蒲原城(静岡県蒲原町蒲原字城山)

*参考資料 『日本城郭体系』

*関連サイト 埋もれた古城

*鳥瞰図の作成に際しては現地案内板の図を参考にした。

 07年12月15日の「山城の日」で、真篠城、尾崎砦、北松野城に続いて訪れたのがこの蒲原城であった。このルート、ちょうど永禄11年の武田軍の今川領侵攻と同じルートなのではなかったかと思う。このルートを経て初めて駿河湾を目にしたとき、いったい信玄はどのような感慨にふけったものであろうか。蒲原城からは駿河湾の白波を遠望することができ、青空に映えるその風景は心に染み入るほど美しいものであった。

 蒲原城は蒲原町役場の北方にそびえている比高100mほどの山頂を中心に展開した山城である。南麓の若宮神社の辺りから山上へ登る道があるので、これをずっと進んでいくと、やがて左手に駐車場が見えてくる。ちなみにこの山の東側にある御殿場広場の辺りも出城の跡であるそうだ。

 さて、この駐車場に車を停めて歩き出すと、すぐ脇に4の郭が見えてくる。この道は尾根上を進むようになっているのだが、そのすぐ先には案内板もある。こちら側からのルートはかつての搦め手であったという。

 案内板の先には「大堀切」という案内板がある。しかし、案内板の先のヤブに進んでみても、肝心の堀切らしいものはよく分からない。その先にあるのは城とこの尾根との間の自然の沢であり、堀切であるとは思われない。この沢に多少の手を入れて堀切らしくしているのかもしれないが、何しろこの辺はヤブがひどくて詳しいことはよく分からないのである。

 3の脇の切り通しを過ぎて、まっすぐ1郭まで行ってみた。1郭は最高所だけあってさすがに見晴らしがいい。駿河湾を一望できるのはもちろん、伊豆半島やその手前の白波、富士山なども見ることができる。絶景というべきであろう。ここを取り合った北条氏も武田氏も、ここでこの光景を見たときには、それぞれ感じるものがあったことであろう。

 1郭は20m×60mほどあり、そこそこ広い。現在、ここには神社が祭られている。周囲は切岸加工されているのだが、いきなり城の縁から切岸になるのではなく、左右の縁にはやや低く帯曲輪状になった部分がある。柵列の先に一段低い帯曲輪を配置し、そこを敵を迎撃するための空間として意図していたものであろうか。

 1郭の南西側には尾根が続いており、その先に2の郭がある。この辺りヤブがひどく、形状もよく分からないのであるが、登城道の下には帯曲輪が続いていくといった構造になっている。もっともこのあたりには後世の改変があるのかもしれない。

 2の先にも数段のまとまった広さの郭があるらしい。南麓からこれらの郭を通って登ってくるのが大手道であったという。しかし、このルート、現在ではかなり荒れており、時間がなかったこともあって、どのような構造になっているのか先の方まで確かめることはできなかった。また、下の方は東名高速道路によって削り取られてしまっている模様である。つまり本来の大手道と呼ばれるルートをたどることは現状ではかなり困難になってしまっているらしい。

 1郭の北側の入り口はやや枡形状になっている。その南側の縁には、岩盤をくりぬいて竪堀状に削っている部分がある。よく見ると、人一人が通れるほどのスペースになっている。これも一種の虎口であったものだろうか。降りてみると、その先には小規模な堀切があった。さらにその先に切岸があって、尾根道が延々続いている。これも登城道の1つであったものであろう。

 1郭の北側には深さ8mほどもある大堀切がある。そしてその先が善福寺曲輪である。善福寺曲輪との間にあるこの堀切は、底の方は岩盤であったらしく、それを力任せに掘り切っているという非常にダイナミックなものである。草木の繁茂のためにだいぶ分かりにくくなって入るが、壁面には一部石積みらしきものをみることもできる

 善福寺曲輪にはさまざまなギミックが復元されていてなかなか興味深い。3箇所の櫓や土塁上の頼りない柵列、さらには塁上の逆茂木群など、かなり珍しいものを見ることができる。中世山城の再現を意図したものだと思うが、しかし、櫓も柵も逆茂木も、どうも模擬くさい感じがする。城塁に逆茂木を配置するといったことは確かにあったものだと思うが、こんな風に並べているのがリアルだとはどうしても思えないのである。そんなわけで、私はこの城の再現物はどうも好きになれない。こんなものがなくても、城の本来の遺構だけで十分なほどに遺構の充実した城出あると思うのである。

 善福寺曲輪の北側城塁はやはり鋭い切岸となっている。その下の方にはかなり充実した石垣が見られ、防御に意を払っている様子を伺うことができる。ここにはA,Bの腰曲輪があるが、これらの腰曲輪の縁部には土塁が積まれているので、一種の横堀と見てよいかもしれない。特にAの部分は入り口が土塁によって狭められており、一種の枡形構造であったかとも思われる。Bの郭の東側は自然地形となっているが、その下はやはり横堀となっている。

