静岡県浜松市

*参考資料 『日本城郭体系』

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい

浜松城(浜松市中区浜松城公園)

*鳥瞰図の作成に際しては、「正保城絵図」などの古図と現地案内板を参考にした。

 浜松城は浜松市内の真っ只中にある。大都市に存在する城の常として、遺構のかなりの部分は都市の近代化の波に埋もれてしまっている。

 浜松城を車で訪れてうれしかったのは、都市部でありながら、無料の駐車場が整備されているということである。こういう都市では駐車場を探すのが一苦労だったりするのだが、ここは公園すぐ脇に無料駐車場を設置してくれている。

 駐車場は、浜松市体育館の西側にある。城址公園の北側からホテルコンコルド浜松との間を通り、回り込むようにしていけば、そこが駐車場である。万一、ここが満杯になっていたときには、公園北西の浜松文学館脇の鹿谷駐車場もある。

 都市部の城郭ではあるが、中心部は浜松城公園として整備されたために、かろうじて城らしい面影を残している。

 とはいえ、完全に残っているのは天守曲輪だけであり、その他の部分はかなり改変されてしまっているのは、いたしかたがない。

 天守曲輪の中央には天守台が築かれている。内部には井戸まで掘られており、かなり生活感のある天守台である。ここには現在、昭和33年にコンクリート製で建造された模擬天守が建っている。なぜ、模擬というのかというと、天守が実際に存在していたかどうかさえ明らかではないからであり、したがって、その外観もまったく不明だからである。

 各種の古図を見てみても、天守台は描かれているものの、天守は描かれていない。かなり早い時期に失われてしまったのだと思われるが、あるいは初めから建てられていなかったという可能性もある。しかし、現在の模擬天守は城址公園によくマッチしており、これがなければ城のイメージはよほど違ったものになっているだろう。

 天守曲輪の東側下が本丸である。しかし、現状の地形と本丸の広さとはかなり違っている。現状の本丸は腰曲輪程度の広さしかないが、これが本丸の規模であったはずはない。おそらく本丸の東側部分の大半が削られてしまっているのではないかと思われる。本丸から二之丸にかけての区域は、現在は元城小学校の敷地となっている。この小学校の建設によって、本丸が削られ、二之丸が消滅してしまったものであろう。二之丸以降では石垣も用いられていなかったようであるから、土塁を崩して堀を埋めてしまえば、あっという間に整地完了となる。

 本丸の北側一帯は、公園広場となっている。しかし、かつてこの辺りは天然の湿地帯であった。そこには西池などと呼ばれる池が天然の水堀として広がっていた。その名残は、天守曲輪の北西側下に、現在も池として残っている。この池や庭園はきれいに整備されており、滝も流れていたりして、のんびり散歩するにはよい所である。

 二之丸の東側には広大な三之丸が存在していた。ここは国道152号線の東側に辺り、現在では多くのビルが立ち並び、城址としての面影はまったく失われてしまっている。本丸南側の清水曲輪の一帯も、浜松市役所や図書館などによって失われているが、清水曲輪の部分は、やや高台となってなんとなくその地形をうかがい知ることはできる。

 城址の北東には古城が存在していた。古図で見ると、円形の4つの曲輪が並んでおり、その周囲には堀が掘られている。浜松城が近世城郭に変貌した時点でも、出城として、その機能が活かされていたものらしい。

 このように、浜松城の遺構の大半は都市化によって隠滅してしまってはいるが、天守曲輪と模擬天守によって、城らしい面影を今に伝えている。天守曲輪の石垣は野面ハギであり、石材は角の尖った荒削りのもので、これがまたいかにも豪快なものである。この石垣を見ているだけで気分が高揚してきてしまったりする。やはり、石垣のある城って、いいものである。

