静岡県浜松市

*参考資料 『静岡の山城ベスト50を歩く』

井伊谷城(浜松市北区引佐町井伊谷字城山

 2016年12月23日(金)、今年の山城の日の最初に訪れたのがこの城であった。今年度の山城の日は、東美濃の城郭を訪れることにしていた。それなのになぜ井伊谷城なのかというと、2017年度の大河ドラマの主人公が「女城主直虎」であるということもあり、井伊氏の発祥となった居城を一度訪れてみたかったため、美濃へ向かう途中に遠江の城郭をいくつか立ち寄ってみることにしてもらったのである。

 井伊谷城は、旧引佐町の市街地に臨む比高70mの山稜先端部に築かれている。竜ヶ石山から延びた山稜の先端部にあたっており、市街地のどこからも目立って見える山である。

 山麓には図書館や市民研修センターなどがあり、車はその駐車場に停めておくことが可能である。ちなみに山麓のこの辺りが居館があったといわれている箇所である。井伊谷城の山頂にはたいした遺構はないので、当時の中心部は山麓にあったものと思われる。

 登り口に向かうと、予想通りに『女城主直虎』と大書された幟があちこちに立てられている。来年、実際にドラマが始まったら、ここを訪れる人も増えてくるに違いない。

 登り口は図書館の脇である。近年、整備されたらしく、バリアフリーのため段差のないスロープが付けられている。路面も柔らかくなっており、歩きやすい道である。居館部から上がっていく道であり、往時の登城道もこのルートを通っていたのであろう。

 登り始めるとすぐに石垣が見えてきた。近代的な積み方の石垣である。この上には城山稲荷が祭られている。神社がいつのころからかあったものなのか知らないが、登城道を監視する番所を置くのにふさわしいスペースとなっている。

 さらに登ってくと、正面の道のほかに、道が左右に分かれているところがある。この両側の道は、かつての帯曲輪であったと推測する。そこから正面に登っていったところが主郭虎口である。両側に土塁を侍らせたもので、思ったよりはしっかりとした虎口となっていた。

 ここを入っていったところが主郭である。主郭は長軸50mほどの楕円形の郭で、北側の半分は削平されておらず、緩やかな傾斜地形である。しかも岩がゴロゴロとしている。これではとても建造物は建てられない。ただの岩ではなく「井の宮石陵」という標柱が立てられている。古墳のようなものであったのだろうか。

 といった状況のため平場になっているのは南側の半分だけであり、ここには数棟を建てるくらいのスペースしかない。ということで、井伊谷の山頂部分は、ほとんど人の居住を意識していない空間であった。山頂部分はあくまでも緊急時の避難所か、物見のための施設程度のものだったのであろう。城としての主体は山麓の居館部にあったと想定できる。

 主郭周囲の切岸もそれほど念が入ったものではなく加工度は低い。もともと山の傾斜がそれほど急峻ではなかったということもあろうが、地形的にもそれほど要害ではない。

 この他に、ところどころにテラス状の小空間は存在しているが、いずれもそれほど広いものではない。よほど初期のころの城館であったものだろうか。井伊谷城は、とても戦国期の井伊氏の居城とは思えないレベルの城館である。とはいえ、ここが井伊氏の発祥の地であると思うと、なんとも感慨深い。主郭には「直虎」の顔出しもあり、2016年は、たくさんの人がここを訪れることになるのであろう。




山麓から見た井伊谷城。ここからの比高は60mほどである。 1郭の虎口。両脇に土塁が積まれている。
1郭北側にある井の宮石陵。 1郭内部。城址標柱や案内板のほかに、直虎の顔出しが設置されていた。
 井伊谷城は、井伊氏によって平安時代に築かれたというから実に古い城であるが、それと同時に井伊氏そのものが実に古い士族であったということが分かって感慨深い。流れ坊主の徳阿弥からj始まった主家の徳川氏よりも、よほど由緒正しき一族である。

