山梨県富士河口湖町・上九一色村

*参考資料 『中世城郭事典』 『日本城郭体系』

*参考サイト  近江の城郭  信玄を探す旅 

御坂(みさか)城(富士河口湖町御坂峠)


 御坂城から見た富士山はとても美しく、この風景を見るだけで、魂が満たされるような感動に溢れてくる。

 太宰治は「富嶽百景」の中で、御坂峠で見る富士を評して「あまりにもおあつらえむきの富士である。・・・これはまるで銭湯のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも注文通りの景色で、私ははずかしくてならなかった」というように書いている。

 太宰は物事をあまりに理屈で考えすぎている。このようなすばらしい景色を見て上記のとおりの表現しかできないようなひねた男だから、まともに人生を生きようとすることもできずに玉川上水に飛び込んで果ててしまったのだ。自分の目の前に広がっているのがペンキ画などではなく、そこに風景の真実をみることができないような感性で、どうしてまともな人生を送ることができようか。

 人はまず、素直になり、虚心坦懐になり、そしてありのままのものを受け入れようとする努力をするものである。いや、努力をしなくてもそれができるのが、まともな人間というものであろう。

















 06年12月23日(土)、今年の山城の日は河口湖の北にそびえる標高1595mもある御坂峠に築かれた御坂城と、青木ヶ原樹海にそびえる本栖城の2つであった。日本で最も高い所にある城と、日本一迷ったら危ない樹海内に石垣遺構らしきものを持つ本栖城、いずれも山城の日にふさわしい城郭であった。それにしても疲れた!

 御坂城に行くための主なルートは2つある。1つは旧道の御坂トンネル手前の「天下茶屋」から150m登って尾根筋に出て、あとはアップダウンしながら御坂山を越えて城に出るコース、もう1つは現在の御坂トンネルの東側脇から登る本来の峠道を通っていく比高500mのコース。今回は前者で行き、後者で降りてくることにしたが、これがベストの選択であったと思う。あまり人が通らない後者の道の途中にも遺構らしきもの所々に点在していたのである。

 さて、天下茶屋から太宰治記念碑を通ってさっそく登り始めたのだが、どうしたものか、すぐに身体が疲れて足が重くなってしまった。いつもはこのように疲れるようなことはない。どうやら、酸欠気味になってしまったようだ。いきなり標高1400mから登り始めたからである。こういう高地の城を訪れる際には、あまり焦ってはいけない。景色を楽しみながらのんびり歩くという余裕が必要であろう。

 そんなわけで、この登山はかなりきつく感じてしまったのだが、この日は気候がよく、冬なのにまったく寒くないどころか、歩くのにちょうどいい状態で、さらには時々見える富士山の景色の美しさも心に染みるものであった。このコースは、景色を見るだけでも実に有意義であると思う。体力のある人にはお勧めである。実際この日も、わりとたくさんのハイカーと出会うことになった。

 さて、御坂峠にある御坂城の様子だが、これがまたなんというか、変わった城郭である。城の中心部らしくまとまりのよい遺構は、峠の辺りにあるのだが、その両端の山の上にも遺構がそれぞれあり、さらにそこからすり鉢の底にあたる峠に向かって横堀を竪堀に変化させながら落としていっている。さらには、それが再び横堀となって中心部の周囲を巡っている。普通の城の構造は中心部を高くするというのがセオリーであるが、この城は、中心部が低い所にあって、末端が高くなり、城の中心を見下ろせるようになっているのである。しかも山の上から下まで堀を延ばすことによって山の斜面までもを無理やりに城域内に取り込んでいる。そのため城域はかなり広く、AからBまでは下って上がって1km近くある。それにこんな城、防衛ラインが長く延びすぎており、かなりの大軍であったとしても、守るのはそうとう難しいのではないだろうか。さらに、このような高所にそれほどの大軍を送り込むことそのものが難事であろう。そのように考えてみると、峠を守る城として御坂城は「分に過ぎたる城」であり、これだけのものをここに造らねばならない必然性をさっぱり感じないのである。やはり、戦国時代にも「城オタク」みたいなのがいて、「とにかくここにすごい城を造ってやる!」とでも考えたのではないだろうか。実際に工事に携わった兵士たちは、働かされながら、心の奥ではあきれかえっていたかもしれない。