 今回の訪城で見たのはざっとこれくらいである。実際にはまだまだ郭も遺構もあるようだが、とりあえず歩いた範囲だけを図にしてみた。ヤブがひどいといったこともあり枝葉の方は把握できない。しかし、この中心部だけでもそれなりにまとまった遺構を見ることができる。軍事的拠点城郭というのにふさわしい城であるといっていいと思う。

 蒲原城は今川氏や北条氏・武田氏によって番城として用いられ、北条氏・武田氏によっても大規模に改修されている城だという。しかし、これぞ北条氏!あるいは武田氏!といった印象は受けない。山の地形なりにそこそこの規模の城を築いたらこんな感じになったといったところであろうか。もしくは、天然の要害であったために、特別な構造を新たに築き上げる必然性はなかったということであるのかもしれない。

駐車場から4の郭の脇を通って尾根道を歩いていくと、やがて城の案内板が見えてくる。 1郭にある城址碑。1郭には神社が鎮座している。
1郭から見た善福寺曲輪。1郭との間には深い堀切がある。 1郭と善福寺曲輪との間の堀切。1郭側からの深さは8m、善福寺曲輪からは4mほどある。堀底部分には岩盤もあったようで、岩盤をくり抜いたダイナミックな堀切である。分かりにくいが壁面には多少の石積みもあったようだ。
善福寺曲輪の周囲には土塁が復元されていて、模擬の櫓、柵、逆茂木等も復元されている。といっても、本当にこのような逆茂木があったかどうかはアヤシイものだが、坂茂木の復元というのも珍しい。 1郭の南側にはやや窪んだ地形があるのだが、ここは岩盤をくり抜いたようになっていて、虎口であったようである。その先には写真の堀切があり、
1郭からみた駿河湾。白波が立ってとてもきれいであった。海の向こうに伊豆半島が長く横たわっている。 Bの腰曲輪。周囲には高さ1m程度の低い土塁がめぐらされていて、横堀状態になっている。その先のAの入口は狭められており、枡形のようにも見える。
これらの腰曲輪に面した膳福寺曲輪下の城塁にはこのようにかなりしっかりとした石垣が積まれている。 Bの腰曲輪の下は自然のままのようなだらだらとした地形が続き、その先にこの横堀がある。
 蒲原氏は藤原氏の一族で、鎌倉時代にはこの地を領していたという。したがって蒲原城はこの蒲原氏の居城であったといわれているわけだが、その当時の城がこれほどのものであったということはないであろう。蒲原氏の居館は山麓のどこかにあったに違いない。

 天文14年(1542)頃の『東国紀行』(連歌師、谷宗牧の紀行文)には「飯尾豊前守へは、参河より下向の事申遣たれば、駿豆再乱によりて、蒲原城当番なり」とあるということで、蒲原城は、その当時には対北条のための番城であり、飯尾豊前守がここに在番していたということがわかる。

 永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にした際、飯尾豊前守氏徳も共に戦死した。というわけで、飯尾氏はその時点で在番衆からは抜け落ちたということになる。

 その後、今川家が弱体化すると、北条氏や武田氏に対する備えとして蒲原城はますますその重要性を増していたわけだが、「今川氏真判物」により、永禄4年には佐竹高貞が城番となっていたということが分かる。同文書内には「蒲原根古屋、堀・築地の改替の為に参り、人を扶持し、ならびに段銭前々の如く扶助せしめおわんぬ。此外、根古屋居屋敷之地子等」とあって、この時期に山麓の根古屋の工事が行われていたことが分かる。すると在番集も平素は、山城部分ではなく、根古屋に詰めていたのではないか、といったことが推測される。

 今川氏の弱体化に伴い、北条氏は駿河に侵攻しており、その後、蒲原城は北条氏の拠点となった。永禄12年の「増善寺文書」には「蒲原在城につきて」山角刑部左衛門尉、布施佐渡守に鉄砲衆を以って守備に就くように、といった記述が見られる。蒲原城は、北条氏の駿河侵攻の橋頭堡となっていたのである。また、この時期になると武田信玄による駿河侵攻作戦も活発化しており、この文書は武田氏の侵攻に備えてのものであったとも考えられる

 結局、永禄12年の武田信玄の駿河侵攻で、蒲原城は攻め落とされてしまう。その後は武田氏による支配が行われ、山県昌景は蒲原衆を編成していたという。

 天正10年の武田滅亡後は、城は徳川家康によて接収されたと思われるが、その後に廃城となったのか、さらに使用されていたのかはよく分からない。

 いずれにせよ、蒲原城は駿河国境近くの重要な拠点であり、今川、北条、武田がそれぞれ在番衆を置いていたということからも、歴史的にも注目すべき城郭であった。今川も北条も武田も、この城に立ち、敵勢力のいる方向をにらんでいたに違いない。そうしたことに思いを馳せるだけでも、この城に来た意味があるように感じられたのであった。





































大竹屋旅館