 歴史に登場してくるのは南北朝時代のことで、後醍醐天皇の皇子であった宗良親王をここに迎えて、北朝方の勢力と合戦を行ったといわれる。

 しかし、それにしては、井伊谷城は手狭であり、籠城にふさわしくない。この合戦で実際の籠城の舞台となったのは、もっと奥にある三岳城の方ではなかったであろうか。北朝方の攻撃によって、三岳城は落城してしまう。

 その後も井伊谷城は、井伊氏の居城として維持されていたようで、井伊氏は戦国期になると今川氏に仕えていた。永禄3年の桶狭間合戦で今川義元が討ち死にした後も、井伊直親は今川氏真に仕えていたが、永禄5年に謀反の疑いをかけられて謀殺されてしまう。

 その際、幼年の直政が成長するまで、女城主として彼を支えたのが2017年度の大河ドラマの主人公井伊直虎であるという。井伊氏はその後、徳川氏に仕えるようになる。

 ところで、戦国期に勢力者であった井伊氏の居城としては、現在の井伊谷城はあまりにも手狭すぎると思う。戦国期にはどこか別の城に拠点を移していたのではないだろうか。




三岳城(浜松市北区三岳字城山)

*鳥瞰図の作成に際しては、『静岡の山城ベスト50を歩く』を参考にした。

 2016年の山城の日で、井伊谷城の次に訪れたのがこの山城である。当初の訪問予定にはなかったのであるが、ワカ殿から「井伊谷城の近くになかなかいい山城があって、かなり上の方まで車で行くこともできますよ」と言われたので、「じゃあ、行ってみましょう!」といういつものノリで、行きがけの駄賃に訪れてみることにしたのである。

 井伊谷城の北東3kmのところにある比高420mの三岳山が、三岳城の跡である。この山は三岳信仰の重要な山であり、見るからに高くそびえて見えるのだが、山のけっこう上の方に三岳神社がまつられている。駐車場も完備しており、その外観ほどきつい山城ではない。

 三岳神社の脇には「←三岳城」という案内も出ており、整備された登山道がついている。ここから一の城と二の城との間の鞍部までの比高は90m、さらに30mほど登ったところが一の城の主郭部となっている。

 歩きやすい山道なので10分ほどで上の鞍部に出た。手持ちの図面では、ここを「堀切」としている。確かにその痕跡は認められなくもないが、かなり埋められてしまったようである。

 そこから一の城を目指して左側に登っていく。登り始めてすぐに「桝形」の案内があり、ちょっとしたスペースがあるが、実際に桝形であったかどうかは不明である。上の本城部分とは距離がありすぎて、ここに桝形を置いても、完全に孤立してしまうため、防御機能としてはあまり意味がない。しかし、小さな番所などを置くにはふさわしい場所であるといえる。

 ここから20mほど斜面を直登していくと、腰曲輪があり、その上が2郭となっている。もっとも加工度は低く、天然の尾根といっても差し支えないレベルである。ただし、幅はけっこうあるため、居住性は十分にある。

 この2郭を進んでいくと、登り斜面になり、虎口が見えてくる。この上が山頂で、一の城の主郭である。ここには城址碑や案内板が設置されている。また、木がきれいに切り払われているので、ここからの景色は絶景である。太平洋まで一望の下に見渡せるというのは何とも素晴らしい! 長軸40mほどと、広さもまずまずである。

 この城の最大の見どころは、主郭から西側の斜面を下って行ったところにある。西側に下っていくと、帯曲輪状のものが2段ほどあり、その下に小規模な横堀がある。そこから下は急傾斜の切岸となり、そこにも横堀があった。つまり横堀が2段になっているわけである。

