山梨県北杜市

*参考資料 『日本城郭体系』 『戦国の武田の城』

獅子吼(ししく)城(北杜市須玉町江草)

*鳥瞰図の作成に際しては『図説中世城郭事典』を参考にした。

 獅子吼城は根古屋大明神の東南にそびえる比高120mの山上にあった。かなり急峻で岩肌の露出する山であるが、山頂近くにも民家があるので、城の入口近くまで車で行くことが可能であり、そのためアクセスしやすい城址である。かつてこの民家に行く道はかなり細い道であったようだが、現在は幅広の舗装路も付けられている。しかし、登り口はかなり東側山麓に寄った部分で、ちょっと分かりにくい。

 それにしても「獅子吼」とは面白い名前である。獅子が吼えるとはどういうことなのだろう。獅子が吼えているような形態をした山だというのであろうか。ちなみに、「獅子吼」という言葉を聞いて思い出すのはなんといっても昭和48年に放映された特撮時代劇「白獅子仮面」だ!(みんな知っているかな?) 白獅子仮面に変身する時の掛け声が「獅子吼!」なのであった。

 しかし白獅子仮面、人気がなかったよなあ。それもまあしょうがない。何しろ顔が悪すぎるのだ。こんなに顔の悪いヒーロー、見たことない。どう見ても悪人面である。普通は変身するとかっこよくなるはずだが、かっこいい主人公(光速エスパーの三月清ツ木清隆である)が変身して不細工になってしまうとは、いったいどういうことか・・・。

 こんな渋面では子供たちが感情移入できるはずもなく、視聴率も振るわずに1クールで打ち切りになってしまった。戦う相手も地味な妖怪ばかりだし、最終回は敵と戦ってあっけなく死んでしまい、星になってしまう(比喩表現ではなく、実際に星になってしまうのである!)。なんとも情けないヒーローなのであった。「江戸の平和を守るため、大岡越前守配下の影与力が変身する」と、時代設定もしっかりしていたのだが・・・・。

 とまあ白獅子仮面のことはちょっと置いておいて、獅子吼城である。この城は別名江草富士とも呼ばれるとんがった山の上に築かれている。城付近は道が狭く、車を停めておける場所もないが、先に述べた、山上近くを通る新しい道は幅も広く、この道であれば路上駐車も可能である。この道から、城址方向に向かう道に入ると、「獅子吼城」という大きな看板も立てられている。後はまっすぐ進めば城の案内板の所に出る。

 ここからが城域内といった雰囲気である。城に続く道は、この案内板の上ではなく、右側下の奥の方にに付けられている。といっても、上の台地を登っていっても結局同じ所に出るので、どこから行っても城に到達することには変わりはない。

 進むと墓地の背後に堀切があるのが見えてくる。両端は竪堀となって落ちている。この脇をさらに進んでいくと、堀切と虎口がある。ここから先がこの城の見所である。

 この山には岩がごろごろとしている。つまり石垣用の素材がいくらでもあるわけで、これを用いて石垣を各所に積み上げているのが獅子吼城の特徴である。

 先の虎口を抜けると、通路はそのまま横堀内部となっている。これを右側に回りこんでいった先に登り口がある。ここから数段の腰曲輪を登っていくことになるのだが、登城路は石段造りであったように思われる。要所要所に城門も建てられていたようで、礎石と思われる石も見受けられる。

 とはいえ、石垣の積み方は裏込め石を用いた本格的なものではなく、とりあえず積み上げただけのものであったようである。そのため崩落しやすく、現在ではほとんどの部分で石垣は崩壊してしまっている。そういう状況であるから、城塁だか天然岩盤だかわけが分からないほどに石が城内に散乱してしまっているのである。それでも石垣造りの腰曲輪が数段配置されていたということだけはしっかりと確認できる。

 上の方は登城路も石の崩落で分からなくなってしまっている。それでもがんばって登っていくと、1郭手前の小空間に出た。ここから石門を抜けると1郭となっている。というように見ると、この小空間は一種の出枡形であったものだろう。

 1郭内部は長軸50mほどの楕円形となっており、まずまずの広さがある。江草富士と呼ばれるだけあって眺望も利いている。建造物も幾棟か建てておくことができたであろう。また1郭には何かの祠が祭られていた。その脇には不動明王の石像もあったが、これがなかなか素朴な表情をしていて、味わい深いものであった。さらに1郭の先端付近には模擬狼煙台が設置されていた。若神子城にも模擬狼煙台が設置されていたが、この辺の城で狼煙台リレーでも行われたことがあったのだろうか。