 この城でもっともまとまりがよいのは、Cの部分である。谷部とはいえ、この部分の比高が一番高くなっている。東側はトイレが建っているために分かりにくくなっているが、食い違いの虎口となっている。西側の導入路も折れているが、南側に丸馬出しのようなものを伴っており、二度向きを変えないと郭内部に進入できないようになっている。また北側には横堀が2段になっており、厳重である。もともとこの部分、それほど平坦ではなかったせいか、郭内部が三段に分かれているが、削平はきちんと成されている。広さはそれほどでもないのだが。

 Cの東側の、峠の茶屋のあるE地区、西側の細長いD地区も、それなりに削平地を数段に構えているので、この辺りを合わせるとそこそこ広い空間を維持できる。この城の基本は関所であると思うが、E、D辺りに小屋掛けすれば、そこそこの居住性はある。といっても、このような山間にどれほどの兵を配備できるものであろうか。それに中央部の郭をいかに厳重にしても、両端山の上から攻め込まれたら非常にもろい構造である。東側にはまだ堀切による区画があるが、西側はBから攻め込んでしまえば、何の障壁もなくD地区まで攻め込まれてしまう。西側から攻撃されることは意識せずともよかったのであろうか。御坂城が北条氏の城であるとすると、西側からの備えが薄いことは矛盾していないだろうか。また、南側の山麓から登ってくる峠道の途中には人工的な防御遺構と思われる部分が何ヶ所かある。とすると、北条の勢力圏である南方から上がってくる敵に対しての備えを厳重にしているということになる。

 ウモ殿が言っていたが、丸馬出しのようなものの存在、そして横堀の下の角を丸く土手状にするところなど、城の構造は、むしろ『武田の城』といってもいいような部分もある。丸子城と似ているというのである。

 この城が北条氏による築城であるというのは『武徳編年集成』の記述によるもののようだが、この書は元文5年(1740)に幕臣の木村高敦によって著述されたものであり、いわば軍記物に近い記録でもある。したがって、この根拠が必ずしも性格であるとも限らず、御坂城が天正10年よりも以前に武田によって築かれた城であるという見方も十分傾聴に値する。ただし、遺構面だけでどの勢力の城であるかを判断するのも恣意的になりがちなので、それだけで断定することもできまい。ただ、御坂城が本当に北条氏の城であるのかどうかについては、まだまだ検討の余地があるといったところであろう。

 なお、図面によっては、A地区から峠の茶屋側に降る斜面の、竪堀に囲まれた部分を「角馬出し」としているものもある。この城で描いた図面を持ち帰ってから清書してみると、確かにその部分は角馬出しのように見えてしまう。しかし、それは平面の図面に落としてみたゆえに発生する錯覚であるにすぎず、実際に現地で見てみれば、この部分が角馬出しなどではなく、2段の竪堀によって囲まれただけの部分に過ぎないということがよく分かる。この部分の地勢は完全に傾斜しており、防御のための空間などはまったくないのである。この部分は、下からの進入に対する防御として堀を2段にしたものと解釈するべきものであろう。「北条」=「角馬出し」という思い込みがそのような解釈を生み出しているのかもしれないが、この城を必ずしもj北条氏に結び付けなくてもよいのは上記の通りである。

 と書いてみたのだが、「戦国遺文」を見てみると、御坂城に関する史料がきちんと出ており、やはり御坂城を築いたのが北条氏であったことがはっきり分かる。1つは天正10年10月25日付けの上野筑前守宛ての北条氏政書状であり、そこには「なかんずく、御坂普請出来の上は、仕置き已下、委細北条左衛門佐(北条氏忠)に申し付け候」とある。この時に築城されて、北条氏忠が守将となっていたのである。

 また同年12月20日付けの堀内日向守宛ての北条氏勝書状(堀内文書はその真偽が問題視されてもいるが・・・)「去る秋、甲信乱の刻、見坂というところにて、鳥居彦右門と合戦の時、まず勝利を得・・・」とある。ここで合戦があったことも間違いないようである。後者の文書には「坂上小屋」というものが出てくるが、これが御坂城であったのではないだろうか。

