を示す大きな看板が見えてくる。それに従って右手の橋を渡り、集落に入ったところに城の看板と駐車場らしきものがある。ここに車を停めると、正面に城の威容が見えてくる。

 そこから城址方向に向かうと、その途中には滝があった。真夏の暑い時期であったが、滝の付近は水のおかげで、けっこうひんやりとしている。避暑に使いたいくらいのもので、帰りにはここでしばらく涼んでいたのであった。

 この川沿いに登って行くと、脇にはわさびを栽培しているらしく、石垣で囲まれたわさび田のようなものがある。その途中に橋が架けられており、川を渡って、城のある山の方向に進むようになっている。

 この付近、巨大な岩石がごろごろと転がっており、鬼の岩屋のような雰囲気である。おそらくこの岩石の間を天然の虎口として利用していたのであろう。そうとうにダイナミックな虎口であるといっていい。これらの巨石群から想像して、城の遺構への期待も膨らんでくる。

 ここを通り抜けると奥の水田地帯に向かう道になる。こんな奥に水田地帯があるというのも不思議な気がするが、わずかな平坦部を利用して耕作を行っているようだ。その道の途中に山の斜面に上がっていく段が付けられており、そちらに「若子城跡」の案内が記されている。ここを登っていく。

 かなり急な斜面であり、けっこうきついのであるが、これをひたすら登っていき、途中で向きを変えて先端の山頂部に進んで行くと、1郭の神社に出た。

 1郭は長軸20mほどと、意外にもかなり狭いスペースしかない空間であった。土塁や虎口もしっかりとしていない。ただし、背後に岩石がいくつも転がっており、これが天然の土塁となっていたようだ。また、背後の下には竪堀のような地形が見えていたが、これは天然のものであったかもしれない。

 この郭から南側の下に尾根が続いているが、これが2郭ということになろうか。といっても、こちらも基本的には細尾根であるに過ぎず、たいした広さはない。しかし、この先端には二重(というか二段)の堀切が掘られているのが目を引く。この城で最大の見所である。

 ここからさらに南側に尾根が続いている。この尾根の途中、南側の斜面を削平して腰曲輪のようなものが造成されている。ということはここも城域内ということであろう。尾根を削平してなんとかスペースを生み出しているといった感じである。この尾根続きの方向にさらに1本の堀切が入れられていた。規模はそれほど大きくないが、ここから先は尾根が登りになっていくので、これが城域を区画するための堀切であったものだろう。堀底は両側の斜面に続いているが、これは通路として用いられていたものであったかもしれない。

 こんな感じで、若子城はかなり小規模な城であり、城郭というよりは、物見のための砦といった趣のものであった。

北側の橋を渡った所から遠望した若子城。 途中にある橋を渡って城内方向に向かう。
途中には巨石がゴロゴロしていて、まるで鬼の岩屋のような雰囲気がある。 1郭内部に祭られている神社。1郭にはこの写真程度のスペースしかなかった。
2郭の先にある二段堀切を3郭の尾根方向から見たところ。。 山麓にある滝。近くまで寄ると真夏でも涼しくていい感じである。涼むのにはちょうどよい。
 位置からして、高根城の支城の1つであったと見てよいと思う。現地にあった案内板によると、若子城の城主は、奥山加賀守定吉という者であったという。ところがある時、定吉は兄の定茂との戦いに敗れ、城から追い出されてしまったとある。兄の定茂は高根城の城主であったものだろうか。

 なお、城址付近にある「倉の平」は加賀守の倉があった場所、「はぜ本」は旗を立てた場所、「遠見石岩」は物見を置いた場所であったといわれる。


































大竹屋旅館