 1郭の周囲下にはきちんとした腰曲輪が造成されている。さらにその北側の下に数段の腰曲輪状の地形があるよいだが、けっこうな巨石が転がっていて、郭としての形状をきちんと維持することは難しい感じである。

 以上が獅子吼城の概要である。構造そのものはわりと単純であるが、豊富な石材を活かして多くの石垣を用いているのが印象的な城である。

南側の道から遠望する獅子吼城。正面突き当りに案内板がある。 案内板の右脇の道を進んでいくと、最初に見えてくる堀切。
主要部の虎口。かつては石垣組みであったようだが、写真では分かりにくい。 虎口から続く横堀。
横堀上の城塁には石垣が積まれている。 段々の腰曲輪に続く石段跡。
石段脇の石垣。 腰曲輪城塁の石垣。
巨石が天然の城塁を成しているところもある。 1郭虎口。石門となっている。出たところが出枡形形状となっている。
1郭内部。狼煙台が置かれていた。 1郭北側下の腰曲輪。
腰曲輪周囲には巨石がごろごろとしている。 横堀から下に続いている竪土塁。
 獅子吼城は武田一族であった江草氏の居城であったという。江草氏初代の信景はかの有名な武田信長の弟であるから、甲斐武田氏としてはかなり初期の人物である。以後は江草武田氏の本城となっていたと思われる。

 『高白斎記』の永正6年(1509)10月3日の項目に「小尾弥十郎、江草城を乗っ取る」とある。小尾氏は巨摩郡の豪族であるが、江草氏との間に抗争があったのであろうか。

 『武徳編年集成』には、天正壬午の乱(織田信長の死後に起こった徳川氏と北条氏との甲斐国内での抗争)の際に、北条勢がこの城を守っていたが、徳川方の服部半蔵率いる伊賀組やそれに協力した武田遺臣らによって攻撃され、落城したという記事が見られるという。

 天正壬午の乱については次の若神子城の項目を参考にしていただきたい。




若神子(わかみこ)城(大城・北杜市須玉町若神子)

 若神子城は、諏訪神社の北側にそびえる比高50mの台地先端部にあった。周辺には支城網が発達しており、北側には北城、南側には南城がある。

 現在ここは、ふるさと公園となって整備されている。ところが城址公園ではなく一般の公園であり、整備されすぎの感がある。公園化に伴うものなのか、それ以前から破壊が進んでいたのかよく分からないが、ともかくも現状では遺構がほとんど不明瞭になってしまっているのであった。

 公園には駐車場があるので、ここに車を停めておくことができる。駐車場の辺りは台地基部に当たり、セオリー通りであるなら、ここに堀切がほしい所である。だが、現状でははっきりしない。ただし、駐車場脇の切り通し通路が堀切の名残のようにも見える。あるいはこれが実際に堀切であったものだろうか。

 車を置いて先端方向に進んでいくと、東側の縁に一段低い窪んだ地形があるのが目に入ってくる。もしかしたら、これが腰曲輪の名残なのかもしれないが、それにしてはあまりにも比高差がなさ過ぎるようにも思われる。また、縁部も直線的ではなく、かなりジグザグしている。

 さらに南に進んでいくと、緩い土塁状の高まりが見られる。しかし、やはり遺構なのかどうかは分からない。はっきりと遺構として説明があったのはその先にある堀跡である。そこには「薬研堀」という案内板がある。これも現状では相当埋められてしまっているようで、きわめて浅い窪みにしかなっていない。それに形状は明らかに畝堀である。この城は天正壬午の乱に際して、北条氏直の本陣として使用されていたと言われているので、北条氏による畝堀が存在していた可能性もあるといえるかもしれない。

 その先の広場部分が主郭跡と思われる部分である。その南端部には低いながらも段差があり、東側端の部分に堀跡と思われる窪みがあった。ここにかつては堀切が存在していたのであろう。なお、残存する堀跡の脇上には模擬狼煙台が建てられている。かなり立派な狼煙台であるが、実際にこのようなものが存在していたのかどうかは知らない。この狼煙台は『和漢三才図絵』にあったものをモデルにして作成したものであるという。『和漢三才図絵』は近世初期の百科事典で、いろんなものの形状が記されている面白い本である。学生時代はよく参照していたものだ。

 そのさらに先端に行くと、土塁状の高まりや土壇などもあるが、内部は平坦でもなく、郭としてきちんと造成されているのかどうかはっきりしない。

 このような感じで、若神子城は、どのような城であったのか、現状ではさっぱり把握できない。歴史上、重要な城であったはずであるが、このように不明瞭になってしまっているのは残念なことである。ただ、山上には「若神子城跡」の看板が掲げられ、山麓からでも城址であることが分かるようになっている。甲斐源氏発祥の地として、地元では大切にされている城館ということになるのであろう。遺構はほとんど破壊されてしまってはいるが。






