 面白いのは、この横堀内部に数本の土塁が見られることである。図を描くと畝のように見えてしまうのだが、実際には土塁というのにふさわしい高さがある。これらの土塁によって、虎口が形成され、さらにその土塁の奥に武者隠しのような空間が設置されている。意外にも工夫された虎口を持っているわけである。しかも武者隠しから続く横堀土塁の内側には石垣が構築されている。こうした遺構は南北朝期のものではなく、戦国期に改修を受けた結果なのではないかと思われる。

 下の横堀から先にも、やや帯曲輪状の地形がみられるが、切岸加工は施されておらず、自然地形であると思う。城域はここまでである。このように三岳城は、西側の斜面に最も多くの防御遺構を構築している。その理由は、西側の斜面が緩やかであったということにあると思うが、こちら側にも登山道があり、西側から登ってくるのが大手道であった可能性もある。

 最初の鞍部に戻って、今度は二の城方面に入っていく。一の城に比べるとこちらは整備されていないが、それでもそんなにヤブがひどくないので、普通に進んでいける。

 二の城には特に切岸などはなく、緩やかに登って行ったところに二の城の案内板が設置されていた。ここから尾根はさらに東に延びておりそちらに進んでいく。途中、平坦な尾根になっているが、城郭的な区画は認められない。天然の地山と何ら変わりがない。

 だいぶ進んでいった先に、左側に土橋を残して削った堀切があり、その先の部分の側面部には腰曲輪が造成されていた。さらに進んだところに長方形の一段高い区画があった。この辺りが二の城の中心部であったようだ。さらに進むと堀切があって、城域を区画しているようだが、ヤブがひどくなってきたので、今回はここまでにしておいた。二の城はかなり未加工部分の多い城郭であった。

 南北朝期の城と言われている三岳城であるが、西側には戦国期を思わせる技巧的な部分もあり、戦国期に、井伊谷城の詰めの城として機能した可能性のある城郭であると思う。

南側から遠望した三岳山。ここからの比高は400m近くある。 中腹にある三岳神社。ここまで車で来ることができる。広い駐車場もある。
一の城と二の城との間の鞍部。かつて堀切であったらしい。 一の城の下の郭。
主郭部の虎口。 1郭内部。眺望がよく、遠州灘まで遠望できる。
下の横堀下の切岸を見たところ。 横堀の内部に形成された虎口。
虎口脇の武者溜り。内部に石垣を積んでいる。 横堀内部の畝。石積みのものであった。
鞍部まで戻って今度は二の城へ。二の城の櫓台状の高まり。 その側面部にある腰曲輪。
 三岳城は、南北朝時代に井伊氏によって築かれていたというので、早くから井伊谷城の詰めの城として意識されていた城郭であったと考えられる。
 
 暦応2年(1339年)、後醍醐天皇の皇子宗良親王を報じた井伊道政は三岳城を当地域における南朝方の拠点として、ここに籠城したが、足利方の高師泰・仁木義長らの軍勢に攻められて、城は落城した。宗良親王は大平城に向かって脱出していったという。

 その後も、三岳城は井伊氏の城として維持されていたようで、永正11年(1514年)に斯波義達の側に立った大河内貞綱が、今川氏に反旗を翻した際には、井伊直盛は、大河内氏に呼応して、三岳城に籠城した。だが、今川家臣朝比奈泰以の軍勢に攻め寄せられ、城は開城、その後の井伊氏は、今川氏に従属するようになったという。




佐久城(浜松市北区三ケ日町都築)

*鳥瞰図の作成に際しては、『静岡の山城ベスト50を歩く』を参考にした。

 佐久といえば、信州の佐久市を思い出してしまうのだが、なぜか浜名湖にもこの地名がある。2016年の山城の日で、三岳城の次に訪れたのがこの城郭である。

 浜名湖北西の猪鼻湖の東南側には、浜名湖との間を区画する半島があるが、ここから西側に突き出した岬上に佐久城は築かれている。地図などにも城名が載っている城である。だから場所はすぐに分かるのだが、実際の城址は入り組んだ別荘地の中を進んでいった先にある。