旧道の御坂トンネルと、天下茶屋。ここから上に見える尾根までの比高は150m。まだ時間が早かったので車の数はそうでもないが、お昼頃になるとかなり混雑するらしい。なお、トンネルから先は通行止めになっている。 尾根筋をふうふう言いながら歩いていくと、正面に御坂山が見えてきた。この山を下った先の御坂峠に城址がある。あそこまでいくのかぁ。
尾根筋をどんどん登っていく。尾根道なのでそれほどきつくはないが、空気が薄いせいか、妙に疲れてしまう。 最初に目に入るA地区の堀切。この部分が横に回りこんで横堀、そしてやがては竪堀となって、峠の茶屋の方向に続いていく。
A地区北側下の横堀。本来の堀底はかなり下に埋まっていると思われる。 同じく南側下の横堀。こちらの方が規模が小さい。
北側の横堀は折れながら下に延びていく。途中竪堀が分岐している場所が2ヶ所ある。 竪堀が折れを見せている部分。
峠の茶屋との間にある堀切。右側が峠の茶屋側である。 峠の茶屋。ただし現在は営業しておらず廃屋である。この奥がC地区となる。
茶屋背後の上にある神社の本尊。何かの武将のようだ。 もっともまとまりを見せるC地区手前の堀切。明確な横矢張り出しを伴っている。
D地区北側の直線的に長く延びる横堀。こういうのは北条っぽいって言えるかもしれない。 その横堀はB地区に向かってやがて竪堀となってB地区側に登っていく。
竪堀になっている上の方の部分から下の横堀を見たところ。 B地区の堀切。岩盤がむき出しになっている。
黒岳方向からB地区に入る部分。堀切が食い違いになっている。 B地区の中腹から下に向かって延びる竪堀。この堀はD地区に至ると、南側の横堀となっている。
D地区。細長い郭である。左側に土塁のように延びているのが、現在遊歩道になっている部分。 C地区の丸馬出し状部分の下を取り巻いている三日月堀。
C地区北側下の、横堀が2段になっている部分を見たところ。 峠の茶屋から北側に降りていく昔の峠道。左側には土塁が2段になっているのが見える。
峠道を南側に向かって降りていくと、途中に人工的な堀切が何ヶ所かに見られる。 lこれは途中にあった石垣だが、登山道のために整備されたものかもしれない。
これも途中にあった堀切状の部分。明らかに人工的に掘り切ったものである。この部分は竪堀となって下に落ちている。 立石。この部分から先は完全に城域外のようだ。
 天正10年(1582)3月、武田氏が滅びたが、三ヶ月後の6月に本能寺の変により信長が殺されると、甲斐を領していた河尻鎮吉(秀高)は、そのドサクサの中で一揆勢に殺されてしまった。まったくこの川尻という男、不運な男である。

 領主を失った甲斐は格好の草刈場となり、甲斐を奪取すべく徳川、北条の両氏が侵攻してくることとなる。徳川氏は中道往還から侵攻し、現在の甲府盆地を中心とする国中地方を押さえていった。その頃北条氏は小山田氏の本領であった郡内地方を制圧し、上野、武蔵方面から国中地方に向かって侵攻した。したがって御坂峠を中心とした地域がこの両勢力の対峙する場所となっていったのである。この「御坂での対峙」については『武徳編年集成』によって古くから知られていたが、御坂城そのものについては、その位置が確定されておらず「幻の城」とも呼ばれていた。しかし、昭和43年、御坂城の古地図が発見され、それにともなって驚くべき遺構が発見された・・・・といったことが現地の案内板に書かれている。すると、昭和43年までこの城のことはまったく知られていなかったのであろうか。確かに、トンネルができて、この峠をわざわざ通らないようになってしまえば、これだけの遺構も忘れられてしまうのかもしれない。ここを通れば、城があることは誰の目にも明らかなのであるが・・・・。  




本栖(もとす)城(富士河口湖町本栖字城山)

 本栖集落と本栖湖の北東、上九一色中学校のすぐ上の比高150mほどの山稜が本栖城の跡である。地図にも「城山」と記されているので場所はすぐに分かる。東側の先端辺りから遊歩道が付いているので、これにしたがっていけば、本郭部までは15分ほどである。

 城は山城の基本形のような構造をしている。山稜部はそれほど広くないので、尾根を削平することによって生み出された、細長い郭がいくつか配列され、その間を堀切や切岸で分断している。古い形式の山城といっていいだろう。

 1郭が城の最高所で、最大の郭でもある。といってもその規模は10m×50mほどであり、それほど多くの兵を篭めることはできないものである。西側に7mほど低く2郭があり、その西側の先端に「狼煙台」というL字型の石垣がある。この石垣、現地の案内板には「狼煙台」となっているのだが、狼煙をあげるためのくぼみもない。実際には狼煙台などではなく、西側の尾根筋を完全に分断するための石垣による防塁といったものである。内側を階段状にしているのは、山麓に散見する石垣と構造が共通している。この狼煙台の西側は15mほどの切岸になっている。かなり急峻で、降りるのも危険なほどである。