駐車場から歩き始めてすぐ、東側に若干土手が削られたような跡がある。腰曲輪の名残だろうか。 1郭北側にある土塁状のもの。遺構なのかどうかはっきりしない。
その南側にある畝堀跡。浅い、あまりにも浅すぎる・・・・。北条氏の工事と言われてもなあ・・・。 先端近くに立てられた模擬狼煙台。
台地先端部の土塁状部分。 狼煙台の南側にある堀切の名残らしきもの。
 伝承では、甲斐に所領を得た新羅三郎義光が最初に居館を置いたのがこの地であったという。つまり甲斐源氏発祥の地であるというわけで、甲斐源氏である武田氏にとっては神聖なる城であったものだろう。

 城址は佐久方面に抜ける街道を掌握する位置にあり、交通の要衝を占めている。武田氏の軍道である「棒道」もこの城を始点として造成されているということで、信濃進出を行った武田晴信にとっては地理的にも重要な拠点として維持されるべき城館であった。

 天正10年、甲斐国の掌握を狙って、北条氏直と徳川家康とが対峙した天正壬午の乱に際して、新府城に本陣を置いた徳川家康に対して、北条氏直はこの城を本陣としたという。

 天正10年8月17日付けの原式部大夫宛の北条氏政書状によると「去7日、甲州若神子に至り、氏直打ち詰め候、敵新府の要害をかた取り、切所にて当然に打ち向い候間、定めて人数を立ち越えられ、直覧有るべく候条」といったことが伺える。氏直が若神子城に、徳川方が新府城に陣取っていたことが分かる。これに続けて氏政は「この戦いに勝利を得られなければ、滅亡のほかあるまじく候」などと危機感をあおるようなことを言っている。さらには「数代の因縁の決着を付けたい」とまで言う。ここで徳川方を抑えられるかどうかが北条氏の今後の浮沈にもかかわってくると重大視しているのである。

 その後、8月17日に、北条氏直と徳川方との間に合戦があったようで、氏直は8月22付けの感状を何通も発給している。




若神子北城(大城・北杜市須玉町若神子)

*鳥瞰図の作成に際しては、『甲斐国の山城と城館』(宮坂武男)および『日本城郭体系』とを参考にした。

 若神子北城は、若神子城と北側に向かい合う台地先端部に築かれていた。比高60mほどの、南北に長い台地である。図のAからBまでの距離は300m以上ある。想像以上に広大な城郭であった。

 この周辺の他の台地と同様に、側面部は急峻な天然の斜面となっており、細長い台地の基部部分を掘り切ってしまえば、それだけで城郭が成立する。城を構築するのに効率的な台地であると言っていい。

 現在、台地上には、クラブヴェルデという立派なスポーツ施設がある。そのため台地上まではとてもいい道が付けられている。この道をどんどん上がって行き、上がった所で南側に行けるところまで進んでいく。するとグランドのような広場の手前で道が曲がり、そこから未舗装の林道が奥に延びているのが見える。右の図の上の方の、道が分岐している部分がそれである。車をその辺りに置き、未舗装の道をどんどん進んでいくと、すぐに城内に到達することができる。

 森の中に入るとすぐ右手の木に、朽ち果てた城址標柱が立てかけられていた。字もかすれて読みにくくなっているのだが、なんとか「若神子北城」というように読み取ることができる。何年前に設置されたものか分からないが、木の標柱というのは、数年でだめになってしまうものも多いようだ。この地域は冬に雪も積もるだろうから、さらに寿命は短くなってしまうであろう。せっかくの標柱なのに残念なことである。できれば、定期的にメンテナンスを行ってほしいと思うのであるが・・・・。

 標柱の所を進むとすぐに、道の脇から土塁が延びているのが分かる。確かに人工的に盛り上げたような地形である。ただ、それほどメリハリの利いたものではなく、だらりと延びているといったレベル。これがAの部分の土塁であるが、不思議なのは、前面に堀が掘られていないということである。後世の耕作化の際に埋められてしまったのかもしれないが、これだけでは城郭遺構のような鋭さがまったく感じられない。だが、遺構であることには、間違いないであろう。

 参考した図面ではいずれも、この土塁には2箇所の張り出しがあったように描かれていた。確かにそのことは現状からでもちゃんと理解できる。これも本来はもっときちんとした張り出しで、櫓台であった可能性もある。