 岬の先端を目指して進んでいくと、その奥部に駐車場があった。その上一帯が城址である。車を止めて、脇の切通状の部分を登っていくと、もうそれが1郭手前の大堀切内部であった。正面に1郭と2郭とをつなぐ長い土橋が見えている。

 それにしても大きな堀切であり、圧倒される。深さ10m、幅は15mほどもあろう。大変な土木量である。この城の築城者の威勢がうかがわれるというものだ。1郭と土橋で結ばれた2郭の前面には土塁がめぐらされており、1郭側から見た2郭は、まるで馬出のように見える。

 高土塁に挟まれた虎口を抜けて1郭内部に入っていく。堀切の巨大さに比べると、1郭は思ったほど大きな郭ではない。それでも長軸100mほどはあり、南北に延びて細長く紡錘形をしている。このような形状をしているのは、湖に面した部分が波に削られて崩落しているからかもしれない。

 1郭内部には井戸もあった。現在では埋まってしまっているが、直径3mほどもあり、深さもかなりあったのだろう。もっとも、湖に突き出している地形上にあるのだから、もともと水に困ることはあまりなかったはずである。1郭には城址碑も置かれていた。

 今度は戻って、2郭から南側に進んでいく。2郭外側の堀切には土橋はなく、いったん堀底に降りてから3郭方向に登っていく。この部分の堀切は深さ4m、幅6mほどと、かなりの規模はあるのだが、1郭手前のものと比較してしまうと、ちょっと貧弱に感じてしまう。
 
 その先が3郭である。『静岡の山城ベスト50を歩く』の図を見ると、3郭の側面部には、二重の堀切の痕跡があったようだが、その辺りも現在では削り取られてしまったようで、見る影もなくなってしまっている。もとは3郭まであった城郭と思われるが、現在では2郭構造の城としか見られない状況である。

 湖に突き出した岬を城塞化していることから、浜名湖の水運を監視する機能のあった城郭だったと思われる。











北側の野地城から遠望した佐久城。こうしてみると半島状の地形であることがよく分かる。 駐車場から登り始めると、すぐに巨大堀切の内部となる。
堀切の西側部分。超巨大である。 1郭虎口から2郭側を見たところ。こうしてみると、2郭は郭は馬出しのように見える。
1郭内部。長軸100mほどある。 1郭に残る井戸の跡。
2郭から1郭方向を見たところ。土橋の長いのがよく分かる。 2郭外側の空堀。
 佐久城は、室町時代中期に、当地の豪族であった浜名清政によって築かれたといわれる。浜名氏は今川氏に仕えていた。

 大永2年(1522)、連歌師宗長らが連歌会を催した「浜名備中守館」(『宗長日記』)というのが、この佐久城のことであったと思われる。

 永禄3年の桶狭間合戦で今川義元が討ち死にした後は、徳川氏による遠江侵攻が始まる。浜名氏は徳川氏に抵抗していたが、ついに敗れ、城を捨てて逃げていったという。

 その後、佐久城には徳川家臣の本多信俊が入城したが、城が手狭なため、信俊は新たに野地城を築いて移っていき、佐久城は廃城となった。。




野地城(浜松市北区三ケ日町野地)

 佐久城の北東800mほどのところに、佐久城同様、猪鼻湖の西岸に突き出した岬がある。ここに野地城という城があったとのことでナビにも掲載されていたので、佐久城を訪れた後、ちょっと立ち寄ってみることにした。

 この半島はけっこう広く、東西・南北ともに200mほどはある。ここは一面のミカン畑となっているのだが、先端部分に神社があり、その脇がゲートボール場となっているため、内部に入って行って車を止めておくことも可能である。

 車で訪れる際には、北側の海沿いの道を進んでいって、ゲートボール場に入る方が運転しやすい。ミカン畑の中にも道は通っているのだが、こちらは作業用の軽トラ専用の道のようで、幅が狭く軽トラ以外が進入するのは厳しいと思う。