 1郭の北側一段下にはゆるい傾斜地があったようで、そこを削平することによって3郭が造成されている。しかし、ここもなかなか降りられないくらい切岸が鋭くなっている。

 1郭から東側には、尾根が低くなるのにしたがって、4,5といった郭が段になっている。現在の登城道は、正面の斜面をカーブしながら登るようになっているが、その脇には小規模ながら石垣が認められる。この山はもともと岩山であったようであり、堀切の掘削などによって石材を豊富に産出することができたのであろう。

 5から東側には郭と呼べるほどの空間を持った平場はなく、4つの堀切を連続させることによって東側の尾根との間の分断を図っている。ことに堀切1はその規模が大きく、深さは5mほどもある。堀の壁面には岩盤が露出しており、岩盤の隙間を掘って堀切を造成したといった感じである。中央部分に細長い岩が縦に倒れていて、まるで畝か土橋のようになっているのが印象的であった。南側には竪堀状の窪みがあるが、これは、実際には竪堀というよりも、岩盤の間の窪みが水の流れなどによって崩落して、窪んだだけのものである可能性もある。しかし防御効果としては竪堀と同様の機能を期待できる。

 堀切2〜4の間は、ただただ連続して堀切を掘ったという感じで、堀切と堀切との間の部分は小郭といえるほどのスペースもなく、コブ状になっている。現在の遊歩道は、この脇下を通っていくようになっているが、本来ならば、尾根の上に橋を架け、そこを通らせるようになっていたのではないか。城はここまでであり、要するに大軍を収容できるようなものではなく、あくまでも砦に近い規模のものである。


 さて、城の概要はこれまでであるが、この城は城本体よりも、その山麓部にある石垣の防塁に主要な機能を有していた可能性がある。この城の山麓には、城山を迂回するようにして「中道往還」と呼ばれる街道が通っていた。青木ヶ原に街道を付けるなど、実に思い切ったことをしたものだが、この街道を監視し守ることこそ、本栖城に課せられた使命であったのだと思う。

 山麓北側のFには小文字のh字型の防塁がある。溶岩を積んだ石垣で、一見もろそうに見えるが、溶岩は形が四方にとんがっているので、それが組み合わされると意外と崩れにくかったようだ。高さは2mあまりで、西側の部分の石垣が階段状になっている。すると、東側に対しての防御を意識しているということになろう。前面の石垣の前は窪んでいて、堀の跡のようにも見える。なお、街道の途中途中には切通し状になっている部分があるが、これも通路を狭めようとするための作為的なものであろう。

 似たようなものがDとBの場所にも見られる。こちらも高さは2m程度のものであるが、L字型あるいはU字型の空間を造ることによって、枡形状の空間を生み出している。なお、DとBはいずれも西側が階段状になっており、これらもやはり東側に向いたものであることが分かる。

 これらの枡形状の石垣はいずれも本栖城の付属施設と考えてもよいのではないかと思われる。ただ、分からないのは、EやCの石垣、上九一色中学校入口の反対側の「武田最前線史跡公園 石塁入口」という看板の内部の石塁などは、城に関するものかどうか、よく分からない。

 Eは現状では高さ1m程度の石積みが細長く延びているもので、その形状はまるでミニ長城のようでもある。しかし、石垣は幅が50cmほどしかないもので、力を入れて押せば簡単に崩れてしまいそうな貧弱なものである。これではとても防御機能は期待できない。溶岩止め、猪除けにもならないのではないか。しいて言えば、何かの境界を示すためのもの、といった程度のイメージである。
 Cの石塁はEと同様、うすべったいものである。ただ、Eと違って長く延びているのではなく、一辺が20mほどの緩やかな方形になっている。そうした区画がここには2つある。これは一見、屋敷の囲いの跡かと思われるようなもので、いわゆる防塁ではない。屋敷の跡か、あるいはここで家畜でも飼っていたのであろうか。

 Aの部分も長塁らしいのだが、なんだか、よく分からなかった。石垣といえば石垣のようにも見えるのであるが、かなり崩れていて、人工的に積んだものなのかどうか判別しづらいような状態になってしまっている。

 看板にもある「武田最前線史跡公園 石塁入口」の石塁であるが、これもEと似たようなものである。何でも樹海の中2kmほどに渡って延びているという話であるが、夕方でもあり樹海内でもあるということで、奥まで見ることはできなかった。見た範囲では、細くちゃちなもので、これではとうてい防塁としての機能は発揮できそうにもない。ただし、地元の人の話では「今ではほとんど崩れてしまっていくらもないよ」ということなので、本来はもっときちんとしたものであったのかもしれないが。