 その部分からさらに進んでいくと、とにかく広い平坦地が続いている。やがて道は降りに差し掛かり、その辺りから先端の郭の城塁らしきものが見えてくる。そこに上がった所に土塁が残されており、Bの虎口状の部分も形成されている。もっとも、Bが本当に虎口であったかどうか、はっきりしない。

 今回、確認できたのはこのくらいである。台地の西側に、帯曲輪や井戸状の窪みなどが残されているらしいが、真夏ではヤブがひどくて、とても入っていく気にはなれなかった。

 この城の印象としては「とにかく広い平場面積を有している」ということである。それは東林寺城木原城など、北条氏の番城には共通する特徴であると言える。北条氏の陣城というのにふさわしい城郭であるといっていい。

 土塁などの遺構が明瞭でなく、切岸の高さもそれほどではないのは、戦時に急造されたものと説明すれば、なるほど確かにそんなものなのかもしれない。しかし、急造にしても、もう少しそれらしく遺構が残っていてもよさそうなものである。

 やはり後世の耕作化によって、すでに土塁の多くが崩され、堀を埋めてしまったものだと思われる。城内は非常に広大な平場となっているが、この平場もまったくの天然地形であるとは思われない。完全に造成したような平場になっているのである。臨時の築城で、平場を完全に造成することはさすがに難しいであろう。この広大な平場造成も、陣城築城時、というよりは、近世からの長い耕作時代によって時間をかけて造成されたもの、と解釈する方が当たっているであろう。つまり耕作化は、遺構の鋭さを失わせると同時に、平場そのものは、城郭本来のものよりもいっそう、郭らしくさせてくれるものだ、ということである。





i入口付近にある城址標柱。すっかり腐って字も読みづらくなっているが、なんとか「若神子北城」と読める。 入口脇の土塁。長く延びているが堀はない。
先端部近くにある土塁。




若神子南城(北杜市須玉町若神子)

*鳥瞰図の作成に際しては、『甲斐国の山城と城館』(宮坂武男)および『日本城郭体系』とを参考にした。

 若神子南城は。若神子城と南側に向かい合う台地に築かれていた。この台地は非常に広大で、リガク株式会社の工場や須玉美術館などがあったりするが、若神子城と向かい合う北東側の先端部との間にはネック部が存在しており、城郭を営むのにちょうどよいスペースとなっている。

 城址は現在、法徳寺という寺院となっている。台地に登っていく道は非常によい車道が通っているが、それは台地上のリガク工場に行くためのものである。台地は広大なので、どこが城址なのか、ぱっと見には分からない。だが、注意してみれば、「法徳寺→」といった案内があちこちに出ている。これにしたがってやや細い道をどんどん進んでいけば、やがて寺院に到達することができる。

 この寺院の敷地の東側には折れを伴った土塁が残されているが、よく見ると、郭内部側は重機で削ったように見える。『城郭体系』の解説によれば、昭和57年に城址の土取りが行われ、遺構はすっかり破壊されてしまったという。となると、東側の土塁と思われるものは、単純にその際に削られて残った部分に過ぎない可能性もある。となると、近代の削り残し土塁である。とはいえ、位置から言っても、、もともと、ある程度の土塁があったとしても不思議のない場所である。

 この土塁の下は高さ4mほどの城塁になっているが、これは本来の城郭遺構と見てもよいものである。その下には帯曲輪状の部分や、光明浄苑の建物の建つスペースがあるが、これももともとの郭部分であったろう。その下には近代の墓地が造成されているが、これは遺構とは無縁のものであると考える。

 さらに『城郭体系』の記事によると、昭和57年に破壊されるまでは、城の中央に堀切があり(中央部に土橋を伴っていた)、50m四方ほどの区画となっていたという。それが主郭部分であろう。この堀切がどの方向に掘られていたのか記事には書かれていないが、これによって50m四方の区画が形成されていたというのが事実であるとすれば、堀切は右の図のように入っていたということになるだろう。もちろん、現在ではその痕跡すらまったく見ることはできなくなってしまっている。

 上記の記事から、若神子南城は2郭構造の城郭であったと考えられる。若神子城・北城と比べると非常にコンパクトな構造であり、天正壬午の乱の際に造成された陣城と言うよりは、もともと存在していた城館を陣城として使用したものといった趣がある。











寺院となっている主郭。かなり表面が削られてしまっているらしい。 東側に残る城塁。
上の城塁部分の内側は土塁状になっているのだが、単に削り残された跡であるかもしれない。


























大竹屋旅館