 ゲートボール場の東南辺りに、野地城の案内板が立てられている。しかし城内がミカン畑になってしまったため、遺構の多くの部分は破壊されてしまっているようである。

 それでも、神社の周囲には土塁が残されており、また、ゲートボール場から少し東側に入り込んでいくと、堀の跡がしっかりと残っている。幅8mほどもある大きな堀なのだが、現状では深さは1mほどである。おそらく城内側の土塁を崩して埋めてしまったものと思われ、本来はかなりの深さがあったものであろう。

 その他にも、城内を中央に通る道を歩いていくと、道路脇に堀の痕跡がみられる箇所が2カ所ある。こうしてみると、3本の堀によって区画された3郭構造の城郭であったように思われる。これらから得られたイメージをもとにして描いてみたのが右の図である。もっとも、城内をきちんと歩いてはいないため、正確なものではなく、あくまでも概念的なものである。


 こうしてみると、本多氏が天正年間に築城したというだけあって、それなりの規模を有していた城郭であったということがわかる。ミカン畑となったために早い時期から破壊が進んでしまったものと思われるが、本来、大規模な堀と土塁によって区画された城郭であったものだろう。












神社脇に残る土塁。 神社だが、現在では訪れる人もいないようだ。
1郭外側の堀跡。幅はあるが、かなり埋められてしまったようで、浅くなってしまっている。 2郭外側の堀跡。道路がクランクしている脇にある。
3郭外側の堀跡
 野地城は、天正11年、徳川家康の命を受け、本多信俊によって築かれたという。それにしても天正11年といえば、天正壬午の乱の真っ最中であり、そのような状況の中で、なぜこの地域に新城を築かせたのかがよくわからない。

 一説によると、野地城の方が街道に近くて便利であったからだという。しかし佐久城との距離がそれほどあるわけでもない。要するに佐久城が手狭になってしまったから、というのが実情ではなかったろうか。

 現地案内板によると、野地城は延宝8年(1680)まで維持されていたというが、近世城郭としても使用された城にしては、扱われ方が悲しい城郭である。




千頭峯城(浜松市北区三ケ日町魔訶耶)

*鳥瞰図の作成に際しては、『静岡の山城ベスト50を歩く』を参考にした。

 2016年12月23日の山城の日で、宇津山城の次に訪れたのが、この城である。

 千頭峯城は、旧三ケ日町摩訶耶にある比高130mほどの山稜に築かれている。この辺りは千頭峯から東側や南側にかけて山稜が多くあり、北西側に位置する千頭峯は、西側に対して非常に視界の開けた場所にある。千頭峯というのは変わった名称だが、下の摩訶耶寺などに関連した宗教的な地名なのであろうか。

 千頭峯の東側にあるトンネルの南側に、千頭峯城の案内板が立てられており、ここには駐車場も設置されている。ここに車を置いて案内にしたがって登り始めていく。ここから1郭までの比高は50mほどであり、遊歩道を進んでいけば5分ほどで城域に到達することができる。思ったよりもお気楽に到達できる山城である。  

 上がったところの尾根に、「荷馬街道」という案内が立てられていた。ここは古い尾根道であったようである。

 尾根に登って西側に進んでいくと、最初の堀切が見えてくる。これが東曲輪群で、三段に構成されている。ある。また、最初の堀切のところに、下の井戸曲輪への案内が出ている。

 東曲輪を進んでいくと、すぐに1郭の城塁が見えてくる。東曲輪から比高20mほどもある鋭い斜面である。ここから案内に沿って登っていくと、東二の丸。さらに登っていくと、虎口を通って本曲輪に進入することができる。