 このように、本栖城の石垣については、城や街道防御のためのものとみてよさそうなものもいくつかあるが、防御機能とはまったく関係なさそうなものも含まれている。それらはいったい何のためのものであったろうか。

Bの部分にある枡形虎口のようなもの。高さ2m程度だが、確かに枡形のような形状をしている。 石垣は西側が階段状に積んである。こちらが内側ということであろう。
Cの部分2ヶ所にある、円形状に積まれた石垣。屋敷か何かの跡であろうか。ただ積んであるだけなので、押せば崩れてしまいそうなしろものである。 これも円形状の石垣。
Dの部分。虎口を挟んで、石垣がL字型に積まれている。 Dの石塁は西側が階段状になっている。
Eの部分の石垣。ただ積んだだけのもので非常にもろそうだが、けっこう長さは長い。 離れてみるとこんな感じ。地形に沿ってアップダウンして、まるでミニ万里の長城のようなイメージだ。
これも上の石垣の続き。石垣というよりも石列に近い。 時間節約のためにEの辺りから城まで直登することにした。直登10分ほどで堀切1まで到達できたのだが、いやはや、やはり直登はきつい!
これも堀切1。岩盤がむき出しになっている。ほとんど天然堀切のようでもある。 堀切の中央に倒れている岩石がちょうど土橋のようになっている。
5の郭に上がる部分には小規模だがこのような石垣が見られる。 主郭に向かう部分。やはり岩がごろごろしている。
この辺りにも石垣がいくつか見られる。 1郭内部、尾根上を削平して造成した郭である。
1郭から見る富士山と青木ヶ原樹海。すばらしい景色だ。富士には樹海がよく似合う。 1郭城塁を2郭から見たところ。高さ7mほどはある。
2郭西側端の「狼煙台」とある部分。しかし、狼煙をあげるような穴は見当たらず、実際は西側の尾根筋を分断するための石垣であろう。この先は深さ15mもの切岸になっており、とても降りられたものではない。 堀切2〜4はコブ状の連続堀切となっている。こんなのは千葉の大羽根城にもあったなあ。
北側山麓下の中道往還を歩いてみた。このように切通し状になっている部分もある。 Fの枡形状の石垣。高さ2mほどはあり、わりとしっかりとした造りである。街道閉塞用のものである。
石垣の東側の部分。 西側の部分は階段状になっている。こちらが内側ということらしい。
この辺りには溶岩がごろごろしている。中にはこのように、人の顔のようなものもある。 上九一色中学校入口の向側の「樹海の石垣入口」という案内から入っていったところにある石垣。2kmほども続いているという。「今ではかなり崩れていくらも残ってないよ」と地元の方が言っていた。それにしてもこのように暗くなってから樹海の中に入るのは怖い・・・・・。
 本栖城の築城はかなり古く、天文22年(1553)の武田家朱印状には「本栖の番を勤める」という文言が見えるという。「本栖」であり、「本栖城」とはしていないが、城山の遺構が古体を成していることや、「番を勤め」というのであるから、これが本栖城の番であったとみてよいであろう。

 永禄年間の武田氏関係の文書にも「本栖在城」と出てくるという。その頃には駿河進出のためのくさびのようなものであったのだろう。

 天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起こって信長が横死すると、北条氏は甲斐に侵攻、小山田氏の本領であった郡内地方を制圧し、上野,武蔵からさらに兵を進める。御坂峠に北条左衛門佐を陣取らせたという話は御坂城で述べたとおりである。徳川家康は小山城(笛吹市八代町)に陣を構え、鳥居彦右衛門を配して当地域で北条氏と対峙、坂上小屋(御坂城?)で実際に取り合いも行われている。

 8月12日、御坂城と小山城のほぼ中間の黒駒で両者の合戦が行われる。この時本栖城には徳川方から差し向けられた渡辺因獄佑(武田の旧臣)が在城していたという。

 北条軍はどうも肝心な時に実力を発揮できないというか、やる気がないというか、この戦いに敗れて撤退、さらに獅子吼城(北杜市須玉町)をも徳川軍に落とされて、結局、甲斐を制圧することはまったくの夢と終わってしまった。ここで甲斐を制圧しておけば、後の北条氏の運命も多少は変わっていたかもしれないのだが・・・・。 


 この日最後に寄ったのが、西東京市田無駅近くにあるタワー。アニメの「ケロロ軍曹」で、西澤タワーとして登場してくる建物である。まさにそのまんま!















































大竹屋旅館