公園の無料駐車場脇から見た二之丸城塁跡。上は小学校である。手前にあったはずの堀は埋められてしまっている。 本丸北側下の広場から見た浜松城の模擬天守。桜がすっかり満開になっている。
天守曲輪の東側下にある若き日の家康像。本丸は半分以上削られてしまっているという印象である。 天守曲輪の石垣。豪快な野面積みの石垣である。
天守曲輪虎口から見た模擬天守。 天守曲輪から二の丸方向を見たところ。市街地化してすっかり隠滅してしまっている。
桜とお城はよく似合う。ってなわけでもう一枚。 天守の穴倉にある井戸跡。
天守曲輪西側下の虎口。 下の池は庭園となって残っている。けっこうきれいで、いい庭園だ。
西池は、天然の堀であった。現在でも、まさに水堀の様相をたたえている。 城域の北東のはずれにある古城跡。堀は埋められてしまったようだが、城塁はそのまま残っている。
 浜松城の前身は引馬城と呼ばれていた。今川氏に属した城であったのだろう。

 永禄12年(1569)、遠江に侵攻した家康は、引馬城を改修して、翌元亀元年、入城すると、ここを新しい居城とした。そして城の名前を浜松城と改めた。地名を変えることで今川時代のイメージを払拭し、新支配者徳川氏の時代になったことを名実ともに明らかにしようとしたのであろう。

 織田信長と堅固な同盟を結んだ家康にとって、西方を脅かされる心配はもはやなく、当方の遠江侵攻に専念することが可能となっていた。そこで東に前進して、遠江支配にふさわしい新たな本拠地を浜松に置いたのである。

 しかし、元亀元年といえば、武田信玄の攻勢も強まってきている時代である。浜松城を堅固にすることは家康にとって死活問題でもあった。

 元亀3年、武田信玄はいよいよ北上を開始、徳川軍と真っ向からぶつかることになった。12月22日、三方ヶ原において、徳川軍は武田軍と正面から激突、この戦いで徳川軍は大敗し、家康は命からがら浜松城に逃げ帰った。この時、家康が恐怖のあまり脱糞して、それを指摘した家来に「これは腰弁当の味噌じゃ!」と言い張ったというエピソードは有名である。

 浜松城に帰った家康は、あえて城の門を開放しておいたという。これを聞いた信玄は、「家康が何かたくらみごとをしている」と警戒して、浜松城を攻めずに西上していったというエピソードもあるが、これは果たして真実であったろうか。ちょっと作り話めいたものであるといった印象を受ける。

 実はこの話は、『三国志』に諸葛孔明の策として出てくるものであり、それを誰かが付会しただけのもののように思われる。信玄が浜松城を無視して西上したのは、上洛を目途としていたからこそであろう。徳川軍は十分に痛めつけており、あえて城を攻略するよりも、さっさと都を目指した方がよいと考え、浜松城は無視した、というのが実際の所だったのであろう。それが常識的な判断というものである。

 その後も浜松城は徳川氏の拠点となっていたが、天正14年頃になると、徳川家の領域は、三河・遠江のみならず、駿河、信濃、甲斐までも広がっており、領国を統治するのに、浜松は西方に寄りすぎていた。そこで家康は本拠地を駿府へ移していくことを決意した。駿府へ移転した後、浜松城には、城代として菅沼定政が置かれた。

 天正18年(1590)、小田原の役後、家康は関八州へと転封となり、代わって浜松には、堀尾吉晴が12万石で入部する。堀尾氏の支配は10年続いて、慶長5年の関ヶ原駅の後、堀尾氏は石見松江に転封となり、続いて譜代大名の松平忠頼が美濃金山より5万石で入部した。

 その後、近世に入ってからも、高力氏、大給松平氏、太田氏、青山氏、本庄松平氏、大河内松平氏、井上氏、水野氏らといった譜代大名が次々と入国してきた。浜松城は家康の居城であったこともあり、譜代大名の出世城とも呼ばれ、この城から多くの老中を輩出している。中でも有名なのは天保年間の水野忠邦であろう。

(以前の記述)浜松城は言うまでもなく徳川家康の城として有名である。三方が原で敗れた家康が逃げ込んだのもこの城である。かつては引馬城と呼ばれており、その頃の古城の遺構も、城跡の片隅に残っている。

 浜松城は東海道の要衝の地にあり、家康の城でもあったので、幕閣の登竜門でもあった。歴代城主の半数近くが、老中大阪城代、京都所司代などに任命されている。

 さて、浜松城に天守が存在していたかどうかは、はっきりしない。(天守台は残っていたのだが)現在の天守は昭和33年に鉄筋コンクリートで復興されたものである。





































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