 本曲輪には城の案内や石碑が建てられている。西寄りに土壇があり、これが櫓台のように見える。虎口は、いま通ってきたもののほかに、南側と西側にも付けられている。南側にも西側にも曲輪群があるので、これらはみな元からあった虎口であったと判断してよいと思う。 
 
 このうち、西虎口に面する部分は岩盤がむき出しになり石垣のようになっていた。西虎口から進入してきた敵は、この岩盤にさえぎられたところを、櫓台の上から狙い撃ちされるということになってしまう。

 西虎口から降りていくと、西曲輪群がある。こちらには深さ4mほどのしっかりとした堀切がある。また中心となっている曲輪の周囲には土塁がめぐらされている。

 しかし、その部分を除いて考えてみると、城塁の高さも低く、あまり堅固には見えない。中心となる曲輪の周囲にも、緩やかに区画された数段の平場が見られるのだが、いずれもほとんど自然地形のままである。防御性に富んでいるとは言えず、こちら側から接近して来たら、あっという間に西曲輪内に侵入されてしまいそうである。

 西曲輪から、山道が南側に続いている。これを通れば南曲輪群に行けるのではないかと思って進んでいく。実際予想通りで、この道の先に南曲輪があった。南曲輪は、尾根上を削平して造成した郭であり、郭部分を尾根よりも深く削ることで、周囲を土塁状にしている。この南曲輪側面を通っている道を進んでいくと、魔訶耶寺の方に出られそうである。

 南曲輪から北側に尾根を登っていくと、郭があり、その上が本曲輪となっていた。

 千頭峯城は、主郭を中心に、各方向に延びる尾根を加工して、三方向に郭を配置した城郭である。このうち、東側方向はもともとの斜面が急峻なので防御性が高いが、西側から接近されると、たちまち西曲輪を占領されてしまいそうである。西側が前面に当たるはずなのに、なぜかその方向が弱点に見えてしまう山城である。

 さて、ここからいよいよ今年の山城の日の主戦場である東美濃へと進んでいく。次の目的地は中津川市である。高速に乗って東美濃へレッツゴー!

東側のトンネルの手前にある案内板。ここからの比高は50mほどである。 東尾根から進んでいった際に、最初に目にする堀切。
東曲輪内部。 二曲輪から本曲輪に上がる虎口を見たところ。
1郭内部。櫓台状の高まりがある。 西虎口を入ったところにある石積み。
西曲輪の城塁。あまり高くなく堅固でもない。 西曲輪との間にある堀切。
南曲輪に向かう途中にある竪堀。 南曲輪の土塁。
 南北朝時代、南朝方の井伊氏は宗良親王と三岳城に籠城して、北朝方の武将と戦ったが、千頭峯城も、その頃、三岳城の支城として築かれたものと考えられる。

 千頭峯城には、井伊氏の一族奥山朝藤、浜名神戸荘官県氏、大江氏などが籠城した。いかし、暦応2年(1339年)には、高師兼によって攻められて落城する。

 その後には文献に登場してこないので、今川氏や徳川氏によって使用されたかどうかは明らかではない。城の構造から、戦国期も使用されたのではないかと推測する向きもあるが、さして技巧的であるとも思われず、南北朝時代で終期を迎えた城と想定しても、特に矛盾は感じない。




大平(おいだいら)城(浜松市浜北区大平字城山)

*鳥瞰図の作成に際しては現地案内板と『静岡の山城ベスト50を歩く』を参考にした。

 大平城は新東名の浜松SAの北西600mほどの所にある比高70mの山稜に築かれている。その手前の県道68号線を通っていると、いかにも目立つ案内板があるので、まず見落とすことはない。駐車場まで完備している。

 通常のルートだと、その左の脇から階段を登って五体力神社のところに上がっていくことになる。神社の前には城の案内板もある。ところが、ここからどうやって城址まで行くのかが分かりにくいのである。普通に考えたら、背後の山稜が城域かと思われるので、神社から背後の山稜に上がっていくことになる。

 ところがそこは本曲輪地区ではなく出曲輪であった。この出曲輪は、一面のシダに覆われており、まったく見通しがきかない。シダの間に道があるにはあるのだが、それも途中から、人の通れないようなルートになってしまうのである。予備知識もなくここに来た人は、このシダ類に圧倒されて、退散してしまうことになるのではないだろうか。

 本来の城域に進んでいくためには、出曲輪には上がらずに、神社の脇から右手の谷戸部に進んでいくのがお勧めである。出曲輪の先まで行ってしまえば、後は普通に歩ける山道が付いている。出曲輪の所だけが鬼門なのである。

 山道を進んでいくと城塁が目の前に見えてくる。そこに城址碑も建てられていた。そこからまっすぐに道を進んでいくと、やがて西曲輪と本曲輪との間の部分に到達する。ここから右手に上がっていけばすぐに本曲輪である。

 ただし、本曲輪とはいえ、あまりメリハリの利いた城塁は見られない。周囲には何段もの削平地が存在しているが、いずれもそれほど高くも鋭くもない。本曲輪から東側にかけては、東曲輪群が展開しているのだが、こちらもたいして段差のない区画でしかない。ただし、その先にある堀切は、深さ5mほどと、なかなかの規模のものである。

 東曲輪の北側の下には、きちんと削平された腰曲輪が2段に造成されている。

 本曲輪の西側にあるのが西曲輪群である。ここから北側にかけても尾根が展開しており、北曲輪といったところであろうか、北曲輪の先にも堀切が掘られている。

 西曲輪の側面には一段低く帯曲輪が造成されている。曲輪群は西側にかけて何段かに区画されているが、これも高い切岸によるものではない。

 このような感じで、大平城は、曲輪の数こそは多いが、あまり技巧的でもなく、それほど面白い城郭でもなかった。南北朝時代の城郭と思えば、まあこんなものなのかもしれない。案内板の立派さに目を奪われ期待していたわりには、あまりぱっとしない城郭なのであった。

 さて、戻る際には出曲輪の先から下に降りていく道が見えたので、これを通ってみることにした。この先は普通に歩ける山道で、下の駐車場の東の端の部分に出た。登城する際にも、この道を通った方が分かりやすいかもしれない。

 ただし、この東側の登り口には「途中崩落している部分があって危険です」といった注意書きが掲げられている。とはいえ、私が通ってみた限りでは、特に危険個所は見られなかったと思う。すでに危険個所は改修されたものと思われる。




県道沿いにある立派な案内板。駐車スペースもある。 脇の石段を登った先が五体力神社で案内板も設置されている。ここから上の出曲輪に進む道が付いているのだが、出曲輪に入ってしまうと猛烈なシダヤブになっており、どうにもならなくなる。右手の谷戸部経由の道を進むべきである。
これが出曲輪内部の様子。とても通れない。 出曲輪の側面部を降りて、本曲輪方向に向かう。写真は本曲輪下の郭にある城址碑。
本曲輪と西曲輪との間の尾根。 本曲輪から下の腰曲輪を見下ろしたところ。
東曲輪方面。 東曲輪の先の堀切。
本曲輪下の腰曲輪。2段になっている。 腰曲輪から本曲輪の城塁を見たところ。
北曲輪の先にある堀切を見下ろしてみた。 西曲輪内部。
駐車場の右端にも道があるが、こちらを通った方が迷わない可能性が高い。
 南北朝時代の記録に、大平城は、三岳城の支城としてその名前が見えるので、南北朝期にはすでに存在していた城郭であった。大平城では13世紀から16世紀にかけての陶磁器が発掘されているというので、実際に南北朝時代から、戦国期に渡って、かなりの長期間、城郭として使用された場所であったようだ。

 しかし、戦国期の城としてはかなり未成熟であることから、戦国期にはそれほど重要視されていなかったのではないかと想像する。
























大竹屋旅館